あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

特撮監督 円谷英二

2021-01-27 | 人物忌


 (中央公論「Adagio」)

 

1月27日は 
特殊撮影監督 円谷英二が亡くなった日

円谷 英二(つぶらや 本名 英一)は

昭和における特殊撮影技術の第一人者
独自に作り出した技術で 特撮映画界に
多大な功績を残したことから、
“特撮の神様”と呼ばれる。


またその人生は、
活動大写真と呼ばれた明治時代の黎明期から
映画斜陽期を迎えた東宝解体までの
日本映画界の歴史と そのまま重なっている。


1901(M34)年 
 福島県須賀川市に生まれる
1917(T6)年
 神田電機学校に入学

1919(T8)年
 天活(翌年 国際活映に変更)に
 撮影技師として入社

1925(T14)年
 松竹京都撮影所に移り
 日活(1932)を経て

1934(S9)年
 JOスタジオ(東宝の前身)に入社

1936(S11)年
 監督デビュー

1937(S12)年
 東宝に転じ、特殊技術課を創設

 「燃ゆる大空」(1940)
 「ハワイ・マレー沖海戦(1942)
 「加藤隼戦闘隊」(1944)など
 航空戦記映画の特殊技術を担当
 戦後は、公職追放でフリーとなり、
  大映の「虹男」(1949)
   「透明人間現わる」(1949)などの特撮担当
1952(S27)年
 東宝に復帰

1954(S29)年
 日本初の怪獣映画「ゴジラ」を
 製作し 以降シリーズに関わる。
 以来「空の大怪獣ラドン」(1956)
 「モスラ」(1961)

 テレビ「ウルトラQ」(1966)
 「ウルトラマン」(1966監修)などで

 映画 テレビに“怪獣ブーム”を巻き起こす。
1963(S38)年
 円谷特技プロ(現:円谷プロダクション)設立

 特撮映画を製作するとともに
 多くの特撮マンを育てる。
1970(S45)年
 狭心症にて死去 享年68

 

映画「ゴジラ」は
日本映画ベスト150の大人向け作品の中
27位として選ばれている。 

怪獣ではないが
映画「君の名」(1953)の
冒頭の空襲シーンも手がけていた。


       (参考:ウィキペデアほか)

 


発明家 平賀源内

2021-01-24 | 人物忌

 

1月24日は 日本のダ・ヴィンチとも言われた
江戸時代の 発明家 平賀源内 が亡くなった日。

その墓は 台東区橋場2-22-2にある。


説明文には

平賀源内墓 (国指定史跡)

平賀源内は享保13年(1728)、
讃岐国志度浦(現香川県志度町)に
生まれる(生年には諸説ある)。


高松藩士白石良房の三男で
名は 国倫(くにとも)。
源内は通称である。


寛延2年(1749)に家督を継ぎ、
祖先の姓である平賀姓を用いた。

本草学・医学・儒学・絵画を学び、
事業面では成功しなかったが、
物産開発に尽力した。

物産会の主催、鉱山開発、陶器製造、
毛織物製造などをおこない、
エレキテル(摩擦起電機)を復元製作、
火浣布(石綿の耐火布)を発明した。

一方で風来山人・福内鬼外などの
号名をもち、

「風流志道軒伝」などの滑稽本や、
浄瑠璃「神霊矢口渡」などの
作品を残している。


安永8年(1779)11月に
誤って殺傷事件を起こし、

小伝馬町の牢内で12月18日に病死、
遺体は 橋場の総泉寺(曹洞宗)に葬られた。

墓は角塔状で笠付、上段角石に

「安永八己亥十二月十八日 
智見霊雄居士 平賀源内墓」と刻む。
後方に従僕福助の墓がある。

総泉寺は昭和3年(1928)
板橋区小豆沢へ移転したが、

源内墓は当地に保存された。

昭和4年に東京府史蹟に仮指定され、

昭和6年には松平頼壽
(よりなが・旧高松藩当主)により
築地塀が整備される。

昭和18年に国指定史跡となった。
 
 平成17年3月 台東区教育委員会 」


 

