自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

Londrinaが照射するアマゾンより南の生物多様性の喪失

2023-06-02 | 移動・植民・移民・移住

手つかずの原始林と言えば誰しもアマゾンの広大な流域を想像するだろう。つい100年前までアマゾンにつぐ大森林地帯(アマゾンの4分の1)の熱帯雨林と亜熱帯常緑広葉樹林がブラジルの中・南部を覆っていた。Londrinaはその南限にあたり、それより南部は冷涼気候でパラナ松という針葉樹の巨木が多くなる。
MATA ATLÂNTICA(マタ・アトランティカ)と総称され、海抜600~1000mと表現される波打つ高原の森林は、大航海時代以来植民地化と開拓により徐々に失われ、現在ではもとの7%弱しか残っていない。今日、森林が残っているのは、傾斜地や環境保全地域などに限られている。
道路で分断され、孤島状になった保護地区の森林は生物種の宝庫であるが、その多くが絶滅の危機にさらされている。たとえばジャガー(現地名オンサ)は270頭ぐらいしかいない。
パラナ州では伐採、山焼きと同時に大型獣と野生の樹木はほぼ姿を消した。わたしはLondrina周辺のことしか知らないが、掘っ立て小屋の材料と開拓中の食糧となった椰子パルミット、それから故郷の桜を連想させて移民の郷愁を誘った山桜のようなイペーは消滅した。


Londrina州立大学の絵葉書から イペーの花  撮影 R.R.Rufino 

ウチの農場近くに孤立した原生林があった。むせかえるような緑とひんやりとした湿気、樹木が発する香りと腐葉土の匂いに包まれると、身も心も洗われる心地がしたものだ。森林浴効果という昨今の表現が“ぴったりである。
1991年に44年ぶりに里帰りしたとき、森林の面影は、幹と樹冠だけの天を衝く巨木perobaが数本往時を偲ばせているだけだった。ジャングルはそっくり州立総合大学のキャンパスに変っていて、大学はシンボルツリーにちなんでPero
bauと愛称されていた。若い学生たちは、かつてサルやトリの声が森中に木魂していた状況を想像できるだろうか。
野生の小生物で生き残ったのは、地を這い穴に潜る習性をもつものである。私の体験では、アルマジロ=現地名タツー、トカゲ、ヤマアラシ、ガラガラヘビをふくむ小型蛇類、大型カタツムリ、サソリ、アリ等である。シカ、イノシシ、サルは見なかった。
空を飛ぶ鳥類も開拓地で餌を得られるものだけになった。タカ類と死肉を漁る黒コンドル、スズメに似たチコチコ、ノバト等である。かつて無数に翔んでいたはずのインコ類はユーカリの実を食べるチリーバ1種しか飛来しなかった。湿地、沼沢地の生き物はこの限りでない。
最大の被害者は先住民のグアラニー族である。パラナ(海のような大河)、イグアスー(暴れる水)はグアラニー族が命名したものである。ウチの農場の湿地にあった湧き水の周りで土器の欠片を拾った記憶がある。小さな集団が生活した痕跡という感じだった。
想像だがグアラニー族は開拓前線が広がるに連れて移動と同化によりパラナ州から姿を消したと思われる。
パラナ州より南部の2州には、かつて多くの集落がありイエズス会宣教師の指導の下に「理想郷」を営む布教村もあった。
パラナ州の西に隣接するパラグアイではグアラニー語がスペイン語とともに公用語になっている。白人との
混血95%、グアラニー族2%という人種構成を見る限り、グアラニー人はパラグアイではアイデンティティを確立している。

次章で、そこに至るグアラニー族の苦難の歴史(グアラニー戦争)に立ち寄ることにする。


狭山事件60年 再審の開始に動き出せ

2023-05-10 | 狭山事件

正義の女神像

表題は中日新聞・東京新聞の5月10日の社説の見出しそのものである。
今話題の対話型検索で「狭山事件関連の最新記事の収集がほぼ無いのはなぜか」と訊いてみた。回答は「申し訳ありませんが、現在のウェブページコンテキストには狭山事件に関する最新記事が含まれていないようです」であった。
詳細情報としてjapan wikiと上掲社説のリンクが貼ってあった。

当gooblogの狭山事件連載記事もデータバンクから洩れてしまっている。狭山事件60年を期して「新説  狭山事件」で若者の関心を惹こうとしたが、発信スキルが足らなかったようだ。

再審の門は開かずの扉と云われている。これまでに再審の事例は数えるほどしかないが、扉が開いたのは、勇気ある裁判官が裁判所から外に出て自ら事実調べを指揮した場合だけである。
社説が毅然と独自の主張をしていることに敬意を表したい。
「裁判所は再審の可否を公正に判断するため、職権に基づく独自の鑑定や鑑定人への尋問など事実調べを行うべきだ。」


破壊的スピードの発展/Londrina開拓に見る

2023-05-09 | 移動・植民・移民・移住

アマゾンの1頭の蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を引き起こす、というたとえ話がある。近年自然破壊による地球温暖化と異常気象が生物の生存を脅かすに至って、非常に小さな事象の集積が大きな変動につながる、という意味で、バタフライ効果が現実味を帯びてきた。
まずは小さなロンドンLondrinaの物語から始める・・・。
1929年、ブラジル南部のパラナ州の密林に、イギリス資本の北パラナ土地開発会社の本拠が置かれた。地名はロンドンにちなんでロンドリナと名付けられた。10アルケイル=24.2ヘクタール≒24町歩に小分けされた分譲地に、東部のサンパウロ州から多くの日本人移民が移住した。
私の父母になる男女はそれぞれ1933年と1934年に移住し密林を開拓した。市のメモリアルにパイオニアとして記名されている。
開拓会社はまず鉄道を敷き、サンパウロの貿易港サントスに至る鉄道網に繋いだ。それにより、世界的に需要が高まったcafé の輸出で大発展する礎が築かれ、ロンドリナは数年で都市化し1934市制が敷かれた。翌年父母が結婚し1938年わたしが誕生した。
一連の写真で環境と生活の変貌を伝える・・・。

21世紀初頭のロンドリナ市のパノラマである。
開拓期の手前Igapo湖の写真(同位置)を下に掲載する。

近くの粘土地帯に母方の父母、兄弟がれんが-かわら工場を建設して成功を収めた。父は赤土の丘陵地帯にコーヒー農場を開いた。両地とも今では市街地に変貌して昔の面影はない。
残念ながら開拓を象徴する大木の伐採と天を焦がす山焼きは撮影されてない。開拓の道具は揃えたがどの家族もカメラをもっていなかったからである。とりあえず写真数葉を掲載する。

我が家の農地にも同様の切り株があった。足場を設置して写真の上端あたりで二人挽き大鋸で伐採した。切り株から食べられるキノコが採れたことをわたしは記憶している。

1938年母方長男結婚記念写真 後列左端父、前列左母と私(お腹の中8か月) 
ほかは母の父母ときょうだい

掘っ立て小屋で誕生 3カ月 

母方一家の煉瓦-瓦工場 背景に切り残りの樹木と大邸宅

私が10歳のころ、わが一家は帰国前に一時ここに身を寄せた。煉瓦積みを手伝って小遣いをもらったことがあった。手前の湿地帯で小鳥、小魚を捕った。手作りのパチンコ、釣竿で。


1940年頃 我が家の農場  実が生りはじめる樹齢4年ぐらいのコーヒの樹   

80年ほどでジャングルがコンクリートジャングルに変貌した。振り返って、その広がりとスピードの影響におののいている。地球環境はそのストレスに耐えかね悲鳴を上げはじめた。
生態系は商品作物と牧場にとってかわった。高原の赤土は洗い流され化学肥料と農薬なしでは大豆も牛も育たない。次章で失われた生物多様性を体験的に綴る。
  


「移動・植民・移民・移住」が人類史を刻む

2023-04-29 | 移動・植民・移民・移住

プーチンが発動したウクライナ侵略戦争を俟つまでもなく、戦争が人類の歴史に転機をもたらしてきた。それぞれの戦争の原因を探るとき必ず顔を出すのが表題の四つのキーワードのいずれかである。
私の高校教科書程度の知識でも、ゲルマン人の大移動、ギリシャ・ローマ人の東方植民、ポルトガル・スペイン・イギリス人の新大陸植民、日本人の朝鮮・満州植民と南北アメリカ大陸移民を容易に例示できる。
そして植民、移民が移住先で先住民を圧迫しその生活圏を脅かす。日本の場合で言うと「居留民」が日韓併合、中国侵略の火種になった歴史を挙げることができる。ウクライナの場合は火種の淵源は、ロシア系のルーツにまでさかのぼらねばならない。
わたしはブラジル移民の子である。体系的に大小の歴史を論じることはやりたくてもできないが、四つのキーワードの間を飛び交いながら、毎回読み切りのストーリ、ヒストリーを、ときには体験をまじえて綴ることができる。前置き終わり


裁判所は証人尋問とインクの鑑定を!

