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徒然なるまままに

展覧会の感想や旅先のことを書いてます。

特集陳列「中国書画精華」(書跡) 東京国立博物館

2006-09-19 | 
中国絵画・書跡 特集陳列「中国書画精華」(書跡)
2006年9月5日から10月29日
東京国立博物館 東洋館

全リスト

唐時代の端麗な筆跡の写本が展示されていた。内容については不案内。
  • 国宝 碣石調幽蘭第五 唐時代・7~8世紀
  • 国宝 古文尚書巻第六 唐時代・7世紀
  • 国宝 世説新書巻第六残巻 唐時代・7~8世紀
  • 国宝 王勃集巻第二十九・三十 唐時代・7~8世紀

    名跡が並ぶ。文徴明の書は数々見るが、行書は素晴らしいです。
  • 行書居庸賦巻 馮子振筆 元時代・延祐4年(1317) TB-1460


  • 草書詩書巻 とうとう筆 元時代・14世紀
    康里トウトウ筆李白詩古風 縦35.0 横63.8 自作七言古詩 縦28.9 横82.2 唐人絶句六首 縦30.0 横101.6
    康里トウトウ(1295-1345)は,西域の康里部出身。漢人同様の教養を身につけ,書にも巧みであった。李白古詩・自作古詩の各1首と,唐人の五言絶句6首の3種を1巻に装幀したもの。犀利な露鋒と遒勁流美な筆致で,間に元の張雨や明の文徴明等の跋がある。


  • 行書遊天池詩巻 文徴明筆 明時代・嘉靖17年(1538) 個人蔵


    (18日)
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    館蔵 秋の優品展(墨蹟) 五島美術館

    2006-09-11 | 
    館蔵 秋の優品展
    絵画・墨跡と李朝の陶芸
    2006年9月2日から10月22日
    五島美術館

    墨跡
  • 蘭溪道隆墨跡「風蘭」偈 鎌倉時代・13世紀
    蘭溪道隆(大覚禅師 1213―78)は、寛元四年(1246)に鎌倉幕府の執権北条時頼(1227―63)の招きで来日し、のちに鎌倉建長寺を開いた禅僧。中国宋時代の書家張即之(1186―1266)の影響を受けた強くきびきびとした筆跡が特徴。とのこと。


  • 重要文化財 大休正念墨跡 天台石橋頌軸序 鎌倉時代・13世紀 文永甲戌初夏60歳の時の書。
    大休正念(-1280)は、中国南宋の僧。1269年来日。

  • 一山一寧墨跡「園林消暑」偈 鎌倉時代・14世紀
    一山(1247―1317)は、正安元年(1299)に来朝した禅僧。儒学や詩文に秀で、五山の名僧として著名。特に草書体を得意とした。これは、晩年の草書の横幅の傑作。一山の語録に所載の詩。


  • 重要文化財 宗峰妙超墨跡「梅溪」二大字 鎌倉時代・14世紀(展示予定期間9月2日-9月24日)
    京都大徳寺の開祖宗峰妙超(大燈国師 1282―1337)が、弟子の宗智道人のために印可の証明として書き与えた道号。加賀前田家伝来。京都酬恩庵(薪寺)から、前田利常が年賦払いで購入した伝説がある。


  • 虎関師錬墨跡 尺牘 鎌倉時代・14世紀
    流暢な筆致

  • 絶海中津墨跡 古詩 与南雄明上人;鎌倉時代・14世紀;天寧寺伝来

  • 破庵祖先墨跡 詩偈 南宋時代・12-13世紀;草書二行書

  • 兀庵普寧墨跡 法語 南宋時代・13世紀
  • 重要文化財 馮子振墨跡 与無隠元晦語 元時代・14世紀
  • 中峰明本墨跡「勧縁疏」 元時代・14世紀
    中峰明本(1263―1323)は、中国元時代の禅林を代表する僧侶。住居「幻住庵」の虫喰が著しく、その復旧と台所の新築のために寄付を募る文。独特の筆跡を「笹葉中峰」と俗称する。


  • 月江正印墨跡 送行偈 元時代・14世紀
  • 石室祖瑛墨跡 餞別偈 元時代・至元3年(1337)書

    (10日)
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    館蔵 秋の優品展(古写経) 五島美術館

