あかない日記

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小栗上野介

2021-05-27 | 人物忌

  小栗上野介邸跡(千代田区神田駿河台1)

5月27日は 
徳川幕臣 小栗上野介 が亡くなった日

説明文には

「1827(文政10)年
 小栗上野介ここに生まれる

  この地に生まれ育った
 小栗上野介(1827~1868)は、
 幕末の外交・財政政策をリードし、
 横須賀に大造船所を建設して
 わが国の造船業が
 近代化する道を開いた。」とある。


小栗忠順(ただまさ・上野介)は
江戸時代末期の幕臣、
勘定奉行、江戸町奉行、
外国奉行を歴任した。

1827(文政10)年
 旗本小栗忠高の子として
 江戸駿河台に生まれる。
 通称 又一
1859(安政6)年
 従五位下豊後守に叙任
1863(文久3)年
 上野介と改名
1860(安政7)年(33歳)
 日米修好通称条約批准のため
 米艦ポーハタン号で渡米する。

 フィラデルフィアの造幣局では
 アメリカに有利だった通貨の
 交換比率を改めることを
 アメリカ側に訴え
 通貨の含有量の全量分析を拒む
 アメリカに対し、
 小栗は「NO」と主張する。
 この時の毅然とした態度が
 アメリカ側に評価が一躍高まる。

帰国後は 多くの奉行を務め
 江戸幕府の財政再建や
 フランス公使
 レオン・ロッシュに依頼しての
 洋式軍隊の整備
 横須賀製鉄所の建設などを行う。
1865(慶応元)年
 徳川家茂が造船所の建設を許可
 横須賀の地に造船所を完成

 マストやロープの工場、さらに
 技術を教える学校までも整え 
 造船所にとどまらない
 総合施設を建設した。
 また 西洋式の労務管理
 マネジメント制を採用し
 現代の会社経営の基礎となる
 概念を導入する。
1867(慶応3)年
 日本最初の株式会社「兵庫商社」を設立
 株式会社の制度を使い水洗トイレを
 装備した「築地ホテル」も建設している。
1868(慶応4)年 
 横須賀製鉄所は 新政府に引き継がれる。
 徳川慶喜の恭順に反対し
 薩長への主戦論を唱えるも容れられず。
1868(慶応4)年
 罷免されて 領地である
 上野国群馬郡権田村
(群馬県高崎市倉渕町)に隠遁
同年閏4月
 薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ
 自身の養子をその証人として
 差し出したが 逮捕され
 翌日 5月27日 斬首。

逮捕の理由としては
大砲2門 小銃20挺の所持と
農兵の訓練が理由であるとする説や

勘定奉行時代に徳川家の大金を
隠蔽したという説などが挙げられるが

これらの説を裏付ける根拠は
現在まで出てきていない。

その後 小栗は見直され
幕府側から近代化政策を
行った人として評価されている。

・大隈重信は
「小栗は謀殺にされる運命にあった。
   なぜなら明治の近代化はほとんど
   小栗の構想の模倣にすぎない。」と

・大村益次郎は
「もし 策(新政府への徹底抗戦)が
 実行されていれば
 我々は全滅していたであろう。」と

・東郷平八郎は
「小栗が横須賀造船所を
 建設していなければ
 今回の海戦(日露戦争・日本海海戦)で
 どれほど役に立ったかしれない。」と

・司馬遼太郎は
「かつてここ(横浜造船所)は
 日本の近代工学のいっさいの源流であった。」
 また「小栗は明治の父」とも記している。

 


御厩谷坂

2021-05-24 | 出来事・行事

 

前回 佐野善左衛門宅跡に触れたが


佐野家の敷地内に桜の名木があり
「佐野の桜」として知られていた。

また 大妻女子大学の前の
大妻通りは「御厩谷坂」と呼ばれている。


これは厩舎が このあたりに集まって
いたためと言われている。


説明文には

「この坂を御厩谷坂
(おんまやだにさか)
といいます。
『新撰東京名所図絵』には
「一番町と六番町との間、
すなわち井伊家邸前より
南の方に係れり。
厩谷もと御厩谷という。
むかし徳川将軍家の
厩舎ありしに因り此名あり。」
と記されています。
また、「新編江戸志に今も
紅梅勘左衛門殿やしきに
御馬のし池残りてあるなりと
いうと見えたり」ともかかれています。

 平成14年3月 
 千代田区教育委員会 」

 

 


旗本 佐野善左衛門

2021-05-21 | 人物忌


 (千代田区三番町12 大妻女子大学前)


5月21日は 
旗本 佐野善左衛門 が亡くなった日

 

