あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

人生訓 3 健康長寿十則

2020-04-28 | ことば

 

 千葉 勝浦灯台

 高さ21m(海抜70m)
 コンクリート造

 1917(大正6)年初点灯

        

自粛生活は さらに続きます。

皆さんは どんな生活を
日々送られて
おられるのでしょうか。


運動不足になりがち 
特に 健康には
気を使わなければなりません

肉体的にも 精神的にも・・・
そして長寿につながる。


今度は 
日常の生活における戒めですが


この自粛生活においても 

大いに当てはまる事項が多い。

 

1.少肉多才

1.少塩多酢

1.少糖多果

1.少食多齟

1.少怒多笑

1.少煩多眠

1.少言多行

1.少欲多施

1.少衣多浴

1.少車多歩

 

 

 


社会運動家 賀川豊彦

2020-04-23 | 人物忌

 

4月23日は キリスト教伝道者・社会運動家
賀川豊彦(1888-1960)が亡くなった日。
享年71

 

賀川豊彦は

1888年 神戸に生まれる
   4歳の時 父母と死別し徳島へ
1903年 徳島中学時代 
   宣教師 H.W.マイヤーズより受洗

1907年 明治学院神学予科修業後
         神戸神学校に入学したが
         肺結核となり療養

1909年 神戸新川で極貧の
   人々とともに生活しながら伝道

1910年 神学校卒業
1913年 芝ハルと結婚
1914~16年までプリンストン大学
  および神学校に学ぶ

1917年 帰朝後 貧民救済 労働運動
  文書出版活動
   巡回伝道 
  震災救護活動などを
  積極的に展開した。


 

キリスト教社会主義思想を背景にし

弱者を救い しいたげられていた
労働者のため

労働争議などで問題を
解決する様を描いた自伝的小説

「死線を越えて」(1920年)は

 400万部が売れ 
大正期最大のベストセラーに。

 


一方 弱者救済を訴え
「農協」「生協」「労働組合」など

現在にまで続く日本の相互共助の
基礎を作り上げてもいる。

 

様々な社会改革運動の
先駆者として活躍し

シュヴァイツアー や
ガンジー と並ぶ

「20世紀の三大聖人」とも呼ばれ
ノーベル文学賞に2回 
ノーベル平和賞に3回

その候補に選ばれているが 
残念ながら受章しなかった。

 

 

晩年 賀川から
日野原重明博士(1911-2017)に

メッセイージいりで贈られた
ウイリアム・オスラー博士の
名著
「内科学総論」

「 太陽は 世界を隅々まで
 照らしていくけど
 之を敞ふ 罪の黒幕
 之をとり去る 愛と十字架

 感謝の1959年クリスマス

                  賀川豊彦

  日野原重明博士  」

 

 

(資料:BS朝日「昭和偉人伝」・ウィキペディア)


人生訓 ”つもり”

2020-04-21 | ことば

  

  尻屋埼灯台 青森県東通村

  1876(明治9)年10月 点灯
  レンガ造りでは日本一高い灯台(地上高33m)

 

       

 

先日 人生訓的なことに触れたが

今回は “つもり”で 勘違いしやすい事柄

自己反省する点で参考になります。

 

1.高いつもりで低いのが教養 
 
 1.低いつもりで高いのが気位

1.高いつもりで浅いのが知識 

 
1.浅いつもりで深いのが欲望

1.厚いつもりで薄いのが人情 
 
 1.薄いつもりで厚いのが面の皮

1.強いつもりで弱いのが根性 
 
 1.弱いつもりで強いのが自我

1.多いつもりで少ないのが分別
 
 1.少ないつもりで多いのが無駄

 

 

 


日本のナイチンゲール 瓜生岩子

2020-04-19 | 人物忌

   瓜生岩子女史の銅像


4月19日は
“日本のナイチンゲール”と呼ばれた

瓜生岩子(うりゅういわこ・1829-1897)
が亡くなった日。

その銅像が 
台東区浅草寺境内にある。


説明文には

「岩子は通称。正しくは”岩”という。

文政12年(1829)2月15日、

岩代耶麻郡(現在の福島県耶麻郡)
熱塩村渡辺家に生まれたが、

9歳の時、父を失い、
母は岩を連れて生家へ帰った。


そのため、岩は母方の姓瓜生氏を称した。

14歳の時、若松(現福島県会津若松市)
の叔母に預けられ、

その夫で会津藩侍医を務める
山内春瓏(しゅんろう)の薫陶を受け、
堕胎間引の防止に関心を持つに至る。

17歳で佐瀬茂助を婿に迎え、
若松で呉服屋を営み、

一男三女を生んだが、
早くに夫を亡くした。

明治元年会津戦争で孤児となった
幼童の教育に尽力したほか、

堕胎等、当時のさまざまな悪習を正し、
明治22年貧民孤児救済のため
福島救済所を設立するなど、
社会事業の推進に努めた。

明治30年4月19日、福島で没す。享年69。

生涯を慈善事業に捧げた
岩の善行を賞揚し、

同34年4月、篤志家によって、
浅草寺境内にこの銅像が造立された。
台石正面には、
下田歌子女史の撰文を刻む。

平成8年7月   
     台東区教育委員会  」

 