    2006-09-10 | 
    館蔵 秋の優品展
    絵画・墨跡と李朝の陶芸
    2006年9月2日から10月22日
    五島美術館

    古写経

    絵因果経が展示が多数されていた。

    奈良時代
  • 過去現在絵因果経断簡(益田家本)耶舎長者出家願図

    (追記10月15日)
     まじまじとこの断簡をまた眺めてしまいました。今年は、何回か、古因果経の色々な巻を鑑賞しました。今までは、よくもまあここまで岩絵具が綺麗に残っていたという面ばかり見ていました。
     今回初めて気がついたのは、色々な画師が描いた作品だということ。この断簡には2組のほぼ同じ構図の釈迦と耶舎長者が描かれています。ところが、両者の筆致はかなり違います。釈迦の坐っている台座など顕著です。左は輪郭線は太く、綺麗に幔幕状の模様が等間隔に並んでいます。右は、輪郭線は消えそうで見えない細線。幔幕は適当に塗られています。釈迦の顔の表現も、右は、細線を使って上手に表情まで描かれているが、左は釈迦の表現は、模写といった感じで今一歩というところです。左の画師は一所懸命模写したが、右の画師は上手に描いているといったところでしょうか。明らかに別の画師が描いたものです。よくみると面白いものです。
     また、表装も光背が織ってあり洒落ています。
    (追記10月15日 終)

  • 過去現在絵因果経断簡(東京芸大本)(古写経手鑑「染紙帖」のうち)(10/13まで)

    鎌倉時代
  • 過去現在絵因果経断簡(松永家本)尼蓮禅河水浴図
  • 過去現在絵因果経断簡(松永家本)樹下座禅図
  • 過去現在絵因果経断簡(松永家本)伎楽供養菩薩図

    伎楽供養菩薩図の絵は、鮮やかな青緑色の流水に白く渦巻く様、また中央の天女の流れるような動きなど、見入ってしまいます。

  • 藤原夫人発願一切経 実相般若波羅密経 奈良時代・天平十二年(740)書写;737年に流行した疫病で亡くなった藤原房前の三周忌に娘が発願した一切経。表紙の継目に朱円印より元興寺経と呼ばれる。興福寺(藤原氏の菩提寺)ではなく、の元興寺経(蘇我氏の系列?)の印が捺されているというので、一寸気になりました。東博にも同じく元興寺の朱円印のある「文陀竭王経」が展示されていました。東博の説明によると藤原房前の娘は藤原広嗣の夫人らしいのですが、そうすると、藤原広嗣の乱と大きく関係するのでしょうか?

    藤原広嗣の乱とは、WikiPediaによれば「天平9年(737年)朝廷の政治を担っていた藤原四兄弟が天然痘の流行によって相次いで死去した。代って政治を担ったのが橘諸兄であり、また唐から帰国した吉備真備と玄が重用されるようになった。藤原氏の勢力は大きく後退した。
    天平10年(738年)藤原宇合の長男・広嗣(藤原式家)は大養徳(大和)守から大宰少弐に任じられ、大宰府に赴任した。広嗣はこれを左遷と感じ、強い不満を抱いた。
    天平12年(740年)8月29日、広嗣は政治を批判し、吉備真備と玄の処分を求める上表を送った。
    (中略)
    天平13年(741年)1月、乱の処分が決定し、死罪16人、没官5人、流罪47人、徒罪32人、杖罪177人であった。藤原式家の広嗣の弟たちも多くが縁坐して流罪に処された。」
    というわけで、740年は、非常に微妙な時期です。戦勝祈願でしょうか?

  • 重要文化財 称徳天皇勅願一切経 十誦律第三誦 巻第十七 奈良時代・神護景雲二年(768)書写
  • 重要美術品 安倍小水麿願経 大般若経 巻第三百十六 平安時代・貞観十三年(871)書写
  • 重要文化財 不空三蔵表制集 巻第六 平安時代・10世紀 

  • 重要文化財 紺紙金字阿弥陀経 平忠盛筆 平安時代・久安五年(1149)書写;平清盛の(養)父の平忠盛の写経。映画の新平家物語を見たあとだったので感慨です。 

  • 古写経手鑑「染紙帖」 奈良-室町時代・8-14世紀
    益田鈍翁が作成した古写経手鑑。32枚の断簡を集める。(断簡名は、五島美術館の名品「絵画と書」でUPDATEしました。伝筆者は、下記まではメモしましたが)
  • 大聖武
  • 中聖武
  • 小聖武
  • 阿弥陀院切 聖武
  • 飯室切 嵯峨帝
  • 虫喰切 吉備真備
  • 山門切 篁?
  • 色紙経切 
  • 因果経切(こちらは東京藝大本)
  • 金剛般若経解題 行書 大師? 
  • 東寺切 大師? 
  • 東寺切 大師?
  • 讃岐切 管公?
  • 紫切 管公?
  • 二月堂焼経断簡 管公?
  • 光明皇后 蝶鳥下絵経、料紙は丁子(ちょうじ)の汁を吹き付けた茶色。そこに鳥や蝶などを描く
  • 目無経断簡
  • 行成 草書装飾経(金銀の切箔、もみ箔で装飾)
  • 色絵経切 中将姫?
  • 紺紙金泥経断簡 中将姫?
  • 蓮華王院切 白河院?
  • 清水切 後鳥羽院(上部に天蓋、下部に蓮台を銀泥で描き、そのなかに経文を墨書)
  • 装飾法華経切
  • 太秦切 聖徳太子(広隆寺伝来の紺紙に金泥で写経した一字宝塔経。)
  • 装飾法華経切 俊成
  • 唐紙経切  伊勢?
  • 金銀交書経断簡
  • 装飾法華経切 良経卿
  • 法華経切 慈鎮?
  • 紫紙金字経切 亀山院?
  • 笠置切 宣房?
  • 山田切 藤房?