2023-04-07 | 狭山事件

これは、春分の日に大阪西成区民センターで開催された石川さん再審を求める市民の集いin関西のスローガンである。
前日の袴田さん再審決定を受けて500人収容の会場が盛況だった。府内のコロナ感染者が数百人にまで落ち着いて来たので私も参加した。石川さん再審運動の最近の情勢を感じ取ることができた。

スローガンにみられるとおり、運動の目標がすっきりと整理された。さらに、露新の話芸、指宿弁護士の報告、石川夫妻-袴田秀子さんのビデオアピール、それから青木恵子-西山美香-金聖雄-ノジマミカさんによる冤罪トークセッションで、狭き門となっている再審法を改正して、証拠開示のルールを設ける必要性がくりかえし強調された。
ちょっと不満が残った。無辜の市民の冤罪は真犯人の免罪であることに誰も触れなかったことである。運動にとって一般市民に支援の輪を広げることが肝要であるのだから、一般市民がいちばん乗りやすいスローガンも掲げるべきだ。
このスローガンは、警察、検察と裁判所のもっとも痛いところをついて、その本分と責務に目覚めさせるうえでも有効であると考える。
最後に和太鼓の演奏があった。ドド~ン、まさか肺腑に響くとは知らなかった。たちまち頭が空っぽになった。同時に無心になり感情を失った。すると涙腺が開いたのか涙が流れ出した。はじめての体験だった。
50年ぶりにデモに加わった。交通整理の警官に急かされて
何とかしんがりについて行けた。夜、風呂に入っているとき両太ももの筋肉がつった。


生ゴミで野菜作り/実験結果の報告

2023-04-03 | エコロジーLife

  ジョウビタキ  オス 山田池で孫娘が撮影

春分の日の翌日、ウチの「菜園」に可愛いお客さんが訪れた。ガラス戸越しに観られているとも知らずぴょんぴょん跳ねて餌をあさっていた。ネットで調べてジョウビタキのオスとわかった。ほかにスズメ、キジバトがよく来る。鳥が来るほどにわが「エコ菜園」の実験は成功した、と自負している。
まず季節の野菜が、種蒔きしたものはすべて収穫できた。ターサイ、サニーレタス、ブロッコリー、カリフラワー、ネギ、ミズナ、セリ、イタリンパセリー、クレソン。さらに夏野菜のタマネギ、ソラマメが順調に育っている。

浅いプランター、浅鉢は避けたほうがよい。深いプランターと10号以上の鉢が望ましい。クレソン、パセリのように小振りの野菜なら8,9号鉢でOK.
深い容器70個ばかりの内2個で、糠を入れ過ぎたため固い糠の層ができて通気、排水が阻害され、生ごみがヘドロ化して腐敗臭を放った。それでも、ターサイは根が浅いため収穫には影響なしだった。ほかの容器では生ごみは発酵して土に還っていた。

夏野菜の植え付けに向けて容器をひっくり返して、土壌を乾燥消毒した。これからまた、牛糞、鶏糞、苦土石灰と自家製木灰を加えて、前作と同じ手順を踏むことになる。
連作障害は考慮しない。トマトの後に今年もトマトを植える。生ごみを土に還し肥料を追加しているから必要成分はもれなく循環しているはずだ。これに前世紀のように糞尿も利用できたならパーフェクトなんだが・・・。
鎖国下の江戸百万都市は糞尿肥料「下肥」のお陰で持続できた。今の日本では、都市の下水汚泥、焼却灰は、重金属を分離する技術とインフラが開発できていないため肥料に利用できない。
食糧自給率実質10%!  都市化した日本は経済封鎖に耐えられない。肥料だけでなく飼料、燃料の欠乏が食糧生産のネックになる。


生ゴミで野菜作り/失敗と命拾い

2023-03-18 | エコロジーLife

  蕾をつけたターサイ

日課の一つ、露天車庫に容器を並べた野菜作りについて綴る・・・。
我が家では20年ほど前から生ごみをいっさい収集に出していない。ぼかし肥料にして季節の野菜を作っている。
プラスティックの大きなゴミ入れを五つ買って生ごみと米糠を交互に入れて蓋をしておく。冬場はいいが夏場は蛆がわいて悪臭に悩まされ続けた。今にして思えば、土をかぶせておけばよかった。
昨秋、思い付きで、プランターと鉢に直接生ゴミを入れて糠、土をかぶせ、続けざまにターサイの種を蒔いた。生ゴミが醗酵して野菜が取れなくても、蛆に悩まされずに肥料と土づくりが同時にできる、と踏んでの実験だった。
結果は上々、ターサイが出来すぎて困っている。ターサイは白菜と同科の寒冷に耐える中国野菜、この冬の積雪にもびくともせず生長し、春到来を待っていたかのように蕾をつけている。自家用で毎日一株消費しているが追いつかない。とうが立ちはじめた。配布先も尽きた。明日から菜の花をゴマだれで食べるとするか。

昨年の春はネギの出来過ぎで事件が起きた。近所とこども3家族に配ったが、処分しきれなかった。自分がネギ漬けになるほかなかった。わたしは、もったいなくて捨てられない、そんな性分である。
やがて前からあった倦怠感を伴った胃の膨満感が下腹部にまで広がった。我慢できず病院で検査するとポリープで大腸が閉塞していた。内視鏡がどうしても上行結腸に入らなかった。 
ネギを食べ過ぎて食物繊維が大腸に詰まったことで大腸癌の早期発見につながった。失敗のお陰でギリギリのところ、ステージⅡで癌を発見できて転移に至らないで済んだ。


狭山事件/犯人を指し示す被害者遺留品/雑木林は見た「完全犯罪と権力犯罪の3次元交差」

2023-02-24 | 狭山事件


5月3日午前0時すぎに犯人を取り逃がした警察は朝から機動隊と消防団の手を借りて鎌倉街道から南へ向かって山狩り捜策をおこなった。そして早々と自転車のゴム紐を発見して領置した。発見者は、狭山署交通課の関巡査部長である。そのご捜査本部に認められて取調補助員となって石川青年の「自白」引き出しと重要な「物証発見」で捜査本部の期待に応えた。彼はかつて菅原四丁目に居住して、石川青年がキャッチャーをつとめた菅四ジャイアンツの世話役だった。
発見場所が雑木林の端っこではなく中心部であることに意味がある。犯人が、地元不良によって強姦、殺害がおこなわれた、と印象付ける意図で工作を行なったのだ。ゴム紐発見後、当然、付近はくまなく捜策されたが、ほかには何も発見されなかった。
翌4日に、ゴム紐発見場所からさらに南西の農道で死体が発見されるに及んで、特捜本部は殺害場所を当初誰もが推定していた薬研坂の雑木林からずっと西寄りの雑木林に変更することを余儀なくされた。ゴム紐発見場所では農道から道なりで1km近く離れていて 遠すぎる。もっとも手近な「4本杉」と呼ばれた道なりで200mの雑木林が候補にあがった。
そこへ6日夕方「4本杉」前で木綿紐の切れ端発見の報が入った。発見者は県警中刑事部長である。その地点は昼間の捜索隊の山狩りで地下足袋と並んで自転車のタイヤ跡が発見された、と報道されている地点と同じ場所である。でっちあげをもいとわぬ最初の工作が6日に特捜本部長自らの手でおこなわれたと考える。
当時の県警には、あらかじめ自白強要のためのネタ(虚偽の物証、証言)を仕掛ける悪弊があった。佐木隆三『ドキュメント 狭山事件』によると、1955年の熊谷市せつ子さん殺害事件では指輪、狭山事件では万年筆、そして両事件の取調主任官は奇しくも県警捜査一課清水警部である。
8日捜査本部は、手詰まりを打開すべく捜査員210人を投入したシラミつぶしの体制で五度目の山狩りと聞き込みを行なった。「午後から死体発見現場、ゴム紐発見地点を中心に遺留品の捜索、犯人の足取り捜索を行ない」また民間ヘリコプターで航空写真を撮った(埼玉読売9日朝刊)
11日夕方死体発見現場近くの麦畑で耕作者によってスコップが発見された。スコップは捜査の的を養豚場に絞る「物証」とされた。
しかるに上記埼玉読売9日朝刊1面TOPに、被害者が「埋められていた麦畑を[8日に]捜索する機動隊員」が大写しされている。山狩り終了後二日の間に捜査本部が仕組んだとしか考えられない。再度のネタ仕掛けである。
5月23日石川青年が「筆跡一致→恐喝未遂」容疑で逮捕された。
5月25日教科書、ノート類が自転車のゴム紐が発見された場所から直線で150mほど離れた溝で草取り中の耕作者によって発見された。なぜかニュース価値がひくく、資料がすくない。県警はひたすらカバンを追い続けた。自供による「発見」に賭けているかのようである。
6月17日、石川青年がいったん保釈され、直後に本件強殺容疑で再逮捕(肩透かし逮捕)され、川越署分室(特別取調室)に移送、厳重隔離された。石川青年以外に容疑者はなく保釈すれば後がない状況での見込み捜査(筆跡鑑定書以外証拠がなかった)への大ジャンプだった。
決断に当たって警察庁、関東管区警察局、県警-高検幹部の間で議論が紛糾した。それでも決行したのは特捜本部がカバンをすでに押収していたからと推理する。
6月21日石川青年が書いた略図に基づいて関巡査部長がカバンをゴム紐発見場所から56m離れた溝で発見し掘り出した。離れた所で麦刈りをしていた人が呼ばれて掘り出された後の現場立会人にされた。4週間前のゴム紐発見者と同一人物である。実況見分作成者は関巡査部長であった。
[自供によって]発見されたされたカバン     警察が出した品触れ  カバンと万年筆
   

