あかない日記

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信州紀行 軽井沢26 三笠ホテル5 

2020-02-11 | 国内・長野

踊り場から

2階から踊り場を見る

階段手摺

    

裏階段   

2階廊下

当時非常に珍しかった
水洗式の洋式トイレ
照明は和風調

 

開放感ある男子トイレ
壁面のタイルは
英国から取り寄せている。

 


信州紀行 軽井沢24 三笠ホテル5 晩餐会2

2020-02-07 | 国内・長野


    (Web写真から)


撮影は 大正初期とある。 

毛利子爵夫人が中心で 
娘の嫁ぎ先が集まることから

毛利家の主催の晩餐会だろう。

また 夫人方々は 明治時代に
洋髪の影響を受けて生まれた
簡便な結髪「束髪」を結っている。


仮に撮影された年を
大正3(1914)年とした場合

出席者の年齢は
①西尾忠方(30)
②近衛夫人(18)
③徳川夫人(23)
④里見弴 (26)
⑤有島武郎(36)

⑥毛利夫人(?)
⑦徳川義親(25)
⑧山本直良(44)
⑨黒田  (33)
⑩黒田夫人(?)

⑪近衛文麿  (23) 
⑫山本夫人(?)

皆 若いのに驚く!

特に 近衛文麿は
京都帝大在学中の
学生結婚(1913/11/9)

新郎22歳・新婦17歳であった。

以下に 関係を図にしてみた。

 


信州紀行 軽井沢23 三笠ホテル3 晩餐会

2020-02-06 | 国内・長野

 

「軽井沢の鹿鳴館」とも
呼ばれた三笠ホテル

当初は外国人の利用が
主であったが 
次第に近衛文麿、
大隈重信、澁澤榮一
団琢磨など日本を代表する
政財界人や文人墨客などが
滞在するようになる。

そんな様子の写真
「三笠ホテル 晩餐会」が
ロビーの壁に飾られている。

Web上の写真には 
出席者全員が写っている。

右側から

①西尾忠方
 (ただみち・1884-1958)
 華族、子爵
   東京帝大卒、政治家、実業家

②近衛文麿夫人〔千代子〕
   毛利高範子爵の次女

③徳川慶久夫人〔實枝子〕
   (1891-1933・1908結婚)
    有栖川宮威仁親王の次女

 徳川慶久(1884~1922)は
       徳川慶喜の七男、公爵

④里見 弴(1888~1983) 小説家
  弴の妹・有島愛は
    旧三笠ホテルの経営者 山本直良の夫人

⑤有島 武郎 (1878-1923) 
   小説家、里見 弴の実兄 人妻と心中

⑥毛利高範子爵夫人
  〔後妻 井伊直威の娘・賢子〕

 夫・毛利高範(1867-1939)華族、
  子爵、貴族院議員、
  毛利式速記術の創始者 

 ⑩長女・久子 :黒田長和夫人
 ②次女・千代子:近衛文麿夫人
    (1896-1980)

    三女・泰子 :近衛秀麿夫人
      (1920結婚・1956離婚) 

⑦徳川義親(1889~1976)
  植物学者、公爵、貴族院議員、
  尾張徳川第19代目当主

⑧山本直良 (1870-1945)
  旧三笠ホテルの経営者

⑨黒田長和(ながとし・1881-1944)
  華族、男爵、衆議院議員

⑩黒田長和夫人〔久子〕
  毛利高範子爵の長女

⑪近衛文麿 (1891-1945) 公爵、政治家
⑫山本直良夫人〔愛〕
 有島武郎・里見弴の妹

 (*ホテルの写真には写っていない)

  


信州紀行 軽井沢22 三笠ホテル3

2020-02-05 | 国内・長野

ロビー

 

「じゅうたん」(複製) 図柄
色等は当ホテルで長く
使われていたものを京都西陣で
複製した。

「ソファー」(修理・復元)
従来からのソファー修理、復元。

ひじ掛け、背もたれ等の
ふくらみに馬の毛が入っている。
布地はフランス製。

 

天井から下がるシャンデリア

 

説明には  1906(明治39)年の
開業当初からのもの。

最初はアセチレンガスを使用
ホヤにガラスの使われていた
時もあった。




暖炉とピアノ

      


三笠ホテルのロゴは
山本直良の義弟で
画家・有島生馬
(1882~1974)がデザイン。



どっしりとしたカウンター

 

 


信州紀行 軽井沢21 三笠ホテル2

2020-02-04 | 国内・長野

八角の塔屋と非対称形が
荘厳さを表している。

 