    (10日)
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    国宝「古今和歌集序(巻子本)」@大倉集古館

    2006-08-06 | 
    館蔵日本美術による Gold ~ 金色(こんじき)が織りなす異空間
    大倉集古館
    2006年8月3日から9月3日(前期)

    伝 源俊頼筆 国宝「古今和歌集序」

    昨年の「特別展 やまとうた一千年 五島美術館」でも展示されていて見逃していた一品。今回展示されてるというので、勇んでいってきました。
    全巻展示がされていて壮観。五島美術館では、こうは展示されていなかったでしょうから、今回見れてよかった。

    色とりどりの33の唐紙を継ぎ合わせた料紙。そこに伝源俊頼筆の古今和歌集序が流麗な筆致で書かれている。実際は、藤原定実(1077-1120?)筆する説が有力。

    料紙は、雲母刷り、空刷り料紙。料紙の色は、白、濃朱、薄朱、藍、縹(はなだ)、草、黄。雲母刷りの文様は、花襷、鶴に朽葉、獅子二重丸唐草、飛獅子唐草、小宝相菫唐草、合生唐草亀甲文。空刷りの文様は、牡丹唐草、宝相菫唐草、鶴に蓮唐草、波に人物群、殿舎に人物群、孔雀に宝相菫唐草。とのこと。

    濃い色の料紙には太目の字で、薄い色の料紙には、細い字で書き分け分けられているさまも見事。

    もう1点、「巻子本古今集切断簡(巻十八の一部)源俊頼筆」が展示されていた。巻子本は、このほか2,3,4,5,9,10,13,15,16,17巻の断簡が伝わる。行成か定実の手による可能性が高いとのこと。

    P.S. 三十三という数字には特別の意味があるようだ。三十三間堂とか西国三十三箇所とかは、観音信仰のあらわれのようだ。十一面観音というのもあるがその類か。どなたか教えてくれると嬉しいです。まだGOOGLEもしてないですが。

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    東京国立博物館 常設展示 -書跡-

    2006-07-26 | 
    東京国立博物館 常設展示 -書跡-

    企画展示 特集陳列「唐様の書」,国宝室 和歌体十種、国宝 久能寺経ほか、いくつか書の名品が展示されていました。

    企画展示 特集陳列「唐様の書」 本館特別1・特別2室 2006/7/11~2006/8/6
    江戸時代の日本の書は、御家流に代表される和様と、中国書法を範とした唐様とに大別されます。御家流は、幕府の公式書体として用いられ、また寺子屋などを通して一般庶民にも広まり、江戸時代を通じて日常の場で幅広く用いられました。いっぽう、中国・明時代末の混乱を避けて来日した学者や僧侶などによってもたらされた唐様の書は、江戸時代前期、幕府の儒教奨励政策を追い風に、僧侶・儒者など知識層を中心に根付いていきました。受容と洗練を繰り返しながら、文人精神の表現手段にまで高められた江戸時代の唐様の書をお楽しみください。

    唐様の書なるものがあるのは初耳。やわらかい書体の「語」 良寛筆 も展示されていたので、これが唐様かと。「楷書千字文 市河米庵筆」なる漢字の手本もあった。
  • 池大雅筆「水流帖」(原本)杜甫や李白の詩から撰んだ五言詩三十六句を篆隸楷行草(てんれいかいぎょうそう)の各書体で書き分け、淡墨(たんぼく)で折帖(おりじょう)に揮毫したもので、晩年50代の筆と推定されます。詩情と筆致が一体化し、悠揚迫らぬ書風は、自然体を志向した生き様と、文人の書の高みを思わせます。とのことだが、この作品はすばらしかった。写真も掲載されているが、長尺に書かれた様は壮観。


    第1室 2006/7/19~ 2006/8/27
  • 雑阿含経巻第四十五(ぞうあごんきょうまきだいよんじゅうご)光明皇后願経(こうみょうこうごうがんぎょう);天平15年(743)5月11日,藤三女(光明皇后)が父母の冥福を祈って発願供養された一切経の中の1巻。五月一日経とともに名高い。本巻はもと高野山正智院に伝来した。黄麻紙に薄墨界を引いて書いた端正な楷書体は天平写経の特徴をよく示している。
  • 紫紙金字法華経断簡(紫切) 伝菅原道真筆 奈良時代・8世紀; 暗くてよく見えません。

