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徒然なるまままに

展覧会の感想や旅先のことを書いてます。

ピランPiranの歴史

2005-09-24 | 歴史
ピランPiranは、アドリア海に突き出した岬の先のにある、スロベニア(旧ユーゴスラビアでオーストリア、クロアチア、イタリアなどに国境を接する国)で一番美しいという小さな町です。そのピランPiranの歴史をGuide Book-to the Coast(IMAGE d.o.o., Stopniska 8, Protoroz)というパンフレットを元に紹介します。

なぜ、紹介したくなるかというと、この町は、今もイタリアやオーストリアに国境からすぐの所にありますが、そのため、神聖ローマ帝国、スラブ人の侵略、ヴェネチアの侵略、ナポレオンの進軍、オーストリアとイタリアの支配を受けたという、とても複雑な歴史の町だからです。

さてピランに、はじめにやってきたのはギリシア人です(これはあくまでも説ですが)。ピランはギリシア語のPyros(火の意味)に由来するともいわれます。隣町の現在のKoperに向かう灯台があったとの伝説もあります。Piran博物館には確かにギリシア風の壷が展示されていました。ローマはB.C.178年にIllyriansとCeltsに宣戦します。このAquilean colonyアクイレイヤ植民地の中の'Slovenian'海岸もローマ化されていきます。

*1 アクイレイヤは、トリエステの西25kmほどのところにある現在の人口は3000人程の町。その名の由来は鷲(アクイラ)に負っている。ゲルマン族との戦いに際しては、アウグストゥス皇帝の本営がここに置かれた。ギリシア正教の総大司教領の所在地(554-1751)となった。世界遺産に最近指定されている。(今回行きそびれています。残念。)

5世紀から6世紀になるとスラブ人が内陸部にせまり、ローマは海岸線に後退していきます。そして、8世紀後半にフランク王国に占領されます。同時にスラブ人が移住してきます。

9世紀になると北アドリア海はヴェネチアの支配下になります。ヴェニスとピランがはじめて商取引をしたのが933年。ヴェネチアの主権は1210年まで続きます。(写真はベネチア風の窓)その後the Patriarchs of Aquileiaアクイレイヤ総大司教領の支配下になります。アクイレイヤ総大司教領とヴエネチアの反目の間にはさまれ、ピランは一旦自由都市となりますが、1283年には、再び、塩取引の独占狙ったヴェネチア支配下になります。ピランは常にヴェネチアのへの忠誠をつくし、トリエステTiriesteやフリウリFriuliの教皇領に対抗し、最後にはジェノバにも対抗しました。政治的独立よりも経済的利益を重視したのです

Campo Formio条約により、1797年にヴェネチアの支配は終わり、オーストリアがナポレオンからこの地を獲得しました。1806年から1813年の短い間、フランスの支配下になりますが、またオーストリア支配下に戻り、それは1918年まで続きます。近くのProtorozに塩田は広がり、ツーリストも来るようになり、だんだん栄えるようになってきました。

第一次世界大戦後、ピランはイタリア領になりました。イタリアは、スロベニア語の学校を閉鎖し、名前のイタリア語化を進めました。ファシストの弾圧と共産主義が広がりました。第二次世界大戦後ピランは、ユーゴスラビアが管轄のZoneBに属しました。トリエステを含むZoneAは連合国支配下になりました。1954年にZoneAはイタリアに、ZoneBはユーゴスラビアになりました。1991年にユーゴスラビアが分割され、現在はスロベニアに属しています。ピランの人々は主に観光と漁業に従事していますが、後者は、クロアチアとの国境ができて、自由に海に出られないために、後退しています。

本パンフレットには、Koper(Zone BのときのHeadquarterだった)、Izola、Portoroz(塩田の中心、いまも塩田がある)も紹介されていますが、すぐ近くの町なのに、微妙に歴史が違います。非常にイタリア的です。


