あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

ポルトガル紀行134 オビドス8 ポサーダ カステロ・オビドス     

2019-07-31 | ポルトガル紀行

 

 

メイン通りの突き当りにあるオビドス城

頑強な城塞オビドス城だが

王家そして領主の邸宅であった。

1950年に歴史的ポサーダの第1号として
「ポサーダ カステロ・オビドス」
になっているが、

中庭までは見学ができる。

15世紀の城を
改装利用したオビドスのポサーダ。

塔の内部はスイートルームになっており

下階がサロンとバスルーム 
上階がベットルームという贅沢なつくりで

中世の王族になった優雅な気分になれるそうだ。

なお 旧館9室 新館が8室と部屋数は少ない。

 

 

 


ポルトガル紀行133 オビドス7 サンディアゴ教会・書店     

2019-07-30 | ポルトガル紀行

 

 

 サンディアゴ教会・書店 

                        

 

1186年に建てられた
サンディアゴ教会だが 
1755年の大地震で被害を
受けてその後再建された。

しかし 今は書店になっている。

教会が書店になった経緯はわからないが

祭壇に本棚が並ぶ 
こんな利用・使い方もあるのかと

違和感ある雰囲気があって面白かった。

 

 


ポルトガル紀行132 オビドス6 ペロリーニョ    

2019-07-29 | ポルトガル紀行

  

 

サンタ・マリア広場を挟んだ
教会の向かいに
ペロリーニョと呼ぶ石柱が立っている。


市庁舎(現在は博物館)前に
権威の象徴として1513年に建てたもので

権威の象徴であり
町の自治のシンボルであった。

 

この柱 罪人を見せしめのために
籠に入れて吊り下げた柱で
「罪人の晒し柱」とも呼ばれている。

柱の上に魚を捕る網が彫られているが
1491年、ジョアン2世の王妃
レオノールの最愛の王子が
テージョ川で水死した。

王妃は悲しみのあまり 
王子の死体を引き上げた漁師の
網を刻ませたといわれている。

 

 


ポルトガル紀行131 オビドス5 サンタマリア教会   

2019-07-28 | ポルトガル紀行

 

 

ディレイタ通りをオビドス城へ向かう中ほど
右側にサンタマリア広場がある。

この広場には かつて市庁舎や
市場として使用されていた建物が残されて

町の中心に位置している。

その中央にはサンタマリア教会が建つ。

白壁の外観はシンプルで清楚に見えるが 

12世紀にロマネスク様式で創建され
何度か立て直されている。

エンリケ航海王子の甥であった
ポルトガル王アフォンソ5世が

まだ10歳の頃に8歳のイザベラと
結婚式を挙げた教会としても有名。

 

 

 

内陣は歴史を感じさせる雰囲気で
祭壇を取り囲む青と白のアズレージョが見事。

主に聖母マリアをテーマにした
絵画や彫刻があって
天井にはフレスコ画が描かれている。

 

 


 


ポルトガル紀行130 オビドス4 ディレイタ通り 

2019-07-27 | ポルトガル紀行

 

 

オビドスのメインストリート 
「ディレイタ通り」

石畳の細い道に土産物店 
レストランが軒を連ねている。

 

 

特にオビドス名物「ジンジャ」を売る店が多く
チョコレート製のカップで
1杯1€で試飲もさせてくれる。

 普通のボトルのほか
土産用の手のひらサイズのボトルもあった。

「ジンジャ」はサクランボを漬け込んだ果実酒で
ジンジーニャとも呼ばれ

特にオビドス産は質が良いとして
主に食前酒として知られている。


アルコール度数は 18~20%で
ワインより少々高めとのこと。

 

 

 

                       

ポルトガルの代表的な土産品が
ディスプレーされている。

 

 

   趣のある路地

 

 

 


ポルトガル紀行129 オビドス3 詩人カモンイス 

2019-07-26 | ポルトガル紀行

 

 

城門の先 ディレイタ通り
右側にある柱は

ポルトガルの詩人カモンイス(1524-1580)を
称える記念碑 (1932建造)

カルモンシス、ホメロス、ダンテと古典詩人と
比較される偉大な詩人だが 

これから訪ねるロカ岬にある碑に
「ここに地果て海始まる」と

刻まれている。

 

                       

 

なお オビドスは ユネスコの
クリエイティーズネットワーク
(*ユネスコ創造都市ネットワーク・2004年創設)
文学の分野で認められている(2015年)。

 

*目的は「文学、映画、音楽、芸術などの
分野において、都市間でパートナーシップを
結び相互に経験・知識の共有を図り
またその国際的なネットワークを活用して
国内・国際市場における文化的産物の普及を促進し
文化産業の強化による都市の活性化及び
文化多様性への理解増進を図る。」

またその態様は世界遺産等とは異なり
条約に基づくものではなく
ユネスコが主体として実施する一事業としている。

 


