あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

測量家 伊能忠敬

2021-04-13 | 人物忌

   伊能忠敬銅像  富岡八幡宮門前(江東区富岡1丁目)

 

4月13日は 
江戸時代の測量家 
 伊能忠敬が亡くなった日 

 

伊能忠敬は 
江戸時代の商人、
天文学者・地理学者・測量家。   

通称は三郎右衛門、勘解由(かげゆ)。
字は子斉、号は東河。

1745(延享2)年
 上総国(千葉県)で生まれ、

 酒造家の伊能家のミチと結婚し
 商人として生活する。

1794年に隠居をして
 暦学の本を取り寄せ勉強をしたり

 天体観測を行ったりしていたが
 関西方面に旅をしたことをきっかけに
 測量に興味を持つ。

50歳の時
 19歳年下の天文学者・高橋至時に
 弟子入りし 
暦学・天体観測
 ・測量などの知識と技術を学ぶ。 

1800(寛政12)年から
 1816(文化13)年まで
 17年をかけて日本全国を測量して
「大日本沿海輿地全図」を完成させ
国土の正確な姿を明らかにした。

1818(文化15)年 死去 享年73

 

碑の説明文には

「 近代日本地図の祖師である
伊能忠敬先生は、 

事業に成功したあと50歳のとき江戸に出て、
当宮近くの黒江町(現在は門前仲町1丁目)   
隠宅を構えていました。
 約200年前の寛政12年閏4月19日
(陽暦では1800年6月11日)の
早朝に当宮に参拝して
蝦夷地(北海道)測量の旅に出かけました。
 忠敬先生はこのときを含めて
全部で10回の測量を企画しましたが、
遠国に出かけた第8回までは、
出発の都度必ず、
内弟子と従者を
率いて富岡八幡宮に参詣して、
無事を祈念したのち、千住、品川宿など
測量開始地点に向かって歩き出しました。
当宮は伊能測量にとって
たいへん御縁の深い場所であります。
 伊能測量開始200年にあたり、
「伊能ウォーク」、地図・測量、
土地家屋調査士、
伊能忠敬研究会
などの関係者が中心となって、

広く一般から浄財を公募して
建立されました。

 平成13年10月 
  伊能忠敬銅像建立実行委員会 」

 

  
  象限儀と御用旗(国土地理院ロビー)

  国土地理院 展示パネル

 

55歳から全国を
北へ南へと歩き回って
正確な日本地図をつくる。

その距離は 地球1周に近い
35,000kmに及ぶという。

 

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小説家 田宮虎彦

2021-04-09 | 人物忌


 (朝日新聞 1995/11/02)

 

4月9日は 
小説家  田宮 虎彦 が亡くなった日

田宮虎彦は

1911(M45)年  東京に生まれる。

船員だった父の転勤のため
姫路・神戸・高知間で移転を
繰返しながら少年時代を過ごす。

東京帝国大学文学部国文学科在学中から
同人誌「日暦」に参加し
小説「無花果」などを発表した。

1936(S11)年
 「人民文庫」創刊とともに参加するが

 治安維持法により度重なる
 発禁処分を受けた人民文庫は廃刊

   その後 女学校教師などを
 しながら小説修業を続ける。

1947(S22)年
 「世界文化」に発表した「霧の中」で
  注目され 小説家生活に入る。
    「物語の中」「落城」「末期の水」
 「菊の寿命」等を発表。

    太平洋戦争時代に取材した
 自伝的作品「菊坂」「絵本」「足慴岬」等
    精力的に作品を発表
1951(S26)年
 「絵本」で毎日出版文化賞を受賞

1956(S31)年
 妻を胃癌でなくす。

 妻・千代の妹は
    英文学者 小田島雄志(1930-)の妻

1957(S32)年
 亡き妻との書簡集をまとめた
 「愛のかたみ」がベストセラーになる。

1988(S63)年1月
 脳梗塞で倒れ、右半身不随に
同年4月9日
 北青山のマンション11階
   ベランダから投身自殺


脳梗塞が再発し手がしびれて
思い通りに執筆できなくなったため
命を絶つとの遺書。

享年77。

 

「足摺岬」は
 1949(S24)年に発表した小説。

    絶望した帝大生が断崖絶壁の足摺岬に
    向かう途中
宿屋に転がり込み
    宿屋の主人や娘
同宿の温かい人情に
   触れるうちに立ち直っていく。

 

