あかない日記

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小説家 半井桃水

2021-11-21 | 人物忌


   曹洞宗 繁栄山養昌寺門前(文京区本駒込1-20-17)

 


   桃水(Webから)

 

11月21日は 半井桃水が亡くなった日

半井桃水(なからい・とうすい)
新聞記者 新聞小説家であり
樋口一葉の師でもある。

1860(万延元)年12月 
 半井湛太郎・藤の4人弟妹の長男として

 対馬巌原藩(現・長崎県対馬厳原町)に生まれる。

 名は冽(きよし)
 桃水は号 別号は菊阿弥。

 父の仕事の関係で少年期は釜山で過ごす。
 家計を助けるため
 12歳から釜山で働き始めるが
 英語を学ぶため日本へ戻され 進学する。
1875 (M8)年
 上京し尺振八の共立学舎に学ぶ。

1888 (M 21)年
 東京朝日新聞の記者となる。

 朝鮮語が話せることから
 通信員として釜山に7年間駐在
1889(M22)年
 同紙上に「唖聾子」を掲載

 続いて「くされ縁」「海王丸」
「業平竹」などで新聞小説家
 としての地位を確立。

1891(M24)年から連載した
 長編「胡沙吹く風」が代表作

1891  (M24) 年
 樋口一葉(1872-1896)が門下に加わる。

1892(M25)年
 一葉のデビュー作「闇桜」は
 桃水が創刊した「武蔵野」に発表

1893(M26)年
 一葉は門下を離れる。
 一葉と恋人関係にあったという
 噂が当時からあった。

 桃水の幼名「泉太郎」が
 一葉の亡兄と同じで
 一葉はその偶然も好ましく感じ

 一葉日記には桃水のことにふれている。

 その他の著名な作品
「天狗廻状」「義民加助」などの時代小説

 また長唄や俗曲などにも詳しく
 いくつかの作詞をしている。

1926(T15)年11月21日
 脳溢血のため福井県敦賀市の病院で死去
   享年65

養昌寺には「半井家代々の墓」として
対馬市厳原町中村の生家跡に
半井桃水館がある。

 

 

 


放浪の画家 長谷川利行

2021-11-12 | 人物忌


  長谷川利行碑(台東区上野恩賜公園 弁天島)

 

 
 (NHK ETV日曜美術館から)

 

10月12日は 画家 長谷川利行が亡くなった日

長谷川は 
放浪の画家・日本のゴッホとも呼ばれる。


説明文には
「長谷川利行 
 放浪の画家・日本のゴッホ

・1891年(明治24)7月9日京都に生まれる。
・1921年(大正10)上京・博文館にて
 生田蝶介を知り小説を発表。

 岩田専太郎、矢野文夫等を知る。
・1923年(大正12) 関東大震災起こる。
 震災を歌った歌集「火岸」を
 発行、京都に帰る。

・1926年(大正15)再び上京、日暮里の寺に住む。
 第7回帝展に「廃道」入選。
 第13回二科展に「田端変電所」初入選。

・1927年(昭和2)第14回二科展に
 「酒売場」「麦酒室」「鉄管のある工場」入選、
 樗牛賞を受賞。

・1928年(昭和3)里見勝蔵・藤川栄子・
 靉光・井上長三郎・麻生三郎・
 吉井忠・寺田政明等後の
 自由美術家協会の画家達を知る。

・1932年(昭和7)浅草今戸に仮住まい。
 浅草・千住・三河島・荒川放水路界隈を放浪す。
 天城俊彦(高崎正男)を知る。

・1936年(昭和11)新宿・天城画廊で個展5回開催する。
・1937年(昭和12) 伊豆大島に遊ぶ。
 天城画廊で個展10回、
 喫茶店「エルテル」等で数回開催。
 二科展を去る。
・1939年(昭和14)胃潰瘍に苦しむ。
 千葉県太海・勝浦に写生旅行。