Piranの町の風景と訪問記はこちら

UPDATED 2005-10-18
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山口と大内氏

2005-08-25 | 歴史
8月7日

山口は、「西の京」を目指した大内氏が、京都に似せて、わざわざ盆地に町を造ったという。旅してみないとこんな話は実感できない。だいたい国道9号線の山陰道の街とは。山陽道国道2号線は山一つ向こうである。湯田温泉という山陽道随一の温泉が、JRの隣駅である。そこでは、幕末の志士が集まって謀議したという宿もある。萩から山口までは本当に山道で、京に進出したければ、やはり地の利は山口にあがるだろう。

室町時代、明や李氏朝鮮の貿易で利益を上げた大内氏がこの地に大内文化と呼ばれる文化を築いたという。雪舟もザビエルもこの山口を訪れているという。中原中也の生まれた土地(これは別稿で)。その片鱗を垣間見るために、津和野行きは取りやめて山口市内(と防府)を訪問することにした。

「目で見る大内文化」等によると、1360年ごろ、第24代大内弘世が、現在の龍福寺のあるあたりに大内館を建て守護所とし、町づくりを開始したという。1395年、九州探題の今川了俊が失脚すると、第25代大内義弘は朝鮮貿易を開始し、経済力をえたが、それで、足利義満と対立するところなり、1399年に応永の乱で最後を遂げる。義弘の菩提を弔うために建立されたのが国宝瑠璃光寺五重塔。法隆寺五重塔、醍醐寺五重塔とともに三名塔と称えられる。第28代教弘の時代となると朝鮮貿易は全盛期となる。第29代政弘が1465年に家督を相続してすぐ、将軍家と管領の嗣子問題に端を発し、細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)との勢力が絡み合い、応仁の乱(1467から)がおこる。大内氏は、細川氏と対明貿易で対立していたので西軍につく。応仁の乱で京が焼け野原になった反面、山口は対朝鮮、対明貿易で繁栄し、また政弘が山口では文化に理解を示したので大いに発展した。雪舟を明に派遣したのも大内氏である。常栄寺の雪舟庭も政弘が命じて築かせたもの。大内氏の全盛期は第30代義興、第31代義隆の時代。義興は管領代として幕府の実権を握り、一時京都に滞在した。義隆は、対明貿易の主導権を巡って細川氏と熾烈な争いをしたが、1508年管領代となり優位に立った。さらに、義隆は、対明貿易を独占するところとなった。

さて、石見銀山を最初に発見した神屋寿貞は、大永6年(1526)に博多から大社に向かう途中に日本海から仙の山が光っているのを見て銀山を発見したといわれている。さらに天文2年(1533)博多より宗丹・桂寿という2人の技術者を伴い、銀の製錬法を導入した。 その支配をめぐっては、その後大内、小笠原、尼子、毛利によって争われたわけだが、その中で、天文十二年(1543年)出雲尼子氏との戦いで、大内義隆(第三十一代)の嗣子大内晴持が溺死という惨事がおこった。この敗戦後、、義隆は戦争を嫌って、もっぱら学問と学芸の日々をすごした。この結果、大内文化は絶頂に達した。1551年にはザビエルの山口で布教を許可した。

文化は盛んになったが、政治をおこたったため、家臣団の対立を生むことになった。忠勤であった武断派の陶隆房は、1551年反旗を翻した。戦闘らしい戦闘もなく家臣から見放された大内義隆は放伐され、陶隆房(のちに陶晴賢)は当主として豊後の大内晴英を迎えた。陶氏は、石見の吉見氏と対立関係にあったが、1553年ごろから戦闘が始まった。毛利元就は、大内義隆の知遇を受けたとして(陶氏は逆賊だとして)吉見氏を援助した。(この辺は石見の銀の利権の方便でしょうか。)結局、永禄5年(1562)毛利氏が石見国を平定。銀山と温泉津を直轄地とした。さらに毛利氏は1年の攻防戦の上、大内氏を1557年完全に滅亡させた。

