goo blog サービス終了のお知らせ 

福島章恭 合唱指揮とレコード蒐集に生きるⅢ

合唱指揮者、音楽評論家である福島章恭が、レコード、CD、オーディオ、合唱指揮活動から世間話まで、気ままに綴ります。

ベルリン・フィルの強者どもによる超弩級のヴィヴァルディ

2014-03-17 10:26:48 | レコード、オーディオ


昨日、岩城宏之のベートーヴェン全集とともに手にしたレコードボックス。

ヴィヴァルディ コンチェルト・グロッソ集 op.3 nn.1 - 12「調和の幻想」

ベルリン・フィルハーモニー
コンサートマスター: レオン・シュピーラー , トーマス・ブランディス
独DG 2740 221/2709 100(3LP)
録音 : 1979年 録音技師: ギュンター・ヘルマンス

70年代末、カラヤン時代完熟期のベルリン・フィルの弦楽奏者たちによる豪華なヴィヴァルディ。全12曲の半数、6曲ずつをシュピーラーとブランディスがトップを分け合っている。この2人のデュエットなどもあって鳥肌もの。兎にも角にも超弩級の音がする。コンティヌオはエバーハルト・フィンケ(vc)とホルスト・ゲーベル(cem)のコンビだ。

まるで、チャイコフスキーの弦楽セレナーデを聴くかのような豊穣な響き。古楽器に慣れた耳には、ヴィヴァルディにしてはサウンドが立派過ぎるのではと気後れするだろうが、気にすることはない。これで良いのだ。
弦楽器の奏法、機能美をトコトン追求するとこうなります、といった風情こそが堪らない魅力なのだから。

ベルリン・フィルの強者どもが、カラヤンという親方抜きで、実に嬉しそうに伸びやかに合奏を楽しんでいるのが伝わってくる。カラヤンは、オーケストラのプレイヤーたちが自らの指揮より目立つことを好まないから、かつてこれほど彼らがクローズアップされた録音はなかったのではないか?

実は、この演奏。レコードの発売直後、FM放送からのエアチェックテープを愛聴していたこともあったのだが、こうしてオリジナルのレコードで聴くと、当然ながらカセット・テープとは情報量と生々しさが全く違う。当時はただの爽やかなバロック音楽という認証しか持てないでいたものだが。
録音も極上。グラモフォンのアナログ録音のクオリティは相当に高かったことを再確認。

というわけで、久々の再会は実に幸せなものであった!

空前絶後のマーラー9番 インバル&都響 横浜みなとみらい公演

2014-03-17 01:00:55 | コンサート
福島章恭HP http://www.akiyasuf.com



インバル&都響のマーラー9の2日目(於・横浜みなとみらい大ホール)。
期待を遥かに上回る空前絶後の名演であった。

まず我が座席だが、前回の8番が1階であったのに対し、3階センターであったことは既報の通り。
音は断然今回の方が良かった。金管セクションも極めて立体的に聴こえたし、木管の綾も美しい。弦に限っては、響きがライヴになりすぎて輪郭のボヤケてしまう難はあったが、頭上を通り過ぎるよりは100倍良い。

天使の舞い降りたのは、第1楽章コーダ直前のフルート。第1フルートの永遠の調べが、彼岸への扉を開いた。
この瞬間から、音楽は彼岸と此岸の境界線にある垣根を超え、世界が一変した。

もちろん、それまでも立派なパフォーマンスだった。
ただ余りに純音楽的で、バーンスタインやバルビローリとは言わなくても、もっとインバルの生々しい魂の叫び声を聴きたい、と思ったりしたものだ。
ところが、ここからは、奇跡の瞬間の連続であった。

第2楽章のレントラーでは、原初的なリズムの躍動があった。
ただの舞曲ではなく、人間の魂の故郷を訪ねるような音楽である。
テンポを上げた粗野な部分の迫力も凄まじく、息をもつかせない。

このまま一気に後半へなだれ込むかと思いきや、第3楽章を前にインバルは一旦舞台袖に退場。
オーケストラがチューニングを済ましても、なお時間を持て余すほど長い空白に、
「せっかく、盛り上がったのに、集中が切れたらどうするのか?」
と心配したほどである。

ところが、再開後の第3楽章ロンド=ブルレスケもオーケストラの集中力は途切れなかった。
流石プロだ、と賞賛するのは簡単だが、指揮者ともども、休息とともに益々のエネルギー感でもって音楽に臨む様は圧巻。
諧謔という名の魂の乱舞に打ちのめされた感じがした。

そして、結論ともいうべきフィナーレ。
インバルの指揮は、拍を明確に、しかも縦に力強く打つ指揮スタイル。
この息の長い歌に溢れた第4楽章ではどうだろう? と興味深く見ていたが、何のことはない。都響の弦楽セクションは、その打点と打点の間を自発的なカンタービレで埋めてゆく。
まさに全身全霊を音楽に捧げるインバル指揮の下、オーケストラがひとつの巨大な生き物のように呼吸していた。
クライマックスに至る122小節からの4小節間、「たくさんの弓の返しで」と指示された第1および第2ヴァイオリンの高弦の輝きが天を染め上げるとき、
インバルの指揮が横型に転じては、凄絶なまでの効果を生んでいた。ここへきて、マーラーの心の叫びとインバルのそれが共鳴し、ひとつになった。

やがて、コントラバスを除いた弦だけが残り、音楽は死への歩を進める。
生を惜しみように、決して悟ることなく、しかし、夢見るように、音楽は、徐々に徐々に、その瞬間に近づいてゆく。
ここで、客席に大きなトラブルの発生したのは無念ではあったけれど、インバルも都響も些かも集中力を欠くことなく、会場の空気を支配しつづけた。
そして、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロによる変ニ長調の開離した長三和音が黄泉の空へと吸い込まれていったあとの静寂にこそ、演奏芸術の究極があったのだ。

先週の「8番」も素晴らしかったが、ここまで深い感銘ではなかった。
もしかすると、座席の違いかも知れないけれど、どうも、それだけではなかったような気はしている。
インバルと都響によるマーラー。7月の「10番」は、2公演ともに仕事と重なり聴くことが出来ないため聴き納めとなるかも知れない。
この「9番」から得たものは、我が残された音楽人生への糧となるほど大きなものであった。
殊に、愛知祝祭オーケストラとともにブルックナー第8番を演奏する前に、特上のマーラー「8番」「9番」に立ち会えたことは幸運であったと言えるだろう。
天の配剤に感謝をしたい。