あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

小説家 森鴎外 6 鴎外と漱石 2

2022-07-29 | 人物忌


  (新潮文庫)

 

鴎外と漱石

漱石は 鴎外より5歳年下であるが
作家活動は わずか10年で
鴎外より早く
1916(T5)年に 亡くなっている。

鴎外はドイツ 漱石はイギリスにと
ともに海外留学体験が 共通点であり
その体験が 作品になり
同時代を生きた作家である。


また 1896(M29)年 正月の 3日
正岡子規の子規庵にて 開かれた句会で
鴎外(34歳)と漱石(29歳)は
初めて出会っている。

 *このときの漱石は 松山中学の教師で 
  前年12月 中根鏡子との婚約のため
  上京していた。

 

漱石が 執筆活動に入ったとき
鴎外は すでに大家の作家であり
鴎外の存在は 大いに影響があった。

著書の贈答や年賀状など
書簡のやり取りを続けるなど
親交が少なからずあり、

1910(M43)年 
慶應義塾大学文学科顧問の鴎外が 

漱石に 教授就任を打診したが
漱石は 辞退している。

「漱石は軍人、官僚が嫌いでした。
鴎外を敬して遠ざけていたのでしょう」と
漱石の長女筆子の娘婿の
半藤一利は 記している。

1916(T5)年12月12日
漱石の葬儀(青山斎場)にも
参列したという。

 
*芥川龍之介の「葬儀記」には
 その記は見当たらない。

 

鴎外は「夏目漱石論」を
1910(M43)年に
箇条書きで記している。要約すると

 1 漱石の今の文壇の地位は
  力量からして当然

 2 二度ばかり逢ったが立派な紳士
 3 門下生と云うような人物
 4 あまり金持ちではないようだ。
 5 漱石の家庭での主人振りは分からない。
 6 党派的野心はないようだ。
 7 朝日新聞に拠れる態度は
  一種決まった調子である。
 8 漱石の本は少しばかり読んだが
  創作家の技量は立派と認める。
 9 創作作家としての技量は
  もっと沢山詠まなくては判断できない。
 10 漱石の長所と短所は 
  読んだ限りでは長所が目につき
  短所は目につかない。

 

 そして鴎外は
  漱石の「三四郎」(1908年)に
  影響されて書いた
「青年」(1911年)がある。


「青年」六に
漱石と鴎外の関係らしき節がある。
少々長いが引用する。

「話題に上っているのは、
今夜演説に来る拊石である。
老成らしい一人(いちにん)が云う。

あれはとにかく
芸術家として成功している。
成功といっても一時世間を動かした
という側でいうのではない。
文芸史上の意義でいうのである。
それに学殖がある。
短篇集なんぞの中には、
西洋の事を書いて、
西洋人が書いたとしきゃ
思われないようなのがあると云う。
そうすると、さっき声高に
話していた男が、こう云う。
学問や特別知識は何の価値もない。
芸術家として成功しているとは、
旨く人形を列(なら)べて、
踊らせているような処を
言うのではあるまいか。
その成功が嫌(いや)だ。
纏(まと)まっているのが嫌だ。
人形を勝手に踊らせていて、
エゴイストらしい自己が物蔭に隠れて、
見物の面白がるのを
冷笑しているように思われる。
それをライフとアアトが
別々になっているというのだと云う。
こう云っている男は
近眼目がねを掛けた
痩男(やせおとこ)で、
柄にない大きな声を出すのである。
傍(そば)から遠慮げに
喙(くちばし)を容れた男がある。

「それでも教員を
罷(や)めたのなんぞは、
生活を芸術に一致させようと
したのではなかろうか」

「分かるもんか」
 目金(めがね)の男は一言で排斥した。
 今まで黙っている
  一人の怜悧(れいり)らしい男が、
遠慮げな男を顧みて、こう云った。


「しかし教員を罷めただけでも、
鴎村なんぞのように、
役人をしているのに比べて見ると、
余程芸術家らしいかも知れないね」


話題は拊石から鴎村に移った。

 純一は拊石の物などは、
多少興味を持って読んだことがあるが、
鴎村の物では、アンデルセンの
飜訳(ほんやく)だけを見て、
こんなつまらない作を、
よくも暇潰(ひまつぶ)しに
訳したものだと思ったきり、
この人に対して
何の興味をも持っていないから、
会話に耳を傾けないで、
独りで勝手な事を思っていた。