写真コピーはいずれも証拠開示された物である。
発見されたカバンは、一見しただけで、品触れと型が同じである。5月8日付けの品触れカバン は「濃い茶色の革製カバン」となっている。5月2日父親が狭山署員に供述した調書では「カバンは薄茶色の一見革製に見えるチャック付と申しましたが、これは学生用のものでなく、家にあった旅行カバン」となっている。
二つのカバンが同一物であるかないか、弁護団が検証すれば容易に判る。品触れには擦りきずが明瞭である。同定の鑑定がなされると立ちどころに石川さん再審無罪の新たな証拠となる。
一説に「長兄が東北旅行で[のために?]買ってきたものを被害者が使っていたと云う」のがあるが、出どころを確認できない。発見されたカバンが被害者の物であると長兄が後に確認している。

6月25日上田県警本部長、石川青年の単独犯行自供を正式発表。「自白にもとづいてカバンを発見したということです。」

この間、特捜本部は、再逮捕後かん口令を敷き捜査の状況・方針が洩れないよう有形無形の壁を作っている。狭山所長(特捜本部次長)の電話機に録音機を取り付けたほどである。

5次以上にわたる山狩り捜索で発見に至らなかったカバン・・・。
捜索隊は当初から、消防団本部長から地元の事情に即した「根除け堀を見ろ」「芋穴を見ろ」と云った細かい注意を受けていた。漫然と「場所」を捜索したのではなく「地点spot」を重点的に探していた。
カバンが発見された溝は、雑木林の木の根が畑に伸びないように掘削された堀(ヘッジ)である。「堀」は百姓の知恵の産物である。経験のない者には解らない。
捜索隊の重点捜査でも発見されなかったカバンが捜査本部チームによって発見された。カバンは捜査本部によって埋められ掘り出された切り札的ネタだったという疑惑が浮かぶ。
バラバラの「地点」を視覚化した写真と「地点」間の距離を示す図面を掲げて、本題に移る。



捜査本部が拠り所とする「物証」は私にとっても犯人を推定する物証となる・・・。
犯人は、不都合なメモが入っているリスクを回避するためにカバンを開いて万年筆、筆箱、手帳、財布もろとも不老川に流した。前章で私はそのように推理した。それを承けて推理の是非を検証する。
一審公判で開示された中身の教科書・ノート類目録(発見当日の押収記録)について殿岡氏の分析を借りる。[]内は私の考えである。殿岡駿星『狭山事件50年目の心理分析』(2012年)
当日の教科
1時限目 ペン習字 ペン習字教科書(全員が買い当日使った「ペン習字手本」)がない。代わりに堀兼中学3年時の硬筆練習帳(署名等あるも本体は未使用)があった。[署名=被害者名  以下同じ]
[警察が当日の担当教師に提出させた「習字浄書」だけが本物である。開示された浄書を使って、弁護団がインク成分を科学分析した鑑定書を第3次再審請求の一環として高裁に提出して現在に至っている。
浄書のインク成分にはクロムが入っている。石川青年宅で「発見」された万年筆が被害者の所有物であることを確認するためにそれを使って長兄が試し書きした数字12345・・・のインク跡にはクロム成分が無い。証拠の万年筆は特捜本部が仕掛けた別物である。]
2~4時限目 料理実習(カレー)   「教科書(家庭一般)*」に挟まれていた献立表らしきメモに堀兼中、署名。
5時限目 音楽 「教科書(高校の音楽)*」 音楽用ノート(補修用、3年、署名)
6時限目 英語 「中教出版の教科書」(中学3年時のもの)
「NEW START ENGLISH*」 [ 検索すると☞ 開隆堂  1962年   1963年度入学と矛盾しない。]
「ユニバース英語辞典*」[検索☞高校・一般用『ユニヴァース英和辞典』稲村松雄・梶木隆一共編 小学館 1960年  634P これも矛盾しない。]
[2年定時制で普通科なみの英語教科書、辞典を使うだろうか、疑問である。] 
ほかに「女学生の友」5月号*とノート5冊。その内の一つ「ルーズリーフ」裏側の袋に歯科医による堀兼中学校長宛証明書が入っていた。
これらの物が被害者のものであることを長兄が一審公判で支離滅裂の理由をつけて確認している。
中学3年時の物は各時限に1点ずつ在るが、確かに高校時に使用したと証明できる高校向けの物はノートをふくめて1点もない。署名も書き込みもつまり使用の痕跡が無いのである。*印の物は街で買い求めることができる。
以上をもって、これらの物が被害者の家にあったこと、そして被害当日カバンの中にあって死体埋没後隠滅された真正被害品の代用物にされたことを明らかにできたと思う。

以上の点検から、不都合メモが出る危険回避のため、教科書、ノート類は犯人によって5月1日にカバンと一緒に川に流された、とした前章の推理は、一点を除いて、妥当だった、と結論できる。
カバンについては修正をしなければならない。カバンは犯人が死体埋没のあと、後始末の一環として車内座席にリスクの有りそうな中身を出して、カバンだけを現場に放置した、と推理する。
現場のどこかについて伊吹隼人氏が深く長く追及している。まず伊吹氏がブログに掲載している週刊朝日(1977.8.26)の長文記事を紹介する。死体発見者として公判で証言した消防団員は記者の問い「法廷で証言していますね」に「穴を見つけたっていったことですからね。あとは何にもわかりません」と答えている。自分は掘り返していないし死体を見ていない、と言っている。おのずとダミーであることを語っているかのようである。
仕方なく記者は紙幅を埋めるため一審での証言を掲載している。応答が長いので要約する。地表の地割れを見つけ、30センチぐらい手で堀って腕がちょっと見えたので中止した、と証言している。下線部は実情と食い違っている。
一方最初の発見者として現場と捜査本部で2度供述した消防団員は発見の経過から現場保存の実行まで記者の問いに臨場感あふれる返答をしている。荒縄を引っ張ると手が出てきた時の「ワァー」とか、現場保存後ペアを組む機動隊員が吹いた呼子の音色「ピー」とか、読んでいて情景が目に浮かぶ。
その中に「私が見つけたのは見てすぐ[被害者]の持ち物だと思わせるようなものだった」、「カバンだったか、上着だったか・・・」と言葉を濁した一節がある。前の秋、佐木隆三氏のために現地取材をしたルポライターの栗崎ゆたか氏に「イモ穴にカバンがあって、警察が保管してあった」とはっきり答えている。その証言の反響の大きさを気にしたのか言葉をぼかしている。
後年(事件46年後78歳)伊吹氏自身のインタビューに応じたときの2度にわたる証言では、イモ穴か茶垣の根元かでブレがあるが、カバンがあった、中身は見ていない、機動隊員が一緒だったから、と言っている。
警察官に2度供述した彼が調書を残さず検事側の証言者として呼ばれなかった理由はカバン目撃者であるからだと誰しも思うに違いない。

以上の検証で、「発見された教科書、ノート類」は「発見」の日を入れて25日間、カバンは52日間、雨が降ると小川のようになる堀に埋められていたのではなく、偽物の教科書、ノート類は犯人の手元に、カバンは特捜本部の手中にあった(土中を排除しない)、と云える。最初のネタ仕掛け(カバンが農道で押収され品触れに使われたことを指す)が5月4日死体発見日にまでさかのぼることになる。自作ストーリの驚愕の結末にわれながらぞっとする。
そして、捜査の進展とシンクロして、偽物の教科書、ノート類は雑木林に見付かりやすいように並べて置かれた。教科書、ノート類は石川青年を身代わり犯人にするために、カバンは犯人をでっち上げて、失態で失った警察の信用を回復しその威信を保つ奥の手として、雑木林に仕掛けられた。
雑木林で図らずも完全犯罪と権力犯罪とが3次元的に交差したと結論する。
それぞれのブツの出どころが、完全犯罪の犯人と権力犯罪の犯人をあぶり出している。時間と司法の壁によって犯罪者達が罰せられることは永遠に無い。被害者の無念と石川さんの人生を思いやりつつ終章を閉じる。いつの日か小説「完全犯罪  狭山事件」のヒントになってくれたら・・・、と秘かに願っている。


