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「吹屋ふるさと村」に行ってみました ・・ そして「備中たかはし松山おどり」を ・・

2015-08-16 16:13:34 | 歴史散策 まつり

 ブログり更新が2日ぶりです。

今日のブログ記事の為の

動画編集とYouTubeのアップロードの時間が

7時間ぐらいかかり

このタイミングになってしまいました。

 

 

さて

江戸末期に建てられた

楼門づくりで

城郭にも劣らない堂々たる石垣は

今もそのままに。

 

銅とベンガラで巨万の富を築いた

大野呂の庄屋

広兼家2代目の元治が建てた

豪商の巨大な邸宅。

その広兼邸に8月14日

行ってきました。

 

この個人邸であった広兼邸は

規模、構造ともに城郭を思わせる

立派な構えで

映画版やテレビドラマ版の「八ツ墓村」の

ロケ地になることでも有名です。

映画「八つ墓村」のロケが

昭和52年と平成8年の二度にわたり

行われ全国に放映されました。

 

享和、文化の頃(1800年ごろ)

小泉銅山とローハ(硫酸鉄)の製造を営み

巨大な富を築いた

大野呂の庄屋・広兼氏の邸宅は

今も昔のままに残されているのです。

 

そして、現在は

吹屋ふるさと村の観光コースの中のひとつとして

多くの観光客が訪問しています。

 

 

そして

私も高梁市にあります

「吹屋ふるさと村」を見学したいと考え

生まれて初めて

この地に行ってみました。

また

今日、行こうと考えました理由は

もうひとつありまして

この日から始まる

「備中たかはし松山おどり」を

見ることでした。

 

しかし

私の自宅から約50㎞ほどですが

10数㎞近くまで行きますと

何故かカーナビが全く機能しませんでした。

生まれて初めての経験でした。

 

山間の山道に立っている登り旗や

案内建てとは違う道へと

カーナビが度々

案内するのです。

いずれにしても

山間の道を走行するのですが

その道が旧道なのか新道なのか

私には全く分からず

多分、ナビは旧道誘導していたものと

想像しました。

よって

私はカーナビの誘導を無視して

山間の山道に立っている登り旗や

案内建てを信じて走行しました。

 

そして、なんとか

一番最初の「広兼邸」に着いたのです。

 

皆さん

是非とも一度行って見て下さい。

 

でも

なんでこんな山奥なのかと

思います。

 

しかし

昔はこの地に人口が1万人いて

相当繁栄していたそうです。

 

では

こんな山奥の地が繁栄したのかと

言いますと

 

江戸時代後期に

小泉銅山とローハ(緑礬(りょくばん)、

硫酸鉄=ベンガラの原料)製造を

この村で広兼氏が営んでおり

それがもとで多くの人々が集まり

ひとつの村が出来上がったのです。

 

その礎を築かれた 

広兼邸に着いて

車を駐車場に止めて

周りを見ると驚きの光景が

目に入りました。

 

それは広兼邸の石垣です。

まるで

城にある石垣のようです。

そして、その上に

広兼邸があるのです。

 

 

これが個人邸なのかと

思いました。

 

こんな山間に

こんな豪邸を建てたのだから

本当に豪商だったのだと

納得しました。

 

では

いつものように写真と動画で

広兼邸をご紹介します。

 

撮影しました写真や動画は全部

掲載したいのですが

ブログの容量制限があるので

一部をアップさせて頂きます。

従って

全体が伝わらないかもしれませんが

ご理解頂ければと思います。

 

 

 

 

山道の斜面に咲いていた花を

何枚か撮影しました。

 

 

 

そして、トンボが一匹

 

 

 今は忘れられた五右衛門風呂です

 

 

では動画ですが

邸内の路面がかなり凸凹しており

手持ち撮影の為

映像が揺れています。

決して

心地良い揺れではありません。

 

 

 

 

https://youtu.be/nr3Bv_JNWT8 

 

 

 

 

そして

広兼邸を後にして

吉岡(吹屋)銅山 笹畝坑道

に行きました。

 

 

 

吉岡(吹屋)銅山は

大同2年(807年)に発見されたと

伝えられています。

江戸時代初期一時

成羽藩の支配下にありましたが

大部分の間は天領幕府直轄地で

代官の支配下で栄えていたそうです。

 

長い歴史の中で繁栄期は

 

① 元禄年間 1690年

経営者 泉屋 (住友)

継続年数 35年

 

② 享保~天保年間 1716~1842年

経営者 福岡屋 (大塚)

継続年数 2回で107年

 

③ 明治~昭和年間 1873~1930年

経営者 三菱 (岩崎)

継続年数 57年

 

 

江戸時代の採掘は手彫りでしたが

明治以後

三菱金属(株)の経営になり

精錬等の作業を機械化し

日本で初めて様式溶鉱炉を作り

日本三大鉱山のひとつに

なったそうです。

 

私はこの鉱山の中に入りました。

 

見られる部分は約300㍍ほどですが

実際は地下が幾重にもなっていて

手堀りとは思えないほどの

想像を絶する長さがあるらしいです。

下の絵を見てもらえれば

分かるのですが

縦も凄いのですが

横の長さが凄いと思いませんか。

山を幾つもまたがっています。

 

 

 ともかく

坑道の中は寒かったですね。

ひんやりとして

真夏とは思えませんでした。

快適でした。

聞いたところによりますと

夏場は約15度ぐらいで

冬場は約23度ぐらいの温度らしいです。

 

ここで思ったことは

穴蔵と言いますか

これから洞窟生活っていいな~~  と。

 

それにしても

この坑道が手堀りなんて

気の遠くなるような

汗と涙とひと叩き

積み上げていたことについて

驚嘆しますね。

 

でも

坑内はかなり上へ下へ上へと

かなりうねっていまして

息が切れました。

 

  ↑ 俳優の大泉洋さんだ~~ 

こんな所でも仕事をしていたんだ と思いました。

(大笑) 失礼しました。

 ← 拡大用の写真です

 

 

 

↑ この笹畝坑道

もともとの入り口となった穴らしいです。

これから掘って掘って

掘りまくって

巨大な銅山となったのです。

信じられませんね。

 

 

では、坑内を歩きながら

撮影しました。

途中、天井の岩石に頭を打ち

映像が乱れている箇所がありますが

ご了承下さい。

 

 

では動画を  ・・・

 

 

 ↓

 

 https://youtu.be/DD8Igd-WkD0

 

 

 

この後行きました

 

「^ベンガラ館 」

「 吹屋の町並み 」

「 備中たかはし松山おどり 」

 

この内容につきましては

次回とさせて頂きます。

 

 

 

 では、皆さん

今日も素敵な一日で

ありますように

 



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