 会話はいよいよ栄(さか)えて、
笑声(わらいごえ)が
雑(まじ)って来る。」


ここに登場する
拊石」は 夏目漱石がモデルであり

「鴎村」は 鴎外自身 
     鴎外が漱石に対する思いがうかがわれる。

 

参考:「中央公論Adagio・16号 森鴎外と白山をあるく」
    東京大学「鴎外の書斎から・資料解説」

 

 

 


小説家 森鴎外 5 鴎外と漱石

2022-07-25 | 人物忌


   文京区向丘2-20-7(千駄木町57番地)
  塀の上に猫のオブジェが見える。

 

「夏目漱石旧居跡」(猫の家)として
記念碑が建てられている。

夏目漱石(1867〜1916)は 
1903(M36)年1月 英国から帰り
3月ここ 千駄木町57番地に居を構えた。

前半の 2年間は
一高と東大の授業に没頭したが
「我輩は猫である」(1905)
「倫敦塔」(1905)を発表し

注目を浴びて周囲から
「猫の家」とも呼ばれた。

更に「坊ちゃん」(1905)
  「草枕」(1906)
  「野分」(1907)等を発表した。

1906(M39)年12月
 「西片町ろノ7」に移っている。


現在は「漱石文学発祥の地」としている。

 

森鷗外は 
最初の妻と離婚して弟二人とともに

漱石が住む13年前の
1890(M23)年10月から

この家を 千朶山房(せんださんぼう)
と称して住み 文学活動に励んだ。


鴎外は ここから
1892(M25)年1月 団子坂上の
千駄木町21番地(観潮楼)へ移っている。



  Goo古地図・明治期から

 

なお 鴎外は漱石が
この家に住んだことは知ったが 

漱石は 鴎外が住んでいたことは
生涯知らなかったという。

 

二人の文豪が住んだ この家は
現在 犬山市の「博物館明治村」に
移築・
保存されている。

 

 


小説家 森鴎外 4 藪下通り

2022-07-21 | 人物忌

 


 現在の「藪下通り」 左手は文京区立汐入小学校

 


(goo古地図・明治期から)

 

 

森鴎外がよく散歩道とした
「藪下通り」がある。

観潮楼(森鴎外記念館)から
根津神社北参道近くに続く 

道幅4m 500mほどの道

説明文には
「藪下通り
 本郷台地の上を通る中山道(国道17線)
と下の根津谷の道(不忍通り)の中間、

つまり本郷台地の中腹に、根津神社裏門から
駒込方面へ通ずる
古くから自然に出来た脇道である。

「藪下道」ともよばれて親しまれている。
 むかしは道幅もせまく、
両側は笹藪で雪の日は、
その重みでたれさがった笹に道を
ふさがれて歩けなかったという。
この道は、森鷗外の散歩道で、
小説の中にも登場してくる。
また、多くの文人が
この道を通って鷗外の観潮楼を訪れた。

 現在でも、ごく自然に
開かれた道のおもかげを残している。

団子坂上から上富士への区間は、
今は「本郷保健所通り」の
呼び方が通り名となっている。

 文京区教育委員会 平成7年3月 」

 

鴎外の小説「青年」に

「藪下の狭い道に這入る。
多くは格子戸の嵌まっている小さい家が、
一列に並んでいる前に、
売物の荷車が止めてあるので、
体を横にして通る。
右側は崩れ掛って住まはれなくなった
古長屋に戸が締めてある。
九尺二間(くしゃくにけん)と
いうのがこれだなと思って通り過ぎる。

   (中略)

 爪先上がりの道を、
平になる処まで登ると、
又右側が崖になっていて、
上野の山までの間の人家の
屋根が見える。
ふいと左側の籠塀(かごべい)の
ある家を見ると、毛利某という
門札が目に附く。
純一は、おや、
これが鷗村(おうそん)の家だなと思って、
一寸立って駒寄(こまよせ)の
中を覗いて見た。」

 注)「鴎村」は鴎外?