この大内氏の興隆と滅亡は、貿易と銀山発掘という経済利権を争う戦いの歴史です。ある意味室町時代の歴史の潮流をなすものと思いますが、初めて知りました。

陶晴賢は、一昔前までは、山口の観光をすると「陶氏の謀反によって大内氏は滅亡され。。」と説明されていたそうだ。勝てば官軍らしい喧伝が、450年前からごく最近まで続いていたということだ。山口では、大内氏の文化の見直しはやっと始まったところのようである。

さて、龍福寺、瑠璃光寺(国宝瑠璃光寺五重塔)、常栄寺の雪舟庭と訪問した。時間がなく、ザビエル記念聖堂を訪れることができなかったのは残念。

龍福寺は、室町時代の寺の様式で重要文化財とのこと。落ち着いたいいお寺。

瑠璃光寺。この地には大内義弘が建立した香積寺があったが、1616年、萩に移された。そのときに山口町民の嘆願によりしかし五重塔だけは、残されたという。1690年に陶氏の菩提寺の瑠璃光寺がこの地に移され、瑠璃光寺となった。義弘の菩提を弔うために建立されたのが五重塔が、陶氏の菩提寺にある訳だが、逆賊陶氏と大内義弘の菩提が一緒になって不自然という感覚と、そのほうが自然という感じがあるのだろうと思う。国宝瑠璃光寺五重塔の横に、(chiy333さんもかかれていれていますが、)司馬遼太郎文学碑がある。朝日新聞の記事よれば、《大内文化のまちづくり協議会(福田礼輔会長)が、募金や市の助成で00年8月に建立。フランシスコ・ザビエルの山口来訪から450年と、大内義隆(1507-51)の没後450年を記念した。福田さんは「司馬さんのお陰で、庶民の繁栄や海外との交易に力を注いだ大内氏の時代に対する市民の関心が深まった」と話す。》とありました。

さらに、若山牧水歌碑、大内弘世像などがある。うぐいす張り石畳は、意図したものではなく偶然の産物とか。でも拍手して鳴らしてみると確かに響く。
eltsyn-nさんも書かれているが、狭いところに、いろいろなものがある。出雲の一畑薬師(目の仏様)山口文院、四国の金比羅様(道中安全)と身切地蔵様等。出雲の一畑薬師には、わざわざ出雲にいったのに参拝できなかったのでここで拝んだ。

常栄寺の雪舟庭:小さな観光ガイドの写真で見るよりは格段雰囲気のいい庭。外人さんがゆっくりと庭を愛でてました。たしかに禅の精神の感じられる場所。

catalan_scottishさんさんはじめ皆さん、数年前の大河ドラマ「毛利元就」を見ていての訪問のようだが、私は、知識がなかったので、勉強になり大変楽しかった。

後日談。「山口って盆地なんだね。」と旅行に行ってきた話をすると、鉄道ファンの彼は、「そうだよ。台風を避けられるから衛星通信のパラボラアンテナがあるんだよ。山口っていえばSLだけど、今はどこでも走っているからなあ」と応える。旅してみも興味は様々である。

参考文献:目で見る大内文化 山本一成著 発行 大内文化研究会 500円(瑠璃光寺で購入)


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防府天満宮

2005-08-23 | 歴史
何故、防府に天満宮があるか、天満宮にお参りしたがわからない。天満宮下の観光案内所で略記をいただきながら教えていただいた。かいつまむと、

延喜元年、藤原氏の讒言により菅原道真公は大宰権師に左遷されました。
  東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ
と紅梅殿を発ち、西下の途中、時の周防の国司土師信貞は公と同族であったので、防府の勝間の浦に御付けになり、暫く滞在されました。公は、酒垂山にお登りになり、山秀水麗の勝景を深く愛でられ、
 身は筑紫に果つるとも、魂魄(こんぱく)は必ずこの地に帰り来らん
とお誓いになり、淋しく旅立たれました。
延喜三年(903年)勝間の浦に神光が現れ、酒垂山に瑞雲が棚引き人々を驚かせました。国司が公の異変を感じ、安否を伺うと薨去の日と分かりました。そこで国司は早速、公の御霊をお祀りし、延喜四年に今の松崎の地に宝殿を建立し、松崎社と号しました。菅公をお祀りした神社は、当社の創建を日本最古とし、北野天満宮、太宰府天満宮とともに日本三天神と称せられる。

