ところで、旧版の出版された1999年といえば、宇野先生は69歳(1930年生)、ひとつ下の中野さんは68歳(1931年生)。
1962年生まれのわたしは弱冠37歳。既に大家の域にあったお二人とは30以上も年齢が離れていたことになる。もっと他に経験豊かな書き手があったろうと思われるが、わたしが第三の著者に選ばれた経緯を思いだしてみたい。
ある日、宇野先生より以下の内容のFAXが届いた。
「大至急、君の原稿をこの人に送りなさい」
そこには、何の理由も書かれていなかったが、早速、指定された宛名に、それまでに「音楽現代」に寄稿した文章の数々やアリオン音楽賞(後の柴田南雄音楽賞)奨励賞を受賞したときの評論などを郵送した。
その送り先こそ、中野雄さんのお宅であった。しばらくすると、中野さんよりお手紙が届き、「原稿拝読。内容も興味深く、文章もしっかりしている。是非三人で本を書きましょう」とあった。
21年前と言えば、合唱指揮の仕事ははじめていたけれど、今ほど多忙でもなく、書く仕事を求めていたので小躍りしたのを覚えている。聞けば、文春新書のためにクラシック音楽の名曲名盤ガイドを企画しているとのこと。確か、仮の書名には「永遠の名盤」という言葉が入っていたように記憶する。宇野先生と二人で書くことも考えたが、もう一人加えて三人の方が面白くなるに違いない。そこで、宇野先生に相談したところ、わたしを推薦してくださったというのである。
つまり、三人で書くというアイデアは中野さんによるものであった。
さすが、音楽プロデューサーとしても活躍された中野さんらしい卓抜な閃きである。実のところ、三人目の著者について、中野さんの胸中には既に別の方のお名前があったらしい。わたしの原稿が鮮やかな逆転ホームランとなったわけだ。「クラシックCDの名盤」との出会いは、わたしの人生を変えるものであったことを考えると、実に感慨深い。改めて、推薦してくださった宇野先生、選んでくださった中野さんに感謝の念が沸き起こる。
ところで、中野さんが、当初、共著者として考えられていた方はどなただろう? わたしから尋ねることもなかったし、中野さんも決してお話しになることはなかった。もしかすると、宇野先生もご存知だったのかも知れないなあ。
※写真は、2015年1月。山田和樹指揮横浜シンフォニエッタ公演の開演前。於・フィリアホール
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(第3回につづく)