ポルトガル紀行128 オビドス2 ポルタ・ダ・ヴィラ門  

2019-07-25 | ポルトガル紀行

 

 

城門は現在6つあるが その一つ南側

ポルタ・ダ・ヴィラ門から城内に入る。

この城門は1380年に

ムーア人によって建造されているが

敵の侵入を防ぐためクランク型の構造になっている。


その城門内の上部には 

キリストの受難を題材にした

18世紀のアズレージョ(タイル装飾)が

見られるのだが生憎 

工事中でみられなかった。

 

   (Web資料から)


ポルトガル紀行127 オビドス1 

2019-07-24 | ポルトガル紀行

 

 

 

カルダス・ダ・ライーニャから約15分
リスボンの北約80kmに位置し
城壁に囲まれた小さな村 オビドスへ

 

葡萄畑の丘に延びる城壁の内に
人口800人ほどの小さな町は
白壁の家や石畳の路地が中世の雰囲気を漂わせ

「谷間の真珠」とか
「中世の箱庭」とも呼ばれている。

町の歴史は紀元前300年ごろ
ケルト人が建設した街で
ローマ時代に侵入を防御するための
砦が建設され 町の体裁が整った。


後にムーア人に支配されたが

1148年にアフォンソ・エンリケス
(アフォンソ1世)が奪回し

白壁が美しい家並みに再建された。


1288年にポルトガル王ディニス1世と
王妃イサベル(聖エリザベト皇后)は

新婚旅行でこのオビドスを訪れたが
王妃は落ち着いた雰囲気の町を大いに気に入る。

そこで 王はオビドスを王妃に
婚礼祝いとしてプレゼントし

以後 オビドスは1282~1833年まで
約550年間 代々の皇后の直轄地となり
「王妃の村」とされた。

しかし 1755年の大地震で大きな被害を受けたが
城壁内に6、城壁外に4つの教会が再建された。

 

今は 中世の面影を残す小さな観光地として
ポルトガル観光の人気スポットになっている。

 

 


ポルトガル紀行126 カルダス・ダ・ライーニャ5 

2019-07-23 | ポルトガル紀行

  

    ツバメ かぼちゃ タコ 魚などが並ぶ 街のショーウンドウ

  

カルダス・ダ・ライーニャの街は
陶器でも有名であることは

先に触れたが

平皿、ボウル、マグカップ、
蓋付きスープ皿などの日常的なものと

装飾用の陶器の2種類がある。

この店のショーウインドーには
 装飾としての作品が売られている。

 

何故この街かは

19世紀のポルトガルで文化・政治・芸術の
各分野で多大な影響力を与えた
ラファエル・ボルダロ・ピニェイロ(1846-1905)が
1884年38歳のとき この街に陶磁器工場を設立し、
この地域の伝統的な製法を用いた陶磁器の
製造をスタートさせたことによる。


そして動植物にインスピレーションを
受けた独創的な作品が生み出され

飾り用の陶器の他、日常的に
利用できる食器も製造された。

現在ではポルトガルを代表する陶磁器メーカーになり
今でもかなりの製造工程を職人の手作業で行っている。

                       

    カタツムリ(観光案内所前)

 

    巡査(観光案内所内)

 

 


ポルトガル紀行125 カルダス・ダ・ライーニャ4 ドンカルロス1世公園    

2019-07-22 | ポルトガル紀行

 

  

  西北の入口から 鉱泉病院側入口方向をみる

 

鉱泉病院付属の公園だった
ドンカルロス1世公園

園内には、カルダス出身の画家ジョゼ=マリョアの
作品を所蔵する美術館

陶芸作家ラファエル・ボルダロ・ピネイロの
陶器博物館と工場がある。

3階建ての陶器博物館は 
19世紀に建てられた貴族の
邸宅を改装したもの

この土地で作られた陶器を
中心に年代別に展示され 

2階にはボルダロ・ピネイロの
作品を集めた辺あっている。

園内には他に音楽堂 テニスコートがある。

また かつて図書館であった建物
窓が割れているところ見ると

現在は廃墟状態であるが 
独特な雰囲気を漂わせている。

*カルロス1世(1863-1908)は
ポルトガル国王(在位:1889- 1908)。

暗殺されたことから「殉難王」と呼ばれる。

                       

  鉱泉病院側入り口 建物は元図書館

 

 

 


ポルトガル紀行124 カルダス・ダ・ライーニャ3 鉱泉病院    

2019-07-21 | ポルトガル紀行

 

   鉱泉病院

 

レプリカ広場から南に

鉱泉病院(Hospital Termal)がある。



前回触れたが「王妃の湯治場」という名のとおり


ジョアン2世の王妃レオレールが設立した病院


王妃は 鉱泉病院を建てるよう命じ


1485年に建設が始められた。

最初の患者は1488年に入ることが許されたが

1496年か1497年頃まで建設は続いた。

 