もともと国司が置かれたいた町ですし、そういえば、義経でも周防水軍というのがあったといっていました。意外に防府は歴史のある街です。

また、防府は種田山頭火の生まれた町です。天満宮の下に資料を展示しているお店がありました。ご主人は楽しい方です。名物の外郎(ういろう)を販売しています。
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雲太は出雲大社

2005-08-21 | 歴史
雲太は出雲大社

出雲大社の本殿は、日本一の高さだったという話は、戦前に教育は受けた世代には人口に膾炙していたらしい。昔読んだ書籍を中に、雲太、和二、京三という「口遊(くちづさみ)」の話が書かれていたのは、何故か記憶に残っている。そのような記憶もあり、今回の出雲大社の訪問はとても楽しみだった。

訪問して、本殿の高さについて論じたパンフレット「出雲大社の本殿」(500円)を購入した。平泉澄文学博士の「雲にいる千木」と福山敏夫工学博士の「古代の出雲大社本殿」という論文などが収録されている。後者によれば、出雲大社の社伝によれば、神殿の高さは、古代は三十二丈、中古は十六丈(48メートル)、その後は八丈であったという。この話を根拠づけるのが、源為憲の「口遊(くちづさみ)」(天禄元年(970))という書にある雲太、和二、京三という文。雲太は出雲の杵築大社の神殿、和二は東大の大仏殿、京三は平安京の宮城の大極殿をさす。東大寺大仏殿は「延暦僧録」の十五丈というのが正しいだろうというのが通説。出雲大社本殿の棟高はそれを超えると信じられていた。とすると、中古は十六丈というのは本当だろう。この論争は明治41,2年に行われ、山本信哉博士がその時に「口遊」を引用したそうだ。

文献的な話ではなく、実際の証拠が見つかったは記憶に新しい。平成十二年の発掘で、丸太の寄木とその帯金が見つかったのだ。遂に中古には十六丈という高さが実際にあったといいうことで決着がついた。「出雲大社の本殿」にはそのときの写真なども図版として収録されている。

では、なぜそんな高い本殿をということに対する疑問に対する議論はなかなかみかけない。建築が専門分野の藤森照信氏が、平成15年9月10日に「日本人は本当に自然が好きなのか」と題する講演で、「なんのためにこれほどの高さがあったのか」ということに関して仮説を述べている。周りの「杉の高さより高く」ということではなかったかと。根拠はないが、神様は、森しかないない中で、森より高いものをつくれば来てくれるに違いないと考えたのではと、仮設する。マヤの原生林のピラミッドに登った経験がある。太陽が沈みまた登るのを見ていると、神々しい神様になった気分になった。この経験で、仮説が正しいのではと確信した。太陽信仰。高さと聖域の関係だ。と。(本件は、ちくま新書『天下無双の建築学入門』(2001/09) が初出か)

その講演録を読んで、ますます出雲大社訪問を楽しみにしていた。

天下無双の建築学入門

筑摩書房

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藤森仮説を読んでいて、今回の出雲大社を訪れて、山を北に背負って建つ社という風景をみて思ったこと。やはり、巨木文化の伝統として、高い本殿を作りたかったのだろうと。

でも、出雲という土地を考えるとき、何か別の理由もあると思う。やはり海まで本殿から望みたかったのではないか。もしかすると、日本海の船の行き来を、朝鮮からの船を望みたかった。もしかすると出雲という雲が涌きやすい土地で、本当に「雲にいる千木」に手を伸ばしたかったのか。
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萩 松蔭遺墨展示館(★★★)にて

2005-08-16 | 歴史
8月6日

萩 松蔭遺墨展示館(★★★)にて

松蔭神社にある松蔭遺墨展示館で、処刑の前日に成った門人たちへの遺書の留魂録や二十一回猛士という号のいわれを知ると、松蔭という人物が如何に純粋で愛すべきキャラクターであることがひしひしと感じる。

