ピランPiranは、アドリア海に突き出した岬の先のにある、スロベニア(旧ユーゴスラビアでオーストリア、クロアチア、イタリアなどに国境を接する国)で一番美しいという小さな町です。そのピランPiranの歴史をGuide Book-to the Coast(IMAGE d.o.o., Stopniska 8, Protoroz)というパンフレットを元に紹介します。
なぜ、紹介したくなるかというと、この町は、今もイタリアやオーストリアに国境からすぐの所にありますが、そのため、神聖ローマ帝国、スラブ人の侵略、ヴェネチアの侵略、ナポレオンの進軍、オーストリアとイタリアの支配を受けたという、とても複雑な歴史の町だからです。
さてピランに、はじめにやってきたのはギリシア人です(これはあくまでも説ですが)。ピランはギリシア語のPyros(火の意味)に由来するともいわれます。隣町の現在のKoperに向かう灯台があったとの伝説もあります。Piran博物館には確かにギリシア風の壷が展示されていました。ローマはB.C.178年にIllyriansとCeltsに宣戦します。このAquilean colonyアクイレイヤ植民地の中の'Slovenian'海岸もローマ化されていきます。
*1 アクイレイヤは、トリエステの西25kmほどのところにある現在の人口は3000人程の町。その名の由来は鷲(アクイラ)に負っている。ゲルマン族との戦いに際しては、アウグストゥス皇帝の本営がここに置かれた。ギリシア正教の総大司教領の所在地(554-1751)となった。世界遺産に最近指定されている。(今回行きそびれています。残念。)
5世紀から6世紀になるとスラブ人が内陸部にせまり、ローマは海岸線に後退していきます。そして、8世紀後半にフランク王国に占領されます。同時にスラブ人が移住してきます。
9世紀になると北アドリア海はヴェネチアの支配下になります。ヴェニスとピランがはじめて商取引をしたのが933年。ヴェネチアの主権は1210年まで続きます。(写真はベネチア風の窓)その後the Patriarchs of Aquileiaアクイレイヤ総大司教領の支配下になります。アクイレイヤ総大司教領とヴエネチアの反目の間にはさまれ、ピランは一旦自由都市となりますが、1283年には、再び、塩取引の独占狙ったヴェネチア支配下になります。ピランは常にヴェネチアのへの忠誠をつくし、トリエステTiriesteやフリウリFriuliの教皇領に対抗し、最後にはジェノバにも対抗しました。政治的独立よりも経済的利益を重視したのです
Campo Formio条約により、1797年にヴェネチアの支配は終わり、オーストリアがナポレオンからこの地を獲得しました。1806年から1813年の短い間、フランスの支配下になりますが、またオーストリア支配下に戻り、それは1918年まで続きます。近くのProtorozに塩田は広がり、ツーリストも来るようになり、だんだん栄えるようになってきました。
第一次世界大戦後、ピランはイタリア領になりました。イタリアは、スロベニア語の学校を閉鎖し、名前のイタリア語化を進めました。ファシストの弾圧と共産主義が広がりました。第二次世界大戦後ピランは、ユーゴスラビアが管轄のZoneBに属しました。トリエステを含むZoneAは連合国支配下になりました。1954年にZoneAはイタリアに、ZoneBはユーゴスラビアになりました。1991年にユーゴスラビアが分割され、現在はスロベニアに属しています。ピランの人々は主に観光と漁業に従事していますが、後者は、クロアチアとの国境ができて、自由に海に出られないために、後退しています。
本パンフレットには、Koper(Zone BのときのHeadquarterだった)、Izola、Portoroz(塩田の中心、いまも塩田がある)も紹介されていますが、すぐ近くの町なのに、微妙に歴史が違います。非常にイタリア的です。
Piranの町の風景と訪問記はこちら
UPDATED 2005-10-18
なぜ、紹介したくなるかというと、この町は、今もイタリアやオーストリアに国境からすぐの所にありますが、そのため、神聖ローマ帝国、スラブ人の侵略、ヴェネチアの侵略、ナポレオンの進軍、オーストリアとイタリアの支配を受けたという、とても複雑な歴史の町だからです。
さてピランに、はじめにやってきたのはギリシア人です(これはあくまでも説ですが)。ピランはギリシア語のPyros(火の意味)に由来するともいわれます。隣町の現在のKoperに向かう灯台があったとの伝説もあります。Piran博物館には確かにギリシア風の壷が展示されていました。ローマはB.C.178年にIllyriansとCeltsに宣戦します。このAquilean colonyアクイレイヤ植民地の中の'Slovenian'海岸もローマ化されていきます。
*1 アクイレイヤは、トリエステの西25kmほどのところにある現在の人口は3000人程の町。その名の由来は鷲(アクイラ)に負っている。ゲルマン族との戦いに際しては、アウグストゥス皇帝の本営がここに置かれた。ギリシア正教の総大司教領の所在地(554-1751)となった。世界遺産に最近指定されている。(今回行きそびれています。残念。)
5世紀から6世紀になるとスラブ人が内陸部にせまり、ローマは海岸線に後退していきます。そして、8世紀後半にフランク王国に占領されます。同時にスラブ人が移住してきます。
9世紀になると北アドリア海はヴェネチアの支配下になります。ヴェニスとピランがはじめて商取引をしたのが933年。ヴェネチアの主権は1210年まで続きます。(写真はベネチア風の窓)その後the Patriarchs of Aquileiaアクイレイヤ総大司教領の支配下になります。アクイレイヤ総大司教領とヴエネチアの反目の間にはさまれ、ピランは一旦自由都市となりますが、1283年には、再び、塩取引の独占狙ったヴェネチア支配下になります。ピランは常にヴェネチアのへの忠誠をつくし、トリエステTiriesteやフリウリFriuliの教皇領に対抗し、最後にはジェノバにも対抗しました。政治的独立よりも経済的利益を重視したのです
Campo Formio条約により、1797年にヴェネチアの支配は終わり、オーストリアがナポレオンからこの地を獲得しました。1806年から1813年の短い間、フランスの支配下になりますが、またオーストリア支配下に戻り、それは1918年まで続きます。近くのProtorozに塩田は広がり、ツーリストも来るようになり、だんだん栄えるようになってきました。
第一次世界大戦後、ピランはイタリア領になりました。イタリアは、スロベニア語の学校を閉鎖し、名前のイタリア語化を進めました。ファシストの弾圧と共産主義が広がりました。第二次世界大戦後ピランは、ユーゴスラビアが管轄のZoneBに属しました。トリエステを含むZoneAは連合国支配下になりました。1954年にZoneAはイタリアに、ZoneBはユーゴスラビアになりました。1991年にユーゴスラビアが分割され、現在はスロベニアに属しています。ピランの人々は主に観光と漁業に従事していますが、後者は、クロアチアとの国境ができて、自由に海に出られないために、後退しています。
本パンフレットには、Koper(Zone BのときのHeadquarterだった)、Izola、Portoroz(塩田の中心、いまも塩田がある)も紹介されていますが、すぐ近くの町なのに、微妙に歴史が違います。非常にイタリア的です。
Piranの町の風景と訪問記はこちら
UPDATED 2005-10-18