町並み中にある「熊谷家」は
かつて石見銀山で栄えた古い商家だそうだ。
家業である鉱山業や酒造業のほかに代官所に収める
年貢銀を秤量・検査するなど
石見銀山御料内でもっとも有力な商家の一つで
今は国指定重要文化財に指定されている。
中には入らなかったが 内装はとても趣ある造りになっており
雲立涌文様(黄土地に銀色)を用いた襖・壁紙で
内装を整えられた座敷があり
また 熊谷家が実際に使っていた道具類や衣服をはじめ
くらしを伝える品々を展示しているそうだ。
町並み中にある「熊谷家」は
かつて石見銀山で栄えた古い商家だそうだ。
家業である鉱山業や酒造業のほかに代官所に収める
年貢銀を秤量・検査するなど
石見銀山御料内でもっとも有力な商家の一つで
今は国指定重要文化財に指定されている。
中には入らなかったが 内装はとても趣ある造りになっており
雲立涌文様(黄土地に銀色)を用いた襖・壁紙で
内装を整えられた座敷があり
また 熊谷家が実際に使っていた道具類や衣服をはじめ
くらしを伝える品々を展示しているそうだ。
こちらは床屋さんとは思えない建前だが
アンティークな理容椅子など 大正末期の貴重な理容文化が残る
「理容館アラタ」だそうだ。
2012年には 全国理容連合会「理容遺産認定」の
第一号店として認定され その碑が店前にある。
なお 現在は 和田珍味石見銀山店としてお土産物販売や休憩所として
観光客に利用されている。
和田珍味は 平成20年から 理容館アラタとともに営業を続け
和田珍味銀山店を総称して「銀山ヴィレッジ」と名前をつけて
理容館アラタの保存・維持のため協力をしているのだそうだ。
銀山川を挟んで 立派なお寺がみえるが
「西性寺」 (さいしょうじ)といい
「左官の神様」と尊敬された 松浦栄吉 が
還暦を迎えた 大正時代中頃の鏝絵「鳳凰」が
また 経蔵には ほかの三面の壁にも大輪の牡丹や菊が彫刻されているという。
1465(寛正 6)年 創立と伝えられ もと天台宗龍泉院と称していた。
のちに 白杯村の西善寺と合併して 西善坊と称するようになったが
1524(大永 4 )年 住僧宗徳の代には 浄土真宗に改宗して 西性寺となる。
現本堂は 1739(元文 4 )年に 再建されている。
こちらは擬洋風で当時の姿を残している「旧大森区裁判所」
1890(明治23)年に開所し
地方行政・司法の中心的役割を果たして
昭和20年代まで機能していた。
現在は 銀山や町並みの歴史と暮らしを映像で紹介し
また 町並みの保存修理資料を展示する
『大森町並み交流センター』となっている。
岩盤を刻んだ石段の上に「観世音寺」がある。
この寺には 朱色の門の両側に仁王様が目を見開き
傍らには十六羅漢が立ち並んでいるというが 時間なく登らなかった。
大森代官所が 銀山の隆盛を祈願するための寺で 真言宗の寺院という。
町並みの大半が焼失した1800(寛政12)年の「寛政の大火」により
観世音寺も全ての建物が焼失しまった。
現在の本堂や山門は 1860(万延元)年に再建されて
山門の仁王像は 江戸後期に造られた像が老朽化したため
1980(昭和55)年に再建されたという。
こちらは 代官所地役人の「旧河島家」
1800年代初めに建築された住宅で
平成2年に復元されており
唯一公開されている武家屋敷の遺宅で
上級武家の構えをよく伝えているという。
武家屋敷の多くは 屋敷が門塀で囲まれ
道に面して庭があり その奥に 母屋を配置している。
中には 隠し部屋もあるそうだ。
因みに 大森代官所に務めた役人を地役人といい
代々大森に居住して 銀山の経営や 領内の支配に当っていたいう。
町並みを行く途中に 石見銀山銘菓「げたのは」の看板を掲げた
江戸時代から続く老舗の和菓子屋「有馬光栄堂」があった。
「げたのは」とひらがなで書かれているので
一時 何のことか 分からなかったが
小麦粉と黒糖などを原料に造った
昔なつかしい味のするお菓子で
この菓子2枚をたたき合わせた時の音が
“カランコロン”と下駄で歩くときの音に
似ていることからこの名が付いたそうだ。
小麦粉・黒糖・砂糖・卵で作る製造法は 昔のまま受け継がれて
銀山の人夫たちも食しながら作業していたという
伝統あるお菓子であるという。
これは 土産になると思い買い求め食したが
形はサブレのようであり かりんとう味の板版かな?
