あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

作曲家 山田耕筰

2020-12-29 | 人物忌


(BS朝日「昭和偉人伝」から)

12月29日は 
作曲家・指揮者 
山田耕筰がなくなった日

山田耕筰は 

日本の西洋音楽の分野で
初めて本格的な活動を行った
作曲家・指揮者。

大正から昭和の時代にかけ
日本における西洋音楽の
基礎を作るうえで

創作と演奏の両面に貢献した。


1886(明治19)年
 東京市本郷(現在の東京都文京区)
 旧板倉藩士だった
 医師の父の下に生まれる。

1896(明治29)年
 10歳の時に実父を亡くし、
 その遺言で、巣鴨宮下(現在の南大塚)
 あった自営館(後の日本基督教団巣鴨教会)
 
に入館し、13歳まで施設で苦学する。

1899(明治32)年 
 姉の夫のエドワード・ガントレットに
 西洋音楽の手ほどきを受ける。

1904(明治37)年 
 東京音楽学校に入学し
 予科から本科声楽科、研究科へ。

1908(明治41)年 
 東京音楽学校(後の東京芸術大学)声楽科を卒業

1910(明治43)年 3年間、
 三菱財閥の総帥岩崎小弥太の援助を
 受けてドイツ・ベルリン王立芸術アカデミー
 
作曲科に留学し、
 マックス・ブルッフなどに学ぶ。
 ベルリン高等音楽学校に留学し、
 ブルッフらに作曲を師事

1914(大正3)年
 日本最初の交響楽団である
 東京フィルハーモニー管弦楽団を
 創設して、自作を指揮、発表。

1917(大正6)年 
 米国に滞在(1年半)して
 カーネギー・ホールで自作の
 管弦楽曲による2度の演奏会を開催。

1920(大正9)年 
 日本楽劇協会を発足させてオペラ運動を興す、

1922(大正11)年 
 北原白秋と共同編集の月刊
 「詩と音楽」誌を創刊、連作歌曲を発表。

1924(大正13)年
 日本交響楽協会
(後のNHK交響楽団の母体)を設立

1926(大正15)年 
 定期演奏会を開始、
 また、指揮者として全国を巡演、
 交響楽の普及にも努める。

1930(昭和5)年 
 耕作から耕筰に改名

1936(昭和11)年
 フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受章、

1937(昭和12)年 
 相愛女子専門学校(現在の相愛大学)教授に、

1940(昭和15)年 
 演奏家協会を発足させ、自ら会長に

1942(昭和17)年 
 帝国芸術院会員、

1944(昭和19)年 
 日本音楽文化協会会長

1948(昭和23)年 
 脳溢血で左半身不随となるが再起する、

1954(昭和29)年 
 文化功労者、

1956(昭和31)年
 文化勲章受章

1963(昭和38)年頃まで
 作曲活動を続け、教科書の
 編纂などにもたずさわり、

 特に“日本語の美しさ”
 “日本独自の歌曲”を求め
 日本の洋楽普及に貢献する。

1965(昭和40)年12月29日
 世田谷区の自宅で、
 心筋梗塞により79歳で死去

 

作品には オペラや管弦楽曲から
映画音楽まではば広いジャンルにわたる。

また歌曲や童謡の作曲にも取り組む。



〇北原白秋の詩

「からたちの花」
「この道」
「ペチカ」
「待ちぼうけ」
「砂山」
「あわて床屋」

〇三木露風の詩
「赤とんぼ」
「野ばら」

北原白秋とのかかわりは深く
映画「この道」(2019年)にもなっている。

 

 

 

 

 

 


百本杭

2020-12-24 | 散策


小林清親 「千ほんくい両国橋」 (Web資料から)

 

先日(11月28日) 
浮世絵師 小林清親に触れたが

その作品の一つに
「千ほんくい両国橋」がある。

千ほんくいとは 
百本くいともいわれ

江戸から明治時代末期まで 
隅田川左岸 両国橋上流に
護岸のために打たれた杭をいう。

その光景は墨田川の風物詩になり
広重などの浮世絵にもなり
小林清親も絵にしている。

 
広重・江戸百景「両国花火の図」
(隅田川テラス)


 (隅田川テラス)