*永井荷風は 随筆「日和下駄」で
「私は東京中の往来の中で
この道ほど興味ある処は
ないと思っている。」
と書いている。

*司馬遼太郎も
「街道をゆく・37号の本郷界隈」で
 触れている。

 

 

 

 

 


小説家 森鴎外 3 観潮楼

2022-07-17 | 人物忌

      (2010・H22)年12月)

完成後の「文京区立森鴎外記念館」
  (文京区千駄木1-23)

 

 森鴎外が 30歳(1892年)の時から
亡くなるまで
30年間住んだ
「観潮楼」の跡地は
記念公園となった後 
鴎外生誕100周年「鴎外記念室」を併設した
「文京区立鴎外記念本郷図書館」が開館し
 鴎外生誕150周年の2012(H24)年には
「文京区立森鴎外記念館」として
開館している。

 

説明文には

「森鴎外(林太郎・1862~1922)は、
通称“猫の家”(現向丘2-20-7
・鴎外が住み後夏目漱石も住んだ)から
明治25年(1892)ここに移った。

2階書斎を増築し、東京湾の海が
眺められたので観潮楼と名づけた。

 鴎外は、大正11年(1922)60歳で
没するまで、30年間ここに住んだ。

 観潮楼の表門は、藪下通りに面した
この場所にあり、門の礎石や敷石は
当時のままである。
庭には戦火で焼けた銀杏の
老樹が生きかえっている。
三人冗語の石はそのままであるが、
鴎外の愛した沙羅の木は、
後に植えかえられた。

 鴎外は、「舞姫」「青年」「雁」や
「阿部一族」などの小説、史伝、
評論などを書き、
ここは文学活動の中心舞台であった。
また、詩歌振興のため観潮楼歌会を開き、
若い詩人、歌人に大きな影響を与えた。

    
  文京区教育委員会   」

 

*「三人冗語の石」は、鴎外が腰掛け
 幸田露伴(1867-1947)
 斎藤緑雨(1868-1904)
 と共に写真撮影をした庭石をいう。

1892(M25)年1月 
 当初平屋であったが 
 12畳の2階を8月に増築している

入居当時の鴎外は
 陸軍軍医学校教官で

 同居したのは(*年齢)
  父・静男 (57) 
  母・峰子 (46)
  祖母・清子(74)

  長男・於菟(2) 
  弟・潤三郎(13)
   他に住み込み女中 

 

 

  (森於菟「父親としての森鴎外」から)

 

森 於菟の「 父親としての森鴎外」
観潮楼の様子が書かれている。

「  楼 の 情景 は 永井荷風 の
「 日和下駄」 の 中「 崖」 の 章 に
精しく、 初秋 の 夕 暮 上野 の 鐘 を
聞き ながら 待つ 所 に 赤筋 の 入っ た
カアキ 色 の 洋服 と 白襯衣 だけの
休日 の 兵隊 さん の よう な 父 が
上っ て 来 て、 気軽 に 対談 する 様 が
描い て ある。
しかし 東南 に 廻り 縁 を 有し、
西 が 上野 の 山 に 対し た
この二階 が 八 畳 と 六 畳 との 二間 と
記し て ある のは 誤り で、
十 二 畳 の 一間、 北西 に 閉じ て
東南 に 開き 東南 の 廻り 縁、
幅 は 三尺、 東側 は 長 さ 二間 で、
谷中 の 森 に 向い その 北端 に
階段 の 上り 口 あり、
南側 は 長 さ 三 間 その 西端 は
西日 を 避け て 戸袋 が
設け られ て いる。
上野 の 山 は この 東南 の 角 の
向う に 見える。
北側 に 一間 の 床の間 と 一間 の
違い棚 あり、 西側 には 六 枚 折 の
無地 の 金屏風 一双 を めぐらし
南側 の 縁 に 近く
その 西 寄り に 机 が 据え て あっ た。」

*永井荷風(1879-1959)
「日和下駄」(1915年)

 

 

 

 


小説家 森鴎外 2 無縁坂と鉄門

2022-07-13 | 人物忌

 (Goo古地図・明治期から)

  左側は旧岩崎家の石垣

 

無縁坂

 前回 森鴎外に続き
 作品「雁」(1911年)の
 舞台「無縁坂」に触れる。

無縁坂の説明文には


「 無縁坂
 「御府内備考」に、
 「称仰院前通りより本郷筋へ
      往来の坂にて、
往古 坂上に
     無縁寺有候に付 
 右様相唱候旨申伝・・・」とある。

