あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

ラトビア・ルンダーレ宮殿 15 庭園

2018-02-28 | バルト三国紀行

  

 

宮殿2階から眺め

 

 


バロック時代の城には 

フランス庭園が付随するが


この庭園は、城の東南側に広がり、

城と一緒にデザインされ 

シメントリーに広がる。

入園には別途料金が必要だったが 

宮殿からの見学で済ました。

 


ラトビア・ルンダーレ宮殿 14 公夫人のトイレ

2018-02-27 | バルト三国紀行

 

 

ここは「公夫人のトイレ」

トイレだけあった 

公夫人の寝室から隠し扉で通じている。


こんな所まで見学させてよいものかと思うが

18世紀ヨーロッパで使われていたトイレ用具だという。


しかし 一つあればよいと思うが 

広い部屋にいろいろと器具が置かれている。

ビデか 水洗用の水筒か?

説明文はあったが 

何をどのように使うかは分からなかった。

 

 


ラトビア・ルンダーレ宮殿 13 大理石の広間

2018-02-26 | バルト三国紀行

 

 

「大理石の広間」
 
 食堂として使われていた広間。

  壁面を覆う人工大理石から 

そのような名でよばれている。


 

部屋の広さに比べ 食卓は意外に小さい。

また、食卓に並べらえた食器類は

柄等も揃っているが 意外と質素な感じがした。

 

 

 

 


ラトビア・ルンダーレ宮殿 12 公の謁見室

2018-02-25 | バルト三国紀行

 

 

赤いダマスク織りで壁面が覆われた

「公の謁見室」


ルイ16世ペーテル公が好んだ

調度品でまとめられている。


別名、「赤の書斎」とも呼ばれている。

館内の部屋を見てきて 

黄金、白。青、緑、赤などと

色に拘っていて
面白い。

 

 




ラトビア・ルンダーレ宮殿 11 ペチカ

2018-02-24 | バルト三国紀行

            

 

各部屋にタイルストーブは、

ロシア式暖炉・ペチカが置かれている。


古く1740年に製造されたものという。


どのように使ったのだろうと 

部屋の裏に回ってみると、


やはり熱源は薪だ。

暖房を絶やすことなくしなければならない

裏方の大変さが分かる。

 

 

 


ラトビア・ルンダーレ宮殿 10 公の寝室

2018-02-23 | バルト三国紀行

 

 

バラの間から「公の寝室」へ

この部屋は、宮殿の中心に位置する
最も重要な部屋で、

緑色でコーデネイトされている。

寝室であるためか 少々暗く天井には
シャンデリアがなかった。


また、この部屋だけは
2対のタイルストーブが据え付けられている。

もしや公は寒がりだったか?

更に 左の壁面にはビロン公と
妻ベニグナの肖像画が並べて飾られていたが、

よく見ると ダブルベットではないようだ。 
ご夫婦仲は? 余計な心配かな。

 




ラトビア・ルンダーレ宮殿 8 図書室

2018-02-21 | バルト三国紀行

 

 

磁器の間を観たあと、
再び、白の広間と黄金の間を通り、東南棟へ。


最初に訪れるのは 
東南の角部屋にある「図書室」。 


宮殿のパンフレットの表紙にも写っている部屋だ、

テーブルには、当時のクールラント公国の
支配領域の地図や地球儀も置かれている。

 因みに、クールラント公国は、
1562年から1795年まで
バルト海沿岸部に存在した公国で、

ポーランド王冠とその後身である
ポーランド・リトアニア共和国の封土。

その名前はバルト人の部族である、
クール人、セミガリア人にちなむ。


1791年に完全独立を果たしたが、

4年後の1795年 第3次ポーランド分割に
際してロシア帝国に併合された。

 

 

 

クールラント公国


ラトビア・ルンダーレ宮殿 6 白の間

2018-02-19 | バルト三国紀行

 

 

グランドギャラリーの奥に、
舞踏会が行なわれた「白い広間」がある。


白一色の装飾は、ここに舞う女性や
美しいドレスを引き立てる効果があったそうだ。


J.M.グラフのロココ様式の漆喰彫刻は、
農村風景や動物神話などを写し出している

壁や天井のレリーフは一見大理石のように見えるが,
石灰岩を加工した材料を用いて 
細かいところまで綺麗に表現している。

また、踊った後に一休みするための
婦人専用の「次の間」も用意されている.


