あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

通帳の磁気

2019-02-27 | 出来事・行事

 

 

老化現象は 当方だけではなかった?

先日 郵便局のATMで記帳しようと

通帳を挿入するが エラーの表示で 
それ以上進まない。

窓口に事情を告げると
”磁気不良” とのことで修正し

ついでに ”通帳カバーと
磁気保護カード”をくれた。

窓口担当者 曰く 最近
通帳やクレジットカードなどの

磁気不良が多発しているとのこと。
  
不良の原因は 
マグネット・磁気を発する
もののそばに近づけないことで

携帯電話やハンドバックの
止め金などだと
 説明してくれた。

なるほど それでこのような
磁気保護カードを用意しているのだ。

磁気保護カードを通帳の裏の黒い部分と
合うように入れるよう指示がある。

これで何とか大丈夫かな。

通帳は補修すれば何とかなるが 
当方の脳 磁気不良にならぬよう
努力 活性化 あるのみ・・・

 

 

 

 


老化防止!

2019-02-25 | 出来事・行事

    

 

  前回に 続き 老化対策

  偶然 本屋で 

  “ボケない!老けない!”

  “シニアのための絶対脳力を120%ひきだす”

  との文字が目に留まり 衝動買いしてしまった。


  まあ~座して歳を重ねるよりは 

       少しでも老化の防止を考えなければと

 

  


  作品は1~22まであって 

  折る回数など段階的に難しいようだ。

    果たしてその効果は・・・

 

 




もの忘れ!

2019-02-23 | 出来事・行事

 

 

  寄る年波か 車のキー 財布 携帯など
  どこに置いたか?分からないことが頻繁になっている。

 

  携帯は他の電話からでわかるが 他のものはそんな訳にはいかない。

  その助けになる「キー ファインダー」なるものを
  通販で買い求めた。

  早速 亡失しそうな物に 6個も付けてみたが・・・。

 

     追*なんのことはない!
      この記事の写真をアップするのを忘れ
       後になってしまった。

 

 

 


ミソ造り

2019-02-21 | 出来事・行事

 

 

  この時期は 我が家の恒例の “ミソ造り”

   今年も 20kgを仕込んだ。

 
  前夜から 大豆を水に浸し 当日圧力鍋で蒸かし

   ハンドミキサーで砕く。 

 

 
  砕き終えたら 塩を少々混じた麹を投入し捏ね 
  団子状に丸める。

 

   
  みそ球を桶に空気が入らないように詰めていく。

   半年後が楽しみ!。

    孫たちも我が家のみそを待ち望んでいる。
    これが手前味噌です。

 

 


確定申告

2019-02-19 | 出来事・行事

 

 

 

 今年も確定申告の時期がやってきた。

 早速 ネット上から申告書を作成し提出した。

 医療控除額や社会保険料の額が年々増えている。

 薬で健康管理状態では致し方ない。

 しかし 計算上では源泉徴収額の全額は還付になることで

 小遣いの確保はできた。 

 これが毎年の唯一の小さな喜びで 安堵です。

 

 

   追:その後 満額 還付されました。
    さて何に使いましょうか・・・・

 

 


神奈川紀行 横須賀市 三笠公園

2019-02-08 | 国内・神奈川

 

記念艦三笠から

 

 

 

三笠公園は「水と光と音」を
テーマとした公園

記念艦三笠を中心に
音楽に合わせて舞う噴水や
ダイナミックな壁泉などが
点在ている。

 

 さざ波の階段

 

 
このモニメントは
日に4回、組曲『横須賀』の
演奏を聴くことができるという。

   

     高さ18mのモニュメント
    太陽の光でいろいろな色の変化を楽しめる

 

 野外ステージ

 

 

沖に浮かぶ無人島・猿島へは
連絡船で約10分行ける。

旧海軍の要塞跡が残るが
今はバーベキューなど
  
四季を通して楽しめる
公園になっているそうだ。

 

 


神奈川紀行 横須賀市 行進曲・軍艦

2019-02-07 | 国内・神奈川

 