    国宝室 2006/7/4~2006/7/30
  • 国宝 和歌体十種
     『和歌体十種』は、10世紀の末から11世紀初めに成立した歌論書。平安時代中期の歌人・歌学者で「三十六歌仙」の1人、壬生忠岑(みぶのただみね)の著作とされることから「忠岑十体」の別名ももつが、今日では疑問視されている。
     本書は、その現存最古の写本で、藍と紫の飛雲(とびくも)を大ぶりにすき込んだ薄手の鳥の子紙に、和歌を10体に分類して、それぞれに5首の例歌を仮名で添え、漢文で説明を加えたものである。
     筆者については、巻末に江戸時代の古筆鑑定家、古筆了佐(こひつりょうさ)が藤原俊成(ふじわらのとしなり)の祖父の藤原忠家(ただいえ)とするが、確証はない。(文章も画像もeMusuemから





    第3室 2006/7/19~ 2006/8/27
  • 国宝 法華経一品経(慈光寺経) 1巻 鎌倉時代・13世紀 埼玉・慈光寺蔵 33巻のうち
  • 国宝 法華経提婆品(久能寺経) 1巻 平安時代・12世紀 静岡・鉄舟寺蔵
    いつみても素晴らしいのですが、両者とも見返し絵が、ほとんどない巻でした。

  • 法華経巻第四断簡(戸隠切) 藤原定信筆 平安時代・12世紀
  • 法華経 藤原定信筆 平安時代・12世紀 個人蔵
    藤原定信の筆の法華経が2点。戸隠切は、一字宝塔法華経。升目にあわせて書かれています。右肩上がりのかなり特徴のある書体です。戸隠神社の巻1から巻4は重文です。(画像はSRCリンク)


  • 重文 和漢朗詠集 巻下(益田本) 1巻 平安時代・11世紀; 益田鈍翁の旧蔵品。宋時代の唐紙、染紙に雲母砂子を撒いた料紙や雲紙などを用いる。






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    書の国宝 墨跡 @五島美術館(その3)

    2006-07-13 | 
    書の国宝 墨跡
    五島美術館
    2006年6月17日から7月23日

    松源派
    蘭渓道隆鎌倉、建長寺開山。開山大覚禅師は中国西蜀淅江省に生まれた。名は道隆、蘭渓と号した。十三歳のとき中国中央部にある成都大慈寺に入って出家、修行のため諸々を遊学した。のちに陽山にいたり、臨済宗松源派の無明惠性禅師について嗣法した。そのころ中国に修行に来ていた月翁智鏡と出会い、日本の事情を聞いてからは日本に渡る志を強くしたという。禅師は淳祐六年(1246)筑前博多に着き、一旦同地の円覚寺にとどまり、翌宝治元年に知友智鏡をたよって泉涌寺来迎院に入った。智鏡は旧仏教で固められている京都では禅師の活躍の場が少ないと考えたのであろう、鎌倉へ下向するよう勧めた。こうして禅師は鎌倉の地を踏むことになった。日本に来てから三年後のことと思われる。時に三十六歳。鎌倉に来た禅師はまず、寿福寺におもむき大歇禅師に参じた。これを知った執権北条時頼は禅師の居を大船常楽寺にうつし、軍務の暇を見ては禅師の元を訪れ道を問うのだった。そして、「常楽寺有一百来僧」というように多くの僧侶が禅師のもとに参じるようになる。そして時頼は建長五年(1253)禅師を請して開山説法を乞うた。開堂説法には関東の学徒が多く集まり佇聴したという。こうして、純粋な禅宗をもとに大禅院がかまえられたが、その功績は主として大覚禅師に負っているといえる。入寺した禅師は、禅林としてのきびしい規式をもうけ、作法を厳重にして門弟をいましめた。開山みずから書いた規則(法語規則)はいまも国宝としてのこっている。 禅師は鎌倉に十三年いて、弘長二年(1262)京都建仁寺にうつり、その後また鎌倉に戻ったが叡山僧徒の反抗にあって二回にわたり甲斐に配流されたりした。禅師はのち弘安元年(1278)四月、建長寺に再住、そして七月二十四日、衆に偈を示して示寂した。ときに六十六歳。
     偈 用翳晴術 三十余年 打翻筋斗 地転天旋
    後世におくり名された大覚禅師の号は、わが国で最初の禅師号である。