映画「足摺岬」は 
1954年 近代映画協会から

監    督 吉村公三郎
出演者 木村 功 津島恵子

音楽は 伊福部 昭 が担当している。

 

 

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画家 河野通勢

2021-03-31 | 人物忌

 

3月31日は 
画家 版画家  河野通勢 が亡くなった日

河野通勢( こうの みちせい)
風景画  人物画  銅版画  木版画
小説の挿絵・装丁 山水画  南画など

多岐にわたり作品を残し 
画風も題材や時期によって
様々なものになり 
舞台美術も手がけている。

代表作には関東大震災に取材した
多数の銅版画が挙げられる。

 

河野通勢は

1895(M28)年 
 長野市南長野(群馬県伊勢崎市とも)で出生

1914(T3)年 
 旧制長野長野中学14回生として卒業

同年  第1回二科展に初入選


その後  岸田劉生らの草土社で活躍し

細密な描写とデッサン力で
注目を浴び 多くの人を魅了する。

さらに大正期後半以降
挿絵を描きはじめ

・長与善郎「項羽と劉邦」   (1920)
・白井喬二「富士に立つ影」(1924)

など数々の作品を生み出し
活躍の場を広げていった。


 

 特に 武者小路実篤 (1885-1976)とは
「白樺」や草土社の活動を通して知り合い

 以後、実篤が主宰した大調和美術展覧会や
 新しき村美術展に参加し

 新しく村の活動にも様々な形で協力した。

 中でも実篤の作品の装塡を
 数多く制作し

 代表作「井原西鶴」(1931)や
「七つの夢」「気まぐれ日記」「金色夜叉」
 などの挿絵を描くなど
 生涯にわたり実篤と深い交流があった。

2003(H15)年 
 調布市武者小路実篤記念館では
「河野通勢と実篤」として
 特別展が開催されている。


1950(S25)年3月31日 
 肺炎により死去 享年55

 

なお 父の 河野次郎 (1856-1934)は
 長野師範学校の図画教師も務め

 高橋由一 (1826-1894)の門下で洋画の
 普及・教育に尽力した洋画家であり

 後に写真家となった
 熱心な正教徒であった。

 
 通勢も 9歳(1903年)の時に
 洗礼を受け  聖名は「ペトル」。

 
 このことから キリスト教  正教に
 題材にした作品も数多い。

 

 

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儒学者 藤田東湖

2021-03-28 | 人物忌

「藤田東湖護母致命の処」(後楽1-3-40・東京都指定旧跡)

 

NHK大河ドラマ「青天を衝け」第5話
(2021/03/14)が放送され

徳川斉昭の側近・藤田東湖が 
江戸の地震で亡くなった場面があった。

 

江戸地震は
安政2年10月2日(1855年11月11日)に
発生した安政の大地震であり 

その地の説明文には

「 幕末の儒学者 藤田東湖(1806-55)は
水戸藩士で 藩主徳川斉昭の信任も、
きわめてあつかった。

弘化元年(1844)藩政改革に尽力したが、
遂にそれが幕府の疑惑をまねき、
斉昭は謹慎に、東湖は蟄居の身となった。

後に許され、斉昭は藩政に復帰し、
東湖は江戸詰を命ぜられ、
小石川の水戸上屋敷に住み、
側用人になった。

安政2年(1855)の大地震がおこり、
藩邸が倒壊した。

東湖は母を助けて外に出たが、
母がその時、火鉢の火が危ないと、
再び屋内に引きかえした。

東湖は母を救い出そうと
家にもどった時鴨居が落ちてきた。

東湖は老母を下に囲い、肩で鴨居を支え、
かろうじて母を庭に出した。

しかし、東湖は力つき、
その下敷きとなって圧死した。

その場所は白山通りで、
そこに記念碑があったが、
拡幅工事のため道の中になってしまった。

そこでこの碑は、
後楽園庭園内に移された。 


文京区教育委員会 平成11年3月  」

 

*なお 母を助けた話は諸説あるようで
 NHKのシーンでは母の話には触れていない。

*また母親・梅子は
 1867(慶応3)年に87歳で亡くなっている。

 

