あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

ポーランド・ワルシャワ 10 聖母教会

2018-04-30 | ポーランド紀行

 

 

聖ヤン教会の隣に 

洗練された外観の「聖母教会」がある。


イエズス会教会とも聖母教会とも呼ばれ

17世紀初めに出来た教会
だが 

第二次大戦で破壊され 

戦後に再建されたため見かけは新しい。

 

 

 

教会の扉の浮き出た女神とクマの彫刻が印象的だ。

何故 教会にクマ?

昔 大男で強かったが容姿が醜い貴族がいた。

彼は 心根が優しく人々から “クマ大公”と 呼ばれ慕われていた。

ある日 教会のミサに来る女性に一目惚れをしてしまったが、   

しかし 気が弱くて言い出せず 遠くから女性を見つめるだけだった。

その“クマ大公”は、教会で結婚式を挙げるその女性を偶然に見てしまい

そして絶望のあまり ”石” になってしまった。

という逸話からのようだ。

 

 

 

 

 


ポーランド・ワルシャワ 9 洗礼者ヨハネ大聖堂

2018-04-29 | ポーランド紀行

 

 

王宮広場から旧市街広場に向かう途中に

14世紀に建てられた「洗礼者ヨハネ大聖堂」がある。

ワルシャワで最も古い教会で、

レンガ造りのファザードが印象的だが

この大聖堂もワルシャワ歴史地区の他の建造物同様、

第二次世界大戦中にナチス・ドイツ軍によって破壊された。


現在の建物は、大戦後ネオ・ゴシック様式で再建されている。

 

歴史的には、歴代の王の戴冠式や

1791年5月3日に採択された

ヨーロッパ初の成文国民憲法

「5月3日憲法」の発布式が行われた場所でもある、


この憲法は、世界でも米国憲法に

次ぐ2番目のものとして知られているが

日本憲法とも同じ日ですね。

また、ポーランド王国最後の王スタニスワフ2世アウグストや

ポーランドの著名な歴史人も埋葬されており、

国内において重要な場所の一つにもなって

国家的行事が数多く執り行われてきている。

 

 

 


ポーランド・ワルシャワ 8 旧王宮

2018-04-28 | ポーランド紀行

 

 



13世紀に公爵の城郭として建設された王宮は、
1526年以後は ポーランド国王の居城となり、
ポーランドの首都を
クラクフからワルシャワへ遷してからは、
立法と行政機関が置かれた。

18世紀には、絢爛豪華な内装も施され、
ワルシャワの誇りであり 歴史そのものであった。

しかし、1939~44年に
ナチス・ドイツによる攻撃で 灰燼と帰してしまった。

長く廃棄されたままだった旧王宮は、
共産主義政権下では 再建を許されず

修復が決まったのは 1971年で、
その廃墟に残った建物の欠片を
使って1988年に復元した。

戦禍に遭う前に 家具調度品や宝物は
国外に持ち出されていて 無事で、

建物の復元完成により運び込まれ、
現在は 博物館として開放されている。

ワルシャワの歴史を伝える象徴的建造物といえる。

 

 


ポーランド・ワルシャワ 7 石柱

2018-04-27 | ポーランド紀行

 

 

前回 王宮広場のジグムント3世の碑を話題にしたが

その高さ22mの石柱について触れてみる。
Web資料によれば
現在の石柱は三代目のものだそうだ。

それ以前の初代と二代目の石柱は 
王宮広場の東側にある旧王宮の脇に展示されている。

最初の石柱は建立から240年余り経って
老朽化が激しくなったため

1887年に建て替えられた。

 二代目は、第二次大戦中の1944年、
ドイツ占領下で ワルシャワ市民が2ヶ月に亘って

最後の抵抗を試みた”ワルシャワ蜂起”の際、
ドイツ軍によって爆破されてしまった。


こうした中、戦後 1949年に
三代目 現在の石柱として再建された。

このようにポーランドでは 
過去に破壊された残骸でも歴史遺産として残している。

不屈の精神の一端が見られる。

 

(googleから) 

 

 


ポーランド・ワルシャワ 6 ジグムントン3世像

2018-04-26 | ポーランド紀行

 

 

ワルシャワ観光の第一歩は 
ワルシャワのラウンドマーク王宮広場から。

 その広場の中心に、高さ 22 m の柱状の記念碑が建っている。

16 世紀のポーランド国王ジグムントン3世のモニュメントで
クラクフからワルシャワに遷都した
ジグムントン3世を称えて建てられた。

高い柱の上、十字架と剣を持ち、
宮広場を見下ろすように立つ高さ 3 m の像は、
奇跡的に戦禍を逃れたが、剣だけは新調された。


 