普通の家屋? 暖簾が下がっているので商店かなと思ったら
中国電力の「石見あすみ館」と看板にある。
大森の町並みは 代官所 武家屋敷 寺社 郷宿 町家などが
入り混じって独特の景観を残しているが
その保存維持は大変なものがあるようだ。
島根県内に約3万の空き家があり
そのうち年に約200棟も廃棄されている現状にある。
そこで中国電力では 「古民家再生プロジェクト」を立ち上げ
この大森でもその一環として 民家を改修し
電力会社の展示施設として利用している。
中には入らなかったが IH化したキッチン 床暖房など
古民家の雰囲気を守りつつ最新の電化機器を取り入れた
新しい生活を紹介し体験できるという。
また 町並みの電線類を地中に埋め
町から電柱をなくす事業も進めているとか。
ここも 古民家を改修し 町並みに溶け込んだカフェ店がある。
エンブレムの看板には「カフェ・カリアーリ」とあり
初めて聞く名前だが そのいわれも掲示してある。
カフェ・カリアーリ 社とは 1909年にイタリア・モデナで創業され
世界の著名人からも愛飲されて歴史あるコーヒーとある。
この店が 日本で唯一認められた総輸入元になっているとも。
このコーヒーは 大量生産主義を否定するコーヒーへのこだわりがあって
焙煎から包装にいたる全工程を通じて
微生物検査をふくめた厳しい品質管理を徹底しており
世界中の優良農園から選ばれた生豆は大量生産に向かない
「分離焙煎」で丁寧に焙煎され
100年以上も門外不出の「秘伝のレシピ」に従って
ブレンドされているという。
伝統的な日本家屋の雰囲気を残す店内で
イタリアの本格コーヒーが飲めると 人気があるようだ。
大森の町並みに入って 左手 石段の上に
"竜宮"の門のような 門構えの お寺を見る。
この寺は「宝泉寺」 1596年(慶長元)年の
創建の曹洞宗の寺院で 禅の修行道場であった。
1800(寛政12)年の大火後 1807(文化4)年に 再建されたという。
また 薩摩芋を広めた 第19代代官・井戸平左衛門 とゆかりがあり
「お芋発祥の寺」とも いわれている。
この門には いわれがあって
日光や長崎の徳川家の山門に似ているところから
徳川天領の代官から 取り壊しの命が下ったが
門にむしろを掛け 板囲いして 通行止めしてしまった。
こうして 日の目を見ずに 何年か経つうち
幕府が崩壊し 明治になって
山門は取り壊しの難を免れたという。
銀山街道を下り 大森の町並みへ
この通りに差し掛かり 昔の宿場の面影を残す
木曽路・妻籠宿を思い起こしたが
ここ大森の町並みも 歴史的な建造物や文化財など
当時の面影を残し どこか 懐かしい雰囲気が漂う。
世界遺産になって 環境に配慮した石見銀山 その景観を壊さないよう
自動販売機 消火栓 エアコンなど近代的な機材も 木材で囲いされている。
一方で 古民家の趣を残しつつ 新しさも取り入れた 店やカフェなどもあるが
落ち着いた街並みに溶け込んでいる。
銀山街道を更に下ると
「鮮魚 ごまどうふ」の看板を掲げる商店をみる。
この中田商店は 川魚を扱う鮮魚店だが “手作りとうふ”を作っている。
良質のゴマとクズを使い 時間をかけてよく練り上げてあり
プルンとした食感と滑らかな口当たりとゴマの香りが人気で
そのまま ワサビじょうゆで食べるのが美味しいらしい。
中田商店は 脱サラした店主が 昭和51年に開店し
他店にない手作りの商品をと ごまどうふの試作を重ねて
人気の商品化ができたという。
NHKの「鶴瓶の家族に乾杯」の撮影(2006年)が
この店であったとの標柱が店前にあった。
銀山街道を下って来ると 西本寺の前 広い敷地に櫓が建っている。
ここは 「下河原吹屋跡」で 発掘調査によって初めて発見された
江戸時代初めの銀精錬遺跡。
鉛を利用した「灰吹」法と呼ばれる精錬法で銀を取り出していたそう...
この技法は 朝鮮半島から伝えられた銀の製錬方法で
国内では石見銀山に最初に導入され
その後全国の鉱山に飛躍的に普及し
現在でもその原理が使われている。
このことから 石見銀山が日本の「鉱業技術発祥の地」と呼ばれている。
遺跡には、銀鉱石を砕いた要石や選別のために水をためていた跡などがあり
また この櫓に上ると 銀山エリアを眺めることができるとのことだが
時間がないので割愛しました。
銀山街道を下っていくと
左手に 「豊栄神社」の石塔が建っている。
豊栄の名にしては少々寂しさが漂うが
ご祭神は 戦国時代石見銀山を14年間領有した安芸国郡山城主元就。
今NHKの「花燃ゆ」が放映されているが
この大森も 幕末の嵐が吹き荒れ
1865(慶応元)年5月 幕府は再度の長州攻めを開始し
翌6月には 長州軍が浜田を手中にし
さらに銀山領へと迫った。
これに驚いた当時の代官は7月に
地役人を引き連れで倉敷へ逃亡してしまった。
これにより 約2世紀半 57代の奉行・代官による
銀山の幕府支配は終わり
その4日後には長州軍が大森に進軍してきている。
その長州軍の隊士が浄財を募り境内地を整備したともいう。
1867(慶応3)年 徳川幕府は崩壊した。
翌年廃藩置県により「大森県」が誕生し 代官所跡に県庁が置かれた。
その後大森県は、1870(明治3)年に浜田県となった後
島根県に編入されている。