大勢の政財界人などに利用され
「軽井沢の鹿鳴館」
とまで言われたが

経営は赤字続きであったという。

1925(大正14)年には
山本直良は経営権を

明治屋社長の磯野長蔵
(1874~1967)を譲っている。

その後も 赤字経営は
変わらなかったようだ。

1941(昭和16)年から始まった
太平洋戦争で
日本の戦局が不利に
傾き東京での空襲が始まると

万平ホテルがソ連、トルコ、
ドイツ大使館などの疎開先となり

軽井沢は 各国大使館・公使館の
疎開先となった。

三笠ホテルにも
外務省軽井沢出張所が置かれ

昭和19年から20年まで
休業することになった。

更に敗戦後も国内のホテルと
同様、米軍に接収された。


1952(昭和27)年 
接収解除後は、万平ホテルの
山名傳兵衛が
支配人となり
「三笠ハウス」として再開し

1970(昭和45)年に
廃業されるまで使われた。

その後 建物は日本長期信用銀行
(現新生銀行)の所有となり

1980(昭和55)年 
軽井沢町に寄贈された。

なお、その間に建物は
約70m南から現在地まで曳家され

保存修理工事が行われている。

 

明治以降の近代日本の著名な
建物が消えつつある中にあって

1905(明治38)年に
建築された三笠ホテルは

木造純西洋式ホテルとしては
札幌にあると豊平館
(1880・M13)に次ぐ

古い建物として高く評価され
1980(昭和55)年に国の
重要文化財に指定された。

1983(昭和58)年から
一般公開され
軽井沢町の
観光名所の一つになっている。

 

現在の玄関に直接して
2階への階段があるが

かつてはロビー側に玄関があった。

 


信州紀行 軽井沢20 三笠ホテル

2020-02-03 | 国内・長野


旧三笠ホテル  

 

 

旧軽井沢ロータリーから
北に一直線上に延びる道
 「三笠通り」

新日本街路樹百選にも
選ばれている。

その途中に
「旧三笠ホテル」がある。

旧三笠ホテルは
1906(明治39)年から
1970(昭和45)年まで

営業していた三笠ホテルの
建物の一部を軽井沢町が
保存・公開している施設。


追:耐震補強と
保存補修工事のため
2020年から数年間 休館する。

三笠の名は 
敷地前方の愛宕山が奈良県の
三笠山に似ているところから

有馬生馬、里見弴らによって
付けられた。


“西洋文明の薫り漂う旧三笠ホテル”

三笠ホテルは
東京帝大農学部卒で

日本郵船や明治製菓の
重役を務めていた

実業家 山本直良
(1870-1945)によって

1904(明治37)年着工し
2年後の1906(明治39)年
創業された。

当初 山本直良は 
軽井沢に25万坪の土地を
求め牧場経営を計画するが

土地が適さないことから
これを断念、代わって
ホテル経営を計画している。


なお 作曲家・山本直純
(1932-2002)は 
山本直良の孫にあたる。

この純洋式ホテルは
設計・監督・棟梁が
すべて日本人で

施工も地元の人々が
担当している。

その特徴は 
デザイン的にも優れた技巧が
随所に施されとり

湾曲したブラケット(腕木)
で支えられた軒

太い縁取りの窓枠と
幾何学模様のガラス窓 

階段の手すり 鶴と松を
組み合あせた浮彫の
カーテンボックス等

設計は 岡田時太郎
(1859~1926)が担当するが

辰野金吾の下で
日本銀行本店建設工事に
従事した経歴を持ち

後年は満州で事業家として
活躍した建築家である。

茨城県牛久市の
牛久シャトーの設計者でもある。

牛久シャトー(1903築)

 


信州紀行 軽井沢19 近衛文麿別荘2

2020-01-31 | 国内・長野

 

別荘は 2016(平成28)年
軽井沢町文化財
(指定第19号)に指定され
「資料館分室市村記念館」
から「旧近衛文麿別荘
(市村記念館)」に
名称を変更している。

 

 

近衛文麿が軽井沢で
過ごした様子のパネルや
書斎コーナーが設けられている。

 

近衛文麿(1891-1945)東京出身
京都帝大卒
大正-昭和時代前期の政治家

近衛篤麿の長男。

貴族院議長などをへて
1937(昭和12)年第1次近衛内閣を組織。


日中戦争に
不拡大方針でのぞむが
戦局の拡大を容認。

1940(昭和15)年
新体制運動を組織し
第2次内閣を組閣。

日独伊三国同盟を締結
大政翼賛会を結成。


1941(昭和16)年
日米交渉打開にむけて
第3次内閣を組閣したが

失敗し 総辞職。

戦後 戦犯容疑で指名され
1945(昭和20)年
12月16日自殺。55歳。

 

 2階和室

 

 