狭山事件/最終目撃地点/被害者の足取りと時間

2023-02-03 | 狭山事件

長年の懸案だった狭山事件のもろもろの現場を地図上でどうにか確認できるようになった。
最終目撃者奥富少年(被害者の1年後輩、堀兼中学3年)が「澤の自転車屋から百二、三十メートル位、入間川[駅]寄りの畑中で、入間川方面から帰ってくる善枝ちゃんと会いました」という目撃情報を、5月5日付調書(自宅で父親同席で証言)に残している。沢街道で、とは云っていない。正確には「澤の道地内」で、つまり加佐志街道の「沢の道地内」で出会った、といっている。その地点を今回地図上印で視覚化することができた。

その認識に至る経緯は次の通りである。
当時西武川越新宿線の円弧内側は、工業団地、住宅団地の開発が始まったばかりの農村で、道路は未整備、その正式名はなかった。週刊埼玉の記者亀井さんでさえ加差志街道は沢街道とも云うと書いている。通称加差志街道は市役所(駅の反対側)から見て加差志集落に通じるといった程度の通称であり、奥富少年でさえその通称を知っていたかどうか疑わしい。堀兼部落の佐野屋から見た「沢の道」(現126号線)についても同様のことが言える。「澤の道地内 jinai」に注目すると、目撃スポットは、沢の道地域内の畑の中の道、ということになる。 
関口自転車店は沢部落のランドマークとして使われたにすぎない。東中学校に行くのにわざわざ沢街道を西に進み遠回りするはずがない。また、被害者が第一ガード下から西武線沿いに北上する理由もない。
奥富少年の証言は事件直後5日のものであり最後の目撃者として信用できる。ただ野球に関わることがらについては、小さな嘘をつく動機があった。野球部は当日練習するか決勝戦見学に行くか合議して見学に決まった。3年生として後輩を引っ張る立場にありながら理由もなく遅れて会場に行っている。
野球部監督の第二ゲートで被害者に声をかけたという証言は、事件後7年以上あとのものであることから、甲斐仁志氏によって記憶違いとして否定されている。

私は被害者が学校を出た時間は3時30分ごろで決まりだと思う。甲斐氏は下校時間について、降雨時間をからめて全証言を丁寧に比較検討して、2時35分過ぎに下校したと結論している。特に重視しているのが小-中学時代からの同級生の証言である。5月2日の警察に対する供述では「授業が終わると、雨が降ってきたから早くかえる」と言って帰った(この調書は未開示である)。5月29日の検察調書では「授業が終わって一寸卓球をして・・・三時半頃、私にさようならと言って帰りました」となっている。私は自説の筋書きに合わせて3時半頃説を採用する。容疑対象者が120人もいる時点で検察が供述を誘導して調書を作る必要性は皆無だからである。
わたしは、被害者が3時半頃に学校を出て「4時に第一ガード、会えなかったら加差志街道→浜街道で会おう」と告げられた通りの行動をとった、と考えている。そして浜街道かその手前で出会い、近くの雑木林の人目につかない所で、車内で殺害された、という前章の記事を再確認する。

既出記事の内容と重複したところがあるが、次章に進むためには、どうしても被害者の納得のいく足取りを地図上で確認する必要があった。壁を突破するための後ずさりと理解してほしい。

この章は、結論は異なるが、甲斐仁志氏『最終推理  狭山事件』(明石書店  2014年)に負うところが多い。


狭山事件/死体隠匿ではなかった/埋葬を偽装した「かくれんぼ」

2023-01-21 | 狭山事件

承前
主犯の思考、行動は単線ではなく複線complexであり、その表現法はときには伏線、あるときは露顕である。複線のあり方は、単純でなく絡みあい縺れているため捜査、報道を振り回し、世評を狂わせた。

警察が犯人を取り逃がした数時間後の5月2日9時ごろ、農家の男性がゴボウ畑の作業に来て農道の土が不自然に盛り上がっているのに気が付いている。3日の昼すぎと夕方には2人の若い人が散歩中に新しい土が盛り上がっているのを見たと新聞記者に話している。
3日に山狩りが始まったがその日現場は捜索対象外であった。農家の男性は3日も4日も現場近くで作業をし、4日には最初に発見した警防団に試掘のために農具のおかめを貸している。
通りかかった3人にすぐに異変が感じられる状態で死体は埋められていたのである。これで、隠匿の目的が秘匿ではなくほかにあったことが推察できる。
見つからないよう隠したのではない。適時に見つかってほしい。いつまでも見つからなかったら意味がない。かくれんぼ遊びと同じだ。
農道に埋めた目的は何か。雑木林ではなくリスクを冒して駅近くの開けた農道に埋めている。そのすぐ近くに石川さんが住む被差別部落があった。部落の不良による犯行をにおわせたのである。
公判で殺害地点とされた近くの四本杉の雑木林も部落の生活圏である。だからそこで殺害して農道に運び出して埋めたというストーリは成立しない。
もう一つ、農道は農道でも、その場所でなければならない理由があった。天蓋つき芋穴である。底まで3mの深さ、そこから横穴の貯蔵庫が伸びている。地下式横穴古墳を連想させる。芋穴を墓制に擬したのだ。

 芋穴   祝い用ビニール風呂敷と棍棒

すでに述べたように、殺害の動機は伝統的な家族制度(家督、家格、家産)の脅威となる家族の一員の謀殺だった。その背景に家父長制度があった。嫁は舅と夫に仕える家政婦であり農業労働力であり口答えの自由すらなかった。母の過ちから一家の団結にひびが入り、家族のぬくもり、一家団欒が失われた。
父母の不仲、母の死、自ら患った心身の傷、人手不足=進学の壁・・・、これらのトラウマは長子を苦しめた。思い返せば母の不倫相手である一人の男性(全く見当がつかないので便宜上X氏とする)に起因する。父に近い年齢、学校友達だったと想像される。
長子が殺害計画で遺体の処理先を思案したとき、恨みのあるこの人物に送ること以外は思い浮かばなかった。意趣返しである。これは亀井さんに聞いた身内説に属する。
農道よりか芋穴が犯人の目当てだったと前章で書いたが、農道と芋穴の所有者がX氏に該当するとは微塵も思えない。彼は後日被害者宅にお悔やみに行っている。
芋穴の所有者を名前しか分かっていない別人とする記事を最近目にした。そういえば農道試掘者にも別人(検察側証人)が居る。新聞はウラを取らずに速報するからだ。
犯人は農道周辺の数多くの地主の中の一人X氏に怨恨を抱いた。遺体が入った泥の棺(殿岡説)と遺品*の入った芋穴とをセットで見れば、他人はいざ知らず怨恨対象のX氏はたちまち返報に気づくと、犯人は心づもりした。無言のメッセージが届けばよいのだ。
*祝い用ビニール風呂敷と棍棒=墓標。長兄は5月4日立会人として現場で祝い用風呂敷と棍棒を被害者の物ではないと確認している。そして5日に正反対の確認上申書に「自分が書いたものでない」と言いながら渋々署名している。芋穴が墓制の隠喩であることを見破られまいと必死である。
犯人は埋め墓と詣り墓のイメージで遺体と遺品を送り出し葬送の礼を込めた。亀井さんはそこに犯人の仏心を見た。伝統の慣習、しきたりに忠実な人物像が浮かび上がる。トラウマから自己を解放するにはそうするほかなかった、と私には犯人の気持ちがわかる気がする。
最後に両墓制について一言・・・。
両墓制は学術用語である。民俗学者、僧侶は、土葬から火葬に変ったため、単墓制になった、両墓制はなくなった、と言うかもしれない。私もだが、庶民の多くはその用語は知らなくとも、その精神を代々実行している。火葬後の遺骨を墓石の土台空洞に納めて盆正月に花を供えて礼拝している。墓制の精神が分からないと「農道」の真の意味に到達できない。