佐野善左衛門は 通称で 本名は政信

1757(宝暦7)年に生まれ
 江戸時代中期 綱吉時代の旗本で
1784(天明4年4月3日)
  切腹により死去

その屋敷跡が
千代田区三番町にある。


説明文には

「 標識の後ろ側、
大妻学院の辺りには、
元禄11年(1698)から、
旗本佐野家の屋敷がありました。

佐野家は、禄高500石で、代々、
江戸城の警備を勤めていました。

天明4年(1784)3月24日、
ときの当主佐野善左衛門政言は、
江戸城中之間において、
老中田沼意次の子で若年寄の
田沼山城守意知に斬りつけました。

田沼意知は傷がもとで
4月2日に死去し、
佐野政言も翌日切腹を命じられ、
御家断絶となりました。

しかし、世間の人々からは
「世直し大明神」と
あがめられました。

また、佐野家の屋敷には
桜の名木があり、
番町の名物として知られていました。

 平成16年3月 千代田区教育委員会 」

とある。

犯行の動機は
意知とその父意次が先祖粉飾のために
藤姓足利氏流佐野家の系図を
借り返さなかった事

下野国
の佐野家の領地にある 
佐野大明神を意知の家来が
横領し田沼大明神にした事

田沼家に賄賂を送ったが
一向に昇進出来なかった事

等々 
諸説あったが
幕府は乱心として処理した。


その結果
田沼とその倹約令を嫌う
風潮があった市中では
跡継ぎを斬ったことを評価され
世人からは「世直し大明神」と
呼ばれて崇められた。

また 高止まりだった
米の相場は 偶然か刑の翌日から
下落し 財政は逼迫

やがて 1786(天明6)年の処分を経て
1788(天明8)年 田沼意次も失脚した。

ちなみに 
江戸城内での刃傷沙汰は
7件もあった。

  ①1628(寛永 5)年 
  ②1684(貞享元)年
  ③1701(元禄14)年 浅野内匠頭
  ④1725(享保10)年
  ⑤1747(延享 4)年
  ⑥1784(天明 4)年 本件
  ⑦1823(文政 6)年

      (参考:「武将ジャパン」)


切り絵作家 滝平二郎

2021-05-16 | 人物忌

「筑波夕照とさくら」
 (つくばエキスプレス守谷駅構内・2005年設置)

 

5月16日は 
切り絵作家 滝平二郎が亡くなった日


滝平二郎 (たきだいらじろう)は
版画家、きりえ作家、絵本画家

1921(T10)年 
 茨城県新治郡玉里村
(現:小美玉市)に生まれる。

1935(S10)年
 県立石岡農学校
(現:県立石岡第一高等学校)
 在学中は
風刺漫画に関心を
 寄せていたが
 卒業後は木版画へと向かう。

1942(S17)年
 造形版画協会第6回展に初出品
1943(S18)年 
 陸軍に入隊
1946(S21)年 
 復員 日本美術会に入る。
1948(S23)年 
 日本新版画懇話会が発足
 メンバーとなる。
1955(S30)年
 豊島区雑司が谷に移住

 木版画制作のかたわら
 装幀や挿画など本格的に
 出版美術の仕事を始める。
1968(S43)年
 第6回国際版画
 ビエンナーレ展に招待出品
1970(S45)年 
 第1回講談社出版文化賞
 ブックデザイン部門(「花さき山」)
1970~77年 
 朝日新聞の日曜版にきりえを連載
1974(S49)年 
 第9回モービル児童文化賞受賞
1987(S62)年 
 第10回絵本にっぽん賞など受賞

 児童文学作家・斎藤隆介
(1917-1985)との
名コンビによる
 絵本作品は多くの世代に
 読み継がれている。
 代表作に
 「八郎」(福音館書店1967)
 「三コ」(福音館書店1969)
 「モチモチの木」(岩崎書店1971)

 また日本美術会委員
 児童出版美術連盟会員などを歴任

2009(H21)年
 がんのため千葉県流山市の
 病院で逝去  享年88



JR常磐線・石岡駅構内に

「ふるさとの四季」をテーマに
4点のステンドグラスがある。
(2016年設置)


「春・つくしんぼ」


「夏・バスが行く」


「秋・赤とんぼ」


「冬・雪がっせん」

 

 

 


石川島 2

2021-05-13 | 出来事・行事

民営洋式造船所発祥の地(中央区佃2)

 

前回に続き 
石川島の現在に触れる。

隅田川・中央大橋を渡り佃島に入ると
左(東)側に 川沿い 「石川島公園」に
「民営洋式造船所発祥の地」
の碑が建っている。

1853(嘉永6)年 
 この地に水戸藩徳川斉昭の

 手によって創設された石川島造船所は、
 現在のIHI(旧社名:石川島播磨重工業)
 の母体となる。

 以来 IHIは造船をはじめ様々な産業分野で
 常に時代 の先駆けとなる製品を生み
 日本の歴史とともに歩んできたが 
1973年のオイルショック後
 生産や環境の
変化により
 工場の再編等が進み