藤田東湖は

1806(文化3)年
 水戸城下の水戸学者藤田幽谷の
 次男として生まれる。名は彪  東湖は号

1827(文政10)年 
 家督を相続し 進物番200石となる。
 その後は 水戸学藤田派の後継として
 才を発揮し彰考館編集や
 彰考館総裁代役などを歴任する。

 また  当時対立していた立原派との
 和解に尽力するなど水戸学の大成者となる。

1829(文政12)年
 水戸藩主継嗣問題では
 徳川斉昭(1800-1860)派に与し

 同年の斉昭襲封後は 郡奉行
1831(天保元)年
 江戸通事御用役、御用調役と昇進

1840(天保11)年
 側用人として藩政改革にあたるなど
 藩主・斉昭の絶大な信用を得る。

1844(弘化元)年 
 斉昭が隠居謹慎処分を
 受けると共に失脚し 禄を剥奪される。

1846(弘化3)年 
 斉昭が謹慎解除されるとそれまでの
 責めを受け江戸屋敷に幽閉
 翌年 謹慎処分となる。

1850(嘉永3)年
 水戸に戻ることを許され、

1852(嘉永5)年 処分を解かれている。
1853(嘉永6)年 
 ペリーが浦賀に来航し、
 斉昭が海防参与として幕政に参画。

 東湖も江戸藩邸に召し出され、
 幕府海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐する。

1854(安政元)年
 側用人に復帰

1855(安政2)年
 大地震により圧死 享年50

 

追:1853年のペリー来航に際し
 東湖は 
松代の三山の一人
 山寺常山 と対応策を画策している。
 山寺常山については 当ブログ
 信州紀行松代町9(2016/7/26)触れている。

 

   (参考:ウィキペディア ほか)

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無教会主義者 内村鑑三

2021-03-23 | 人物忌

NHK「100分de名著」から

 

3月23日は 
  キリスト教思想家 無教会主義者

 内村 鑑三 が亡くなった日

内村鑑三は

1861(万延2)年 
 高崎藩士・内村宜之の長男として
 江戸小石川に生まれる。

 鑑三の名は 三度自己を鑑みるという
 意味で父が名付けたと言われる。
1874(M7)年
 東京外国語学校(のち東京大学予備門)に入学。

1877(M10) 年
 札幌農学校第2期生として入学許可。

 東京外国語学校から札幌農学校にかけて
 新渡戸稲造  宮部金吾と同級になり
 終生の友となる。

1878(明治11) 年
 メソヂスト監督教会宣教師
 メリマン・C・ハリスより受洗。

 卒業後  開拓使御用係、
 農商務省農務局水産課に勤める。
1884(M17)
 役所を辞職し  米国に私費留学する。

 フィラデルフィア郊外の
 障害児養護学校に勤務し
 弱者への心を学ぶ。

 その後ペンシルベニア大学で
 医学と生物学を学ぶ

1885(M18) 年
 新島襄の勧めでマサチュセッツ州
 アマースト大学3年に編入、
 伝道者になる道を選ぶ。

 続いて神学校に入学するも
 神学教育に失望し退学
1888(M21) 年
 帰国後 第一高等中学校在職中

1891(M24)
 教育勅語奉読式で
 「不敬事件」を起こし職を辞す。

 この頃から 執筆活動を開始し
 ・「基督信徒の慰め」(1893)
 ・「求安録」(1893)
 ・「余は如何にして基督信徒となりし乎」
  (1895・後の「代表的日本人」)
 などを著わす。

1897(M30)年
 「万朝報」の記者になり

 幸徳秋水、堺利彦らとともに
 社会評論家としても世間で
 名が知られるようになる。

1898(M31)年
 「東京独立雑誌」を創刊

1900(M33)年
 個人雑誌「聖書之研究」を創刊

1901(M34)年
 「万朝報」が結成した
  「理想団」には幹部として参加し

 足尾鉱毒事件では
    鉱毒反対運動にかかわるなど

 社会運動家 としても活躍する。
 また「無教会」を創刊し
    無教会主義を創唱。

 生涯  平信徒として聖書の研究と
    執筆活動をつづけた。

1903(M36)年
 日露戦争を機に「非戦論」を展開し

 幸徳秋水  堺利彦らとともに
 「万朝報」を退社。

 内村の社会的活動は
 この時期をピークとして
 徐々に影を潜める。

1918(T7)年
 キリスト再臨信仰に基づく
    再臨運動を開始。

1930(S5)年3月28日
 心臓病で死去。 69歳

 