サッカーの新しいトレンド/高校選手権とワールドカップ

2023-01-10 | サッカー育成

わたしは2016年度に監督を引退して時間に余裕ができたがTVで放映されるサッカーの試合を見る気が起こらなかった。ボールをとっても安全パスを後方に送ってパス回しにこだわるからである。縦への推進力でのみ評価されてきた自分には何ともまどろっこしい退屈なゲーム運びだった。どのチームも同じようにやるから後半にユニフォームを交換して戦っていても気づかないだろうと思っていた。
こと(トレンド)の起こりは2010年にスペインが絶妙なパス回しでW杯を制した新コンセプトにあった。それはポゼッションサッカーと称されて世界を風靡した。サッカーがチームゲームであり総力戦であるからそれなりの必然性があった。
W杯で決勝点を決めたイニエスタに代表されるように、複数の敵に囲まれてもなおボールを失わず攻撃的なパスができるチームだからこそ有効なコンセプトだったが、世界中で上も下も猫も杓子もパス回しにこだわった。
「従来サッカーでは90分持久力がもたない」[省エネ論]
「ボールをキープしている間は失点しない」[後ろ向き消極論]
「キーパからパスで組み立てよ」[安全パス論]
「やたらにボールをクリアするな」[確率の低いキック否定論]
・・・・・・。
これはJリーグの指導人のことばの一部である。だからといって私はポゼッション指導を否定はしない。それなくして日本代表が技術的戦術的に世界水準に達することはなかったであろう。

今年の全国高校選手権を選手層で地域レベルの(県内の2番手、3番手の選手で構成した)チームが制覇した。私が一目を置いている潮 智史朝日新聞記者が代弁してくれた(1月10日朝刊)。これ以上のまとめはわたしにはできない。
[優勝した岡山学芸館の]
「縦に速いボールポゼッション」。10年ほど前から掲げるコンセプトはゴールという目的を忘れてパスを回すサッカーへのアンチテーゼでもある。[同感]
隔年で足を運ぶスペイン遠征でバルセロナの試合を観戦して、高原監督は思いついたという。「もっとスピーディーにゴールに向かったほうがおもしろいと感じたので」。そのサッカーは、昨年のワールドカップ(W杯)で勝った強豪にも通じている。[同感]

新しいサッカートレンド! わが意を得たり、である。カタールW杯2022は決勝まで徹夜して観戦した。日本代表は上へ上へと螺旋階段を駆け上がった。真上から見たら世界のトップと同位に見える。横から見るとまだ一周遅れである。生きているうちに世界的スーパースターの誕生と活躍を観たい。


狭山事件/性交はなかった/なぜ精液が・・・

2022-12-27 | 狭山事件

承前 
私が狭山事件にのめりこむきっかけとなったのは、一審判決中の強姦体位である。ズロースを膝の上までおろして、手拭いで後ろ手に縛った被害者の喉頭部を右手で絞めながら正上位で遂行したことになっている。自己欺瞞的司法関係者以外の成人であれば、十人中十人がありえないと答えるであろう。二審当時わたしは青年教師たちに集まってもらって見解を聞いている。
殺意については、致死するかも知れないことを認識しながら一層強く右手で圧迫して姦淫を遂げ、よって窒息させて殺害した、と
判決文にある。
発掘された死体の状況はといえば、靴を履いている。ズロースを膝の位置で半ば身に着けている。抵抗して傷ついた痕跡が
確認できない。B型の精液が確認された。これからは、強制(強姦)とも合意(和姦)とも判定できない。
殺害の時刻、場所の探求を踏まえて、わたしは、どちらでもない、性交はなかった、という結論に至った。
上記のすべての条件を満たすのに十分な場所は広めの車内である。長兄が使用していた車がたまたま条件にかなった。日野ブリスカの
キャビン内の広い映像を掲げる。


出展 前掲ブログ「新  懐かしの旧車カタログ館

強姦偽装工作は、人目を考えると雑木林の木陰の道に車を停めて殺害した直後の可能性が高いが、移動後と仮定してストーリを描くことにする。いずれにしても仮説である。
主犯は、死体を埋める農道を事前に何度か自転車、オート三輪で試行して、芋穴(次章で必須条件として記述する)を確認し、近くに死体を一時隠す茶垣、繁みに見当をつけておいた。
移動先の農道でただちに計画通りに強姦偽装工作に取り掛かった。車内の広さを利用して死体を寝かせて、スカートをまくりズロースを膝までおろして、スポイト(あるいは注射器本体)に吸い込ませて用意していた精液を膣内に注入した。死体を隠す作業をふくめたとしても10分少々で完了した。強姦偽装により自分が疑われる危惧がなくなった。この一点に限ってだが、犯人が不道徳な人間でないことが認められる。
死体を一時隠した場所はどこか?
埋蔵箇所の写真を掲げる。発掘・調査で麦畑が踏み荒らされている。
出典   亀井トム『狭山事件』 



写真にある背後の雑木林は、判決で殺害場所とされている「4本杉」(埋蔵現場から道なりで200m) がある平地林(見分調書では50~70m)である。そこからだと人力による死体と付属物の運搬が不可能である。私はこの農道写真の右奥の曲がり角に見える茶垣背後の高いしげみ(桑畑?)に隠したと推測する。埋蔵現場の目と鼻の先である。
「農道は俗にいう農家の馬入れであり、幅2.1メートル、東西に走り、農道の南側、つまり民家のあるほうには茶の木の垣があり、その垣を境として南側も北側も麦畑である、と[実況]見分調書は書いている。」
茶垣の高さは背丈を越え農道で作業をしても民家のある県道方面からは見えない、小型トラック[日野ブリスカの幅は142cm]を乗り入れ可能、と亀井さんは続けている。
その後開示された航空写真を基に甲斐仁志氏が運搬経路と手段について高度な考察をしている。
「リアカーで運んだ死体」(『新推理・狭山事件』より)
【東側からリアカーで運んだ場合】                                

【西側に車をとめてリアカーで運ぶのは目撃者多く不可能】

私の仮説では、もちろん日野ブリスカ750kg積載車の乗り入れである。「4本杉」は殺害現場でない。農道は運搬手段の進化(リアカー→オート三輪→軽トラ)に合わせて拡張される。当時は生産台数で軽トラックがオート三輪を完全に凌駕していた。
畑の農道は踏み固められるだけでなく陽が当たるので固くしまる。晴雨にかかわらず、農用車が入る程度では凹みがつかず平らである。実際平らだった。
車を入れると一時的に車輪の跡がつくことは自明である。当日の雨が轍を搔き消した。さらに死体発見の農道は阻止線を張るまでに大勢の若い群衆により踏み荒らされた*。日野ブリスカが入ったのは本降りになる4時半よりかなり前である。
*当ブログ「狭山事件/現場と運搬の推理」に写真がある。
死体着用の衣服等とその上に重ねてあった荒縄の濡れ方があまりにも対照的だったことが見分調書を作成した警部補の注目を引いた。荒縄だけがぐっしょり水を吸っていたのである。
繁みに死体を隠した状況を想像するに、死体は農用ビニールシートで包んで仰向けに寝かし、嵩のある荒縄、玉石、スコップは濡れるにまかせた、と考えられる。
車の荷台にはまだシートをかぶった自転車が横たわっている。通学時のカバンは自転車の後ろキャリアーからゴム紐を解かれて車の座席の足元に移動している。ゴム紐は殺害直後に上述雑木林の(道端でなく)奥深くに投棄された。帰宅途中不良達に襲われたと見せかけるためだ。
主犯は農道から帰宅途中、かばんを開けて中身もろとも本降りで増水した不老川に投じた。出会いの時間と場所が何かにメモされていたら万事休すからである。ただしこの一節は、石川さん逮捕後自白によって発見されたとされているかばん・教科書類の検証を私自身が次章でするまで保留としておく。
激しい雨の中、帰り着くと車を車庫に入れ扉を閉めた。時刻は5時ごろである。次に「迎えに」出かけるまでの2時間、アリバイがない。警察、検事は毫も家族を疑わなかった。

死体の埋蔵は計画通り5月2日の真夜中3時から行われた。初日の空振りだった零時の佐野屋張り込み騒ぎと長い降雨も収まった時間帯である。草木も眠る時間帯である。そのころ近所の犬がいっせいに異様に吠えたという付近住民の証言がよく知られている。
主犯はあたりを探すという口実を設けて家を抜け出して、家のオート三輪で現場に駆け付け、手提げライトを点灯してスコップで穴を掘り上げた。そして間近なところから遺体を引きずって穴まで運んでタオル、手拭い、細引き紐、風呂敷と荒縄を使っていくつもの細工を施し*、うつぶせにして埋めた。顔の下にビニール片が敷いてあり、頭の右上に玉石が置いてあった。これらの物はすべてあらかじめ密室である車庫に集められ用意されていた。
*当ブログ「狭山事件/祝い用ビニール風呂敷のミステリー」&「狭山事件/玉石、棍棒、紐と荒縄のミステリー」で詳細を確認できる。
事件にかかわった助手がいたことは確かであるが、穴掘りが一人でしかも25分でできることは実験で証明されている。大事なのはその場に助手がいたかどうかより、長兄が現場に居たことである。長兄抜きでは前述の複雑怪奇な偽装行為が不可能だからである。
残土の処理については、土葬を見たことがある人は難しく考えない。土葬の跡にかなり大きな盛り土ができる。それでも歳月を経て死体は水分が抜けて土に還る。掘り返すと骨の断片や髪の毛がわずかに残っていることがある。私はそういう情景を見ている。土盛りは限りなく平らになり、玉石とか墓標だけが目印となる。
当事件の場合、農道だからしっかり踏みつけてあった。米2~3俵の残土があったと推定できる。車を使えばさして処理が困難とは思えない。荷台にビニールシートを敷くかして残土を積み込んだ。土だから処分は容易であろう。
最後にスコップを現場以外の物陰に遺棄する作業があった。農具汎用品の一種だから足がつく心配はまずない。助手が持ち去って投棄したことも考えられる。
主犯は一睡もしないであたりを探し回った、と周囲に思わせた。夜明けに脅迫状封筒の「切れ端」をガラス戸の前1mの所で発見し、翌々日警察に届けたと証言している。二審で切り口が合わないことが証明された。これも理由付けのために小細工をしすぎた一例である。

