あかない日記

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静岡紀行 熱海1 起雲閣

2018-11-19 | 国内・静岡

 

 

 観光が最近盛り返してきており

  年間600万人が訪れている国内有数の人気温泉地 熱海を訪れた。

 

  まずは 「熱海三大別荘」に挙げられているその一つ

    「起雲閣」(熱海市昭和町4)へ

 

 


 玄関受付後

1919(大正8)年 内田信也の別荘の母屋として
建てられた伝統的な和風造りになっており

1階に麒麟の間と2階に大鳳の間が控えている。

 創設当時の別荘は 主に実母の静養の場所として利用され
 車椅子の生活であったので座敷と
畳廊下で囲む造りはバリアフリーになっている。


「麒麟の間」は、床の間や付書院を
構えた10畳と8畳からなる座敷。


壁は特色のある鮮やかな群青色になっている。

これは 3代目所有者の桜井兵五郎が
この建物を手に入れて旅館とする際に
壁を群青に塗り替えたもので
彼は故郷の金沢の「成巽閣」を
イメージしたといわれている。


「大鳳の間」も 基本的な構成は麒麟の間と同じだが
地袋や竹材を用いた障子など
細部にわたって工夫が施されている。



 

 内田別邸「麒麟・大鳳」の棟

 

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しばらくお休みします!

2018-11-03 | 出来事・行事

 

ご訪問いただき ありがとうございます。

都合により しばらく お休みさせていただきます。

                                  管理人

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信州紀行 坂城町10 昭和橋

2018-10-31 | 国内・長野

 

 

右端 ピラミッドのような山は「岩井堂山」。別名は「自在山」という。
ここには 戦国時代には 甲斐の武田の狼煙台があった。

 

 

国道18号坂城交差点の西 千曲川に架かる 
古きアーチの姿に独特な味わいがある「昭和橋」に魅かれた。


この橋の特徴は 
鉄筋コンクリート造りの「ローゼ橋」だが
 戦争で鋼材が不足したとき
 長野県の道路技師・中島武技師が設計した
世界初の技術で架けられた。

全長500m 9つのアーチが連なる。

鋼材が自由に手に入るようになってからは
 コンクリートローゼ橋の時代は終えている。

 

坂城町には159の橋があり
その中でも 1937(昭和12)年に架けられたが

2002(平成14)年には「土木遺産」 に
認定された特別な橋になっている。


昭和橋の指定の内容は
「中島武技師によって造り出され
戦前戦後を通じて長野県下で量産された
RCローゼ桁の中で現存している戦前の5橋」
として指定されている。


昭和橋のほか 
・木曽福島町の「大手橋」
・小谷村の「姫川橋」「親沢橋」
・佐久穂町の「栄橋」

いずれも昭和11年から13年に架橋されている。

因みに 「土木遺産」は 
土木学会が社会へのアピールや
まちづくりへの活用などを目的に
2000(平成12)年から選んでいる。
幕末から昭和20年代の土木構造物が対象。

 

 

 

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信州紀行 坂城町9 しなの鉄道と「ろくもん」 

2018-10-30 | 国内・長野

 

  坂城駅を通過する「ろくもん2号」(長野→ 軽井沢コース)

 


第3セクター「しなの鉄道」の軽井沢と
長野間に観光列車(2014年から運行)が走っている。

その一つ「ろくもん」が 坂城駅を通過するのを見た。

 

「ろくもん」は
「真田一族」の家紋である「六文銭」から命名され

列車の配色は 真田信繁(幸村)が
大坂冬の陣などで用いた「赤備え」
(甲冑や武具を赤で統一すること)を
イメージした濃い赤を基本色として
真田の家紋である「六文銭」「結び雁金」「州浜」を
ゴールドで飾られている。
(113系車両を改造 デザインは水戸岡鋭治氏)

 


キャッチフレーズには 信州の木のぬくもりを乗せ
高原の風と共に 景観を楽しみながら
この土地の歴史・文化にふれ
信州の幸を満喫していただく旅を提供するとある。


 

 

  「しなの鉄道」は 元は国有鉄道 国鉄分割民営化後は
東日本旅客鉄道(JR東日本)の信越本線の一部で
1997(平成9)年に北陸新幹線 高崎-長野間
(2015年の金沢延伸前は長野新幹線)が
開業した際に JR東日本から経営分離された区間。


なお  しなの鉄道では 2つ目の路線として
2015年(平成27年)に 

長野 – 妙高高原間の「北しなの線」を
開業(JRから経営分離)させている。

 

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信州紀行 坂城町8 坂城駅と169系電車 

2018-10-29 | 国内・長野
  1.  