 

 著書「代表的日本人」で取り上げた5人 (NHK「100分de名著」から)

 

 

 

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指紋研究者 ヘンリー・フォールズ

2021-03-19 | 人物忌

「ヘンリー・フォールズ住居の跡」
 (中央区明石町)

 

3月19日は 
英国の医師 指紋研究者

ヘンリー・フォールズが亡くなった日

フォールズは 
日本に滞在していた居住跡が

中央区明石町にある。

説明文には

「ここは明治初年にあった
築地居留地の18号地で

英国人医師ヘンリー・フォールズ
(1843~1930)が

明治7年(1874年)から
同19年(1886年)に至る

滞日中に居住した所である。

フォールズは
スコットランド一致長老教会の

宣教師として来日し
キリスト教布教のかたわら

築地病院を開いて診療に従事し
また日本人の有志とは
かって盲人の保護教育にも尽力した。

 彼はわが国で行われていた指印の習慣に
興味をもちたまたま発掘された土器に
印象されていた古代人の指紋を発見し、
これにヒントを得てここではじめて
科学的な指紋の研究を行なった。

明治13年(1880年)10月
英国の雑誌「ネーテュア」に
日本から投稿した

彼の論文は科学的指紋法に関する
世界最初の論文といわれ、
その中で早くも犯罪者の
個人識別の経験を発表し、
また指紋の遺伝関係にも
言及している。

明治44年(1911年)4月1日、
わが国の警察においてはじめて
指紋法が採用されてから
満50年の今日

ここゆかりの地に記念碑を建立し
その功績をたたえるものである。」

とある。


フォールズは 日本で
エドワード・モース(1838-1925)と

親しくなり大森貝塚の発掘に参加した。

発掘された土器に残された
古代人の指紋に興味を持ち

指紋の研究を始め
数千セットの指紋を集め

比較対照し 同一の指紋を
もつもののないこと

物理的に除去したとしても
再生すること

児童の指紋が成長によっても
変わらないことを確かめた。

個人の識別に指紋を用いる
ことができるという記事を

1880年「ネイチャー」に
発表している。



 *参考:ウキペディア

 

 

 

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咸臨丸

2021-03-09 | 出来事・行事


(咸臨丸難航図・横浜開港資料館)Webから

 

前回の遣米使節記念碑文に

「 日米修好通商条約批准書
交換の使命をおびて江戸竹芝より
米艦ポーハタンに搭乗

初の使節として米国に赴いた。」

とあり 使節団一行は
“米艦ポーハタン”に搭乗とある。


当方は 咸臨丸で
赴いたものと思っていたが

咸臨丸は 
ポーハタン号の“護衛艦”として
共にアメリカへ渡り
サンフランシスコまでを
往復しただけであった。


使節団が ポーハタン号により
サンフランシスコに着き

そこから ワシントンまで進み
大統領との謁見や
日米修好通商条約の
批准書交換などを行っている。

 

つまり 咸臨丸一行は

○軍艦奉行
 木村善毅摂津守
(1830-1901・30歳)

○艦 長
 勝 麟太郎
 (1823-1899・38歳)
○通弁主務(通訳)
  中浜万次郎
(ジョン万次郎/1827-1898・33歳)
○教授方  8名

また 木村摂津守従者として
福沢諭吉
(1835-1901・26歳)も乗船していた。

○その他
 水夫、大工、
水焚き(料理人)医者等
 日本人総勢 96人。

○米国側
 ブルック大尉ほか
 アメリカ人船員
 11人が乗船した。

(往路:38日間)
万延元年(1860)1月19日
 遣米使節より1日遅れて浦賀を
 日本人による操作で出港する。

   2日目はジョン万次郎を除く
   日本人すべてが船酔いで
 倒れてしまう。

  そのためサンフランシスコまでの
   航海は米国側が操作を行い
  また航海術を経験している
  中浜万次郎の助力が
  大きかったという。

  ポーハタン号がハワイに
  寄港する間も単独で航海を続け、

  37日間の航海を経て
  ポーハタン号より12日前の

同年2月25日
   サンフランシスコに入港
   日本からの日米修好使節団は
   熱烈な歓迎を受ける。

(復路:45日間)
同年3月19日
 サンフランシスコを出港
 途中ハワイへ寄航(4/4~7)

同年5月5日
   浦賀に帰着。

 