謎が謎を呼ぶ。次の謎は隠匿の場所に危険を冒してまで何故農道を選んだか、である。単なる営利誘拐殺人なら雑木林奥深くの物陰に隠蔽、遺棄するだろう。


狭山事件/屋内殺害はなかった/軽トラ-キャビン内殺害

2022-12-24 | 狭山事件

承前
この章では殺害場所とそこに至る経緯、動機を考える。
いわゆるご馳走説が否定されると、屋内殺害説も崩れ、屋外殺害説が浮かび上がる。
屋外のどこかが問題となる。靴が脱げた形跡がないこと、白ソックスが汚れてないこと、衣服に腐葉土や朽葉のほこり・草木の染みが付着してないこと、つまり抵抗した形跡がないことから、人目につかない野外での雑木林内殺害も否定される。
いちばん可能性が高い雑木林内殺害が否定されると残るのは車内殺害であろう。車なら人目につかない場所を選べるし死体を任意の場所に運ぶこともできる。埋蔵に必要なスコップ、縄、紐、風呂敷、玉石、棒切れ等をあらかじめ用意して積んでおくこともできる。
あくまで私個人の想像の産物にすぎないが、被害者の長兄に焦点を絞ってストーリを創作する。
長兄が妹を迎えに行った時の車は、車庫から出て納屋の物置に戻った。出発と帰宅の時刻は当人、家族の発言だから信用できない。家長である父親は奥に引っ込み長兄がもっぱら報道陣に対応している。すでに家督となっているかのように振る舞っている。
その車は750kg積載の日野ブリスカ3人乗り軽トラックである。1961年4月新発売時の価格は40万円であった。次姉が横に立つ事件直後の車の写真があるが手元にコピーがないので、マイナーチェンジ車の広告写真(1963年)を掲載する。フロントグリルの菱形模様が付加価値になっている。搭乗者が乗り心地を自慢できるアメリカンスタイルのレジャー兼用車であった。

出典   ブログ「新  懐かしの旧車カタログ館」   使用許諾をいただきました。

キャビンの横幅、足元が広く、大人3人がベンチにゆったりと座れてドライブを楽しめることを広告は謳っている。バカンスブームに合わせた軽トラックである。

では、私の創作物語の幕開けとしよう。
長兄は妹が欲しがっていたものを誕生日プレゼントとして買ってやるから、4時にガード下で待て、と言って、妹と落ち合う約束をした。兄は法廷で第二ガードは知らないと言っているが信用できない。待ちくたびれた妹は半ばあきらめて加佐志街道に出て通称沢街道に向かった。途中沢地内で奥富少年に出会っている。そのあとすぐ、沢街道(佐野屋から沢地区に至る道)で兄の車に拾われた。自転車を荷台に積みキャビンに座った。その後まもなく人目のない場所でいきなり両腕で首を絞められて殺された。柔道の襟締めを連想させる。普通より広いとはいえキャビン内ゆえに抵抗の動きが封じられた。
兄は死体と準備した埋没のための道具とグッズを死体発見場所付近に隠した。いったん帰宅して車を元通り車庫に入れ扉を閉めた。

5時~7時まで2時間の空白ができた。その間主人公がなにをしていたか不明である。

7時に迎えに行き7:30に帰宅したときは車を車庫ではなく物置に置いた。自転車を下し、かねて用意していた「脅迫状」を玄関ガラス戸の隙間に差し込んだ。

兄の言によれば、土間で夕食のうどんを食べた。帰宅10分後脅迫状を「発見」している。直後、車と自転車が父親の目にとまった。車庫なら視界に入らなかったと断言できる。身代金目的の誘拐であることに疑いを持たせない証拠一揃いを10分以内で陳列する頭の良さに感心する。車庫の位置は当ブログの一章「狭山事件/現場と運搬の推理/アリバイに色眼鏡」で確認できる。

「誕生日プレゼント」について・・・。
妹が布団をかぶって小遣いを巡っていく度か悔し涙を流したことはその日記からあきらかである。伊吹氏の『検証・狭山事件』から引用する。
「四月二十六日 [遠足で楽しかったことが綴ってある]お天気もすばらしく、これからのバカンスのことを考える。
今晩も涙をながし、ねむりについた。
つらい、苦しい。それもみんなおこづかいのことだ。涙が枕もとをながれた・・・・・・」
「土曜日[二十七日]今晩もくやしい。ちょっと友人と立話しをしておそくなれば姉はおこっている。[ごく普通の姉との感情のもつれが綴られている。姉の気持ちが痛いほど分かる]
夜もおこづかいのことで兄と言い合い涙をこぼしてそのままふとんにもぐった。ふとんの中でもくやしいくやしい━・・・・・・」[兄が実質家長であるようだ]
三日後の30日、次男に1000円借りている。当時私のバイト日当が500円だったからかなりの金額である。
年頃だから友達と東京に遊びに行きたいだろう。流行の服・靴も、レコードも欲しいだろう。姉が主婦代わりに家事を一身に背負ってしかも農作業に従事していたことを考えると外出のための出費よりか、姉の手伝いで暇なしだったことからくるストレスを解消できる、夜一人での癒し時間をすごすグッズが欲しかったのではないかと思う。
具体的に言うと布団をかぶってじゃませず邪魔されず楽しめる、当時流行のトランジスタラジオであろう。姉が妹の土葬に際して「ステレオとテレビ」を入れたという報道記事を承知の上でのトランジスタラジオである。SONY製で当時の価格は6千円以上。
妹は王選手の熱烈なフアンだった。トランジスタラジオがあればテレビで見損なった王選手のニュースをチェックすることができる。フアンだった弘田三枝子の「ヴァケイション」などヒット曲も聴くことができる。

時代背景・・・。  
複雑な家庭だったと云われている。母親は10年近く前に国立武蔵療養所(戦時中は軍人-軍属の精神病院であった)で死亡している。父は短冊型に区切られた農地-屋敷が横並びする地区の富裕農で「百万円様」と呼ばれる有力者である。家父長制の遺制のような家族で、父親が進学、結婚、相続を個々人ではなくお家第一に考えて決めている。
明治の名残を想わせる家族共同体を、所得倍増計画と都市化(東京が世界初の1000万都市になった)に象徴される高度経済成長の上昇気流が揺さぶった。もっと都心に近いところでは若者の流出が激しく「三ちゃん農業」の悩みが表面化していたが、ベッドタウン化が始まったばかりの狭山市ではまだ家長の権威が強く農業と家族の空洞化は問題になるほどではなかった。その分、家族内葛藤が増し一家団欒に影を落とした。

一家団欒の喪失と願望・・・。 
母親の死亡(1953年末。享年44歳)は事件の10年近く前である。
長女27歳(事件当時)は母の死後家を出てほぼ家族と断絶している。
長兄25歳(5月5日26歳)は、中学時代、学年で1番の成績優等生だったが進学校受験を許されず、不承不承定時制高校に通って農業を手伝った。長兄の気持ちがいかばかりであったか察するに余りある。
「顔面神経病で半身不随みたいに」なって家から都内に通学ついで通勤(会計関係)しながら東大病院で5年間療養した過去がある。
次女は中学卒業後幼い弟2人と妹の面倒をみながら一人で家事を担った。兄姉二人が厳しい家庭環境で煩悶する姿が目に浮かぶようだ。
長兄は20歳から5年間療養生活をしているから、もっぱら家業の農業に従事したのは事件が起きる1年前からである。長子相続の目途が立って父親はさぞかし安堵したことだろう。家内のことは長男に任せて、みずからは公益の外交に集中、従事したと考えられる。二頭制家長である。
父親は農業委員を制度開始時から務め、直前まで農協の理事でもあった。事件前には選挙で区長になっている。名士として家柄(個人よりも家が重んじられる社会的地位)と家名を護る役割に専念したのである。
長兄は実質的家長として家業を継ぎ、家族内限定の監督、家督になったのである。家計を握り出費、収入を管理した。弟妹の小遣いまで管理し、姉妹の万年筆・時計を購入したのも長兄である。これら家政 house  economy は旧民法では家長の仕事であった。
父親(56歳)は、まだ老け込む齢ではないのに、遺体発見直後、犯人が捕まっても会いたくもないし顔も見たくない。犯人の方でも私の顔を見られないだろう。よく知っている人に違いないから、と気になる発言をして寝込んでしまった、それも10日間も。一家をまとめ率いる家長の面影はさらにない。
長兄は、事件の発生と犯人逮捕の遅れを「農村という古くからの何者かゞひそんで居たのではないかと責めざるお[を]得ないのです」と石川さん逮捕を報ずるサンケイ夕刊に投稿*して、農村共同体の因習を責めている。一方でその古い慣習を引き継いでいたことは自己矛盾である。
*私には秀才の小細工に見える。
後年自殺した次男は、カレンダーの裏に「古いものの中にいつまでもいいところもあることを願っていたい」という文言を遺して、古い共同体の遺制による家族内抑圧で自己崩壊に直面しながら、一家団欒への願望を発している。

