あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

モロッコ紀行 63 タンネリ

2017-01-31 | モロッコ紀行

 

  

我々は サファリーン広場から
 左の道をフエズ川方面へ

案内されたのは フランス語で「タンネリ」

現地語では「スーク・ダッバーギ-ン」
皮なめし職人街である。

14世紀から続く 
昔ながらの染色の作業現場が
見られるというので
革製品の店の屋上へ案内される。

右奥には 丸い大きな染色桶が
いくつも並べられている。

その上にまたがり職人たちが
一生懸命に革染めの作業している。

革の素材は 牛や羊 ラクダなど
革を染める色には
黄色は サフラン
黒は アンチモニー
赤は ポピー
 青は インディゴ
 茶は ザクロなどで自然のものを使い
染めて
天日干しにするのだそうだ。

また 手前の四角の桶は 石灰液で
 皮についている毛をはがすためのもの由。



 

店の外のフエズ川では 
洗浄作業が行われていた。 

 

 

 


モロッコ紀行 62 サファリーン広場

2017-01-30 | モロッコ紀行

 

 

狭い路地から 空が仰げる サファリーン広場に出た

広場は 階段状の三角形の中庭程度で

周りは 金属の工房や商店が 集まっている場所。

別名「鍛冶屋の広場」とも言われている

たたきだし鍋を造る音が 広場内に響き渡っている。

左手には 先ほど見てきたカラウィン・モスクの裏手で

内部は 先ほどの入口でしか見れないようだ。

この広場は 観光ポイントの

目印の地点になっていて

モスクを背に 左へはフエズ川方面

右へはバス停もあるルシーフ広場へ通じている。

 

 


モロッコ紀行 61 メディナ

2017-01-29 | モロッコ紀行

 

メディナには 必ずあるのが 6つの建物

これらなくして モロッコ人の生活は
成り立たないという。

それは
 

1 モスク
  イスラム教の礼拝所 
  街はここを中心につくられている。


2 マドラサ
   モスクに併設されてある学校

  


3 泉(水の飲み場)
  水道は普及しているが 
  未だに家庭用の水くみ場として使われている。
  それにしてもただの水の飲み場なのに 
  王宮並みのゼリージュが施されている。

 


4 ハマム

  イスラム式の公衆浴場 
  女性たちの社交の場所にもなっている。

  スチームパスで暖まった後
  アカスリとマッサージが施される。
  韓国式のアカスリ?かな
  しかし 風呂用のグッズや アメニティなどは
  持参しなければならない。

 

5 床屋

  ハマムと同様に 身だしなみを整えるために必要
  おしゃれなモロッコ人は 頻繁に行くそうだ。

  しかし おしゃれでと綺麗づきとは違うのか
  この店は 清潔そうには見えませんでした。

 
6 パン焼き屋

 生地は 自分の家でこね 
   パン焼き屋で 焼いてもらうのが

 モロッコの昔からの スタイルだそうだ。



 

 加えて
  メデイア内のビルに
  各国語で「あなたフェズにある笑顔」と
 フェズ帽子を被ったスマイル顔が迎えている。

  メデイア内では 笑顔でゆっくり買い物等を
 楽しんでほしいと 
“おもてなし” の
 メッセージなのかもしれない。

 


モロッコ紀行 60 カラウィン・モスク

2017-01-28 | モロッコ紀行

 

 

こちらは「カラウィン・モスク」


859年に礼拝堂として建てられた
フェズ最大のモスク。


教育機関としても有名であり
世界最古の大学とも言われ

アラブ諸国から多くの留学生が集まったそうだ。

また アラビア数学の発祥の地とも言われ
ヨーロッパに伝えられたという。

今も収容人数2千人の大学として登録されている。

回教徒以外の入場は 一切禁じられているので
門から望むだけだが

中庭にアルハンブラ宮殿のパティオを
模した大理石の噴水が見える。

 


モロッコ紀行 59 ファティマの手

2017-01-27 | モロッコ紀行

 

 

彫金の店に案内される。

その店の商品棚に
”人の手”の形したものが気にかかった。 

「ファティマの手」というそうだ。

「ファティマ」とは
イスラム教の開祖である
預言者ムハンマドの4女の名前で

彼女は 誠実で慈悲深く 
常に貧しい人を思いやり
病気をわずらう人の手当を
すすんで行っていたことから
イスラム世界では理想の女性像とされている。

そのファティマの手をかたどったものは
モロッコでは” 幸運のシンボル” として
邪悪なものから身を守り
救いの手が差し伸べられると
信じられているので
ドアのノックや 壁掛け
ペンダントやキーホルダーなどの
アクセサリーに用いられているのだそうだ。