     

   再び横須賀に戻る

  海軍といえば 
 
  「守も攻めるも黒鉄の・・・」の曲が浮かぶ。

 
  昔のパチンコ店でも よくこの曲が
  流されていたことも思い出す。


  

  その曲 「行進曲軍艦」の碑(平成8年建立)が
  三笠公園・戦艦三笠の脇にあった。
 
   碑文には

  「 行進曲「軍艦」は

  明治30年海軍軍楽長 瀬戸口藤吉氏によって作曲された
  日本の勃興期における行進曲として親しまれ 
  未来への明るい希望と自信を与え勇気づけるものである
  世界3大行進曲の一つとして 音楽史を彩る稀有の名曲で
  作曲されてから一世紀を迎える年にあたり 
  瀬戸口軍楽長がこよなく愛し 
  青春の日日を送り己が終焉の地ともなった
  この横須賀の三笠公園に行進曲「軍艦」の顕彰碑を
  建立いたしたものである
          行進曲「軍艦」記念碑建立協賛会」

 

       →「行進曲・軍艦」(youtube)

 


東京散策 軍艦操練所跡

2019-02-06 | 散策

 

 

  晴海通り 勝鬨橋方面に向う 築地6丁目交差点の先に
  「軍艦総連所跡」の説明板がある。


    説明文の概略は


  ペリーによる黒船艦隊の来航後、
  西洋式海軍の必要性に迫られた江戸幕府は
  1857(安政4)年 旗本や御家人、諸藩の藩士等から
  希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習や
  オランダから輸入した軍艦の運転練習をさせる目的で
  軍艦教授所(後の軍艦操練所)を 
  この地にあった築地講武所内に創設した。


  この時の中心人物が勝海舟であった。
      
      * 勝海舟については 当ブログ(2017/01/19)で 取り上げている。

  万延元年(1860)に講武所が神田小川町(現千代田区)に
  移転後、跡地一帯が軍艦操練所の専用地となる。

  元治元年(1868)築地西本願寺西隣の火事で
  類焼し焼失して 南隣の広島藩(藩主浅野安芸守長訓)
  下屋敷のあった場所(下の絵図では松平安芸守蔵屋敷)へ仮移転する。

  1865(慶応元)年 新たに海軍奉行を置く。
  1866(慶応2)年 海軍所と改称し 同年11月に類焼し、
   現在の浜離宮庭園の地に移る。

  跡地は 1868(慶応4)年 日本最初の洋式ホテルである
  「築地ホテル館」が建てられた。

  その後 1871(明治4)年 ホテルは海軍省に移ったが
  1872(明治5)年 火災で焼失し 
わずか4年で廃業している。

  この経緯からも この場所は ”海軍発祥の地”ともいえる。


   

     説明板の地図 赤枠が軍艦操練所

   

                 築地周辺(昭和34年)

               ☆印操練所説明板 □赤枠が「水神社」

 

 

 

 


東京散策 海軍発祥の地

2019-02-05 | 散策

 

        築地 水神社境内にある「旗山記念碑」

 
  海軍省が発足したさい  
  浴恩園の築山のうえに海軍卿の旗を掲げ

  旗山と呼ぶようになったのを記念して建立した。

  碑は かつて旧中央卸売市場内の跡地に建っていたが
  市場の整理で現地に移された。

 

   碑脇の 説明概略は

   「この地は 徳川時代 松平定信の別邸「浴恩園」の築山

   ・1869 (明治2)年 海軍関連施設がこの地に置かれる
   ・1872 (明治5)年 海軍省設立後
       海軍卿旗をこの丘にたてて
「旗山」と呼んだ
   ・この地はまさに海軍経営の大元であり 
      その発祥の地といってよい

    1937(昭和12)年 海軍大臣 永野修身 」

  とあり “海軍発祥の地”が裏付けられる。

  なお 築地周辺には 
  海軍大学校 海軍軍医学校 海軍造兵廠
  海軍経理学校などの施設が
あり
  まさに ”海軍の町” であった。

 

 

 

      築地・水神社


  魚河岸水神社は 1600年頃から祀られている神社で
  関東大震災で焼失した日本橋魚河岸が
  築地に移り 同時に遷座された神社。

  しかし 築地卸売市場移転に伴い 
  水神社は 再び移転することになるが?