兄が妹を・・・何故?
妹殺害の動機に共同体崩壊期の家族のジレンマがどう繋がるのか。そう、一家団欒が失せただけでなく、皆が束縛からの自由を求めた情動が事件の背景に見え隠れしている。長女は逃げ出し、次女は忍従し、妹は「家長」に向かって臆することなくモノをいう。兄はのちに今も顔面不随であると証言台で触れた。その原因である憎いはずの家父長制の承継者として、弟妹を扶養、保護、監督、支配している。立場が替われば兄と弟・妹との関係も変わると言える。
事件発生の10年近く前に精神病院で亡くなった母もまた幸せでなく自由を求めたことは想像に難くない。噂だけで証拠はないが、同情してくれた男性と情を交わしたとしても不思議ではない。世間でよくあることだ。私は亀井トムさんからその証拠(顔のパーツの一部が似ている)を聞いたが説得性に欠けると思った。
母の煩悶と過ちが家族の団欒を完全に消失させた。長兄はたぶん多感な思春期に夫婦不仲を知った。母の死は16歳のときである。わたしは精神医学-心理学的知識はないが、長兄が心身に深い傷を負い「顔面神経病」を発症したこと、感情が鈍磨したことは容易に想像できる。
長兄が将来の暗い幻影に執着し始めたのは実質的家長になってからである。家長としての義務を果たしはじめると、弟妹の扶養はもちろん、生活全般にわたって気を配り、励まし、見張り、口出しすることになる。はじめは、手伝い、小遣い、消灯時間などの細かい決まりごとについての干渉であろうが、次第に、外出、門限、男女交際にまで及ぶことは必至である。
兄は口答えから言い合いになる妹を意識するようになった。それまで母の面影に寄り添う兄妹の連帯感から気にならなかった事柄が家長になると心配事になった。卒業後どうするか。気が強く自己主張する妹が兄の意のままになるとは思えない。権利を主張するだろう。家父長制的家族では絶対に許されないことだ。
自由(恋愛、結婚)と平等(財産)を要求して来そうだ。そうなれば、家長の権威は失墜する。封建的慣行が崩壊し家族が四散する。

兄は次第に妹の存在自体に危機感を覚えるようになった。「消えてほしい」「消えろ」「消してしまえ」と過激化した。
血のつながりが二分の一であることがダメ押しとなって殺害を決意した。世の人はこういう残忍な身内事件では犯人の異常人格を疑う。ちょっと唐突に飛躍するが、権力者が往々にしてライバルになりそうな有力な同志を身内であっても予防粛清、謀殺することは歴史の教えるところである。実例として大河ドラマ『鎌倉殿の13人』をあげるだけで十分であろう。
兄は旧来の家の秩序を守るために近い将来脅威となる妹を予防殺害した。謀殺だった。異父兄妹関係と本人が精神に受けた傷が彼の犯罪心理増幅に影響した。
家の秩序は恒産である不動産と持たれ合っている。狭山市の地価は開発景気で急速に値上がりしていたが、当地区の土地は市街化調整[制限]区域に指定されていたため資産価値は低かった。運良く土地を処分できたとしても、全財産をきょうだい5人で分けると一人当たりの相続分は大きくない。しかも家族の四散を伴う。そうならないための家の古い秩序維持が殺害の動機だった。
3人の弟妹が異常な死に方をし、末弟が養子(相利的慣習)になったため結果的に長兄の単独相続になったが、動機を財産独占目的の殺人とするのは短絡すぎると思う。


狭山事件/胃の中にトマトは無かった/未使用別件写真を流用

2022-10-28 | 狭山事件

筆跡印影指紋柳田研究所の工学博士・柳田律夫鑑定人は、長年の日本刀銘鑑定でつちかった技に、最新のデジタル科学技術をプラスした鑑定法によって、脅迫状冒頭(左上)のカラスの巣状に抹消された箇所を解析し、消えていた「少時」の時の文字を鮮明に可視化した。

掻き消し痕跡調整写真  

第三次再審請求の為の柳田鑑定書から   www.kantei110.com/case.html

一目瞭然、この草書体のこそ石川無罪を証明し真犯人の真の姿を映し出す物証である。[END]*
*当ブログの過去記事から再録

脅迫状は狭山事件の唯一本物の物証である。当物証から、脅迫状を書いた主犯が物書きに慣れているだけでなく達筆であること、知能に優れ、犯罪フィクションと大事件に蘊蓄があり、みずから完全犯罪を企画するほどの推理マニアであることが想像できる。
2023年5月1日で狭山事件は発生から60年になる。それに向けてこの完全犯罪を解くヒントをいくつか提示しよう。ヒントが狭山事件研究のあらたな起爆剤になればそれ以上の喜びはない。

第1回は、警察権力による偽装工作つまり未使用別件写真の流用について、である。

2か月前に台東区で起こった吉展ちゃん事件が未解決の折に、警察はまたしても杜撰な対応で犯人を取り逃がしてしまった。衆参両院の委員会で国家公安委員長と警察庁刑事局長が喚問、報告を求められた。死体が発見された5月4日には柏村警察庁長官が辞表を提出した。同日、埼玉県警は狭山市堀兼に特捜本部(中 勲本部長)を置いた。
埼玉県警鑑識課医師の五十嵐勝爾作成の鑑定書によれば、被害者の①胃は「大約250竓の軟粥様半流動性内容を容る。消化せる澱粉質の内に、馬鈴薯、茄子、玉葱、人参、トマト、小豆、菜、米飯粒等の半消化物を識別せしむ」となっている。一見、被害者が12時5分ごろに食べ終えたカレーライスの食材が半消化のまま残っているかのように見えるが・・・。 

弁護団は、五十嵐鑑定に①胃内容物の色調についての記載がないことに言及している。②小腸を構成する「十二指腸内並びに空腸内には微褐ー淡黄色半流動性内容ごく小許」「廻腸には黄緑色軟粥様内容と共に小豆のかわ小許」があった、と記載しているのに、胃内容物について色調の記載がないのは、「捜査の拙劣」である、と。
「しかも」と弁護団は続けている。「胃内容については<無定形澱粉質を除き[除いて]、固形物のカラー写真撮影を行った〉との死体材料検査記録が出されているのである。」
そしてカラー写真を撮っていながら色調を記載しない、ということがありうるだろうか、と結んでいる。
カラー写真が無く、胃内容物の色調の記載がないのは、食事後4時間以上経過して胃の内容物が胃から小腸に移動していたから、胃が空っぽだった、したがって不都合な写真しか撮れなかったからである、とわたしは推理する。
ちなみに、消化に時間がかかる食材は、物理的に硬いもの(タネ・いか・たこ等)を除けば、バターがいちばん長く、本件では牛・豚等の油脂で固めたカレールーと脂っこい肉類である。それらは胃内に約4時間蠕動で揉まれながら滞留し、十二指腸に送られてそこで胆汁酸と膵液で消化される。小豆の皮の外皮はセルロース(食物繊維)だから消化しない。消化しない物は小腸(十二指腸→空腸→回腸)を経て大腸で活用され最終的に残滓となり糞便として排出される。
しかるに、十二指腸内と空腸内には「半流動性内容ごく小許」、「廻腸には軟粥様内容と共に小豆のかわ小許」があっただけである。小腸内もほぼ空っぽだったのだ。
ちなみに食べ物がドロドロ状態で小腸内に滞留する時間は4~8時間である。

被害者の胃内容物(五十嵐鑑定の添付写真)

  inaiyo.gif

上掲写真を見ていただきたい。一点を除いて2~3時間で胃液でどろどろになる食材ばかりである。トマトの果肉が観察されることから食後2時間以内の状態と考えられる。
胃液では消化されない脂肪分が多いから滞留時間が長い豚肉[推測]とカレールーの黄色(ターメリックの色)が写ってないということは、この鑑定書の写真は、流用物、偽物であることを物語っている。