我が右手をじっと見てみたが・・・

 

 


モロッコ紀行 58 サヴィア・ムーレイ・イドレス2世の廟

2017-01-26 | モロッコ紀行

 

 

こちらも 入口から覗くだけだが
8世紀の初め フェズのメディナを建設した
「サヴィア・ムーレイ・イドレス2世の廟」。
サヴィアとは 修道院のこと。

今でも民衆から フェズの守護聖人として
篤い信仰を集めているそうだ。


しかし かつては ここに逃げ込んできた
ムスリム(イスラム教徒)は

犯罪者でも 保護されたという
いわゆる 駆け込み寺 だったそうだ。



モロッコ紀行 57 ネジャーリン広場

2017-01-25 | モロッコ紀行

 

 

メディアで一番の繁華街としての
「ネジャーリン広場」へ

広場と言えども中庭程度だが 
ネジャーリンとは 大工を意味する言葉。

周辺には大工の仕事場が多くある。

また 左手奥の入口は 
18世紀に作られ「ネジャーリン・フンドトゥーク」
(フンドトゥークは 宿 の意味)とよばれ
当時は 高級ホテルとして 
一階は厩 二階は宿泊施設になっていた建物。


今は「ネジャーリン木工博物館」になっている。 

広場の中央には 
鮮やかで精細な模様のゼリージュの水汲み場もあった。


また 豪華な飾りつけの結婚式の調度品が
大工横丁にあった。

 


モロッコ紀行 56  神学校

2017-01-24 | モロッコ紀行

 

 

ブー・ジュルード門から路地を通って
市街地の中にある
「ブー・イナニア・マドラサ(神学校)」へ。


14世紀にブー・イナニア王によって
建てられたマリーン朝の最大の神学校で
選抜された生徒が コーランを学んだそうだ。

門から入ると 建物に囲まれた
中庭方式になっていて 
壁にはイスラムの装飾が施されている。

床には大理石が敷かれ 
建物内の床はタイル 
木製の幾何学的飾り壁が多用されている。



また 中庭中央には水盤が置かれているが
生達が祈りの前に
身を清めるものとして使われていた。

説明では 祈り(サラート)の前 
手 口 鼻 顔に 各3回 
頭 耳 左右の足に 各1回 清めたそうだ。

建物の2階は寄宿舎として
使われた小部屋があるという。


 

 

 


新島 襄

2017-01-23 | 人物忌

 

学士会館脇にある記念碑

 

1月23日 宗教家 教育者
新島 襄 が亡くなっている。

1843(天保14)年-1890(明治23)年 享年46歳

 同志社英学校(後の同志社大学)の創立者と知られるが
現在の学士会館付近(千代田区・神田錦町)で誕生している。

 蘭学を修めたが
1864(元治元)年 脱藩し密航により米国に渡る。

米国で洗礼を受けアーモスト大学を卒業した。

明治維新の後 岩倉具視遣外使節に随行し
各国の教育制度を調査し

帰国後は 京都を拠点に伝道活動に励み
1875(明治8)年同志社英学校
2年後には 同志社女学校を創立した。

しかし 1890(明治23)年 志半ばで亡くなった。

ここらの経緯は 
187年(明治9)年 新島襄と結婚した
妻・
八重の生涯(1845-1932年)として
2013年 NHKの大河ドラマ「八重の桜」で
放映されていた。
 

 

 

 


モロッコ紀行 55 職人の街

2017-01-22 | モロッコ紀行

 

 一方 メディナ内は 職人の街でもある。

 古くから都として栄えてきたのは
 このような職人が活躍していることにあるようだ。

 

◎ 刺繍
 フェズ刺繍は 伝統的に女性の仕事。
 図柄は 頭に入っているとのこと。

  

◎ 打ちだし鍋

  一枚の銅板から たたき出して作る鍋。

 

 

◎ タイル職人

 飾り盤石かと思ったら 墓石だそうで

 コーランの一節を彫っている。

 

◎ 指物職人

 

◎ 織物

 モロッコの織物工房では 女性の進出はまだまだで
 男性の職場のようだ。

 

  

◎ 靴(バブーシュ)

 かかとを踏んみつぶしている独特のデザインは
 イスラムの祈りのとき 靴を脱ぐ際に便利だという。

 

 メディア内には 
その他 熟練の手捌きを必要とする 工房が幾つもあった

 

 


モロッコ紀行 54 路地の食材店

2017-01-21 | モロッコ紀行

 

 

 





















狭い路地に 肉 野菜など
生鮮食品を扱う店が所狭しと軒を連ね
取り扱う食品等が山のようだ。

これだけの品物を扱う店も複数ある。

果たして その日に 捌けるのだろうか?
冷蔵庫や貯蔵庫の設備は 十分なのか?
さらに豊洲市場ではないが 衛生管理は?