 

岩子は 子供の時父親を亡くし
また 夫にも先立たれるなど
不運にも見舞われたが

戊辰戦争の際に 敵味方の区別なく
負傷者を手当てしたことから
“日本のナイチンゲール”とも呼ばれ

養育所を設立して 孤児や
老人を保養したり
近代日本の黎明期に
社会福祉事業家として尽力している。

1996年に
女性初の藍綬褒章を受章している。

この像は
実業家の渋沢栄一(1840~1931)
らの篤志家により建立。


撰文の下田歌子(1854~1936)
明治から大正にかけて
歌人・教育家として活躍し

女性の地位向上に尽力し 
実践女子学園の基礎も築いた。

 

 

 


人生とは?

2020-04-16 | ことば

塩屋埼灯台 福島県いわき市
1899(明治32)年 
海抜73mの断崖に建つ

 

資料を整理しているなか 

備忘的に書き留めた

人生にかかるメモが出てきた。

   * * * *

・人生は 60歳からだ

・70歳にてお迎えあるときは
    留守と言え

・80歳にてお迎えあれば
    早すぎると言え

・90歳にてお迎え来たならば
   急がずともよいと言え

・100歳にてお迎えあるときは 
   時期を見てこちらから
     ぼつぼつ行くと言え

 

右各条を日々心すべし

天運を待って 長寿を考えるべき也

  * * * *

・20歳では意思が支配し

・30歳では機知が

・40歳では分別が支配する

  フランクリン(アメリカの政治家)

 * * * *

・人生は旅行であって
死はその終点である
   ドライデン(イギリスの詩人)

 

とあるが 果たして

我が人生においては・・・

 

 

 


カミュのペスト

2020-04-13 | 出来事・行事

 

フランスの作家
アルベール・カミュ
 (1913-1960)の

代表作「ペスト」(1947年刊)が
今 爆発的に売れて
増刷を重ねているそうだ.

また NHK「100分de名著」で
「ペスト」がアンコールで
一挙放送された。

舞台背景の“オラン”は 実在の都市

 

リウー  :主人公・闘う医師

ランベール:新聞記者 脱出を試みる

タルー  :旅行者 友人

グラン   : 下級役人 作家志望

コタール :密売人

リシャール:医師会会長

パヌルー :イエスズ会の神父 
      説教を通じて意義付け

 

ペストの流行で
封鎖された都市オランでの

11か月間 不条理という
ペストとの闘いや悲惨を

登場人物をとうして描いている。

 

4月 ペストの発覚

6月 死者の増加 買占め騒動
   病院の不足
   
→都市封鎖(ロックダウン)
   保健隊の発足

10月 当事者の苦悩と決意

12月 収束へ タルーの死

  封鎖解除

 

6月の状況は 

まさに現在の日本状況に

置き換えることができる。

為政者の “ためらい”や

“市民全員が同じ袋のネズミとなり
そのなかでなんとか
やっていかなければ

ならないことに気づいたのだ。“


・・・等の言葉が残る。

 

 (資料:  NHK「100分de名著」)

 

 

 

 

 


手つくりマスク

2020-04-12 | 出来事・行事

 

コロナウイルス感染者は 

まだ右肩上が状態で

連日その数を増やしている。

自粛状態も続き 

収束の窓はみえない。

 

政府はマスクを

一世帯に2枚マスクを

配布するというが 

まだ届いていない。 

我が家のマスクもそろそろなくなる。

 

そこで家人は 

手づくりマスクの製作に取りかかった。

 

 


高浜虚子(虚子忌)

2020-04-08 | 人物忌

 東京 千代田区九段北 三輪田学園

  句碑「蔓もどき情はもつれやすき哉」 

 

4月8日は 俳人・小説家
高浜虚子が亡くなった
虚子忌(椿寿忌)享年85

高浜虚子(1874-1959)は 
愛媛県松山市に生まれる。


9歳のとき祖母の実家
高浜家を継ぐ。  

河東碧梧桐とともに
正岡子規に兄事し、
子規から虚子の号を受ける。

1897(明治30)年、
柳原極堂が松山で創刊した
俳誌「ほとゝぎす」に参加。

翌年、これを引き継ぎ東京に移転する。
子規が1902年に死去した後、
一時俳句の創作を辞め
小説の創作に没頭したが、

その後俳壇に復帰し、
次いでその行きすぎを修正する

ホトトギスの理念となる
「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱した。


1954(昭和29)年 文化勲章を受章。


門下には飯田蛇笏、水原秋桜子、
山口誓子、中村草田男などがいる。

著書に「虚子句集」「五百句]
「五百五十句」「六百句」
「虚子俳話」「句日記」など。

 

学園の説明文には

「この句は高浜虚子の作品で、
1947年に詠まれ、
1948年10月の
「ホトトギス」に掲載されました。

その後、1958年12月に、
虚子の集大成である
「虚子百句」が出版され、
これを機会に、
終生の友情の証しとして、
三輪田元道校長にこの句が贈られ、
1959年6月に、校内に、
句碑が建設されました。