 



坂城駅は しなの鉄道 軽井沢駅から50.4kmに位置する。

1888(明治21)年 官設鉄道信越線の駅として開業。

1987(昭和62)年 国鉄分割民営化により
東日本旅客鉄道・日本貨物鉄道の駅となる。

1997(平成9)年 北陸新幹線開業に伴う経営分離により
JR東日本の駅がしなの鉄道に移管された。

 最近の乗降客は 800人台で千人を割っている。

 

 

駅の構造は 島式ホーム1面2線を有する地上駅で
構内北側の駅舎とホームの間は
エレベーター付きのこ線橋で連絡している。


坂城町が業務を受託する簡易委託駅になっている。

 

 

坂城駅南側 鉄路脇に あの懐かしい湘南色の
 169系S51編成3両が 2013(平成25)年から展示されている。

展示されている車両は 
上田側の2両は「クモハ169-1」と「モハ168-1」
 その型式のそれぞれ最初に製造され
また長野側の「クハ169-27」は最後に製造されたもの。
 

 

 

坂城町では

 酷暑が続く中 涼しさも節電意識も共有しようと
冷房を効かせた公共施設を「クールシェアスポット」として
アピールする取り組みに力を入れている。


そんな中 4年前からは毎夏
この「169系車両」を同スポットとして2日間開放してきた。

例年以上に暑い今年は
「高齢者らの体調管理のためにも拡充が必要」として
開放日を増やしたニュースもあった。

 

 

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信州紀行 坂城町7 刀のできるまで 

2018-10-28 | 国内・長野

 

 

 「刀のできるまで」が図解展示されている。

①    刀の原料(玉鋼)

②    薄く平らに打ち延ばす

③    小割にする

④    選別する

⑤    同質の鉄であらかじめ作っておいた台の上にそれぞれ積み重ねる

⑥    1300度まで炭を熱し鍛打ち

⑦    切れ目を入れて折る

⑧    それぞれ10回程度繰り返す皮鉄・心鉄を形成する

⑨    造りこみ(甲伏せ)

⑩    二つを組み合わせて鍛接する

⑪    刀の形に延ばす

⑫    この段階で日本刀としての姿に。小槌で打ち出し。

⑬    やすり掛けさらに砥石で仕上げ。

⑭    刃紋を入れるため焼刀土を塗る。

⑮    刀身を赤らめる。

⑯    焼き入れる。

⑰    焼きを入れる。

⑱    砥石(鍛冶研ぎ)

⑲    研ぎ師等へ回す。

⑳    最後に銘を入れ完成

 

 

刀にまつわる名称は漢字検定の勉強にもなる。

〇刀身:刀の切先から、柄に隠れている茎までの範囲。

・刃先:刃の中でも鋭くなっている部分。

・刃 :斬れる部分。

・刃文(はもん):

・刀区(はまち):

・茎 (なかご):柄に隠れている部分。

 

・鎬(しのぎ):刀身の断面を見た時に、峰寄りの所にある張っている部分。

・地

・棟区(むねまち):刃の反対側にあり、斬れず厚さがある部分。

 

・目釘穴(めくぎあな):刀身と柄を固定する「目釘」を通すための穴。

・銘(めい) :刀工が自らの作であることを証明

・鑢目(やすりめ):柄から刀身が抜けにくくするためのもの

〇切先(きっさき):刀の先端。鋭く尖った部分または先端から3寸(約9㎝)の幅。
    ・ふくら:鋒部分が描くゆるやかな曲線

・鋒  :横手から先の刃先まで

・物打 :―実際に刀で斬る時に中心的に使う部分。

・鋩子(ぼうし):切先の焼刃のこと、刀の中でも最も重要な部分

・横手:鎬筋から更に棟側に続く盛り上がり部分 

 