 団子坂(汐見坂とも)に住んだ、
 森鴎外の作品「雁」の
 主人公岡田青年の散歩道ということで、
 多くの人びとに親しまれる坂となった。

 その「雁」に次のような一節がある。
 「岡田の日々の散歩は大抵道筋が
  極まっていた。
 寂しい無縁坂を降りて、
 藍染川のお歯黒のような水の流れこむ
 不忍の池の北側を廻って、

 上野の山をぶらつく。・・・」

   (以下省略)
 
    文京区教育委員会  昭和55年1月

 

鷗外の「雁」は
1880(M13)年 東京大学鉄門の真向かいの
下宿・上条に住む学生岡田と、無縁坂の女
お玉の物語だが 鴎外が49歳の時の作品


登場人物は

「僕」主人公
「岡田」僕の下宿先の隣人
    大学のボート部員

「お玉」末造の愛人 
「末造」高利貸し お玉の妾

 

なお 実際に鴎外は
1880(M13)年
本郷龍岡町の下宿屋「上条」に移る。

翌年3月 下宿先で火災に遭い
講義ノートなどを失っている。

また 鴎外の妹 
小金井喜美子(1870-1956)の
「鴎外の思い出」(1956)

鉄門や下宿の様子が描かれている。


 

 坂上には東京大学の「鉄門」がある。

     

 

 「鉄門の由来」によれば

明治期の大学は「医科大学」前の
「鉄門」(1879・M12年造)が
正門であった。

 後に 法・理・文の3学部が
神田一ツ橋から移転してき 
共通の公式門として
本郷通りに
正門(1912・M45年)ができた。 


しかしながら 大正期に鉄門前の民有地が
構内に取り込まれたため鉄門は撤去された。

2006(H18)年 東大医学部創立150周年を
記念して復元された。 


なお 復元された鉄門は東に30mほど
移動しており、下宿屋「上条」も
大学構内となり当時と違っている。

また「鉄門」は
東京大学医学部の通称になっている。


 追)「赤門」は
 加賀藩前田家上屋敷時代
(1827・文政10年)に造られたものだが

 1903(M36)年に15mほど通りよりに
 移築されて現在に位置にある。


 

 


小説家 森鴎外 1

2022-07-09 | 人物忌


   名作のある風景・森鴎外「雁」 (日本経済新聞 2003/11/8)

 

 7月9日は 小説家 翻訳家 陸軍軍医の
  森 鴎外 が亡くなった鴎外忌

森鷗外(林太郎)は

1862(文久2)年1月19日
  石見国津和野町田村(現・津和野町)にて
 代々藩医の長男として生まれる。

1872(M5)年
  父と共に上京し  政府高官の親族で
    哲学者の西周(にし・あまね 1829-1897)
    宅に下宿

 官立医学校へ入学するためにドイツ語を
   学び始める。

1874(M7)年
  第一大学区医学校
  (現・東京大学医学部)予科に入学。

 入学に必要な年齢が足りず 
    14歳と偽って試験を受ける。

1877(M10)年
  本科へと進む。
 ドイツ教官からの講義を受けるかたわら

 佐藤元長(1818-1897)に師事し漢方医学
   さらに漢詩や漢文といった文学にも
   傾倒していく。
1881(M14)年
   大学を卒業。しばらくは
  父の橘井堂医院(北千住)を
    手伝っていたが
陸軍軍医副となり
    東京陸軍病院へ勤務する。

1882(M15)年
   軍医本部に配属され プロイセン王国の
  陸軍衛生制度の調査に従事。

   同時に私立東亜医学校にて
      衛生学の講義を受け持つ。

1884(M17)年
    陸軍衛生制度のさらなる調査や
  衛生学の習得のためドイツに留学

1884~87年
    ラプツィヒ大学、ドレスデンの軍医学講習会
  ミュンヘン大学、
細菌学者ロベルト・コッホの
  衛生試験所などを経て  勉学に励む。

  カールスルーエで行われた 
  第4回赤十字国際会議では
  通訳者を務め称賛された。

1888(M21)年
   プロイセン近衛歩兵第二連隊の軍医に。

  9月帰国し 陸軍軍医学舎と陸軍大学校の
  教官を兼任。

1889(M22)年
   読売新聞の付録として
 「小説論」を発表し  文学活動を開始。

1890~91(M23-24)年
  「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」など
  ドイツを舞台にした小説を