姿見もある、女帝アンナの目線で設けられたのか?
 こんな心遣いもあった。

 

 

 

 

 


ラトビア・ルンダーレ宮殿 5 黄金の間

2018-02-18 | バルト三国紀行

 

 

先ず東南棟の階段を上がり
 最初の部屋は「黄金の間」

広い豪華な部屋は.
戴冠式など公式行事が行われた、
宮殿で最も豪華な広間。

また宮殿で最も古い(改装されていない)部屋でもある。

金箔の漆喰彫刻は、
プロイセンの彫刻家のJ.M.グラフによるもの。


知恵、力、正義などのテーマを
寓話的に描いた天井画は、
イタリア人バロック画家の

F.マルティーニとC.ツッキの作品。

 写真左端に居られるご婦人は、我々の後ろから付いて回り
内装や調度品の管理のため監視されている方です。

 

 

 

 

 

 

 


ラトビア・ルンダーレ宮殿 4 宮殿入館

2018-02-17 | バルト三国紀行

 

 

2階建ての宮殿には、138の部屋があり 

中央部分(図上)は 公爵の営舎で、
東側(図左)に黄金の広間、
白の広間、グレート・ギャラリー

西側(図右)には 公爵や支配者階級の
家族の住居になっている。


このうち見学できるのは、2階の44部屋で 
長短のコースが設けられている。

宮殿内部を見学するには 入口で 
ビニールのシューズカバーを履かなけれならない。

また、入館料とは 別にカメラを持ち込むときは
館内撮影代2ユーロを払って
シールをよく見える所に貼ることになっている。

これらの料金は、
修復費用の一部になっているようだ・


     

 

 

 


ラトビア・ルンダーレ宮殿 2 宮殿

2018-02-15 | バルト三国紀行

 

 

 

バウスカから 西へ車で10分ほどの所
 広大な田園風景の中に
「ルンダーレ宮殿」がある。

 

ルンダーレ宮殿は、ラトビアで最も素晴らしい
バロック-ロココ様式の記念建造物の一つになっている。

 

この地がクールラント公国に属していた頃、
一時この国を統治していたア
ンナ・イヴァノヴァ(ロシア女帝・在位1730~1740年)の
愛人として寵愛を受けていた
エルンスト・ヨハン・フォン・ビロンの邸宅として
 1736−40年にロシアの宮殿を手掛けた
イタリアの建築家ラストゥレリにより建てられた。


そのビロン公はアンナの愛人,男妾だったそうだ、
やがて,死の床にあったアンナ女帝から,
1737年ロシア国家の摂政にまで任じられる.

しかし女帝の死(1740年)後
幼帝の摂政となったが 
政敵に襲われ,失脚.全財産没収され,
長年シベリアに追放となったそうだ.

 

第二次大戦で被害を受けたが、
1972~2014年にかけて修復された。



 

 


ラトビア・ルンダーレ宮殿 1 バウスカ

2018-02-14 | バルト三国紀行

 

 ルンダーレ宮殿周辺

 

リガの見学を終え 
リガから南 約85km 
バウスカに向かう。

 リトアニアとの国境に近いこの町は 
ゼムカレ地方の中心地 
ムーサ川とメーメレ川が出合い
リエルベ川となる合流点にある。

15世紀半ば、リヴォニア騎士団が川を
望む丘に強大なバウスカ城を建てた。

 リトアニアとの交易の拠点として発展した。
しかし 17世紀から18世紀にかけて
スウェーデンや帝政ロシアの攻撃を受けている。

 

旧市街に16世紀建造の聖霊教会、
西郊外には これから訪ねる18世紀に
建てられた「ルンダーレ宮殿」がある。

 

(バウスカ城全景 Web資料から) 

 

 

車窓からバウスカ城を望む