1979(昭和54)年
 IHI創業の地である

 佃工場は 126年間の役割を終えた。

説明文には

「 米国ペリー艦隊が来航した
嘉永6年(1853年)、

幕府の命を受けた水戸藩主徳川斉昭が
この地に石川島造船所を創設した。
同造船所は洋式帆装軍艦
「旭日丸」をはじめ、

日本人によって設計、建造された
最初の蒸気軍艦「千代田形」など数多の
艦船を次々と建造、造船技術を通じて
わが国産業の近代化に大きく貢献した。

 明治維新後の明治9年(1876年)、
平野富二によりわが国初の
民営洋式造船所として再スタートし、
その後明治22年(1889年)には
渋沢栄一などの協力により
会社組織となり、

有限責任石川島造船所、
株式会社石川島造船所の社名の下、
明示から大正・昭和にかけて、
多くの軍艦・商船を
世に送り出してきた。

この地での造船事業は
昭和14年(1939年)造船部門の
東京深川区豊洲への
移設によって幕を閉じた。

その後、石川島重工業株式会社、
石川島播磨重工業株式会社と
社名が
変更される中で、
当地は日本屈指の重機械類の
専門工場として活躍してきたが、
昭和54年(1979年)の
工場大移転により、

その長い歴史を終えた。」


 隅田川テラスから
     リバーシティ21 右・中央大橋



現在 この地は東京都の

ウォーターフロント
開発計画の先駆けとして

”リバーシティ21”と名付けられ
発展を続けている。

 


(googleマップ)

 

 

 

 


石川島

2021-05-11 | 出来事・行事

江戸時代の石川島(「江戸散歩)


 (「東京懐かし昭和30年代散歩地図」



前回 長谷川平蔵で
人足寄場・石川島に触れたが


石川島は 
もと森島 鎧島などと称されたが
寛永年間(1624-44)江戸幕府の船手頭
・石川八左衛門正次の所領となって
石川島と呼ばれ
また八左衛門島とも呼ばれた。


1790(寛政2)年
 老中松平定信は
 火付盗賊改の長谷川平蔵に命じ

 島を埋め立てて
「人足寄場」を建設させた。

1870(M3)年 
 寄場は廃止し

 犯罪者の懲役場となり
 石川島の監獄と呼ばれる。

1895(M28)年
 巣鴨監獄に移管されるまで続いた。

 

その後 監獄の跡地は 
共同石油タンク 三井建設倉庫ができ

石川邸跡は軍艦建造のための官営の
造船所が置かれた。

それが横須賀へ移転した跡
1876(M9)年
 石川島平野造船所となった。
1960(S35)年 
 播磨造船所と合併し

 石川島播磨重工となる。

       (IHI資料)

 

*「人足寄場」は 
 略して「寄場」と呼ばれ
 設立当初は
「加役方人足寄場」
 と称していた。

 単に無宿者(人別帳への
 登録から除かれた者)や

 引き取り人がいない
 刑余者の収容施設の他、

 人足として使役し
 強制労役所でもあった。

 また 収容者には手仕事を習得させ
 精神講話によって人間形成を行い
 成績の良い者には資金を与えて
 社会復帰を図るなどしていた。

 天保改革以後は重い追放刑の者も
 収容したため
 500人以上に達したという。

     石川島灯台(中央区佃1)


佃公園の一角 
モニメント「石川島灯台」が建っている。

説明文には

「 石川島の灯台は慶応2年(1866)
石川島人足寄場奉行清水純畸が、
隅田河口や品川沖航行の船舶のため、
油絞りの益金を割き、
人足の手で寄場南端に常夜灯を
築かせたもので
六角二層の堂々たる灯台であった。
 この完成を最も喜んだのは
近在漁師であった。

 このたび佃公園を
整備するにあたり、

モニュメントとして
灯台を建設するとともに、

護岸前面に安藤広重の浮世絵を
レリーフしたものを3題設置して
往時をしのぼうとするものである。」

 

 

 

 


長谷川平蔵

2021-05-07 | 人物忌

戒行寺(新宿区須賀町9)

   長谷川平蔵供養碑

 

 