  他に「日本刀の誕生」「刀とたちの違い」「刀の長さと反り」「波文」「日本刀の姿」

「日本刀の科学」などの展示解説があった。

  

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信州紀行 坂城町6 鉄の展示館 

2018-10-27 | 国内・長野

 

 

歴史館から脇道に入り「鉄の展示館」へ。

この鉄の展示館は 坂城「刀匠の町」に因んで
2002(平成14)年に開館している。

 


 




故 宮入行平刀匠(名誉町民1号)が
人間国宝に認定され その功績を顕彰するとともに

世界に誇る日本刀の素晴らしさを
伝える施設になっている。


宮入氏の功績が認められたころから
 坂城町が「刀匠のまち」と呼ばれるようになった。

 

最近は「刀剣女子」と呼ばれる女性も現れ
 「刀」の魅力に人気があるようだ。


その魅力は

   ・姿(すがた)・・・刀のそり 身幅など刀全体の姿
・刃文(はもん)・・・施した際、硬い刃先と
         軟らかくした他の部分との境目にできる
白い粒子状の帯のこと           
・地鉄(じがね)・・・・・刃身の素地     

 の三点にあって これらの特徴が評価されている。

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信州紀行 坂城町5 和算

2018-10-26 | 国内・長野

 

 

この坂木の地でも「和算」が
盛んであったようで その展示もあった。

 

日本の数学は 飛鳥・奈良時代の頃 
中国から数学書や計算の道具である
「算木」(短い棒を縦・横に並べて数を表す)が
伝来し少しずつ発達した。

室町時代には中国から流入した「そろばん」は
江戸時代に入り産業や経済の発達を背景に武士や商人 職人
さらには農民までが使用し
「そろばん塾」や「寺子屋」で学ばれた。


特に吉田光由が著した「塵劫記」(じんこうき)は
そろばんを使った計算法や実用的な問題を解く方法を
わかりやすく紹介されたことから
江戸時代のベストセラーになった。


17世紀後半、「算聖」こと関孝和が登場すると
中国から伝来した高度な計算法である天元術を
さらに進歩させた方法=点鼠術(てんざんじゅつ・筆算式代数学)を考案し
日本独自の数学を築き上げた。


関孝和に始まる「関流」をはじめ
和算はいくつもの流派(最上流、宅間流、宮城流など)を生み
江戸、京、大阪を中心に全国へと広がった。

和算は  土木工事から天体観測
商業など実用的な面を持ちながらも、
俳句、和歌と同じような趣味感覚で
難解な問題を発見し解くことを楽しむ
世界でもまれな文化として成長し、
そのレベルは 西洋数学の最高水準に 匹敵するものもあった
   (説明文等から)

 

 

  

「算額」とは 数学の問題が解けたことを神仏に感謝するとともに
その成果を効率よく民衆に知らしめるため
人に集まる神社仏閣を発表の場として奉納した数学の“絵馬”で
江戸時代中期ごろから始まった風習といわれる。

 

さらに難問や問題だけを書いて
解答を付けないで奉納するものも現われ
その問題を見て解答を算額にして
また奉納するといったことも行われた。


このような “算額奉納” の習慣は世界にはなく
日本独自の文化であった。

しかし 明治時代に入ると 西洋数学が導入され
日本の教育現場から消えていった。


現在、算額は全国に約820面が現存していて
ここ長野県には66面があるそうだ。

 

 

 

関孝和(1642‐1708年)の墓は
浄輪寺(東京都新宿区弁天町)にある。

江戸時代中期の和算家で 幕府に使え
勘定吟味役や御納戸組頭を勤めた。 

従来の算木法から筆算になおして
解く「帰源整法」を発見した。


さらに「行列式論」「正多角形理論」などの
分野を開拓し和算の発展に貢献し

多くの弟子を持ち「関流算法の祖」と呼ばれる。


 

「和算の侍」(新潮文庫)
 

天才算術家 関孝和に師事し
理を究めた高弟 建部賢弘(かたひろ)はじめ
江戸の天才数学者たちの数奇な
人生模様を描く物語も読んでみた。

 

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信州紀行 坂城町4 村上氏 

2018-10-25 | 国内・長野

 

 

坂城といえば「村上氏」
その信濃村上氏の発祥を  この歴史館で展示説明している。

 