その病院が現在も診療している。

病院裏には病院博物館があり 

病院の成り立ちや町の歴史に

関する資料が展示されている。

 


ポルトガル紀行123 カルダス・ダ・ライーニャ2 レププリカ広場   

2019-07-20 | ポルトガル紀行

 レププリカ広場 (共和国広場 - 中心部の公共の広場)

 

 

 右端赤丸のレオノール王妃像から
 赤枠のレププリカ広場へ

 

カルダス・ダ・ライーニャの見学は
ポルトガル市民の生活の一片を見る。

 

レププリカ広場は 果物広場という通称を持ち
毎日近隣の農家が農産品を売る市場が開かれる。

花、野菜、果物、チーズ、
ドライフルーツなど色々と並ぶ

観光客を相手にしているのではなく
地元住人に向け
日々の生活の市場ということで

日本変わらない雰囲気でした。

 

 ナッツ類

 

変わった根菜 ピーナッツカボチャ?

 

“とちおとめ”にも負けない大きさと甘さながら
日本の半値!

 

 

 


ポルトガル紀行122 カルダス・ダ・ライーニャ1   

2019-07-19 | ポルトガル紀行

  

  レオノール王妃像

 

ツアー5日目

ナザレから南約33km

温泉と陶磁器で有名な町 
カルダス・ダ・ライーニャへ

 

カルダス・ダ・ライーニャは
「王妃の温泉」という意味。


むかし、王妃が ここの温泉に入り
悪いところが 治ったことが 

名前の由来になっている。

カルダス・ダ・ライーニャは
ポルトガル王妃
レオノール・デ・ヴィゼウによって創られた。


1484年のある日
オビドスからバターリャへ
旅行中であった王妃は

道のそばにある異臭のする水に
入浴する農民の一団と出会った。


この変わった行動について
尋ねようと王妃は足を止め

農民らは水に病を癒す力があることを聞く。

王妃自ら水につかってみると
患っていた痛みからすぐに
解放されたのが分かった。


そして この地に
王妃は自分が感じたような
癒しを誰もが体験できるよう

温泉病院を建てるよう命じた。

王妃の温泉周辺の定住地が拡大し
やがて温泉と同名の
カルダス・ダ・ライーニャと
名乗るようになった。


1511年 公式に
カルダス・ダ・ライーニャは町となり

1927年には市になっている。

また、第二次世界大戦中には
ナチスによる迫害を逃れた多くの
外国人の避難場所
にもなった。

 

 


ポルトガル紀行121 ナザレ8 イワシの塩焼き 

2019-07-18 | ポルトガル紀行




        Restaurante Sao Miguel

 

 

       崖先端の砦に赤い灯台がたつ

 

今宵の夕食は 

ナザレ・プライヤ地区 

白砂が続く海岸の先に建つ


要塞 灯台のある

サン・ミュゲル砦の名を屋号にした

サン・ミュゲル(Restaurante Sao Miguel)

 

                        

  

ポルトガル名物イワシの塩焼き 

サルディーニャシュ・アサーダジュの一人前

あら塩をまぶしこんがりと炭火で焼いたもの。


皮をはぎ ぷっくり焼けた身だけを

パンやポテトに乗せて味あう。


イベリア半島の対岸 
モロッコ・エッサウイラでも
イワシの塩焼き味あったが

皮を剥ぐことをしなかったので
こちらのほうがおいしかった。

 


ポルトガル紀行120 ナザレ7 大波とサーフイン 

2019-07-17 | ポルトガル紀行

 

岬には灯りが見える

ここには「サーフと波の博物館」がある。

  

ここナザレはもう一つ

世界的に有名にしているものがある。  

30mを超す高波が押し寄せることで

世界からサーファーたちが

その高波に挑戦をしに押し寄せている地として。


2017年11月 

ブラジルの ロドリゴ・コウシャが

24.38mのビッグ・ママの波に乗り

記録を更新しギネス記録を塗り替えている。 


以前は 2011年 同じくナザレでの

23.77mであった。

 

夕日が沈むナザレ 

鏡とも思えるような海 

今日の一日を終えようとしている。

 

そんな高い波が 

ここに押し寄せるなんて想像もつかない。

   

     
       津波のような大波 (Web資料から)

 

 

何故このような高い波ができるのか?

ナザレの沖合に

高さ5km 長さは230kmに達する

世界でも有数の海底山脈(海溝とも?)があり

その山脈の波は速く 

北側の海の波はややゆっくりで

その波がナザレ近くで合流すると

高い波が発生するという。



6mを超えると “ビッグウェーブ”

モンスター級の波は “ビッグ・ママ” と呼ぶそうで


その高さはビルの 8~9階にも相当する。