○咸臨丸  
 江戸幕府の軍艦
 オランダで建造
 安政4 (1857) 年進水
 同年長崎に到着
 10万ドルで購入

 長さ 49m 幅 7m
 三マスト
 100馬力の蒸気機関
 内車型汽帆併用船

*参照 
 ・ウィキペデア
 ・「咸臨丸病の日本人」事例集

 

 

 

 

 

 

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万延元年遣米使節団

2021-03-06 | 出来事・行事


 「万延元年 遣米使節記念碑」(港区芝公園内)

 

前回 ペリー提督に触れたが
同公園内に
「万延元年 遣米使節記念碑」が
置かれている。

 

碑文には
「 西暦1860年2月9日
(万延元年正月18日)

 親見豊前守正興一行は
 日米修好通商条約批准書

 交換の使命をおびて
 江戸竹芝より米艦ポーハタンに搭乗

 初の使節として米国に赴いた。
 副使 村垣淡路守範正の詠にいう

  竹芝の浦波遠くこぎ出でて
   世に珍しき舟でなりにけり

 遣米使節渡航より百周年にあたり、
 日米両国民の友好親善の基礎を
 築いた
その壮途を
 ここに記念するものである。

 1960年6月
  日米修好通商百年記念行事運営会 」

とあり

この万延元年遣米使節一行は

正使・新見豊前守正興(39歳)
副使・村垣淡路守範正(48歳)
目付・小栗豊後守忠順(34歳)
勘定方、外国方、通弁方、
 医師、賄方など
総勢77人であった。

 

使節一行を乗せたポーハタン号は

1860年2月9日(安政7年1月18日)
 品川沖を出港

 ハワイ寄港を経て、約1ヵ月後に
 サンフランシスコに入港。
 
 その後、当時大コロンビアの

 1州であったパナマを訪れ、
 汽車で大西洋側の港(アスピンウォール、
 現在のコロン)へと移動し、
 そこで米艦ロアノーク号に乗船

同年5月15日(万延元年3月25日)
 ワシントンに到着。
 ブキャナン大統領との謁見や
 日米修好通商条約の
 批准書交換などを行った。

同年6月8日(4月19日)
 ワシントンからニューヨークへ 
同年6月29日(5月12日)
   ニューヨーク出港
 アフリカ西端の
 ポルト・グランデ(現在のカーボベルデ)

 アフリカのルアンダから喜望峰を経て
 バタビア(現在のジャカルタ)
 香港を経由し

同年11月10日(9月28日)
 江戸に帰港した。

161年前のことであった。

 

*参照 
 ・ウィキペデア
 ・「咸臨丸病の日本人」事例集

 

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ペリー提督

2021-03-04 | 人物忌

   ペルリ提督の像(港区芝公園内)

 

 

3月4日は 
黒船の ペリー提督 
が亡くなった日。

NHK大河ドラマ
「青天を衝(つ)け」で
国際ジャーナリスト・タレントの

モーリー・ロバートソンさんが、
マシュー・ペリー役で登場し
話題になっている。


マシュー・カルブレイス・ペリーは 

1794年
 アメリカのロードアイランドの
 港町ニューポートに生まれる。

 父・兄も海軍の海軍一家であった。
1807年 
 海軍少尉

1812年 
 米英戦争に参加

1814年 
 海軍大尉

  黒人奴隷をアフリカに帰す運動に参加し
 黒人をアフリカに返す船団の指揮をとる。
 この運動がきっかけでアフリカに
 リベリア共和国が誕生する。

 リベリア建国の恩人の
 一人として尊敬される。

1833年 
 ブルックリン海軍工廠の造船所長

1840年 
 同海軍工廠の司令官

1847年 
 アメリカ-メキシコ戦争がおこる。

 この時、メキシコ湾封鎖司令官に。
 メキシコ占領後、
メキシコ市の民政を担当。

1852年 
 東インド艦隊司令長官

 日本開国をうながすための
 日本への使節に任命される。

1853年 
 軍艦4隻を率いて、
 浦賀に来航する。

 13代大統領フィルモアの
 国書を江戸幕府に渡す。

 日本は大混乱になる。
1854年 
 再び7隻の軍艦を率いて
 浦賀に来航する。

 日米和親条約を結ぶ。
  ○下田、函館の2港を開港する
  ○アメリカ船に水・食料
   ・石炭などを供給する。

1858年
 ニューヨークで死去 63才 

 