  • 重文 蘭渓道隆墨蹟 諷誦文残闕 個人
  • 重文 蘭渓道隆墨蹟 看経榜残闕 神奈川・常盤山文庫蔵

  • 重文 月江正印墨蹟 与鉄舟徳済送別偈 五島美術館;月江正印(がっこうしょういん)(1267―1350?)は、中国元時代有数の碩徳として尊敬を集めた僧侶。月江正印は清拙正澄の兄。日本から遊学する者も多かった。本幅は室町時代の僧鉄舟徳済の徳を誉めた七言の偈で、至正三年(1343)77歳の書。画像はSRCリンク


    古林清茂:古林清茂(くりんせいむ・1262-1329)は、元代禅林の第一人者で、茂古林(むくりん)と称された。号を休居叟(休居子)といい、仏性禅師の号を贈られている。法弟は多く、特に了庵清欲、竺仙梵僊(来日僧)、我が国の月林道皎、石室善玖が有名である。

  • 重文 古林清茂墨蹟 与運禅人送別偈 MOA美術館;雲州松平家伝来
  • 国宝 古林清茂墨蹟 与別源円旨送別偈 五島美術館蔵;越前朝倉家献上、織田信長、丹羽長秀、丹羽家伝来。これは弟子の別源円旨に修行皆伝の証明を書き与えたもの。古林墨跡中の代表作として著名。画像はSRCリンク

    こちらは今回の展覧会には展示されませんが、こちらに重文 古林清茂墨蹟「与月林道皎偈」 徳川美術館蔵が。

    了庵清欲古林清茂の法嗣である了庵清欲(1288-1363)は,保寧寺,開元寺,本覚寺,霊巌寺に歴住し,順帝より金襴の法衣と慈雲普済禅師の号を賜った。
  • 重文 了庵清欲墨蹟 与月林道皎送別偈 五島美術館蔵;

  • 重文 虚堂智愚墨蹟 与徳惟禅者偈頌  徳川美術館;精神的基盤を禅に求めた茶の湯においては、墨蹟を茶掛けの第一とした。中でも虚堂(くどうちぐ)(1185~1269)の墨蹟は最も珍重された。大徳寺大燈国師、建長寺大応国師の法脈を遡れば、祖師に当たるが故であろう。虚堂は名を智愚、息耕と号した。育王山、径山などの名刹を暦住し、八十五歳で示寂した。この墨蹟は虚堂七十歳の時、侍者である徳惟禅者が、宝祐二年(一二五四)に諸方の仏祖の塔を巡礼するに当り、請われ与えた偈頌である。徳川家康(駿府御分物)-初代義直-三代綱誠-五代将軍綱吉-六代将軍家宣-四代吉通と伝来した。尾張徳川家伝来、独特の「手」の字。
    画像はこちら
  • 重文 虚堂智愚墨蹟 景酉至節偈 静嘉堂文庫美術館蔵;仙台伊達家伝来
  • 重文 虚堂智愚墨蹟 送(番にオオザト)陽復道者偈頌 東京国立博物館;来迎寺伝来

  • 重文 南浦紹明墨蹟 示宗観禅尼法語 五島美術館蔵。南浦紹明(1235―1308)は、京都大徳寺を開いた宗峰妙超(大燈国師 1282―1337)の師としても著名な禅僧。建長寺十三世住持。円通大応国師の号を後宇多法皇より下賜された。本幅は、徳治二年(1307)、73歳の時の書。金銀の切箔を散らし、霞引きを施した装飾料紙を使用する墨跡は珍しい。画像はSRCリンク


    宗峰妙超:大燈国師。1315年大徳寺開山。師の南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大燈国師)を経て関山慧玄へ続く法系を「応燈関」といい、現在、日本臨済宗はみなこの法系に属する。著述には『大灯国師語録』『仮名法語』『祥雲夜話』などがある。(wikipediaによる) 
  • 国宝 宗峰妙超墨蹟 与慧玄蔵主印可状 京都・妙心寺蔵;宗峰妙超が妙心寺開山の関山慧玄に与えた印可状。気宇壮大で厳しく豊かな書風。なお、妙心寺のサイトに寄れば、花園法皇は、大燈国師(だいとうこくし)で知られる大徳寺を開かれた宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)禅師に参禅し、印可(いんか/弟子が悟りを得たことを師匠が認可すること)されています。宗峰妙超禅師は病に伏し重態となられ、花園法皇の求めに応じて、弟子の関山慧玄(かんざんえげん)禅師を師とするよう推挙されました。そして、花園法皇は花園の離宮を禅寺にし、正法山妙心寺と命名されました。12月22日、宗峰妙超禅師が亡くなられましたが、妙心寺では、この建武4年(1337)を開創の年としています。
  • 重文 宗峰妙超墨蹟 徹翁字号 京都・徳禅寺蔵