清和源氏の流れをくむ村上氏は
村上郷(坂城町)を発祥とし
建武中興時代に功績を残した村上義光や
信濃惣大将として守護と同時の権限を有し
坂城郷(坂城町)を領有して
信濃に確たる地盤を形成した村上信貞を誕生させた。

その後  国人領主として東北信地方で
勢力の拡大を進めた村上氏は 
1400(応永7)年 信濃を二分して
行われた戦い「大塔合戦」で
村上満信が反守護勢力の盟主となり
守護の小笠原氏に勝利した。

村上氏は名実とともに
信濃を代表とする領主へと成長した。

15世紀半ばに応仁の乱が始まると
戦国総覧の中、村上氏は更なる領土拡張を進め
北・東信濃最大の戦国領主となって
村上義清の時代を迎えた。

 

その村上義清(1501-1573年)は 
1548(天文17)年の上田原の戦い 
二年後の砥石合戦と甲斐の武田信玄を
二度も破ったことでも知られ
北信濃を代表する戦国武将として
この坂木を本拠地とした。

しかし  二度の勝利も束の間
1551(天文20)年 武田家家臣の真田幸隆(幸綱)により
最前線の砥石城(上田市)を奪われ
戦況が悪化する中、1553(天文22)年 
居城であった葛尾城(坂城町)を自ら落とし
越後の上杉謙信に援けを求めた。


その後 義清は上杉軍の武将として
川中島の戦いにも参戦している。

ほかの展示で 瀬戸内海で活躍した
「村上水軍」や「水戸村上家」にも
関連があることを知る。

 

    
上杉側から描いた川中島合戦図屏風
         この中に活躍する“村上義清を探せ!”

 

 



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信州紀行 坂城町3 坂木宿 

2018-10-25 | 国内・長野

 

 

 

坂木宿は 北国街道の宿場の中でも早く
1603(慶長8)年に徳川家康から伝馬宿の指定を受けた。

街道開設当初から横町40軒 立町35軒で伝馬の業務を勤め
 問屋や年寄といった宿役人は両町で勤めていた。

村の政治を行う村役人についても同じように両町で勤めていた。

大名が休泊する本陣・脇本陣は立町の宮原家 中沢家が務め
 高札場も本陣宮原家の前に立てられた。


寛永年間の頃(1624~44年)になると参勤交代が制度化し
 大名一行等の往来も増え 休泊施設がさらに必要となり
 代官長谷川安左衛門が新たに新町と大門町を宿場に造成し
新たに60軒を超す家々が建ち並んだ。

 



坂木宿内は 城下町を思わせるような曲がり角が多い。


横町が東西に 北に折れて立町 大門町と北に進み
西に折れて 新町と続いていた。

 



鉄道 国道は この街並みを避けて設けられたので
 今でも宿場町の風情を残している。


 

 
 “坂城”の町名は明治以降のもの。

 

 

 

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信州紀行 坂城町2 坂木宿ふるさと歴史館 

2018-10-23 | 国内・長野

 

 

 

  先ずは駅前通り(県道339号線)にある
「坂木宿ふるさと歴史館」へ。


この建物は 江戸時代に
北国街道の宿場町として栄えた
坂木宿の本陣跡地(560坪)に
1929(昭和4)年 に建てられた。

 

特徴的な木造3階建の日本家屋と
戦後増築された西洋風2階建からなる。

本棟には12和室 北棟は水回り 東棟15畳の
二間続き座敷を平屋づくりなっている。

内部3階部分の間取りは140mmの角柱12本を
屋台骨とした城郭建築のような造りで

中央の中廊下を軸に6畳・8畳の
和室4室が設けられている。


かつての旅館かと思うような外観は 
「春日医院」として使われたたてものであった。


2001(平成13)年に 町に寄贈、整備され
「坂木宿ふるさと歴史館」になった。


主な展示は「信濃の村上氏」と戦国時代勇将「村上義清」を
中心に 北国街道坂木宿関する資料を展示している。

   

 東南側から 入母屋造り三階建てに丸窓がここにもあった。

 

 

西南隅に旧本陣表門が現存する。

坂木宿本陣があった当時のもので
間口6間 奥行2.5間あり町指定の有形文化財になっている。


内部は、町内で収集した民具の展示室になっている。

   