 

  台座には 4 羽のワシが見張り、銘板はラテン語が。

 

 


ポーランド・ワルシャワ 5 ヴィスワ川

2018-04-25 | ポーランド紀行

 

ワルシャワの歴史でも触れた

ワルシャワの真中を流れる

「ヴィスワ川」は、ポーランドで最長の川。


全長は1,047km、

流域面積はポーランド国土の60%以上におよぶ。


ポーランド南部のペスキディ山脈の

標高1,106m地点に源を発し、


ポーランド国内を大きく蛇行しながら

北へ流れ、バルト海へと注ぐ。

ヴィスワの名前は、紀元前77年に記された

大プリニウスの「博物誌」にも登場する。


古くはラテン語で「ウィストゥラ川 」など、


ポーランド語で「ヴァンダルス川」などと呼ばれていた。


大都市の発展の条件にはやはり”水”が必須 
つまり”川”が大きく貢献している。

 

 


ポーランド・ワルシャワ 4 ワルシャワの歴史

2018-04-24 | ポーランド紀行

 

 旧市街広場の人魚像

 

  ワルシャワの歴史は
13世紀頃にヴィスワ川のほとりにできた
小さな村落から始まった。


14世紀初め都市としての権限を与えられ
水路の要衝にある町として急速に存在価値が高まってゆく。


14世紀末になると現在の旧市街にあたる
市街地を取り囲むように防壁が建設され

15~16世紀には旧市街の北端に
バロック様式の砦「バルバカン」が建造されている。


1596年には国王ジグムント3世(1566-1632)が
ポーランドの首都をクラクフからワルシャワへ遷都した。


その居城となった王宮は 16~17世紀を中心に
増改築が行われ  さらに18世紀後半には
最後のポーランド王スタニスワフ・ポニャトフスキ(1732- 1798)
によって豪華絢爛な室内装飾が施された。


14~19世紀にかけてゴシック様式から
新古典主義様式にいたる歴史的建造物が
多く建設されたワルシャワは、
その美しさから「北のパリ」とも称されている。

因みに「ワルシャワ」の語源は

 その昔、ヴィスワ川添いに
貧しい漁師が住み毎日漁に精を出した。

ある朝 漁師は網にかかった人魚を生け捕りにすると
下半身は魚だが、上半身は女性だった。

驚いた漁師は人魚を家に持ち帰ったが
人魚に川に返して欲しいと懇願され
結局 ヴィスワ川に帰した。


それ以降 漁師の家のそばにひとが住むようになり
魚が売れるようになり 漁師は裕福になった。

その漁師夫妻の名前が
ワルス Wars とサワ Zawaだったので
これがワルシャワの始まりという。

 

 ワルシャワの紋章


ポーランド・ワルシャワ 3 ワルシャワ

2018-04-23 | ポーランド紀行

 

 ワルシャワ歴史地区



ワルシャワの観光の中心部
「ワルシャワ歴史地区」は
1980年に世界遺産に登録された。

この登録に際し 数多ある世界遺産の中でも
極めて例外的な存在で
街自体が持つ歴史的価値ではなく
第二次世界大戦中 灰燼に帰した街並を
「レンガのひび割れ一つに至るまで」忠実に蘇らせた
ワルシャワ市民の“不屈の熱意”が
評価されて登録に決まったという。

その歴史的地区は おおよそ4地区に分けられる。
 ●「王の道」(ヴィスワ川と並行)
  南部のヴィラヌフ宮殿 ワジェンキ水上宮殿公園、
新世界通り 北部の王宮前広場をつなぐ
ワルシャワ歴史地区の中心となる通り。

 大統領宮殿 ワルシャワ大学
美しい教会などが並び 街の一番代表的な通り。


●「中心市街地」(地図左下部)
 18世紀以降に開発された最も新しい地区で
戦前からのオフィス街とユダヤ人街が 大きな割合を占めている。

「ワルシャワ・ゲットー」があったのも この地区。 
 現在は「ワルシャワ中央駅」「文化科学宮殿」などの
大型施設や高僧ビルが立ち並ぶエリアになっている。

●「新市街地」(地図最上部)
 15世紀に旧市街北の城壁を取り払って拡げられた地区。
 新市街広場には キュリー夫人の博物館などがある。

●「旧市街」(地図上部)