現在の句碑の位置は、
1901年9月から1909年12月に
かけての虚子の住居、及び、
「ホトトギス」の発行所
(麹町区富士見町4丁目8番地)の
筋向かいに当たります。

高濱家と三輪田家が、
松山市が縁で、筋向かいに住み、
親しく付き合っていたことから、
校舎改築を機会に、
この場所に句碑を移設しました。


虚子は1910年12月から
鎌倉市に転居しましたが、
三輪田眞佐子(当時の校長)と
養子の元道も鎌倉市に
別宅を持っており、
親しい付き合いが、
そこでも続いていました。


また、虚子の長女の眞砂子は、
本校 高等女学校を
1915年に卒業しました。

      三輪田学園 」

三輪田学園といえば
武者小路実篤の青春時代に書いた
「お目出たき人」に出てくる
初恋の人「鶴」が
この高等女学校の生徒であったという。



神奈川県横須賀市 観音埼灯台

「霧いかに深くとも
         嵐強くとも」

 

説明文には

「1948(昭和23)年秋、
高浜虚子翁が観音埼を訪れ、
緑の岬角に屹然と立つ、
白亜の雄姿と灯台に勤める
職員が困難とたたかう姿を
詠まれたといいます。

この年、海上保安庁が創設され、
灯台80周年記念式典が
挙された年でもありました。」


茨城県龍ヶ崎市 
若柴公園前 歳時記の道

「休らへは 
 合歓の花散る 木陰かな」

 

 


あんパンの日

2020-04-04 | 出来事・行事

 木村家銀座本店


4月4日は「あんパンの日」。


1874(明治7)年 

木村家の創業者で茨城県出身の


元士族・木村安兵衛と

その次男木村英三郎によって考案され

桜の花の塩漬けが

初めて用いられたのは


翌1875(明治8)年のこの日。



きっかけは 

明治天皇が花見のため

向島の水戸藩下屋敷を訪れた際


これまでは 京都の和菓子が

出されることが多かったが


工夫を凝らした塩漬けあんパンを

当時の侍従・山岡鉄舟が献上し


宮内庁御用達となったことによる。

御用達や日清戦争で

各地から集散した兵士に

あんパンが支給されたことから


あんパンと共に

木村家の知名度が全国的に広がった。


 

 

こちらは 

茨城県常総市水海道の

荒井パン店の“あんパン”

地元では人気で 

午前中に売れ切れです!

 


高村光太郎 (連翹忌)

2020-04-02 | 人物忌



4月2日は 詩人・歌人・彫刻家

高村光太郎(1883-1956)が亡くなった
連翹忌(レンギョウキ)。享年73

自宅庭に咲くレンギョウの花を愛していた
また 彼のの上にその一枝が
置かれていたことから連翹忌と呼ばれる。

彫刻家 高村光雲 の長男として生まれる。

東京美術学校彫刻科を卒業し
欧米に留学し ロダンに引かれる。


日本を代表する彫刻家であり
画家でもある。

また「道程」「智恵子抄」等の
詩集が著名で
日本文学史上
近現代を代表する詩人として
位置づけられる。

著作には評論や随筆 短歌もある。
能書家としても知られる。

 

 

西日暮里駅の西側に
荒川区立第一日暮里小学校があり

その校門脇にフクロウの像と
正直親切と記載された
記念碑が置かれている。



碑文には

「創立百周年記念 高村光太郎書
「正直親切」の記念碑

「正直親切」の文字は、
本校卒業生である高村光太郎の直筆で、
昭和26年岩手県山口小学校の
児童のためにかかれたものを
高村規氏、財団法人高村記念会の
ご好意により、
創立百周年記念碑に
使わせていただきました。

高村光太郎は、明治23年に、
下谷区練塀小学校から日暮里小学校
(当時は、現在の福祉館の
場所に校舎がありました)

に転校、ここで勉強し
小学校を卒業しました。

その後、彫刻家として、
すぐれた作品をつくり、

また詩や絵もかき、
立派な書を数多く残しています。

ここで大切なのは、
それらの作品を通して、

光太郎が、人を愛し、
自然を愛する人間としての

生き方を教えていることです。

先輩光太郎が心をこめてかいた
「正直親切」の文字が、母校に学ぶ
児童一人ひとりの心のなかに、
いつまでも生き、
その成長を支えることを望みます。

「フクロウ」の像は、
石彫家飯田雅光氏の作で、

本校校歌にもある
〝諏訪の森かげ、みどりの風に〟
ふさわしい《森の知者》として、
一日小の子どもたちのシンボルとなり、
永く親しまれることを願っています。

昭和60年11月9日 


東京都荒川区立第一日暮里小学校

創立百周年記念事業協賛会 」

 

彫刻の代表作「湖畔のおとめ」
(十和田湖畔・御前ケ浜)


智恵子記念館

「智恵子抄」は 結婚する以前の
1911年から死後の1941年まで
光太郎が30年間に書き続けた詩集。