留魂録
身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂
     十月念五日       二十一回猛士
(第一項)
一。余去年以来心蹟百変挙て数へ難し就中趙の貫高を希ひ楚の屈平を仰く諸知友の知る所なり故に子遠が送別の句に燕趙多士一貫高荊楚深憂只屈平と云も此の事なり然るに五月十一日関東の行を聞しよりは又一の誠字に工夫を付たり時に子遠死字を贈る余是を用ゐす一白綿布を求て孟子至誠而不動者未之有也の一句を書し手巾へ縫付携て江戸に来り是を評諚所に留め置くも吾志を表する也去年来の事恐多くも 天朝幕府の間誠意相孚せさる所あり天苟も吾か区々の悃誠を諒し給はゝ幕吏必吾説を是とせんと志を立たれとも蚊虻負山の喩終に事をなすこと不能今日に至る亦吾徳の菲薄なるによれは今将誰をか尤め且怨んや

全文はたとえばこちら

「至誠にして動かざるものは、未だこれあらざるなり。」といいながら、最後は「亦吾徳の菲薄なるによれは今将誰をか尤め且怨んや」と達観している。何と純粋で平静な心持か。

二十一回猛士
留魂録もそうだが、展示館の遺墨には、二十一回猛士という号が多々ある。展示館の方にその意味を聞いた。夢に神様が現れて授けられた号だそうだ。杉という生家の姓も、木偏は十八に旁の三、吉田も、十一に口に口に十で、共に二十一だ。自分は寅年生まれの寅次郎。寅はすなわち虎であって虎の美点徳性は猛である。それで、二十一回猛士だ。自分は、過去猛を三回用いたことがある。(亡命旅行、強行な意見書。米艦に乗るという国禁を犯す)。天意のあるところを知って、国家のためになお十八回の猛が残っていると覚悟したと。(詳細はパンフレット「松下村塾と松蔭遺墨展示館」または「松陰の墓」ガイドなどを)

あと十八回の猛をするとは、なんと純粋で意気盛んかと。

そのような松蔭が、門人たちに教えた一端が「言行の一端」として、 「松下村塾と松蔭遺墨展示館」というパンフレット(300円)に掲載されている。その松蔭の言行の一端が、その「言」から一部を抜粋してみる。
-曰くたとひ経説を信ずともわが国体を忘るべからず。
-曰く(中略)事を究めんと欲せば先ず地理を見よ。
-曰くおよそ学問は一に専らにして精通せんことを要す。杜領の左伝。司馬光が資治通鑑、本居宣長の古事記における、みな畢竟の心力をここに尽くせり。

思うに、この吉田松陰のこの純粋な愛すべきキャラクターで、多くの長州の人間が「言行の一端」の教育を受け、松蔭自身が(ある意味)安政の大獄で処刑され神になり、多くの人に影響を与えて明治維新になり、その後日清日露戦争に辛勝し、太平洋戦線に向かっていって敗戦した歴史を振り返るとき、吉田松陰はどう評価されるべきなのだろうか?戦後世代が受けた歴史教育でも、吉田松陰は、美化された明治維新の原点として評価されてきたと思う。

でも、彼の唱えた尊王攘夷の思想基盤が、「本居宣長の古事記における、みな畢竟の心力をここに尽くせり。」の言葉に集約されると改めて知るとき、この原理主義的な教えが、多くの長州の人々に影響(または大義)を与えて明治維新に至ったのではないだろうか。昔からの伝統だと思考を停止し、それが大義だという思考ではないか。「天皇のために死ぬ」という今見れば極端な思想も、吉田松陰の原理主義の延長線上にあるといったらいいすぎだろうか?

