ネヴィル・マリナーの名前を知ったのは、1974年11月2日のことである。なぜ、そう言い切れるのかというと、その日は日米野球第6戦、全日本vsニューヨーク・メッツ戦の試合前にハンク・アーロンと王貞治によるホームラン競争が行われた日だからである。
当時小学校6年生だったわたしは、すでに社会人になっていた従兄弟の勉兄さんに連れられて後楽園球場に行った。そして、バックネット裏の座席にて、その歴史的セレモニーに立ち会ったのだ。
全日本対メッツの試合については何の記憶もない。ただ水道橋からの帰り道、たしか新宿のレコード屋に立ち寄ったとき、勉兄さんがレコードを買ってくれたことは忘れることはない。その1枚こそネヴィル・マリナー指揮のバッハ「ブランデンブルク協奏曲」だったのである。ただし、全曲ではなく3番、4番、5番を納めた国内盤であった。
もちろん、これはマリナーの古い方の録音で、サーストン・ダート博士校訂譜によるもの。第3番に第2楽章があったり、第4番では2本のリコーダーに通常のアルトより1オクターヴ高いソプラニーノが用いられたり、第5番の第1楽章では聴きどころであるべきチェンバロのカデンツァが異様に短かったりするなど、一風変わったものなのである。しかし、それがわたしの最初のレコードにおける「ブランデンブルク協奏曲」体験となった。ついでながら、4番の第1ソプラニーノ・リコーダーを受け持つのが、天才デイヴィド・マンロウであることを認識したのはずいぶん後のことである。
さて、それから32年後の10月2日のこと。大阪フィル「海道東征」合わせ前の僅かな時間に飛び込んだディスクユニオン大阪クラシック館にて購入したのがマリナー指揮のバッハ: ロ短調ミサ(蘭フィリップス 3LP)。
試聴して、その清新にして溌剌とした音楽運びに、こんなに凄い演奏だったのか! とその実力を再認識。良いレコードが買えたと嬉々として大阪フィル会館に向かったのである。92歳の巨匠の訃報が飛び込んできたのは、まさにその時だった。
この4月、オペラシティ・タケミツホールで聴いたプロコフィエフ: 古典交響曲、ヴォーン=ウィリアムズ: トマス・タリスの主題による変奏曲、ベートーヴェン: 交響曲第7番は、マリナーの師ピエール・モントゥーの音楽を彷彿とさせる真の巨匠の指揮ぶりだった。
もちろん、モントゥーの指揮姿を生で見たワケではないのだけれど、老境において若々しい音楽、洗練された趣味と格調の高さ、そして背中の語る人間の暖かさと大きさがモントゥーを思わせたのだった。
マリナーについては、N響ほかへの客演指揮を聴き損ねたことは悔やまれるが、たった一度でもその実演に触れたことの幸せを噛みしめている。
どうぞ安らかにお眠りください。
♪上の写真は、ロ短調ミサのレコード付属のブックレットより。