信州紀行 軽井沢18 近衛文麿別荘

2020-01-30 | 国内・長野



旧雨宮邸の奥 木立の中に
「旧近衛文麿別荘」がある

別荘とは思えないどっしり
とした二階建て 
色具合が美しい
取り合わせになっている。

この建物は
1918(大正7)年
野沢源次郎により野沢原
(軽井沢駅の北西部)で
分譲販売された
洋風住宅建築会社
「あめりか屋」の
アメリカ式別荘の一つで

1926(大正15)年に
近衛文麿が
別荘第1号として購入した。

1933(昭和8)年
町出身の政治学者で
近衛と親交があった
市村今朝蔵・きよじ夫妻が
購入し、
翌年に南原
(現在地より路線を挟んで
南方向)に移築され使用された。

夫婦没後 1997(平成9)年
現在の場所、雨宮池の
端に移築され
遺族から町に寄贈され
1999(平成11)年に開館した。

近衛文麿をはじめ
市村今朝蔵とその妻で
名誉町民となった
きよじ、
雨宮敬次郎らの
資料が展示されている。

 


信州紀行 軽井沢17 杉浦非水

2020-01-29 | 国内・長野

 

・右上:地下鉄銀座線
 (上野―浅草)開通ポスター(1927)

・左下:タバコのパッケージ
  デザイン「みのり」(1929-)

・右下:三越呉服店 
  新館落成ポスター(1914)

 

軽井沢町歴史民俗資料館内に
杉浦翠子と夫・非水の
特別コーナーがあった。

杉浦 非水(1876-1965)は
愛媛県松山市生れ 本名 朝武。

日本のグラフィックデザインの
黎明期より活動し、

商業美術の先駆けであり
現代日本のグラフィックデザインの
礎を築いた一人であり

多摩帝国美術学校
(現・多摩美術大学)の
初代校長でもあった。

また 杉浦夫妻は
美術と文学の先端を行く

モガ・モボ時代の寵児とも言われた。

特に 三越呉服店の
広告デザインにおいて

百貨店としての
新たなブランドイメージをつくり出す

「イメージメーカー」の才能を発揮し
「三越の非水か、非水の三越か」と言われ
「今日は帝劇、明日は三越」などの
キャッチフレーズも作っている。



ここで 先に訪れた 
須坂の田中家で展示されていた 

「明治天皇御製かるた」を
思い起こした。

 (田中家・明治天皇御製かるた)

かるたの絵札は
この 杉浦非水 が
デザインしていたことを。

このカルタは
明治天皇崩御後の
1912(大正元)年に

明治天皇の御製100首を
あつめてつくられている。


 

 

 


信州紀行 軽井沢16 杉浦翠子

2020-01-28 | 国内・長野

 

軽井沢歴史民俗資料館の
玄関前に 
杉浦翠子 の歌碑が
置かれている。

 

この歌碑は 1961(昭和36)年
夫・杉浦非水により
翠子の別荘に没後1年後に建立され

その後1999(平成11)年に
遺族が町に寄贈した折に
この資料館玄関脇に
移設している。

 

浅間山の情景を詠った

「あめつちに 
 おのれさびしと 

 おもうとき 
 浅間はもゆる 
 陽のいりぎはを」

と刻まれている。

 

杉浦翠子(1885-1960
・旧姓 岩崎翠)は 川越市生まれ

女子美大、国語伝習所などで学び

北原白秋や斎藤茂吉に師事し 
日本を代表する女流歌人。

軽井沢には
夫・非水と別荘を構えていた。

 

なお 福沢桃介
(1868-1938)は 兄で

福沢諭吉の養子になり
「電気王」「電力王」と
呼ばれる実業家。

 


信州紀行 軽井沢15 雨宮邸

2020-01-27 | 国内・長野

 

歴史民俗資料館がある 離山は
中軽井沢と旧軽井沢の間に
位置する標高1256mの小さな山

1時間程で登れる。

その麓に広がっているのが
「離山公園」

園内には 旧雨宮邸・市村記念館
(旧近衛文麿首相別荘)
・軽井沢民族資料館
・町立図書館 が並立し

軽井沢の文化と歴史の
多くを知ることができる。

旧雨宮邸は雨宮御殿とも呼ばれ
重要な文化遺産である。

雨宮敬二郎(1846-1911)は
山梨の名家に生まれ 
生糸、養蚕業で成功し

明治時代一代にして財閥を
築いた人物であり

甲州財閥集団の一人
「天下の雨啓」
「投機界の魔王」とも呼ばれ
軽井沢の開発者として知られる。

1883(明治16)年
最初は 軽井沢の荒野を

ぶどう畑にしようとしたが 
気候が合わず失敗
やむなくカラマツを植樹したところ
これが成功し 年30~40万本を植え
最終的には700万本も植えている。

更に 軽井沢に最初の
別荘が建つよりも早く

軽井沢の拠点として離山のふもと
中山道沿いの
この地に事務所として

100坪の邸宅を建設した。

また 明治の末期には120坪の
新座敷建設し
政財界の賓客を迎えていた。

雨宮亡き後は 
夫人の弟・市村藤吉氏が

軽井沢での事業を受け継ぎ
さらにその息子の市村今朝蔵氏が
引き継いだが
その代で雨宮家の事業は没落した。

 