など 余計な心配をしてしまうほどだ。


◎ 肉屋

 

 部位そのままが店頭に並ぶ

 

◎ 鳥肉屋

 

 まさか生きたまま売らないだろ?

 

◎ 八百屋

 

 
果実屋

 


 ◎
魚屋

 

 フェズは海からは大分奥まっているが

 魚も並べられている。

 

 


モロッコ紀行 53 路地とロバ

2017-01-20 | モロッコ紀行

 

 

メディナの中へ一歩足を踏み入れると 
路地の両側にずらりと店が並ぶ。

 

 先に進むに 路地は狭くなっていく。

 

建物と建物の隙間!

こんな細い路地もあり まさに世界一の迷路が続く。

 路地で 遊んだ 子供のころ思い起こした。

 

 

 

メディナ内は 広い道はなく
狭い路地が幾筋も織りなすばかりで
車が入れる余地はない。

よって 荷物の運搬は 
もっぱら ロバが頼りとなって
重要な宅配便の手段になっている。

ロバは 荷物の重さにも耐え
愚痴さえ言えず 黙々と
自分の仕事をこなしている。

こんな狭い通路 人が通るだけで大変なところに
両脇に荷物を背負ったロバともすれ違い
通り過ぎるのを待たねばならない。

それにしても 
ロバも生き物 生理現象もあって
ところどころに置き土産があって
周囲だけでなく足元にも注意を・・・。

 

 


勝 海舟

2017-01-19 | 人物忌

 

 

1月19日 幕臣・政治家の 
勝 海舟 が亡くなっている。

 1823(文政6)年-1899(明治32)年 享年76歳

 

勝 海舟は 1823(文政6)年
本所(墨田区・両国公園内)で生まれ

1846(弘化4)年に 赤坂田町に引越するまで住んだ。

その間 蘭学を学び 
1850(嘉永3)年に田町で蘭学塾を開く。


その後 ペリー来航により
 幕府が広く意見を求めたことに 

海舟の意見書が取り立てられる。

 


 
幕臣として活躍中 
安政6年に氷川下(港区赤坂)に引っ越している。


この間 咸臨丸でアメリカへ
 渡米中に桜田門外の変が起きている。


1862(文久2)年には
坂本龍馬は 刺殺しようと訪ねてきたが
逆に説得され
即 門下生となってしまった。

慶応4年には 西郷隆盛と
江戸城無血開城の談判をしている。

1868(明治元)年 徳川慶喜に
従って静岡へ移り住み

1872(明治5)年 再び東京に戻った。

明治政府にも重用され
参謀兼海軍卿・元老院議官など務め
伯爵となっている。

 先日 坂本龍馬が暗殺される
5日前の手紙が発見され

その中に「新国家」なる言葉が記されていると
 ニュースになっていたが

 海舟を刺殺しようとした龍馬が
 翻意し 弟子入りしてしまうほど

 海舟の見識が のちの龍馬に影響を与え
 その言葉になったのではと思うが・・・。

 

 

 


モロッコ紀行 52 ブージュルード門 

2017-01-18 | モロッコ紀行

 

 

 

陶器工房の見学終え 
メディナの入り口 
フェズ最大の「ブージュルード門」へ。

古い門と思ったが
1913年に建造されている。 
アーチの間から2つのミナレットが見え
右はシディ・ルッザース・モスク。
左がブー・イナニア・マドラサ。


この門から延びている道はタラー・セギーラ
これと垂直に交わる道をタラー・ケビーラという。

この門を起点とし 2つの道を目印に覚えておけば
世界一の迷路にはまっても 何とか惑わずすむという・・・。

そうは言われても 狭き路地 方向も言葉も分からない。 

しっかり前の仲間の背を頼りに行きましょう。

門を入って振り返って見ると
模様デザインは同じでも緑色に違っていた。

 


モロッコ紀行 51 ゼリージュの制作

2017-01-17 | モロッコ紀行

 

 

四角いタイルに 各パーツの形を写し取り
写し取ったパーツの形に合わせて
タイルを手作業で
決められた形に細かく砕いていく。

こんな大きな金づちで
指先ほどの小さなピースにする作業
正に職人技だ。

 砕いたタイルのピースを 
隙間なく一つ一つ色と模様を
確認しながら並べていくのだが

作品の大きさによっては
気の遠くなるような作業だ。

並べ終えると 裏面に
セメントと砂を混ぜた粉を上から振りかけて

水をかけてセメントを固める。

乾いたところで裏返せば
ゼリージュが完成する。