 説明文には

「 両国橋と百本杭
両国橋の風景を
特徴づけるもののひとつに、
百本杭があります。
昭和5年(1930)に荒川不水路が
完成するまで、隅田川には荒川、
中川、綾瀬川が合流していました。
そのため隅田川は水量が多く、
湾曲部ではその勢いが増して
川岸が浸食されました。
 両国橋付近はとりわけ
湾曲がきつく流れが急であったため、
上流からの流れが強く
当たる両国橋北側には、
数多くの杭が打たれました。
水中に打ち込んだ杭の抵抗で
流れを和らげ、
川岸を保護するためです。
夥しい数の杭はいつしか
百本杭と呼ばれるようになり、
その光景は隅田川の風物詩として
人々に親しまれるようになりました。
江戸時代の歌舞伎では、
多くの作品の重要な場面に
「両国百本杭の場」が登場します。
「十六夜清心」でも、
冒頭に「稲瀬川百本杭の場」が
おかれています。
稲瀬川は鎌倉を流れる川の名ですが、
歌舞伎の中では隅田川に
見立てられることがあります。
観客は「百本杭」という言葉から、
この場面が実は隅田川を
舞台としていることに気づくのです。
百本杭はそれほど人々に
知られた場所だったのです。
 また、明治17年(1884)に
陸軍参謀本部が作成した地図には、
両国橋北側の川沿いに
細かく点が打たれ、
それが百本杭を示しています。
 明治35年(1902)に
幸田露伴は『水の東京』を発表し、
「百本杭は渡船場の下にて、
本所側の岸の川中に
張り出たるところの懐をいふ。
岸を護る杭のいと多ければ
百本杭とはいふなり。
このあたり川の東の方水深くして、
百本杭の辺はまた特に深し。
こゝにて鯉を釣る人の多きは
人の知るところなり」と
富士見の渡の南側から
見られた様子を綴っています。
このほか、本所向島に親しんだ
多くの文人が、百本杭と往時の
記憶について書き留めています。
 しかい、明治時代末期から
始められた護岸工事で
殆どの杭は抜かれ、百本杭と
隅田川がおりなす風情は
今では見られなくなりました。
 平成23年(2011)3月
   墨田区教育委員会 」

また絵だけでなく
歌舞伎「色街模様煎色縫」の
 「稲瀬川百本杭の場」 
落語「百本杭」
にもある。

 

 

 


永田雅一と東京スタジアム

2020-12-20 | 人物忌


1974当時 (Web資料から)


現在 (googleから)

 

前回に次いで 
千住製絨所跡に触れる。

千住製絨所跡の説明文

「 この付近一帯には、
明治12年(1879)に創業された
官営の羊毛工場である
千住製絨所があった。

工場建設用地として強固な基盤を持ち、
水利がよいことから、
隅田川沿いの北豊島郡千住南組字西耕地
(現南千住6-38~40、45付近)が選定された。

敷地面積8,300余坪、
建坪1,769坪の広大なものであった。

明治21年(1888)に陸軍省管轄となり、
事業拡大とともに、
現荒川総合スポーツセンター
あたりまで敷地面積が拡張された。

構内には生産工場にとどまらず、
研究施設や福利施設などが整備され、
近代工場の中でも先進的なものであった。


戦後民間に払い下げられ、

昭和37年(1962)、敷地の一部は
野球場「東京スタジアム」となり、
人々に親しまれてきた。

一部残る煉瓦塀が往時を偲ばせる。
     荒川区教育委員会」

 

説明文にあるように
この跡地は プロ野球の
「東京スタジアム」に
利用されていた時期があった。

東京スタジアムは
千葉ロッテマリーンズの前身にあたる
毎日大映は 当時後楽園球場を
レンタルして本拠地としいたが 
オーナーだった
永田雅一(1906-1985)は
私財を投じて 
自前の本拠地球場の建設を

この南千住の大和毛織工場跡地に決定した。

建設工事は
1961(昭和36)年7月に着工し

わずか 1年足らずの翌年の5月31日に竣工し
「東京スタジアム」と命名される。

球場は 後楽園球場より明るい照明が
設置され「光の球場」とも呼ばれ

二層式のスタンドやスロープを備え
3万5千人収容の斬新的な球場であった。

施設の運営管理は
かつてオリオンズの
オーナー企業だった
大映の
関連子会社である
㈱東京スタジアムが行っていた。

しかし 成績も
7年連続 Bクラスと低迷し 
観客動員が年々減少し
その経営は 破綻し
1972(昭和47)年限りで 閉鎖され
1977(昭和52)年に解体された。