*甲州財閥とは
明治期顕著な経済活動を行っていた
甲州(山梨県)出身の
実業家たちのことで


著名な人物は
若尾逸平、若尾幾造、若尾璋八、
雨宮敬次郎、根津嘉一郎、
小野金六、穴水要七、小池国三、
佐竹作太郎、神戸挙一がいる。

その中でも
若尾逸平と雨宮敬次郎は
二大巨頭と言われている。

   西の家

新座敷

新座敷は 明治末期に建築され
総理大臣「伊藤博文」が
招かれたといわれる。

この他政府・財界の大物が
軽井沢に避暑に来る折
この屋敷に宿泊している。

 



蔵の中では
年間を通して絵画、創作家具、漆器、

パッチワーク等のさまざまな
展示会が催されている。


 

 


信州紀行 軽井沢14 軽井沢町歴史民俗資料館 

2020-01-24 | 国内・長野

軽井沢町歴史民俗資料館

 

追分宿郷土館から中軽井沢駅の先
国道18号 南原交差点脇にある

「軽井沢町歴史民俗資料館」へ

 

 

1963(昭和38)年 
元大蔵大臣勝田主計の別荘を
軽井沢町が買い取り
町内の遺跡出土品や
各種民俗資料などを収蔵・
展示し
「軽井沢町資料館」
として開館した。

 

その後 
1980(昭和55)博物館法に
準拠した資料館として

新たに建設され開館した。

2000(平成12)年 
軽井沢町歴史民俗資料館に
名称を変更している。

     

館内撮影禁止のためパンフレットから

 

展示には 
縄文時代の茂沢南石堂遺跡や
入山峠祭祀遺跡の出土品

中山道宿場関係資料 
別荘模型 軽井沢彫などが
展示されている。

 

 

 


信州紀行 軽井沢13 追分宿郷土館

2020-01-23 | 国内・長野

文学館から東
町営駐車場の向かいにある

「軽井沢町追分宿郷土館」へ

 

郷土館は 追分宿及び
軽井沢町西地区の資料を

一堂に集め 宿の構造や歴史などへの
理解を深めるために保存し

1985(昭和60)年に開館した。

 

建物は

旅籠を模して造られた建物で
宿場の雰囲気を出すため 
内外観ともに木造風を基調とし

外観は江戸時代の旅籠に似せて
コンクリート壁に木造の
出桁造りを巡らしている。

展示は

茶屋(追分桝形の茶屋を
実測した1/3の模型)の

一部を復元し 当時使われていた
品々を配するなど

追分地区ゆかりの資料を
中心に展示している。

また 縄文時代から現代までの歴史を
年代を追って辿ることができる。

2階には軽井沢出身の書家、
稲垣黄鶴女史の書や
追分に関係する古書・古文書、
桝形の茶屋・油屋をはじめとする
旅籠・茶屋の模型などが展示されている。

 

展示室 茶屋コーナー
(茶屋の一部を復元) 
 *リーフレットから

 


信州紀行 軽井沢12 堀辰雄文学記念館3

2020-01-22 | 国内・長野

 

旧宅 辰雄が晩年 
読書と療養の日々を過ごした部屋

映画女優・高峰三枝子(1918-1990)から
贈られたという藤の椅子セット

床の間の掛軸は 
川端康成から贈られた「雨過山如洗」 

 

 

 

説明文には 

書庫 この完成を心待ちにして
病床で蔵書の並べ方まで
妻に指示していたが、

死の10日前に
出来上がったこの書庫に、
思ったとおり本が並ぶのを
遂に見ることなく世を去った。

今は その指示とおり
配架されているという。

常設展示場

敷地には 旧堀辰雄邸と
書庫、管理棟を兼ねた展示室と
常設展示棟がある。

常設展示棟は
2010年 96歳で亡くなった
多恵夫人が
 堀辰雄の没後に建てて
夏を過ごしていたもの。

 館内には  原稿・書簡
・初版本・遺愛の品々が展示され
堀 辰雄の生涯と文学の背景を
知ることができる展示室

愛蔵書が納められた書庫がある。