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伊東玄朴と種痘所

2021-02-26 | 人物忌


 (台東区台東1丁目30 伊東玄朴居宅跡・種痘所跡)

現在の日本では 
新型コロナのワクチン接種が
話題になっているが
前回に続き 伊東玄朴と種痘に触れる。

玄朴居宅跡の説明文には  


「 この辺りに、蘭方医 伊東玄朴の
居宅兼家塾「象先堂」があった。
伊東玄朴は、寛政12年(1800)
肥前国仁比山村(現、佐賀県神埼郡神埼町)で
農民の子として生まれた。後佐賀藩医の養子となり、
長崎でドイツ人医師フランツ・フォン・シーボルトら
に蘭学を学び、その後江戸に出て、
天保4年(1833)当地に居を構えた。
安政5年(1858)には、将軍家定の侍医も務め、
その名声は高まり門人が列をなした。
 玄朴は また、江戸においてはじめて
種痘法を開始した人物である。
種痘とは、1980年に世界保健機関(WHO)より
撲滅浅間された天然痘に対する予防法。
1796年、イギリス人エドワード・ジェンナーが発明し、
天然痘によって多くの人間が命を
落としていたため、種痘法は西洋医学を
わが国で受け入れる決定的な要因になった。
嘉永2年(1849)、長崎でドイツ人の
オランダ商館医オットー・モーニケが、
佐賀藩医楢林宗建の子供に接種したのが
わが国における種痘精巧の最初である。
 江戸では、安政4年(1857)、
神田お玉が池(現、千代田区岩本町)に
玄朴ら80余名が金銭を供出して
種痘所設立を図り、翌年竣工した。
種痘所は、この翌年火災により
焼失してしまったため、
下谷和泉橋通の仮施設に移り、
翌万延元年(1860)再建された。
同年には幕府直轄の公認機関となり、
この後「西洋医学所」「医学所」
「医学校」「大学東校」という
変遷をたどり、
現在の東京大学医学部の前身となった。
 幕府の機関となった種痘所の位置は、
伊東玄朴宅のすぐ南側、
現在の台東1丁目30番地の南側半分、
同28番地の全域に相当する。
 なお、台東区谷中4丁目4番地の
天龍院門前には、伊東玄朴の墓(都指定旧跡)に
ついての説明板が建っています。
 平成14年3月  
   台東区教育委員会 」

 


 (千代田区岩本町 史跡 お玉が池種痘所)

 

 

 

 

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蘭方医 伊東玄朴

2021-02-23 | 人物忌


台東区谷中4-4 天龍院)


2月22日は 江戸から明治の蘭方医
伊東玄朴 がなくなった日

 

伊東玄朴は 近代医学の祖で、
官医界における蘭方の地位を確立した。


墓は 台東区谷中の天竜寺にあり
また居宅は 台東区台東1丁目にあった。

説明文には

「 伊東玄朴は、近世後期の蘭方医。
寛政12年(1800)、肥前国仁比山村
(現、佐賀県神埼郡神埼町)の農家に生まれる。

医学を志し、長崎では通詞猪股伝右衛門と
ドイツ人フォン・シーボルトに師事して
オランダ語、西洋医学を学んだ。


文政11年(1828)、江戸に出て、
本所番場町(現、墨田区東駒形1丁目)で開業、

翌年下谷長者町(現、台東区上野3丁目)に
転居し医療を施し、

天保2年(1831)には、佐賀藩医となった。
天保4年(1833)、移転した下谷和泉橋通
(現、台東区台東1丁目)の家は、
象先堂と称し、訪れる者が列をなしたという。

 
玄朴は、嘉永2年(1849)、
幕府が発した蘭方禁止令、蘭書翻訳取締令に
対抗するため、私設種痘所の建設を企画、
同士に呼び掛けた。

安政5年(1858)、神田お玉が池
(現、千代田区岩本町)に設立され、
これが蘭方医学を幕府に
認めさせる突破口となった。

種痘所は
、翌年火災による焼失のため、
玄朴宅の隣地
である
下谷和泉橋通に移転、再建された。

万延元年(1860)には、幕府直轄となり
翌年 西洋医学所と改称、
玄朴は その取り締まりに任命された。

その後は 明治政府に引き継がれ、
現在の東京大学医学部の前身となった。

 玄朴は、明治4年、72歳で没し、
ここ天龍院に葬られた。


ドイツ人ビショップの著書の翻訳
『医療正始』は、
現在でも高く評価されている。


なお、台東1丁目30番には、
種痘所跡・伊東玄朴居宅跡の
説明板が建っています。

平成14年3月 
     台東区教育委員会   」

なお 妻は
長崎のオランダ語通詞・猪俣傳次衛門の
長女・照(1812 - 1881)