ただ この球場の
ハイライトシーンがあった。

1970(昭和45)年10月7日
ロッテ・オリオンズが
10年ぶり リーグ優勝を
この球場で遂げた。


その優勝の瞬間 
グランドになだれ込んだファンは
濃人監督(1915-90)や選手より先に

永田オーナーを胴上げしていた。


現在の跡地は
大半が荒川区の管理する
「荒川総合スポーツセンター」
となっており 体育館や
軟式野球場などがある。
一部は 南千住警察署

都民住宅の敷地となっている。

 

 

 


千住製絨所跡

2020-12-17 | 散策

 

前回 井上省三で
千住製絨所に触れたが
その工場跡の赤煉瓦塀が残っている。

説明文には

「 荒川区登録有形文化財(歴史資料)

旧千住製絨所(せいじゅうしょ)煉瓦塀

この煉瓦塀は、明治12年(1879)に
創業を開始した官営工場、
千住製絨所の敷地を取り囲んでいた
東側の塀です。
塀の長さは北側 9.9m、南側 8.4mで、
正門の袖柱の一部と、
塀を保護するために設けられた
車止めの一部が残っています。
建設年代は、明治44年(1911)
から大正3年(1914)頃と
推定されます。

千住製絨所は、ラシャ工場とも呼ばれ、
殖産興業、富国強兵政策の一貫として
軍服用絨(毛織物)の本格的な国産化
のために設けられた施設です。
軍服用絨を製造するだけでなく、
民間工場に技術を伝授する役割も
果たしていました。

初代所長はドイツで毛織物の
技術を学んだ井上省三です。

荒川総合スポーツセンターの
西側に井上省三の胸像が
保存されています。

当初の工場は、荒川(現隅田川)沿いに
建設されましたが、次第に周辺の
田園地帯を取り込んで拡張を重ね、
大正時代には、敷地面積は
3万2406坪になりました。

千住間道を南限とし、
現在の荒川総合スポーツセンター、
南千住野球場、南千住警察署、
都営住宅、都立荒川工業高校、
東京都水道局東部第二支所などが
旧敷地に該当します。

千住製絨所の登場は、
南千住地域に大きな影響を与えました。
明治時代、汐入の二つの
紡績工場(南千住8丁目)、
石浜神社付近のガス会社
(南千住3丁目)など大規模な
工場が進出し、
また隅田川貨物駅なども設置され、
南千住は工業と商業の町へと
変貌していきました。

内務省、農商務省、陸軍省
と所管が代わり、
戦後、昭和24年(1949)には、
大和毛織株式会社に
払い下げられましたが、
同36年(1961)に工場が閉鎖され、
80年余りの羊毛工場の歴史に
幕を閉じました。

構内にあった工場の建物等は
現存していないため、
この煉瓦塀が千住製絨所に
関する数少ない建造物であり、
歴史的価値の高い文化財です。

(枠文は略)

平成22年10月 
   荒川区教育委員会 」

 

当時の風景が説明文にある。


 「千住製絨所正門」
昭和初期ころの千住製絨所正門を撮影。
画面左側が現存する煉瓦塀と考えられる。


「大日本千住製絨裏面之図」
 明治時代 江崎礼二/撮影

創建当初の千住製絨所の北東から撮影。

荷物運搬用として荒川(現隅田川)から
引いた堀があった。


東京真画名所図解「千住ラシャ製造場」
 明治17年から明治22年
 井上安治/画

創建当初の千住製絨所を
南東から描いた。

松原大門の松並木と水辺の
植物ハンノキの奥にある、

水田に囲まれた千住製絨所の様子。

 

 


製絨所所長 井上省三

2020-12-14 | 人物忌


  東京都荒川区南千住6

 

