モノと心の独り言

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入試問題がネット投稿って、知の確かめ方変化の兆しであり、国への期待へとたどり着くのだが

2011-02-28 09:01:03 | 暮らし・街・環境
記憶を中心とした知識による能力試験は、知識の量が少なく・長期的に変化しないということを前提としている。既存の情報を、出来上がったテキストや攻略本で応える能力・集中力を競うことも意味はある。しかし、知識が情報の断片として氾濫し、記録されて、どこでも入手でき、変化し続ける時代へ移行してきた時、これは記憶ゲームであって、能力試験ではなくなるのでは?入学後もまたすぐ、就職試験がまっていて、その結果多くが就業できないのは何故?景気が悪いから?日本の人口・市場が減っているから?求められる能力の・労働の・知の質が変わってきているのでは?

すでに、工場立地は資源と消費の最適地として国境を越え、オフィスワークはOAにより代替から知の集中化が進み、人の労苦だけでは、企業の利益を生む差異生産ができなくなってきている。熟練工の技・経験者の知恵が今更言われるのは、機械とITでは追いついていない領域が狭くなってきた裏返し。また、消費者が人のサービス・工夫・誠意の価値に、費用を払わない時代なのだから、’技’とか’アート’とか、’おもてなし’とかをブランド化しようとするほどに、陳腐化が早まる。
人の感性・欲望は、残酷なんだ。

ITからICT、機械+ITにセンサーをつけ、更に技術は進んでゆく。しかし、その先を人が急ぐばかりが能じゃない。入力するデータは、センサーの精度や数や編成だけでは、常に足りない。消費する人は、モノの所有や価格の差異が目的ではない。その差異を伝え・応じる相手・情況との呼応・対話にゴールがある。
感動とか共感とかいいかえてもいいだろう。

その源泉・きっかけは、入力の前、その状況をどう感じ、どう対処しようとするかにある。それは、感性と関係づくりの能力にかかっている。辞書や検索で拾い出し、物語づくり・ゲーム理論で編集されるものは、陳腐化が早い。その場・廻りの人と関わり合い続けて養える感性と共感の記憶が、その人の能力として持続可能なのだ。
しかし、もう村社会には戻れない。年長者・経験者の聖域は、すでに開放され世界へ同時に繋がっている。それは、個人の能力を試す管理された試験会場という場でさえも、個人の蓄積を越えた情報を活用できることが明るみに出た。
良い悪いではない、知識というものが、そういうモノになってしまっているということを言いたいのだ。

幼少から知識試験結果を、最大の価値として教育をうけてきた子ども達には、在ってはならないこと。
しかし、大学に入り受験勉強から解放されると同時に、就職試験の準備が始まり、その就職の門には、知識だけでは通れない時代にきているのが現実。有名校・有名企業という聖域・階級化・貴族化は、子ども達の新世代人の夢へと反映し、ゲームの世界へと引きずり込む。欧米の神話物語3D化・スポーツ選手のスター化・韓流ドラマの階級社会、繰り返される仕掛けは、人の本性にそっている。

入試を変えろとか、教育制度を変えろとか、企業のあり方をかえろとか、というのは当事者を中心として動いて欲しい。つまり、持続的な社会活動を組織化するところが、子育てから高齢者の参加まで考えて、できる範囲で対処してほしい。ゲート社会への志向かもしれないが、拡げれば、国という意識こそが、場と人と時間の集積として、その範囲ではないか。そして、その地域文化を国際市場での価値として、アジアへ南米へアフリカに住み関わる能力もまた、その場・その時、相手と状況をどう感じ、関わってゆけるかにかかっている。

国政まで自閉状態になり、メディアもまた自閉しかけているときに、身のまわりのコトや人を感じ、関わることを楽しめる人が、より多く世にでて欲しいと想う。大学も企業も、社会と関わる場なのだから、これからの能力を試す方法こそが、社会に問われている。ITを使うのも良し、もっと感性と表現力を試すのも良い。市場社会にでる以上は、みずから差異を作り出してゆく能力こそ試されるべきだ。


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