もちろん、松蔭は、「事を究めんと欲せば先ず地理を見よ。」とも言っており、訓古学的ななく合理主義的な面もある。でも、囚われの身で多くの書を友としてすごした松蔭の思想は、やはり、他者との対話により、昇華されてはいないのではないか。

21世紀を迎えた今、いまだに我々は、明治維新の影をきちんと評価できていないのではないだろうか。そして我々は、未だに思考を停止したまま、松蔭の呪縛から逃れていないのではないだろうか。

「改善案まにあ」さんのBlogにある参考文献ぐらい勉強して発言すべきかとも思うが、批判していただければありがたい。



なお、松蔭遺墨展示館には、このほかに、
肖像自讃
教科書に出てくる自讃の掛け軸

永訣の書
父、叔父、兄に宛てた書。「親思ふ心にまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん」

絶筆
「此の程に思ひ定めし出立はけふきくこそ嬉しかりける」

などが展示されていた。

おまけ:遺墨館の取り壊し? はこちら
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益田 高津柿本神社

2005-08-13 | 歴史
8月5日

益田 高津柿本神社

もう20年も前になるだろうか。梅原猛氏の「水底の歌」を読んだ覚えがある、石見の国で柿本人麿朝臣の亡くなったというのがテーマだったぐらいしか覚えていない。これには、石見讃歌のHPによれば、諸説あるらしいが、ともあれ、終焉の地、鴨島に勅命で建立されるのが柿本神社。そこに立ち寄った。

神社のご案内記によれば、柿本人麿朝臣は、小野族から分かれた柿本族の出。柿本族の本拠は大和にあったが、益田市戸田(小野郷)に移住、人麿朝臣は小野で生まれた。青年時代、都に上られ、持統天皇、天武天皇に宮廷歌人として仕え、万葉集にあるごとく「石見国に在りて臨死(みまか)らむとする時自ら傷みて作る歌」 (万葉集223)「鴨山の岩根し枕けるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ」[ かもやまの、いわねしまける、われをかも、しらにといもが、まちつつあらん ] と歌を残されて石見の国の鴨山に逝去された。その鴨島は、高津沖にあったと語り伝えられてきている。神亀元年、国司が勅命によって鴨山に社殿を建立したのが起源。当社は全国にある柿本神社の本社。

益田市教育委員会の島根県指定文化財の説明によれば、1026年に鴨島が大地震で沈んだが人麿像が松崎に漂着したので、その地に社殿が建立された。近世に入り1608年徳川秀忠の命により造営され、1671年には津和野藩主亀井茲政(これまさ)により修理され、さらに1681年には現在の高津城址に移転した。津和野藩の重要な遺産。とのこと。

高津川沿いの日本海を望める地にある。ちょっと工場の景色がいただけないが。境内の一角に万葉植物園があるが、そこは訪れず先を急ぐ。


--Reference---

石見讃歌 万葉の道はこちら


水底の歌―柿本人麿論 (上)

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水底の歌―柿本人麿論 (下)

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石見銀山

2005-08-11 | 歴史
8月5日

もともとは、松江の次は、萩に移動するだけで、石見銀山による予定ではなかった。でも途中にあるから一寸寄ってみようと石見銀山にいってみた。はじめから、石見銀山によるつもりならば、多分、_aiai_さんのように、琴が浜、温泉津温泉とか宿泊したほうが、余裕でよかっただろう。8時過ぎに玉造温泉を出て、ほんの少し高速に走るよりは、宍道湖を眺めてということでひたすら9号線を西へ。軽自動車で通勤する人が多く、それほどスピードは出せないが、出雲市を過ぎれば、それなりのスピードを出せるようになり10時過ぎには到着。

大森地区で、案内地図を入手して、まずは大森代官所跡にある石見銀山資料館でその歴史や鉱山の様子を勉強。1309年に発見されたと伝えられ、本格的な開発は1526年に博多の神屋寿貞によって始められ、その支配をめぐって大内、小笠原、尼子、毛利によって争われた。1600年からは天領に。1866年幕府崩壊後は、長州出身の藤田組によって引き継がれ、1923年に閉山に。というのが略歴。1526年の本格的な開発以来、朝鮮から技法灰吹き法により急速に発展して、17世紀初頭には銀の輸出は年間20万キログラムにも達したとされ、これは当時の世界の生産高の3分の一に相当する。コックス日記などには「ソーマ銀」という良質の日本銀に関する記載があるが、石見銀山が佐摩村にあり「佐摩銀山」と呼ばれていたことによる。その意味では、本当に世界遺産に相応しい。