  • 一休宗純 尊林号偈 畠山記念館;愛猫の死を悼んだ偈。
  • 一休宗純 初祖号 徳川美術館

    曹源派・その他
  • 重文 癡絶道冲墨蹟 与悟兄都寺偈頌 五島美術館
  • 重文 一山一寧墨蹟 進道語 東京・根津美術館蔵。正安元年(1299)元王朝の外交使節として一山は船を東海に浮べた。北条政府は一山をモンゴルのスパイと疑って、伊豆の修禅寺におし込めた。しかし師の才幹は執権貞時にきこえ、同年末迎えられて鎌倉の諸大寺を司り、更に後宇多法皇に招かれて、京に入って南禅寺の主ともなり、文保元年(1317)に春秋七十一を重ねて世を去った。その書風は顔真卿の流れを汲むかと見られる。本幅は固山一鞏に対して悟後の修行を激励した進道の語である。固山は一山の来朝匆々、十六歳の若年で博多に赴いて謁しているが、これはその後十七年を経た正和五年(1316)の作にかかる。(根津美術館)画像はSRCリンク


    東陵永ヨは、中国の元時代の人で1351年に来朝し、西芳寺・天龍寺・南禅寺などの諸大刹に歴住した。
  • 重文 東陵永ヨ(王偏に興)墨跡 召庭字説 京都・天龍寺 
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    書の国宝 墨跡 @五島美術館(その2)

    2006-07-12 | 
    書の国宝 墨跡
    五島美術館
    2006年6月17日から7月23日

    大慧派(大慧宗杲(1089-1163)を祖とする)
  • 重文 東陽徳輝(とうようてひ)墨跡 与笑隠大訴尺牘 1329頃 五島美術館;旧松平不昧所蔵、水仙を空刷りした蝋箋。
  • 重文 楚石梵 与椿庭海寿送別偈;五島美術館;入元僧の椿庭海寿に与えた送別偈 

    破庵派(破庵祖先(1136-1211)を祖とする)
    無準師範(ぶしゅんしばん)(1177~1249)は、中国、南宋の禅僧。明州の清涼山、育王山などを歴住し、五山第一位の径山(キンザン)萬寿寺の住持にのぼった。来朝僧の無学祖元や画僧牧谿(モッケイ)は無準師範の門弟で、 中国のみならず日本でも広く尊敬を集めた高僧である。(「承天閣美術館」の無準師範頂相の説明から。)
  • 国宝 無準師範墨蹟 与聖一国師尺牘(板渡墨蹟) 東京国立博物館蔵;(画像は東博へのSRCリンク)

    東福寺開山の聖一国師(円爾弁円)が,その師無準師範(1177-1249)のもとを辞して帰国した翌年の淳祐2年2月,無準の住する径山万寿寺が炎上の厄にあった。博多に承天寺を創建しその住持となっていた円爾は径山炎上の報をうけると,当時日宋貿易に従事していた豪商謝国明の協力を得て,復興資材として板千枚を寄進した。謹直な趣を示す本幅はそれに対する無準師範の礼状で,その因縁から「板渡しの墨蹟」と呼ばれ世に珍重されている。松平不昧公旧蔵品
  • 重文 無準師範墨蹟 「帰雲」MOA美術館蔵:古田織部、細川三斎、徳川家、団家旧蔵
  • 重文 無準師範墨蹟 禅院牌字「巡堂」 常盤山文庫;牌字とは告知板用の文字。無準師範から円爾に送られたとされる。普門院伝来、益田鈍翁旧蔵
  • 無準師範墨蹟 「茶入」 五島美術館;普門院伝来。牌字。

  • 重文 剱門妙深墨跡 与聖一国師尺牘 常盤山文庫:円爾あて尺牘。
  • 重文 希叟紹雲墨跡 達磨祖師賛 五島美術館;希叟紹雲は、無準師範の法嗣。

  • 国宝 馮子振墨蹟 易元吉画跋 常盤山文庫蔵;馮子振は元代の文人。元時代,北宋の画人易元吉の描いた草虫図鑑に題した賛詞と思われる。利休が絶賛した。とのこと。

    中峰明本:元代の臨済宗の僧。浙江省銭塘の人。俗姓孫氏、号は中峰。天目山の高峰原妙に就いてその法を嗣ぐ。終生官寺に住まず、自ら「幻住」と称して遊歴と隠遁の生活を送る。その間多くの雲衲を接化し、江南の古仏と呼ばれた。仁宗皇帝より仏慈円照広慧禅師号を賜わる。至治3年(1323)寂、61才。智覚禅師・普応国師と謚号される。(思文閣美術人名辞典)
  • 重文 中峰明本墨蹟 与救侍者警策 常盤山文庫蔵;笹の葉を思わせるような独特な抑揚と肥痩を持つと評される。警策とは、修験者を励ます文。