12月14日は 製絨所所長
井上省三 が亡くなった日

井上省三 は 
官営工場千住製絨所初代所長で
旧長州藩士 萩藩厚狭毛利氏家臣
奇兵隊隊長として 倒幕に活躍していた。

1871(明治4)年
 北白川宮能久親王に随行して
 ドイツのベルリンに留学

   兵学から工業に転向し猛職技術を修得
1875(明治8)年
 帰国し 内務省勧業寮へ配属

   その後 再度の欧州留学を行う
1879(明治12)年
 官営千住製絨所の初代所長に就任

1886(明治19)年
 病死 享年42

”日本毛織物工業の父”
とも呼ばれている。

説明文には

「 井上省三(いのうえせいぞう)君碑
 この碑は、官営工場千住製絨所初代所長
 井上省三の功績を後世に伝えるものである。

 
 省三は、長州(現山口県)出身で、
 木戸孝允に従って上京、後にドイツに留学し
 毛織物の技術を修得した。

 
 明治12年の千住製絨所の開業、
 日本羊毛工業の発展に尽力したが、

 明治19年に42歳の若さで死去。
 
 明治21年に製絨所の職員・職工の有志が、
 省三の偉業をしのびこの碑を建立した。

 上部の題字と撰文は、省三と同郷で、
 交遊のあった、
後の外務大臣青木周蔵と
 東京農林学校(後の東大農学部)
 教授松野礀による。

         荒川区教育委員会 」

もう一つの説明文には

「明治12年(1879)この地に官営の
 千住製絨所が設立された。

 それまで輸入に頼っていた
 羊毛製品の国産化を意図して
 建てられたもので、初代所長には
 ドイツで毛織物の技術を学んだ
 井上省三(1845〜1886) を迎え、
 ここに日本の羊毛 工業が始まった。

 
 昭和20年操業が停止するまでの
 70年間、大規模な毛織物の製造が
 行われ日本の羊毛工業の発展に寄与した。

 
 地域の人々から「ラシャ場」と
 呼ばれた赤煉瓦洋風建築のこの工場は、
 荒川区が近代工業地帯として
 発展するきっかけとなった。」

 

 

 


映画監督 小津安二郎

2020-12-12 | 人物忌

(日本映画ベスト150から)

 

12月12日は 
映画監督・脚本家 
小津安二郎が亡くなった日

何と小津の誕生日 
還暦を迎えた日であった。

小津 安二郎は
“小津調”と称される独特の映像世界で
優れた作品を次々に生み出し

世界的にも高い評価を得ている。

その特徴は
 ・
ローポジション
 ・
50mm標準レンズ 
 ・イマジナリーライン
と言われている。

1903(明3)年
 東京深川区万年町
 (江東区深川1丁目)に生まれる

1913(大2)年
 父の故郷・三重県飯南郡神戸村
 (松坂町→松阪市)へ転居

      映画「シヴィリゼーション」を
 見て映画の道を志す
1916(大5)年 
 三重県立第4中学校
 (宇治山田中学校)入学 寄宿舎住まい
1921~22(大10~11)年
 進学受験に続けて失敗 代用教員に
1923(大12)年
   代用教員を辞して妹と上京
 一家が移転した東京市深川区和倉町へ
 松竹キネマ蒲田撮影所に
 撮影助手として入所
 関東大震災で家が焼失
1924(大13)年
 本家肥料問屋廃業で
 小津地所部の事務所兼自宅に移転
1927(昭2)年 
 監督に昇進 
 第1回作品「懺悔の刃」の
 撮影中に予備役で入隊
1932~34(昭7~9)年
 「生まれてみたけど」
 「出来ごころ」「浮草物語」で

 3年連続のキネマ旬報ベストワンに
 父寅之助死去
1936(昭11)年 
 「一人息子」製作
 母と弟と芝高輪に転居
1942(昭17)年
 「父ありき」で第1回日本映画賞受賞
1943~45(昭18-20)年
 軍報道部映画班員として南方へ従軍

 主にシンガポール滞在
1946(昭21)年
 疎開中の母のもと
(千葉県野田市)に帰還
1947~62(昭22-37)年
 戦後初の作品「長屋紳士録」(47)や

 “小津調”の代表作「東京物語」(53)
 など15作を製作・公開
1952 (昭27)年 
 大船撮影所で火災があったため
 母を連れて鎌倉山之内に転居

 ここを終の棲家とした。
1958(昭33)年 
 代表作「東京物語」が
 ロンドン国際映画祭にて
 サザーランド賞を受賞
1962(昭37)年
 最愛の母あさゑ(84歳)が死去
1963(昭38)年 
 築地の国立がんセンターに入院
 還暦を迎えた12月12日
 ガンにて死去 享年60

「日本映画ベスト150」の
 監督ベスト10で2位に選ばれているが
2012(平24)年 
 英国映画協会の映画監督が選ぶ
 世界の映画100では
 ベスト1に選ばれている。


(NHK「歴史秘話ヒストリア」から)

 

“小津調”とは “オズの魔法” とも

・ローアングル 
・50mm標準レンズ
・イマジナリーライン
・回想シーンは入れない


また 小津組として 
同じ俳優・女優を繰り返し
キャスィテングし

日本の伝統的な
中流家庭を描いている。

   (参考:ウィキペディア 他)