 ワルシャワ観光の中心となる。

 なお「新市街地」は
中世の「旧市街地」と比べて「新しい」の意味。

ワルシャワはポーランドの首都であり、
人口約
172万人、総面積約515平方km
ポーランド最大の都市。

 

    

 


ポーランド・ワルシャワ 2 ポーランドの歴史

2018-04-22 | ポーランド紀行

 

                                                              ワルシャワ・王宮広場

 

ポーランドの歴史 資料によれば

建国されたのは 10世紀で 14世紀から始まった
ヤギェウォ王朝時代には欧州の大国として繁栄し
16世紀には国土が最大となった。


しかし 選挙王制に移行すると
地方の貴族が勢力を持つようになり
徐々に国力が低下していった。

18世紀後半には、
隣接のロシア プロシア
オーストリアの三国に分割され

1795年から 1918年に独立するまでの123年間
ポーランドの領土は 世界地図から消えている。

第一次世界大戦後 ポーランドは独立を回復したが
第二次世界大戦では再び
ナチス・ドイツとソ連によって分割されてしまった。


終戦後 ポーランドは再度独立を果たしたが
大戦を経てソ連の影響下に組み込まれていき
1947年に行われた選挙で共産勢力が大勝し
社会主義国になった。

このため 1950年代以降のポーランド国内では
暴動や民主化運動が各地で頻繁に起こる。

1980年には社会主義圏では初めての
労働者による自主的かつ全国規模の
労働組合「連帯」が結成されたが

翌年戒厳令が敷かれると
「連帯」は地下活動となってしまった。


その後しばらくは厳しい時代が続くが
民主化への流れは止められず
1989年の円卓会議を経て
平和裏に体制転換を達成した。

これにより 旧ソ連圏で初めての
「非社会主義政権」が誕生した。


その後 「欧州への回帰」を目指し
1999年にNATO加盟  2004年にはEU加盟と
短期間で欧州への復帰を果たした。


 


ポーランド・ワルシャワ 1 ポーランド

2018-04-21 | ポーランド紀行

 

 

前々からいつかは
ポーランドへ行ってみたいと思っていた。

そのポーランドを訪れる機会ができた。

先ずは 首都ワルシャワへ 

“ポーランド” とは「平原の国」という意味で 
国土は 南部の一部を除いて
ほとんどが 広大な平野になっている。

現在のポーランドの概要は

正式国名は ポーランド共和国(Rzeczpospolita Polska)

面積:約32万2575km2(日本の5分の4)

人口:約3843万3000人(2016年12月)

政体:共和制(2004年5月からEUに加盟)

民族構成:ポーランド人93.5%、
そのほかドイツ系、ベラルーシ系、ウクライナ系など。


宗教:ローマ・カトリック87.5%、
ほかにポーランド正教会(東方正教会) 、プロテスタントなど

国旗の由来は 建国者レヒが
夕日を背景に飛ぶ白鷺を見て旗にしたとされる。


しかし 19世紀の独立運動の中では、
白は共和国の尊厳を、
赤は自由を表すものと意味が変わり 現在に至っている。
1980年までに濃く明るい赤色に改訂された。

余談だが 旗の色は白地に赤く 
色具合は日本の旗にも似ているが

この旗を上下を逆にすると
インドネシアの国旗とモナコの国旗になるが
縦横比は異なると。

 

 


リトアニア・カウナス 49 バスケットボール

2018-04-18 | バルト三国紀行

 

 

リトアニアで 忘れてならないのが
最も人気のあるスポーツ
国技 “バスケットボール”。


男子の半分は
バスケットボール選手になる夢を抱き、

成人男性の3分の1は、
趣味としてバスケットボールをしているそうだ。


特に、ここカウナス市には 
70年間ほど続く名門チーム
「ジャリギリス」あることから
バスケットボールの首都ともいわれている。

また 2011年バルト三国で最大の
17500人収容のアリーナがオープンして
年間100回以上の試合が行われているという。


リトアニアでバスケットボールが人気のある理由は、

・リトアニアチームが1937年、1939年、2003年の
3回にわたってヨーロッパチャンピオンになった。
世界ランキングでもアメリカ スペインに次いで第3位。


・カウナス市の「ジャリギリス」男子チームが
1999年にユーロリーグのチャンピオンになった。
  また主力選手がカウナスの出身。

・リトアニア人選手が
NBA(北米のプロバスケットボールリーグ)
プレーヤーとして活躍している。

 

* * * * * * * * * * *

今回で「フィンランド・バルト三国紀行」は 終了いたします。

ご覧いただきありがとうございました。

 