  • 虎関師錬墨跡 花屋号 三井記念美術館;
     虎関師錬は、一山一寧の下に参じる。南禅寺十五世。黄山谷(黄庭堅)の影響を受ける。本書は師錬の傑作。数人の人物像と草花図の蝋箋を縦に利用。「花」の大書につづき、縦二行に偈を表す。中央に花屋号の題。虎関朱文印。
    本展覧会でも一押しの美的センスのある作品。美しいです。

    無学祖元(1226 - 1286):鎌倉時代に宋から来日した。仏光派の祖、鎌倉円覚寺の開山。号は無学、字(あざな)は祖元。諡(オクリナ)は仏光禅師。円満常照国師と追諡(ツイシ)される。明州(浙江省)の人。径山(キンザン)の無準師範に師事し、その法を嗣ぐ。天童山で環渓惟一(イイツ)の教化を助けていたが、北条時宗(ホウジョウトキムネ)が使者無及徳詮・宗英(ソウエイ)を遣わして名僧を招き、これに環渓の推挙を得て応じ、1279年(弘安2)来日した。鎌倉の建長寺に住し、1282年円覚寺を開創。北条時宗をはじめ、鎌倉武士などの真剣な参禅を受け、その教化に尽力し、精神的に多大の影響を与えた。法嗣に高峰顕日・規庵祖円らを出し、一派を仏光派と称する。五山派の主流をなす夢窓疎石は高峰の法嗣である。(承天閣美術館より)
  • 国宝 無学祖元墨蹟 与長楽寺一翁偈頌 京都・相国寺蔵;(画像はSRCリンク)


    祖元来朝の年十月、かつて中国経山無準禅師のもとで同門であった一翁院豪が訪ねて来て、祖元と問答をかわしたが、その時の実に堂々とした答えに祖元は大いに喜び、そのありさまを普く大衆に告知するために書かれたのがこの偈語で、品格においても、気力の点においてもまさに抜群の名幅である。
  • 重文 無学祖元墨蹟 重陽頌;常盤山文庫;益田鈍翁旧蔵。
      無学祖元は、1279年に来日した鎌倉の円覚寺開山した来朝僧。重陽頌はその年の重陽の節句のことを述べた頌という。すこし不安に満ちた筆致を感じる。

    高峰 顕日(1241 - 1316):鎌倉時代の臨済宗の僧。仏国派の祖で、南浦紹明とともに天下の二甘露門と称された禅僧。号は高峰。別に密道と称する。諡号(シゴウ)は仏国禅師・応供広済国師。後嵯峨天皇の皇子。東福寺で円爾弁円や建長寺で兀庵(ゴッタン)普寧に参じ、下野那須(シモツケナス)の雲巌寺を開創。無学祖元の来日を知り、建長寺で参じ法を嗣いだ。また一山一寧にも参じる。鎌倉の浄妙寺・万寿寺・浄智寺を歴住し、建長寺の住持となり、晩年は雲巌寺に帰る。参禅を請う学徒は多く、東国に禅宗を宣揚し、法嗣に太平妙準・夢窓疎石・天岸慧広らを出して門派を形成し、夢窓とその派はのちの五山派を代表する勢力となった。(承天閣美術館より)
  • 重文 無学祖元・高峰顕日墨跡 問答語 個人蔵;

    夢窓疎石(1275 - 1351):伊勢の人。道号は夢窓。法諱は疎石。 臨済宗天龍寺・相国寺の開山国師。九歳にして得度して天台宗に学び、後、禅宗に帰依。高峰顕日に参じその法を継ぐ。正中二年(1325)後醍醐天皇の勅によって、南禅寺に住し、更に鎌倉の浄智寺、円覚寺に歴住し、甲斐の恵林寺、京都の臨川寺(リンセンジ)を開いた。歴応二年(1339)足利尊氏が後醍醐天皇を弔うために天龍寺を建立すると、開山として招かれ第一祖となり、また、国師は争乱の戦死者のために、尊氏に勧めて全国に安国寺と利生塔を創設した。夢窓は門弟の養成に才能がありその数一万人を超えたといわれる。無極志玄(ムキョクシゲン)、春屋妙葩(シュンオクミョウハ)、義堂周信、絶海中津(ゼッカイチュウシン)、龍湫周沢(リュウシュウシュウタク)、などの禅傑が輩出し、後の五山文学の興隆を生み出し、西芳寺庭園・天龍寺庭園なども彼の作庭であり、造園芸術にも才があり巧みであった。また天龍寺造営資金の捻出のため天龍寺船による中国(元)との貿易も促進した。後醍醐天皇をはじめ七人の天皇から、夢窓、正覚、心宗、普済、玄猷(ゲンニュウ)、仏統、大円国師とし諡号(シゴウ)され、「七朝帝師」と称され尊崇された。(承天閣美術館より)
  • 重文 夢窓疎石墨蹟 偈頌 石川・金沢市立中村記念美術館蔵;(画像はSRCリンク)