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信州紀行 坂城町1 

2018-10-22 | 国内・長野

 

 

 別所温泉から坂城町へ

 少々時間があったので 駅前周辺を散策してみた。

 

  埴科郡坂城町は 県内77市町村の内 

23ある町の一つ 人口約15千人

海抜393m 主流千曲川沿いに 

しなの鉄道 上信越自動車道 国道18号線が走り


重要な交通の要所となっている。

 

 

町章は一般募集により 「サカキ」を図案化し

円周は「和」を表し 中央の線は

「飛躍する翼」を象徴している。
(昭和30年10月1日制定)


現町長(S22生)は 富士通の社員であった人で

 2011(平成23)年 就任し現在2期目になる。

 

 

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信州紀行 別所温泉28 戻り橋

2018-10-21 | 国内・長野

 

 

 

大湯専用駐車場の近く 湯川に架かる橋に
「西行の戻り橋」の説明板があった。

 

説明文等には

「昔 西行法師がこもろの布引観音から別所の北向観音への道すがら

このあたりでワラビを採って遊んでいた村童に戯れて

「子どもらよ、ワラビ(わら火)を取って手を焼くな」
と問いかけた。

すると子どもらはすかさず
「法師さんヒノキ(木の火)笠着で頭を焼くな
とやり返したそうな。


西行法師は、子どもですらこのようにトンチのきく
村に恐れをなしてこの橋を渡らずに

引き返したことから 
この橋を「西行の戻り橋」という。」とあった。

 

また その後 村の嫁入り行列は「戻るのは縁起が悪い」と
 この橋を通らないことにしているそうだ。

 

  相染橋の別名が「西行の戻り橋」

 

西行(1118– 1190年)は、平安時代末期から
鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。
俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。
憲清、則清、範清とも記される。
出家して法号は円位、のちに
西行、大本房、大宝房、大法房とも称す。

            (ウキペディア)

 

温泉街を流れる「湯川」

 

 

 

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信州紀行 別所温泉27 岳の幟り

2018-10-20 | 国内・長野

 

 

 

マンホールの蓋に子供らが竹笹を持つ絵
 「岳の幟り」とある。

 

調べると 「岳の幟」は

室町時代の大干ばつの時に、村
人が夫神岳の山の神に雨乞いをしたら雨が降ったので
、各家で織った布を奉納するようになったのが始まりと言われ、
以来500年も続いており 
国の選択無形民俗文化財に指定された珍しい祭り。

毎年7月15日直近の日曜日に

温泉街の4地区の100人以上の住民達が交替で
数十本の色とりどりの反物と竹竿でできた長さ約6mもの
 幟をかつぎ 標高1250mの夫婦岳山頂から
別所神社まで温泉街を練り歩く。

途中、笛や太鼓の軽快なリズムに合わせて、
地元の小学生たちが竹を打ち鳴らす
「ささら踊り」や、若手の獅子の舞いも行われる。

 

 

  (webから)

 

  

こちらは 岳の幟500年祭記念として
平成16年に設置された「足湯ななくり」。


説明文には 「安楽寺の八角三重塔を
モチーフにした総ヒノキ造りで

お湯の温度は季節による気温変動に
対応できるようにしてある。

地名の七九里と今の苦しみが離れると七苦難の意を兼ねて
「足湯ななくり」と名付けられた。」

 無料で 別所温泉の上質な硫黄泉を
源泉掛け流しに浸ることができる。

 

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信州紀行 別所温泉26 温泉薬師瑠璃殿

2018-10-19 | 国内・長野

 

 

北向観音本堂脇の崖上ににある「温泉薬師瑠璃殿」。

はじめに建てられた年代は不明だが
伝説には行基によって開かれたのが始まりで

その後 盛衰を繰り返し現在の「大師湯」の
西隣りに 慈覚大師が再建したが

1741(寛保2)年の豪雨により
湯川が氾濫し大破してしまった。


現在の建物は 1809(文化6)年 
地元の人々によって再建されたもの。


内部には薬師如来像が安置されている薬師堂ではあるが

「医王尊瑠璃殿」とも呼ばれている。

ちなみに「瑠璃」は
薬師如来を「瑠璃光如来」とよぶことからきている。

 

 

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