・1940年(昭和15)三河島救世軍宿泊所に住む。
 5月17日、三河島駅付近の路上で倒れ、
 行路病者として東京市立養育院
 板橋本院に収容される。

 10月12日胃癌で死去、満49歳。
 遺品類(絵も含む)すべて焼却される。

・1969年(昭和44)熊谷守一先生・
 洋画家揮毫の「長谷川利行碑」、
 有島生馬先生・洋画家揮毫の歌碑が
 台東区不忍池弁天島に建立さる。

 10月15日羽黒洞主催の除幕式行われる。 
   正像院利行日描居士
   羽黒洞主催遺作展数回開催


「養育院第五病室ニ胃ノ手術デ゙居リマス。
 午前中二一度ミニ来テ下サイ。

 詩集一冊下サイ。午後三時頃デモ
 何時デモヨロシイノデス。


(至急来テクレナイト死亡スル、
 動ケナイノデス)。
 市電板橋終点ヨリ二丁ホドノ処デス。
 何カ見学ニナルデシヤウ。氷サトウ、
 ゴマ塩一ケ忘レズニ持ッテ来テ下サイ。
 オ願ヒシマス。
 何カ甘イ菓子一折リ下サイ。死別トシテ。」

 矢野文夫宛  長谷川利行 出

 昭和15年10月12日 満49才没


 人知れず 朽ちも果つべき身一つの
 いまがいとほし 涙拭わず
 己が身の影もとどめず 水すまし
 河の流れを 光りてすべる 
  利行短歌



  (NHK ETV日曜美術館から)

 

 

 


半蔵門

2021-11-09 | 出来事・行事

 

前回 半蔵門に触れたが

半蔵門の名称については
この門の警固を担当した
徳川家の家来服部正成・正就父子の

通称「半蔵」に由来するとする説
または
山王祭の山車の作り物として
作られた象が大きかったために
半分しか入らなかったことに
由来するとする説がある。

定説は 前者のようで
服部家の部下
(与力30騎、伊賀同心200名)が

この門外に組屋敷を構え
四谷へと通じる甲州街道
(現・国道20号、
通称:麹町大通り・新宿通り)
沿い一帯が 旗本屋敷で
固められていたことに由来している。

これは  非常時に将軍を甲州街道から
幕府の天領である甲府へと
安全に避難させるためと言われており

半蔵門は 江戸城の搦手門になる。

現在は  天皇皇后両陛下 
皇太子一家の皇族方の出入り口に


また 他の皇族方は
「乾門」からとなっている。


   グーグルから


服部半蔵

2021-11-04 | 人物忌


  西念寺 (新宿区若葉2-9)



11月4日は 服部半蔵が亡くなった日

服部半蔵は 戦国時代から江戸時代に
かけて松平氏から徳川氏の麾下で活躍し
代々「半蔵」を通称の名乗りとした
服部半蔵家の歴代当主。

 

なお、忍者だったのは
初代半蔵の保長だけであり
2代目以降は
忍者ではなかったといわれる。

1596(慶長元)年11月4日死去

説明文には

「新宿区指定史跡
  服部半蔵の墓
   昭和59年(1984)7月6日指定

服部半蔵(1542~96)は、
本名を正成といい、
徳川家康の三河以来の旧臣で、
家康16将の1人に数えられる武将である。
「鬼の半蔵」として知られ、
元亀3年(1572)三方ヶ原の戦い、
天正18年(1590)小田原攻めで
功をあげ知行8千石を賜り、
同年の家康の江戸入府後は、
江戸城西門近くに居を構え、
城の警備等にあたった。
半蔵門の名は彼の名に由来する。
半蔵は、天正7年(1579)
家康の長男信康が切腹する際
介錯役を命じられた。
しかし、これを果たせず、
晩年、信康の菩提をとむらうため
麹町清水谷に庵を建て、
西念と号し、仏門に帰依した。
文禄2年(1593)には
家康から寺院を
建立するよう内命をうけたが、
慶長元年(1596)11月、
55歳で没した。
西念寺は、半蔵の没後完成し、
寛永11年(1634)江戸城の
外堀拡張・新設の際現在地に
移転したものである。
 平成17年2月
     新宿区教育委員会」