 

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小説家 尾崎士郎 

2021-02-19 | 人物忌


 (日本経済新聞 2003/11/01)

 

2月19日は 
小説家 尾崎士郎が亡くなった瓢々忌。

尾崎士郎は

1898(M31)年
  現・愛知県西尾市生まれ。

  中学時代から政治に関心を示し
  社会主義運動にひかれ
  堺利彦・山川均らと交わる。

  早稲田大学在学中  売文社同人となり
1917(T6)年の早稲田騒動では指導者となる。

1921(T10)年 
 大逆事件を取材した「獄中より」が

 時事新報の懸賞短編小説で2位入賞し
 以後本格的に小説家として
 身を立てるようになる。


1933(S8)年から
 「人生劇場」を「都新聞」に連載し

 「青春篇」をS10年に刊行
 ベストセラーとなり、
 以後  流行作家として活躍する。

 その後「愛慾篇」「残俠篇」
 などと続編7作を執筆

 国民各層に熱烈なファンを
 作り出す程の国民文学的長編となった。

 
 この頃から社会主義を離れていき
 小説家・宇野千代
 (1897-1996)と同棲する。

1923(T12)年に出会った
 川端康成(1899-1972)とは
 以来変わらぬ親友であった。

 また「石田三成」「真田幸村」「篝火」
 などの歴史小説も書いたほか

 相撲にも詳しく 長編小説「雷電」など
 相撲関係の著作もあり
 横綱審議委員を務めた。

 太平洋戦争中は
 中国やフィリッピンに派遣され

 また大政翼賛会、文学報国会などを
 通じて戦争に協力し

 戦後公職追放された。

1949(S24)年「ホーデン侍従」で復帰し
1950(S25)年「天皇機関説」文芸春秋読者賞。

1964(S39)年2月19日
 大田区山王の自宅で 
 直腸がんにより死去 享年66。


「人生劇場」の映画は 

1936(S11)年 
   日活・内田吐夢監督をはじめとして
   14回映画化され
 日活 東映 東宝 大映 松竹と
 すべての映画会社が手がけている。

 

 

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小説家 山本周五郎

2021-02-14 | 人物忌


(2004/01/17 日本経済新聞)


2月14日は 
小説家 山本周五郎が
亡くなった周五郎忌。

山本周五郎は

1903年6月
 山梨県北都留郡に生まれる。
 本名・清水三十六

 横浜市の西前小学校卒業後
 東京木挽町の質店
 山本周五郎商店に徒弟として住み込む。

1926(S元)年
 文藝春秋に「須磨寺附近」を
 発表し文壇デビュー。

1932(S7)年 
 雑誌「キング」(講談社)に
 初の大人向け小説となる
 「だだら団兵衛」を発表

 以降も同誌にたびたび寄稿し
 時代小説の分野で認められる。

1942(S17)年
 雑誌・婦人倶楽部に
 「日本婦道記」の連載を開始

1943(S18)年
 「日本婦道記」で直木賞に
 推されるが これを辞退

 以降すべての賞を辞退した。

その後 死の直前まで途切れなく
傑作を発表し続けた。

「柳橋物語」(1946)
「寝ぼけ署長」(48)
「栄花物語」(53)
「樅ノ木は残った」(54-58)
「赤ひげ診療譚」(58)
「五瓣の椿」(59)
「青べか物語」(60)
「季節のない街」(62)
「さぶ」(63)
「虚空遍歴」(63)
「ながい坂」(66)

1967(S42)年2月14日
 肝炎と心臓衰弱のため逝去。 

 享年64

*「青べか物語」の舞台となった
 千葉県浦安に 
山本は 
 1928(S3)年から1年間住んでいた。

 また「べか舟」は木造の一人乗り平底舟で
 青は青色で塗られていたから。

*山本の言葉に
「人間の真価は
 何を為したかではなく
 何を為そうとしたかである」がある。

 