 


剣客 斎藤弥九郎

2020-12-06 | 人物忌


千代田区九段北 靖国神社 境内

 

12月6日は 
剣客 斎藤弥九郎が亡くなった日

斎藤弥九郎は 幕末の剣術家。

1798(寛政10)年 
 越中国(富山県)氷見郡仏生寺村の
 郷士の長男として生まれる。

1812(文化9)年
 志をたて江戸へ神道無念流の
 岡田十松吉利に入門

 同門の江川太郎左衛門
 藤田東湖らと親交を結んだ。

1826(文政9)年
 29歳で独立し 江川の援助で
 九段下俎橋畔に道場 練兵館を開いた。

1835(天保6)年
 江川が伊豆韮山の代官になると
 その手代として文武の指導
 道路河川の改修,品川御台場の
 築造などに当たった。

1838(天保9)年
 道場を 三番町に移した。

 このころ渡辺崋山とも知り合い
 思想的に尊王攘夷派へと
 傾いていった。

 長男の 新太郎(2代弥九郎
 1828~88)が萩で長州藩士の
 剣術指導をしていたことから

 練兵館には長州や薩摩の
 志士が多く集まり
 門下三千余人ともいわれた。
1868(慶応4)年
 明治政府に出仕し
 会計官権判事となって大坂に赴任
1871(明治4)年
 死去  享年74

境内の説明文には

「 幕末志士ゆかりの練兵館跡

 この練兵館(れんぺいかん)は、
 神道無念流(しんとうむねんりゅう)の剣客
 斉藤弥九郎(さいとうやくろう)により、
 それまで俎(まないた)橋付近にあった
 練兵館が 天保9年(1838)の火事で
 類焼したため、この地に再建され、
 その後約30年間隆盛を誇った。 

 練兵館には、高杉晋作、
 桂小五郎(木戸孝允)、
 品川弥次郎など幕末の志士が
 多数入門し、特に桂小五郎は
 剣の腕前も優れ、
 師範代もつとめている。

 また、伊藤俊輔(伊藤博文)も
 出入りしていたといわれる。

 なお、この練兵館は
   千葉周作(北辰一刀流)の玄武館、
 桃井春蔵(鏡新明智流)の士学館
 とともに、幕末三道場といわれている。」

 
 (NHK「英雄たちの選択]から)

 

 

 

 

 


小説家 海音寺潮五郎

2020-12-01 | 人物忌


 (日本経済新聞 2003/11/15)

 

12月1日は 
小説家 海音寺潮五郎が亡くなった日

 

海音寺潮五郎は

1901(明治34)年
 現在の鹿児島県伊佐市に生まれる

 本名は 末冨 東作
1923(大正12)年
 國學院大學高等師範部に入学

1926(大正15)年
 國學院大學卒業後   中学校の教師に

1929(昭和4)年
 サンデー毎日の懸賞小説に
    応募「うたかた草子」が当選

1932(昭和7)年 
    サンデー毎日創刊10周年記念
    長編小説に応募「風雲」が当選

1934(昭和9)年
 サンデー毎日大衆文芸賞を受賞

 教師の職を離れ 作家に専念する
1936(昭和11)年
  「天正女合戦」と「武道伝来記」が
   第3回直木賞受賞

1953(昭和28)年
  「蒙古来る」を読売新聞に連載

1958(昭和33)年 
    直木賞の選考委員就任

1959(昭和34)年
  「武将列伝」をオール讀物に連載開始
 
1968(昭和43)年
 第16回菊池寛賞受賞

1969(昭和44)年
 新聞・雑誌からの依頼に
  応じないという引退宣言

1970(昭和45)年
  直木賞選考委員を辞任

1973(昭和48)年
 文化功労者

1977(昭和52)年
 日本芸術院賞受賞

1977(昭和52)年
 脳出血で倒れ 心筋梗塞を
   併発して逝去 享年76

平安時代の「平将門」 
鎌倉時代の「蒙古来る」
戦国時代の「天と地と」

幕末の「西郷と大久保」
などと  時代を問わず
壮大なスケールの長編小説を発表した。


一方「武将列伝」「悪人列伝」
「赤穂浪士」など 
史伝作家の第一人者でもある。


 


   (長野市川中島)


「天と地」は 
週刊朝日に連載(1960-1962年)

NHK大河ドラマ(1969年)
角川映画(1990年)にもなる。