「一点を除いて」の一点は小豆の二粒である。小豆は外皮が硬いため噛みつぶさないと消化しない。粒状の二粒は当日の朝食で食べた赤飯の小豆ではない。赤飯の小豆は時間の経過により消化されその外皮が残滓として回腸に移動して記録されているからである。この節は学究内藤武氏の論文「小豆と狭山事件―半消化小豆2個が証明する石川さんの無実―」(2010.4.30)に依拠している。
ほぼ粒のままの小豆がカレーライスの食材であるはずがない。したがって上掲写真は未使用別件写真を流用した偽物であると結論するほかない。

遺体は5月4日午前10時35分頃に消防団員広沢一郎さんと機動隊員(二人で一組)によって発見された。カバンも同時に現場の芋穴から発見されたと本人は後年語っている。一審で発見者として証言した消防団員は別の分団長だった(伊吹隼人氏による検証)。
毎日・読売と異なって朝日だけが発見者を分団長にしている。当の分団長は第一発見者が現場保存のために埋め戻した穴を駆け付けた捜索隊と共に掘り返したにすぎない。捜査本部が重大証拠を「隠し球」として秘匿し検察が都合のよい証人を選んだ、と思いたくなる。
最初に遺体の身元確認のためによばれたのは担任教師と二人の級友だったが、二人は抱き合って泣き崩れてしまい、立ち合いに応じないで「泣きじゃくりながら立ち去った。」
被害者宅には11時ごろに知らされ長兄が報道陣の車で現場に駆けつけ、遺体が顔は見えなかったが妹であると確認した。「放心したようにただ自分のカメラをむけていた。」
遺体は午後2時すぎに幌付き警察車(ジープ)で被害者宅に運ばれ、午後6時頃から庭の物置で解剖(五十嵐鑑識課医師執刀、狭山署長=特捜副本部長立合)に付された。午後10時半県警の中刑事部長(成り立ての特捜本部長)と鑑識課長が結果を発表した。死因は窒息死、食後約3時間経過。司法解剖が指定病院でなく設備のない物置の電灯の下で行われたことに驚く。

3日の午前0時すぎ身代金を受け取りに来た犯人を取り逃がした県警の上田本部長と中刑事部長は身の置き所がないほど思い悩んだ。犯人が逃げたあとに殺されていたら、という恐ろしい想念に取りつかれた。身代金目的の誘拐であることが脅迫状から読み取れるが、気が強くて大人の体格をした被害者を生かしておく場所があるはずがないことから、すでに殺されていて、死体が発見されるとしても食後数時間後の死であって、最長であっても食後36時間以内(取り逃がしは36時間後)の死は動かせない、つまり死は警察の失態のせいではない、と県警幹部は安心したい一方で、解剖の結果で判明するはずの死亡時間に最大のこだわりを抱いていた。
解剖の結果もし胃と小腸が空っぽだったら死亡時間がつまびらかにならず、マスコミと世論による警察非難は厳しさを増し、警察の権威は地に墜ち、治安対策と責任追及をめぐって国政は大揺れすることだろう。県警本部長と県警刑事部長の首がとぶだけでは収まらないであろう。裁判も紛糾し長期化するにちがいない。そういう事態だけは何としてでも避けたいというのが県警幹部の本音だった。
解剖直後に発表された死亡時間は最有力の下校時間証言(3時23分)と矛盾しないものだった。後日提出された鑑定書は食後最短3時間と修正されている。弁護団が二審で提出した上田鑑定書は五十嵐鑑定書を精査して食後2時間以内としている。

五十嵐鑑定書が事件の捜査とそれに続く裁判に与えた影響は計り知れないものとなった。捜査本部は「死亡時間」に合わせて「自白」のストーリをでっち上げた。その結果常識ではありえない超人的犯罪行為のオンパレードとなった。本章の主題でないので出会いと連行の奇妙奇天烈な情景を想像するだけにとどめる。
石川さんを支援する人たちはカレーライスに季節外れのトマトが入っていることから下校途中で誕生祝の食事を身近な男性と共にしたと主張した。いわゆるご馳走説である。ご馳走説は真犯人究明の有力な拠り所とされたが、胃内容物が食後2時間以内だから殺害時刻が6(4+2)時頃になってしまう。2時間を共有できる異性と場所が被害者にあったことになって行き詰まってしまう。
5月1日は露地トマトとナスの植え付けが始まるころである。当時はトマト産地においてすらハウス栽培の揺籃期だったのでご馳走説には無理がある。学者、物書き、探究者等は皆ああでもないこうでもないと大いに迷った。二審の寺田裁判長は農家の子が持ってきたのだろうと推定判決を書いて現地農民の失笑を買った。
私も迷い続けた。関心は持ち続けたが長いこと鳴かず飛ばずのままだった。この度自分史の総決算の一つとして研究を再開し、主に新聞資料を読み返して、胃の中にトマトはなかった、県警本部による鑑定偽造があった、という結論に達した。狭山事件ではニセモノの証拠、証言が数多く露顕しているが、ニセ写真はその嚆矢である。

事件の真相解明に尽力され今も影響力を持ち続けている現役の鎌田、殿岡、甲斐、伊吹、・・・の諸賢とこれからの若い研究者諸氏が、ご馳走説の憑き物があればそれをはらいおとして、なおいっそう真実に迫るストーリに取り組まれることを願ってやまない。

参照 諸新聞記事抜粋集
1) 全国版  「冤罪・狭山事件研究」(代表 内藤武) 「あなたのホームページタイトル」で検索
2) 埼玉版  「埼玉・報道記事集  PARTⅣ」(部落解放子ども会大阪連絡協議会発行)150ページ 私蔵書
推奨  「狭山事件の深き謎と真犯人と疑われた男たちの半世紀」12頁にわたる伊吹隼人氏の力作。別冊宝島(2016.5.26)「昭和史開封」で検索


大腸癌の兆候/下腹部膨満感/見落とした原因

2022-10-14 | 大腸癌闘病記

大腸癌は私にとってもっとも罹患が考えられない病気だった。ここ10数年、腹痛はもとより下痢、嘔吐、便秘と縁がなかった。105歳間近まで長生きした母も胃腸が強かった。私は腸に関しては自信過剰に陥っていた。
さらに舌癌と冠動脈の手術アフターケアとして24年と17年の長期にわたって行われた定期健診で、私の体は、脳、血管、食道、胃、心臓、肺臓、肝臓、腎臓、膵臓、胆道、十二指腸(小腸の主部)、前立腺(これだけは医師に特別に頼んで血液検査項目にPSAを入れてもらった)まで、データと映像による管理がなされていた。お陰で今日まで健康を維持できた。
これらは上腹部検査である。大腸は対象外である。
2,3年前から下腹部膨満感と倦怠感があった。猫の額ほどの庭で午前中1,2時間しゃがんで土いじりをするとお腹の圧迫で体がだるくなって動く意欲も昼食を食べる意欲も落ちた。
定期健診の内科医に相談したが消化剤を処方薬されただけだった。循環器の内科医には心不全のせいではないかと懸念を告げたが検査の結果心血に異常はないと言われた。
私は前立腺手術と関係があるかもと考えて泌尿器科のDr.にも検査してもらったが関連を否定された。
そのころ大腸で腺腫癌が進行していたと考えられるが、私もだが、どのDr.も腸閉塞、大腸癌の疑いに想像が及ばなかった。百慮の一失、残念でたまらない。
総合診療医(ドクターG)のクリニックの必要性を強く感じる。総合病院には総合内科があるが、しかるべき専門医への患者振り分けが主で、みずから病名を突き止める役割は担っていないように感じる。
今年になってなぜかお腹の膨満感が消えた。そして、既述のとおり、コロナ自粛で最もストレスが溜まっていた4月末ごろから、朝食を食べ始めると2,3秒間へその周りを中心に痛みを感じるようなった。5月の中頃、北摂総合病院で受診すると、画像検査で大腸が荒れているようだから[もっと強く言ってもらっていたら、と残念に思う]と、内視鏡検査を強く勧められた。
1か月後の内視鏡検査の結果は、腸閉塞を伴う上行結腸癌だった。至急大腸の上行結腸を切除しないと、その間に腸閉塞で緊急入院となると、W治療になり、治療の困難が増す、と警告された。
手術の結果は既述のとおりで、膨満感が始まったころより身軽で元気になった。

検索してもほとんどヒットしないが、大腸癌の症状に下腹部膨満感→倦怠感(私の場合は最初それしかなかった)があることを知ってもらいたい。
下腹部に膨満感を感じたら、ほかに症状がなくても、腸閉塞か大腸癌を疑おう!