 (朝日新聞 1995/08/03)

同名で1962(S37)年 映画化されている。
監督 川島雄三 
出演 森繁久弥 乙羽信子 池内淳子


 

 

 

 

 

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ゴジラ

2021-02-11 | 人物忌


鳥羽市石鏡町


前回 円谷英二 伊福部昭に触れたが
ここで 「ゴジラ」についての話題

怪獣ゴジラが出現したのは
1954(S29)年

今年で誕生67年になる。

映画のゴジラは 東京湾に出現し
芝浦付近から都心に上陸し

田町 三田 新橋 銀座 数寄屋橋 
有楽町を破壊しつつ

国会議事堂界隈を焼き尽くして

上野 浅草を踏みつぶしながら
隅田川に入り

最後に行く手を遮る勝鬨橋を破壊して
東京湾へと消えていく。


そのシーンの一部が
三重県鳥羽市石鏡町
(いじかちょう)で
ロケされている。

 

説明文には

 

「 “怪獣ゴジラが日本で
最初に出現したのが石鏡町です”

東宝映画「ゴジラ」の第1作は
1954年に発表されました。

怪獣ゴジラが最初に出現したのが
石鏡町(ゴジラが出現するシーンのロケ地)

映画の中では、
大戸島という架空の地名でした。

多くの町民がエキストラとして出演しました。

町の真中にある坂は、
振り返ると雄大な海が見え

「ゴジラ出現」とあわせて
地元の人々の自慢の坂になっています。

  (中略) 

監督:本多猪四郎 
特殊監督:円谷英二

出演:宝田 明 河内桃子
   平田昭彦 志村 喬 」


ということで

漁師町石鏡町は
一部のゴジラマニアにとっては
聖地となっている。



また 北海道知床や男鹿半島にも
ゴジラが出没していた。

 

 

 

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作曲家 伊福部 昭

2021-02-08 | 人物忌


(CD「怪獣行進曲・伊福部昭」)

 

前回 円谷英二に触れ
「ゴジラ」を話題にしたが

そのゴジラで作曲を担当した
伊福部 昭が
2月8日になくなっている。

   伊福部 昭(いふくべ あきら)は
1914(T3)年5月
   北海道釧路町に生まれる。

1935(S10)年
  パリでアレクサンドル・チェレプニン賞が催され
「日本狂詩」が第1位に入賞し、世界的評価を得る。
 同年 厚岸森林事務所に林務官として勤務
1940(S15)年
   北海道帝国大学の演習林事務所に勤務

1943(S18)年
 「交響譚詩」がビクターの管弦楽懸賞に1位入賞

1944(S19)年
   レコード盤が文部大臣賞を受賞
1946(S21)~1953(S28)年
   東京音楽学校(現東京藝術大学)
 作曲科講師を勤め

   芥川也寸志、黛敏郎、矢代秋雄、
 池野成、今井重幸、
眞鍋理一郎、
 石井真木ら多くの作曲家を育てた。
1947(S22)年
 「銀嶺の果て」
 (谷口千吉監督)をはじめ

 「ゴジラ」(1954-95)
 「座頭市」(1962-73)
 「ビルマの竪琴」(1956)
 「無法松の一生」(1965)など
   300本以上の映画音楽をてがけた。
1974(S49)年 東京音楽大学教授就任
1976(S51)年 同大学長
1987(S62)年 
  同大学民族音楽研究所所長を経て
  同大名誉教授
1980(S55)年  紫綬褒章
1987(S62)年  勲三等瑞宝章
1996(H8)年 日本文化デザイン大賞
2003(H15)年  文化功労者
2006(H18)年 2月8日死去 享年91

あの独特な旋律などは
どこからと思うが

伊福部家は 因幡(鳥取県)の
古代豪族を先祖とし

幼少期、父親が(北海道・十勝)
音更村長だったため

アイヌの集落との交流に同行し
そこでアイヌの舞踊、アイヌ音楽、

またムックリやトンコリなどの
民族楽器に触れ

大和民族とは異なる文化と
音楽に興味を持つ。

10代前半から独学で作曲をはじめ
日本の民族性を追求した
民族主義的な力強さが
特徴の数多くの管弦楽作品や

「ゴジラ」を初めとする
映画音楽を作曲している。

 

(参考:ウィキペデア)

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