  相次いで発表し 注目を浴びる。
1894~1895(M27-28)年
  日清戦争が勃発し 
  軍医部長として駆り出される。

  終戦後は台湾にて勤務した後に帰国。
1896(M29)年
  陸軍大学校教官に再度就任。
 小池正道との共著「衛生新編」を発表。

 文芸雑誌「めざまし草」を創刊。
1899(M32)年
  陸軍軍医監に昇進。

 北九州に徴兵区をもつ第十二師団の
 軍医部長として小倉へと移る。

1902(M35)年
  荒木志げ(1880-1936)と見合い結婚。

  第一師団の軍医部長の辞令を受け
    東京に赴任。

 「めざまし草」を廃刊した後
 上田敏(1874-1916)らと「芸文」

 後に「万年艸」を創刊。
1904~1906年
    日露戦争に軍医部長として出征。

1907(M40)年
   陸軍軍医総監に昇進し
   陸軍省医務局長となる。

1909(M42)年
  文芸雑誌スバルにて
 「半日」「ヰタ・セクスアリス」「鶏」

 「青年」などを連載。
  東京帝国大学から文学博士の学位を
    授与される。

1911~18(M44-T7)年
  「雁」「鼠坂」「阿部一族」
 「山椒大夫」「高瀬舟」など
執筆。
  ゲーテなどの外国文学の翻訳も行う。

1916(T5)年
  陸軍引退。
1919~21(T8-10)年
   初代帝室美術院長(現・国立博物館長)を務める。

   次第に病状が悪化。
1922(T11)年
   腎委縮・肺結核により病死。享年60

 

               (参考:ウィキペディア)

 


写真家 植田正治

2022-07-04 | 人物忌

 

 7月4日は 
 写真家 植田正治が 亡くなった日

 

植田正治は

1913(T2)年 
  鳥取県西伯郡境町(現・境港市)
 履物製造小売業を営む父・植田常寿郎
 母・ミヤの二男として生まれる。
1931(S6)年 
 鳥取県立米子中学校(現・米子東高校)卒業
 米子写友会入会
1932(S7)年 
 増谷麟の世話により
 東京・オリエンタル写真学校に入学
 3ヶ月間通う。  

 帰郷し 自宅で植田写真場を開業
1937(S12)年 
   中国写真家集団創立同人となる。

1946(S21)年 
 戦後第1作「童」が
 朝日写真展覧会特選に入選
1947(S22)年
 写真グループ「銀龍社」に参加
1955(S30)年
 二科会写真部会員となる。
1958(S33)年 
 ニューヨーク近代美術館での
 エドワードスタイケンによる
 企画展に「雪の面」を出品
1975(S50)年
 九州産業大学芸術学部写真学科
 教授(待遇)に就任(~1994年)
1978(S53)年
 フランスから
 アルル・フォト・フェスティバルに
 招待される。

 作品数点がフランス国立図書館の
 コレクションに入る。
1993(H5)年
 東京で大規模な個展を開催
1994(H6)年
 フランス文化庁が20作品購入
1995(H7)年
 鳥取県岸本町(現・伯耆町)に
 「植田正治写真美術館」開館

 作品12,000点を収蔵
 建物は建築家 高松伸の設計により
 館内から大山を真正面に望み
 「逆さ大山」を写す人工池がある。

1996(H8)年
 フランスから芸術文化勲章を受章

2000(H12)年
 死去 享年87

このポスターは
2014
年島根に旅行したとき見かけたもの。

当方が初めて植田正治を知ったのは
2013年にNHKで放映された
「写真する幸せ~
   植田正治・UEDA-CHOの秘密~”であった。

植田は 生涯 故郷鳥取にとどまり
砂浜や砂丘を大きなホリゾント
(背景の幕)に見立てた
独特の「演出写真」を撮り続け 
その作風が「植田調」と呼ばれ 
海外でも そのまま「UEDA-CHO」と
表記されるほど 世界で
その名を知られる写真家となった。

特に フランス国立図書館が買い上げた
植田のオリジナルプリントの存在が
35年ぶりに明らにされていた。

 

        (参考:ウィキペディア ほか)