福島章恭 合唱指揮とレコード蒐集に生きるⅢ

合唱指揮者、音楽評論家である福島章恭が、レコード、CD、オーディオ、合唱指揮活動から世間話まで、気ままに綴ります。

井上陽水コンサート2016秋「UNITED COVER 2」

2016-10-11 22:57:15 | コンサート

井上陽水は、中学生時代に「氷の世界」「二色の独楽」ふたつのアルバムを聴いてから、いつもボクの人生の近くにある存在だったが、その生のステージに接するのははじめてである。

だいたい、ぼくらの世代で、フォークギターを弾くのに、最初にさらう曲は「夢の中へ」と相場が決まっていたものだ。

この度、オーチャードホールに出掛けたのは、せっかくこの天才アーチストと同じ時代に生きていながら、これまで一度もコンサートに足を運んでいなかったことを反省してのこと。

陽水の声は健在で、力の抜けたトークも絶妙。曲も名曲揃いなのだから、感動しないはずはない。実際、大いに愉しんだことは事実であるが、それでも魂を揺さぶられるほどの感動、とまでは至らなかった。

その理由は簡単だ。

バックのバンドの音量が上がると、歌詞がまったく聞き取れないのである。特にバスドラムとベースの音がウワンウワンとループしてしまい、陽水のヴォーカルを打ち消していた。あの独特の感性による詩あってこその陽水の世界なのであって、それが聞こえないのでは魅力が半減してしまう。昨年、同じホールでZAZを聴いたときには覚えなかった不満である。

「今日のお客さんは静かですね」と陽水は語っていたが、コンサートの序盤で聴衆がいまいち盛り上がれなかったのも、おそらく歌詞が聞こえないことに関連していよう。

確かに、オーチャードホールはクラシックのコンサート向き(とはいえ、クラシックを聴くには音が悪い)のため、一般の多目的ホールよりは残響が多くポピュラー音楽の音作りは難しいのかもしれない。しかし、もっと各マイクのリバーブをカットするなど、ホールに適したサウンド作りは出来なかったのかという恨みは残る。PA技師の居る位置が1階席の一番奥、即ち2階席の真下のため、前方席よりは残響がなく、そのことに気付かなかったのか? それとも、あのあたりが限界だったのか? それはボクには分からないのだが・・・。

本日の公演は別としても、日本のポピュラーコンサートでは、PAの音質には疑問を覚えることが多い。

もっと音量を絞って、音質に気を使ってほしい、というケースがままるのだ。音が大きなだけでなく、歪んだり汚れていることも多い。

ヴォーカルへのリバーブのかけ過ぎも、下手な歌手にはよいが、上手い歌手にはその美点をぼやけさせて逆効果だったりする。

数年前、くるりをライヴハウスに観に行ったときなど、あまりの音量の大きさに耳がボーッとなり、三日ほど聴力の戻らなかったことがある。これには焦った。自分の仕事に関わるので、それ以降、ライヴハウスでのイベントへは怖くて行けないでいるほどだ。ライヴハウスのスタッフは、毎日毎晩、大音量の中にいて難聴になっているに違いない。

音響スタッフには、もっと「良い音とは何か?」を学んで欲しいと願う次第である。

 

 

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カラヤンのシベリウスにアナログ録音の凄みを聴く

2016-10-11 17:06:40 | レコード、オーディオ


久しぶりの在宅に、買ったまま放置されていたレコードを聴く。まずはレオニード・コーガンの1982年シャンゼリゼ劇場ライヴ。未公開録音による新譜である。

シューベルト、ブラームスも文句なしに素晴らしいが、入魂のバッハ:シャコンヌを経た後のパガニーニ、ファリャ、プロコフィエフに於ける突き抜けた世界に魅了された。

アナログ再興初期には色々問題のあった東洋化成プレスも安定してきたような気がする。

LP 1(Side A)
シューベルト:ヴァイオリン・ソナチネ第3番ト短調 D.408
LP 1(Side B)
シューベルト:幻想曲 D.934
LP 2(Side A)
ブラームス:スケルツォ
J.S.バッハ:シャコンヌ(無伴奏パルティータ第2番ニ短調BWV1004より)
LP 2(Side B)
パガニーニ:カンタービレ
ファリャ(コハンスキー編):スペイン民謡組曲、
プロコフィエフ:仮面~『ロメオとジュリエット』より

レオニード・コーガン(ヴァイオリン)
ニーナ・コーガン(ピアノ)

ライヴ録音:1982年10月20日/シャンゼリゼ劇場、パリ(ステレオ)
INA(フランス国立アーカイヴ)からの音源提供

(2LP)180g 重量盤/完全限定プレス/ステレオ/日本語解説付



つづいて、ヤンソンス&VPOの2016ニューイヤーコンサートに針を下ろすが、途中で飽きてしまう。どこまでも音楽的なのだけれど、微温的でどうにも心が震えてこない。

ヤンソンスへの物足りなさ。この春、ベルリン・フィルで聴いたときの初日の印象が蘇る。しかし、アルバムの2枚目、3枚目は未聴のため、結論は保留にする。後半の巻き返しはあるかも知れない。



カラヤン&BPOによるシベリウス「フィンランディア」の快演(怪演?)は、その欲求不満を晴らしてくれた。悪趣味なまでにバリバリと吼える金管群にゴリゴリと鳴りまくる低弦。これでどうだ!と威嚇するようなティンパニの轟き。

いやあ、スカッとした。
しかし、このアルバムの良さは豪快さだけにあらず。「エン・サガ」での精妙なアンサンブルは清涼剤となり、トゥネオラの白鳥のコール・アングレのソロ(ゲルハルト・シュテンプニク)はまさに人生の憂愁の極み。

30年前のボクなら、このフォルティシモを無意味なもの、空虚なものとして、受け入れなかったも知れない。しかし、いまは大歓迎だ。何事もここまで徹底されれば、尊敬に値する。もっとも、これをブルックナーでやられたらひとたまりもないのだが。

音もデジタル最新録音のヤンソンスより、アナログ成熟期のカラヤン(英EMI 白黒切手レーベル)が文句なしに良い。
音質には不利な筈の4チャンネル用プレスにも関わらず、こんなに差がつくとは、アナログ録音の凄さに改めて驚かされた。
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