 

 

 


エンジニア 百瀬晋六 

2021-01-21 | 人物忌


(BS朝日「昭和偉人伝」から)

 

1月21日は 
 エンジニア 百瀬晋六 がなくなった日

百瀬晋六は  
飛行機屋から自動車屋になって
富士重工業のブランド車
”スバル360”  の生みの親


1919(T8)年 
 長野県塩尻市の造酒家の家に生まれる
 旧制松本高等学校を経て
1939(S14)年
 東京帝国大学
 工学部航空学科入学 原動機を専攻

1942(S17)年 
 中島飛行機入社

 その直後  招集 海軍技術士官として
 海軍航空技術廠に配属

 翌年 中島飛行機に派遣
 偵察機「彩雲」用「誉」
 エンジンの改造に従事

1944(S19)年
 除隊し 中島飛行機に復帰

「彩雲」の試作機が完成した時点で終戦

  終戦後 中島コンツェルンの
  財閥解体に伴い 伊勢崎工場を継承した

  富士自動車工業に転じて
  バスボディ架装設計にあたる

1949(S24)年 
   航空機技術を生かした
  フレームレス構造
  リアエンジンバス「ふじ号」を開発し

 日本のバス設計に大きな影響を与え
 後身の富士重工業が

 その後大手バスボディメーカーとして
 発展する礎を築く


1958(S33)年 
 高度な技術を組み込んだ
 先進的な「スバル360」の市販化を実現

 富士重工の四輪自動車メーカー
   としての地位確立に貢献

 2代目レガシィの歴史的な
   商業的成功を見届けて

1997(H9)年1月21日
  逝去 享年77

2004(H16)年
 日本自動車殿堂入り


百瀬が目標とした軽自動車は
大人4人乗り 悪路でも時速60km

昭和33年3月3日デビューし
売出し価格は
425000円だった。

先輩のスバル360に同乗して
遠方までドライブしたことを
思い起こす。

 

 


小説家 織田作之助

2021-01-10 | 人物忌


(日本経済新聞 2004/2/7)


1月10日は 
 小説家 織田作之助が亡くなった「善哉忌」

織田作之助は

1913(大正2)年
 大阪市天王寺区 
 仕出屋の長男として生まれる
1931(昭和6)年
 第三高等学校
 (京都大学教養部の前身)
 文科甲類に合格
1934(昭和9)年
 卒業試験中に喀血し
 白浜温泉へ転地療養 その後復学
1936(昭和11)年
 出席不足で退学
1935(昭和10)年頃
 宮田一枝と同棲生活へ

 同時期 作家活動を開始
 当初は劇作家志望で
 戯曲「饒舌」を発表したりしたが

 スタンダールに影響を受けて
 小説家へ志向を転換

 青山光二らと共に
 同人誌「海風」を創刊
1938(昭和13)年
 
処女作「雨」を発表して
 武田麟太郎の注目を受ける
1939(昭和14)年 
 帰阪し業界新聞の勤務を経験
 一方で作家活動も続け
「俗臭」を発表
 
室生犀星の推薦で
 芥川賞候補作となって注目される

 「夫婦善哉」が 改造社の
 第一回文芸推薦作品となり

 これを機に本格的な作家生活へ
1943(昭和18)年
 「聴雨」「勝負師」

1944(昭和19)年
 「木の都」発表

1946(昭和21)年
 「可能性の文学」は
 将棋棋士坂田三吉を題材

 12月 結核による大量の
 喀血を起こし入院

1947(昭和22)年1月10日
 死去 享年33

         (参照:ウィキペディア)



「善哉忌」にもなっている
作品「夫婦善哉」は
映画化(豊田四郎監督 1955年)され
日本映画ベスト150でも
49位に選ばれている。

森繁久彌と淡島千景の
掛け合いが秀逸