前回 池波正太郎の
「鬼平犯科帳」に触れたが
主人公・鬼の平蔵こと長谷川平蔵は
モデルとなった人物が実在する。

その人物は
長谷川宣以(のぶため・1745-1795)で
家督を相続して長谷川平蔵と名乗っている。

その菩提寺が須賀町ある戒行寺あり
境内に長谷川平蔵供養碑が建立されている。

 
碑の説明文には

「 池波正太郎の原作と中村吉右衛門の
テレビ時代劇で広く世に知られる
「鬼平犯科帳」の主人公である
火付盗賊改の鬼平と長谷川平蔵は、
延享3年(1746)江戸赤坂築地中之町
(現港区赤坂6の12)の拝領屋敷で生まれた。
姓は藤原、名は宣以。
称は初め銕三郎、後に平蔵といった。

寛延3年(1750)鉄砲州築地湊町に転じ

明和元年(1764)本所三ツ目通り
菊川町に移った。
父 宣雄が火付盗賊改のとき
目黒行人坂の放火犯を捕えて
京都西町奉行に栄進したが
わずか10ヵ月で急逝した。
その後、宣以が家督を継ぎ、
西城御書院番や御徒頭を勤め、
御先手弓頭から火付盗賊改を兼帯。
さらに石川島人足寄場を開設した。
軽犯者や無宿者を収容して手業を習得させ、
工賃の一部を積みたてて、
出所時の更生資金に充て、
授産所として成功させた功績は大である。
寛政7年(1795)、50歳で病没、
当山に葬られた。
 
尚、当山には、鬼平の父宣雄ら
5人の火付盗賊改が葬られている。

安部式部信旨     
 享保9年 2月24日(1724・3・19)卒
桑嶋肥後守政恒 
 宝暦7年11月10日(1757・12・20)卒
山岡豊前守景之   
 明和3年 2月 4日(1766・3・14)卒
長谷川備中守宣雄 
 安永2年6月22日(1773・8・10)卒
菅沼主膳正虎常   
 寛改元年4月16日(1789・5・10)卒 
平成6年(1994)7月17日 釣 洋一 撰 」

とある。

長谷江川平蔵の概歴は

延享3年(1746)
 赤坂筑地中之町
 (現・港区赤坂)に生まれる。

 父は  京都町奉行に抜擢され
 従五位下・備中守となった宣雄(のぶお)

 母は 長谷川家に出仕していた女中。

寛延3年(1750)
 5歳の時に筑地湊町鉄砲洲
 (現・中央区湊)の屋敷に移る。

明和元年(1764)
 南本所三之橋通
 (現・菊川駅近く)に屋敷替え。

明和5年(1768)
 23歳で十代将軍徳川家治に御目見し、
 長谷川家の家督相続人となる。

  その後、旗本大橋与惣兵衛の娘と
 結婚し、二男三女をもうける。

安永2年(1773)
 父の逝去により家督を継ぎ、
    小普請の職を与えられる。

同3年(1774)
 江戸城西の丸御書院番士

同4年(1775)
 御進物番

天明4年(1784)
 御徒頭を任ぜられ 出世を続ける。

同6年(1786)
 御先手弓頭に任命され活躍

同7年(1787)
 火附盗賊改役に抜擢

寛政元年(1789)
 無宿人対策として寄場の創設を提言

同2年(1790)  
 石川島(現・中央区佃)に

 日本初の無宿人更生施設である
 人足寄場を設置し

 取扱役を命じられる。

 


小説家 池波正太郎

2021-05-03 | 人物忌

 「鬼犯科帳」(文春文庫)


5月3日は 

時代・歴史小説家
 池波正太郎が亡くなった日


池波正太郎は

1923(T12)年
 東京・浅草生れる。

 下谷・西町小学校を卒業後、
 茅場町の株式仲買店に勤める。
1942(S17)年
 国民勤労訓練所に入り、

 所内の訓練風景を描いた
 短文「駆足」を書く。

 戦中は海軍に入隊。
1946(S21)年 
 東京都の職員となり
 下谷区役所等に勤務

1948(S23)年 
 長谷川伸の門下に入り、
 新国劇の脚本・演出を担当

1960(S35)年
 「錯乱」で第43回直木賞受賞


・「鬼平犯科帳」(1968-1990)
・「剣客商売」(1973-1989)
・「仕掛人・藤枝梅安」(1973-1990)
 の3大シリーズをはじめ

・「おとこの秘図」(1977-78)
・「編笠十兵衛」(1970)
・「雲霧仁左衛門」(1974)
・「戦国幻想曲」(1970)
などがある。
また美食家 映画評論家としても著名
1977(S52)年
 吉川英治文学賞受賞

1986(S61)年
  紫綬褒章
1988(S63)年
 第36回菊池寛賞
1990(H2)年
 急性白血病で死去 享年

没後「完本池波正太郎大成」(講談社)刊行
1998(H10)年
 長野県上田市
 「池波正太郎真田太平記館」開館

2001(H13)年
 東京・浅草
「池波正太郎記念文庫」開設

 


  鬼平情景 料亭「井筒」(墨田区両国1)