石見銀山資料館では500円も払ったのにビデオが壊れていたので、とぼとぼ歩いて、「街並み交流センター」で無料で石見銀山の紹介ビデオを発見し、時間の都合で1本を見る。歴史ノート、鉱山の技術と科学、銀を作る灰吹き法、いも代官井戸平左衛門の事跡という4冊のパンフレットを入手。向かいの「旧河島家住宅」を見学、代官所地役人の住居。二階の天井裏の女中部屋に、感心。

(でも今回の旅で、一番手入れの行き届いていた武家屋敷は、明治元年に作られた、松江の小泉八雲旧居(ヘルン旧居)でしょうか。住み続けていて、家主の根岸磐井氏に大正2年に当時のままに復元したという手入れのよさもあるでしょうし、枯山水の鑑賞式庭園がすばらしいというのもありますが、本当に住みたくなるような家だった。8月4日参照

大森を離れて、龍源寺間歩(まぶ)へ。中に入るとかなりヒヤッとする。1715年に開発され、1943年(1923年とどちらが正しいか?それぞれのパンフレット通り)まで掘り続けられていたとのこと。高々157mの旧坑と116mの新坑なのであっという間だが、雰囲気は味わえる。出た後の道は、結構すがすがしい道。廃墟の佐比売山神社を一寸見て駐車場に戻り、そばをお昼に頂き、石見銀山を後にし、先を急いだ。

nori_noro2005さんの龍源寺間歩(まぶ)を歩くを読むと、「昔は30歳で長寿の祝をしていたこと。亡くなる原因は銀を掘る際に金属入りの粉塵を吸ってしまうからだということ。」とある。銀山掘るのも結構危険だった。炭鉱のような爆発事故の話はなかったので、安全なのかと思っていた。やはり、多くの寺院や五百羅漢とかあるのには訳があったのだ。昔、埼玉の川越にある五百羅漢に寄ってみてあまり気分のいいものではなかったので、石見銀山の五百羅漢は訪ねなかったが、chip-s2005さんの写真をみると五百羅漢も訪れるべきだったか。guitarbossaさんの読むと(株)石見銀山生活文化研究所、通称ブラハウスって有名な雑貨屋さんもあったらしいが、そこもスキップしてしまった。
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出雲大社(いづもおおやしろ)

2005-08-10 | 歴史
8月4日 出雲大社(いづもおおやしろ)

出雲大社を訪れる。意外な風景であった。荘厳ではあるが、普通の山中の神社の風景である。山を北の背に社がある。

拝殿、国宝の本殿と参詣する。出雲大社本殿は、「口遊(くちづさみ)」(920年)という書物に雲太、和二、京三と言われるぐらい壮大で、奈良の大仏の十五丈より高く十六丈(48メートル)はあったとされているという話は聞いていたが、境内に47メートルの掲揚されている国旗と同じ高さといわれると、その高さは一寸信じられない。いずれにしろ、古代は巨木がまだまだありそのような社殿も実現できたのだろう。

宝物を拝観する。国宝の秋野鹿蒔絵手箱、重要文化財の後醍醐天皇宝剣勅望綸旨や後醍醐天皇王道再興綸旨、豊臣秀吉佩刀(はいとう)などなどがある。後醍醐天皇は国を譲られたのに何故、宝剣勅望をされるのか、もともと三種の神器が記号に過ぎないのに、別の記号を勅望されて何の意味があるのか、今ひとつ分からない。また、出雲国造は、古くより代替わりごとに朝廷に参向して「神賀詞(かみはぎことば、かみよごと)」を奏上していたそうだ。続日本紀の、元正天皇の霊亀二年(716年)の出雲国造果安(はたやす)の奏上が初見。これは、日本書紀作成による出雲の国譲り神話の完成と関係があるのだろうか。(神話を作りあげ、それを儀式化したのだろうか)