  

 

 


東京散策 海軍兵学寮・海軍軍医学校

2019-02-04 | 散策

           国立がん研究センター構内

     

         海軍兵学寮跡の記念碑

 

  浴恩園跡の説明にあった海軍関連の施設として
  海軍士官を養成する兵学校の前身の
  兵学寮がつくられ 軍医学校も併設された。


  広島の江田島に移るまでの
  20年間 この築地の地にあった。

 それを裏付けるものが 
 築地の国立がん研究センター(築地5丁目)の敷地内に
 「海軍兵学寮跡」と「海軍軍医学校跡」の碑として並んである。

   裏面には

  「海軍兵学寮沿革
   ・1871 (明治4)年7月29日に海軍兵学寮をこの地に新築
   ・1876(明治9)年8月31日に海軍兵学校と改称
   ・1888(明治21)年8月1日に江田島に移転
           1934(昭和9)年5月建立          」
  
         因みに この碑銘の揮ごう者は
      時の首相 斎藤實 この学校の卒業生だった。



         
       海軍軍医学校跡の記念碑


  一方の軍医学校は
  1945(昭和20)年 終戦時まで続いた。


  築地の中央卸売市場は
   1935(昭和10)年に開場したが 
    2018年の閉場になった。

 

 


東京散策 浴恩園

2019-02-02 | 散策

 

     説明板「浴恩園跡」 (中央区・築地卸売市場)

 

  海軍関係の説明にしばしば出てくる
  「浴恩会」とは 
  
海軍経理学校の同窓会の名称である。

  その名称の由来は「浴恩園跡」の説明にあるように
  築地における海軍経理学校の最初の校舎敷地が
  松平定信邸の浴恩園の跡にあったことから会の名称にした。
  
  終戦とともに消滅したが
  戦後再発足した経理学校同窓会が

  「浴恩会」を正式名称として継承した。

  しかし 約一世紀の経過を経て
  2005(平成17)年に会は解散している。

  この記念すべき地は 築地卸売市場が豊洲に移転した現在
  今後どうなるのだろう?

 


東京散策 海軍経理学校

2019-02-01 | 散策

 

 

  東郷神社・海軍経理学校正門敷石の説明文に
  「隅田川河畔に移築された・・・」とあるが

  現在の勝鬨橋の西詰に 
  その海軍経理学校の記念碑がある。

  この学校は旧海軍主計課要員を育成する学校で
  その卒業生は一万人を超えている。

  碑は 1976(昭和51)年 戦後30年を経て
  学校の同窓会によって建立されている。 

   碑文には
  「明治七年、海軍會計舎が芝山内天神谷に設けられたが後、
  幾変遷を経て明治四十年にそれが海軍経理學校となった。
  その間明治二十一年校舎は築地に移されたが、
  その敷地は松平定信邸の浴恩園の跡に当たった。

  明治時代の付近には海軍の施設が多く、
  その一帯は海軍発祥の地とも称せられている。

   校舎はさらに幾度か移改築を経て昭和七年、
  この西側築地の一角に移築されたが、

  太平洋戦争中就學人員急増のため、
  品川ほか地方三ヶ所に校舎を増設した。

  戦後の海軍解体に伴い昭和二十年九月、
  同校は約七十年の歴史を閉じた。

  その間の出身者は万余をかぞえ輝かしい功績を残したが、
  戦後もわが国復興の中核となって活躍した。
  戦後三十年を機にここにその栄誉と
  同校の跡を記念してこの碑をたてる。」

 

  碑文の裏には 海軍経理学校 校歌が刻まれている。

 

           碑のある西詰側から勝鬨橋を望む