リトアニア・カウナス 48 ネマン川

2018-04-17 | バルト三国紀行

 

 

カウナス中央駅から西南  

独特な形の鉄橋が架かっている

「ネマン川」を見る。


リトアニアの人は

ネマン川を「父なる川」と呼んでいるが、

その長さは937kmで、欧州第14番目に長く、

ベラルーシから459km、リトアニア国内を359km、


その先116kmを流れてバルト海に注いでいる。


深さは最大で5m、川幅は最大500mと

ゆったりと流れている。

また カウナスは、

二つの川が合流することから


「結婚の象徴」「結婚の街」とも言われている。



 

 


リトアニア・カウナス 47 カウナス中央駅

2018-04-16 | バルト三国紀行

 

 

   駅構内の表示板

       ワルシャワ 469km     ヴィリニュス 104km
       ベルリン  1056km     リガ    244km

       アムステルダム 1576km   タリン   620km

       ロッテダム 1613km     ヘルシンキ 700km

       ブリッセル 1688km

 

 

「LIERUVOS GELEZINKELIAI」(リトアニア鉄道)と国章が見える。

リトアニア鉄道は、
国有の鉄道会社(本社・ヴィリニュス)。

1860年に最初の路線が開通し、
今の会社は1919年に開業し、 

リトアニア国内全ての路線の運行を行っている。

 幹線は1749 kmの広軌で、
うち122 kmが電化されており、

 同様に22 kmが標準軌。

 


リトアニア・カウナス 46 杉原千畝 5 名誉回復

2018-04-15 | バルト三国紀行

 

 

1991(平3)年 バルト三国と
51年ぶりに国交樹立にあたって

鈴木宗男代議士(当時・外務政務次官)が
杉原氏の名誉を回復と外務省が謝罪すべきと奔走し

人道的かつ勇気ある判断を高く評価、
杉原家に謝罪し名誉回復をおこなった。

外交官としての名誉回復は、
実に44年後になっていた。

 

しかし すでに杉原氏は 
1986(昭61)年7月31日86歳で逝去されて

本人へ直接伝えることができなかった。

 

 

        

 外務省の「外交史料館」には

「勇気ある人道的行為を行った外交官
 杉原千畝氏を讃えて」

 (2000年10月10日)の顕彰プレートと
 杉原氏の関係資料が展示されている。

 

    (写真はAbs朝日「昭和偉人伝」から)

 


リトアニア・カウナス 45 杉原千畝 4 ヤド・バシェム賞 

2018-04-14 | バルト三国紀行

 

 


 

 杉原氏は 1947(昭22)年 帰国し、
外務省を追われるように退職し、

その後は 民間会社に勤めるなどし、
ひっそりと余生を送っていた。 

 “チウネ” の名前は外国人にとって
発音しずらいと思い
自らを “センポ” と名乗っていたという。


戦後 そのため難を逃れ、
生き延びたユダヤ人難民たちが、

命の恩人「センポ」さんを、
日本で探し出そうと試みたが、

“センポ”に該当する者はいないと
外務省は回答していたため、

長年見つけ出せなかったという。

しかし1964(昭39)年 イスラエル・宗教大臣
(この人も“命のビザ”の発給を受けていた)により
杉原氏の所在が突き止められて、
1969(昭44)年 イスラエル政府から叙勲を受ける。

さらに 1985(昭60)年 イスラエル政府から
「ヤド・バシェム賞」
(諸国民の中の正義の人賞)が贈られた。

その宛名も “SEMPO” だった。

杉原千畝は 「東洋のシンドラー」と呼ばれるが、
当のシンドラーは ユダヤ人を
自分の商売に使っていたことから、

純粋にユダヤ難民を救済したかどうかわからない。
しかし、結果として 千人以上の人を救っている。

杉原氏の行為は、
人として当たり前のことをしようと
決断していることは
シンドラーとは別の意味で
尊く重い価値ある行為だとの評価もある。

そのシンドラーとは
第二次世界大戦時にナチスドイツによる
ユダヤ人の組織的大量虐殺(ホロコースト)が
東欧のドイツ占領地で進む中、
ドイツ人実業家シンドラーが
1100人以上ものポーランド系ユダヤ人を
自身が経営する軍需工場に必要な生産力だという
名目で絶滅収容所送りを阻止し、
その命を救った。

その実話が スティーブン・スピルバーグ監督により
映画「シンドラーのリスト」(1993年)が
公開され有名になった。

 

 (写真は、Abs朝日「昭和偉人伝」から)