ともあれ、「出雲大社由緒略紀」「出雲大社の本殿」をもとめた。延喜式式内社の明神大社。明神大社というのは出雲大社だけだそうだ。でも、二礼四拍手一礼の意味もまだ由緒のなかに見つけきれていない。

そののち、素鵞社など境内摂社を参拝。

門前の割子そばは、辛めの味付けで美味。

出雲大社のHP
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初めの島根県

2005-08-09 | 歴史
8月4日 初めの島根県

初めての島根県。まずは、出雲に降り立つ。歩いてみれば初めて気がつくのだが、島根半島というのが、それなりの山で日本海を普通の町からには望むことはない。松江や出雲は地形的には、盆地である。北風も少しは弱くなり、台風の影響も少なく米作などがしやすいのだろう。奈良の「あすか」を旅したときも思ったが、何故この地に日本の古代文明が発祥したかということを考えるときに、盆地というのは一つのキーワードであるような気がする。出雲の場合は、宍道湖(と中海)という湖を抱えた盆地だから、「八雲たつ」出雲というのも、そのとおりであろう。古代のひとはよく空を観察していた。「八雲」も水蒸気が織りなす「宍道湖に沈む夕日」という情景をも今回はみるチャンスがなかったが、また訪れて見てみたい。

島根県という名前について。島根県は、出雲(松江藩)、石見(浜田藩、津和野藩、天領の大森(石見銀山))、隠岐の三国が1871年に島根、大森、津和野の三県になり、1881年に現在の県域になった。出雲国風土記では、出雲国は、嶋根、秋鹿(あいか)、楯縫、出雲、神門(かんど)、飯石(いいし)、意宇(おう)、大原、仁多の九郡からなり、嶋根は出雲の国のごく一部。「島根」を古語辞典で引けば、「(根は接尾語)島」とある。島根半島は第三紀の褶曲山脈で、もと島であったが、沖積作用で陸続きになったというから、島根半島は文字通り嶋根であった。その狭い嶋根が島根県の由緒なのだから、薩長は意地が悪い。島根県のホームページを探すが、いわれが中々見つからない。さもありなん。

八雲といえば、東京の目黒に八雲という高級住宅地がある。目黒区のホームページによれば、八雲二丁目にある素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祭る氷川神社にちなんで付けられた由。昭和39年7月、目黒区の住居表示制度の第一期実施地区として、宮前町、大原町、衾町、芳窪町、中根町の一部が、東が丘と八雲に変更になったとのこと。
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書籍:日本古代史の謎を解く(★★★)

2005-07-31 | 歴史
日本古代史の謎を解く―『記・紀』に秘められた真実

新泉社

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諸研究家の論考や異説を比較・検討し、「記・紀」編集の秘められた目的を問う。と謳うだけことはある一冊。

卑弥呼と宇佐八幡の関係、宗像神社と出雲大社の関係、縄文人と弥生人のほかに騎馬民族がやってきて混血した日本人と日本文化。つまり征服者が来ると娘を差し出してきた歴代王朝(これはまるで、映画「アレキサンダー」大王で知ったが、彼が遠征で妻を娶るような話だ。)

でも、この書籍の難解さは、結局奈良時代。あまりの想像を絶する推理にびっくりしてまだ消化不良だ。文武天皇は新羅からやってきた。聖武天皇は、血筋はかなり怪しい。など

もともと鹿島神宮とは何かを問うために、いくつかの著作を読んできた。事実は確かに澤田洋太郎氏の説の通りかもしれない。
虚飾(すなわち藤原氏はどう虚飾の歴史を作成しようとしたか)も理解しなければ古代史を分からない気もしてきている。たとえば、中村幸雄氏の天智天皇王朝論、百人一首も天智天皇から順徳院に限定されているのは「王朝の光と影」と独特の回顧的美学により表現したと見るべき。という説。
また延喜式内社に含まれていない古代からの神社は何を意味をしているのか。この辺についての書籍を見つけたい。
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