    さりげない春の叙景と重ねながら修行上の心構えを述べた七言絶句です。「己丑貞和歳余前二日」の年紀より、貞和5年12月28日、作者が74歳のときの筆と知ることができます。穏やかな中にも骨格がしっかりとした格調高い書風です。夢窓疎石(1275~1351)は、鎌倉末~室町初期の臨済宗の僧です。足利尊氏から帰依をうけて、天竜寺を開きました。

    清拙正澄:中国元代前期の臨済宗の僧(1274~1339)鎌倉末期の嘉暦元年(1326)53歳で中国の元から来朝し、鎌倉の建長・浄智・円覚寺、京都の建仁・南禅寺の住持を歴任し、暦応2年(1339)65歳で示寂するまでの12年余り、日本禅宗の興隆に尽力した。
  • 重文 清拙正澄墨蹟 与秀山元中別称偈 福岡市美術館(松永コレクション);入元僧に与えた別称偈
  •    清拙正澄墨蹟 聖一国師墨跡跋 五島美術館
  • 国宝 清拙正澄墨蹟 遺偈(棺割墨蹟) 神奈川・常盤山文庫蔵;(画像は大阪展へのSRCリンク)
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    圜悟克勤墨蹟

    2006-07-11 | 
    圜悟克勤(エンゴコクゴン)の墨跡2点を一日のうちに拝見。「書の国宝 墨跡」(五島美術館)と「古筆と墨跡」(畠山記念館)で一点ずつ。

    圜悟克勤(エンゴコクゴン)(1063-1135)は、中国・北宋時代の禅僧。生前に北宋の徽宗(きそう)皇帝から「仏果禅師」、南宋の高宗皇帝から「圜悟禅師」の号を賜い、諡号を「真覚禅師」。『碧巌録(へきがんろく)』の著者として名高い。国立国会図書館のディジタル貴重書展に古刊本「仏果圜悟禅師碧巌録(ぶっかえんごぜんじへきがんろく)」10巻が紹介されている。(こちら

    「表千家不審菴」によれば、圜悟の墨跡は、わび茶の祖である村田珠光が、禅の師である一休宗純より印可証明(悟りの証し)として与えられたことから、茶の湯の世界ではことに珍重されてきた。千利休も「圜悟の墨跡」を重視し、自らの茶会でも用いている。という。

  • 国宝 圜悟克勤墨蹟 与虎丘紹隆印可状(くきゅうじょうりゅうにあたえるいんかじょう)(流れ圜悟) 北宋 / 宣和6年(1124)  東京国立博物館蔵 (画像はt東博へのSRCリンク)(五島美術館にて)

    圜悟克勤が,その法嗣の虎丘紹隆に与えた印可状の前半。全文の記録される『圜悟仏果禅師語録』によると,墨跡の末尾には宣和六年(1124)十二月の款記があったが,伊達政宗の所望で半分に切断され,後半が伊達家に渡ったとされる。現存最古の墨跡で,圜悟克勤の禅林史上の重要さとあいまって,古来墨跡の第一とされてきた。本幅は薩摩坊ノ津海岸に漂着したことから「流れ圜悟」の異称がある。大徳寺大仙院,堺祥雲寺伝来。のち松平不昧公の所蔵となり,永く同家に襲蔵された。不昧公は、この墨蹟を手元から離さず、参勤交代にも持参、泊まる際には別室に置き不寝番に警護させたという。さらに、茶会に、この墨蹟を用いた記録は残っておらず、亡くなる前に、この墨蹟を茶会に出すことを禁ずることを言い残した。という。(「文化遺産オンライン」「Yomiuri Event Square」による)

  • 重要文化財 圜悟克勤墨蹟 法語 徳川宗家伝来 北宋時代/建炎2年2月10日(1128) (畠山記念館) 

    圜悟克勤墨蹟で国宝は1点。重要文化財は1点だけのようですから、その1点ずつを、江戸時代には、徳川宗家と松平不昧公が所蔵していたということになります。

    両墨跡を一日で拝見したわけですが、墨跡どちらの字体も、よく似た字体と拝察しましたが、畠山記念館の図録の解説に寄れば、法語のほうは、洒々落々な書風で、いわゆる尺牘と評される墨蹟とのこと。
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    書の国宝 墨跡 @五島美術館

    2006-07-08 | 
    書の国宝 墨跡
    五島美術館
    2006年6月17日から7月23日
    「墨蹟」(ぼくせき)とは、日本においては特に禅宗の高僧が書き遺した筆跡を意味します。鎌倉時代に禅宗を通じて中国との交流が盛んになり、中国と日本の高僧たちが遺した書は、師から弟子へと仏の教えを伝える証として尊重され、伝承されてきました。以後、「墨蹟」は禅宗のみならず武家や公家、上層の町衆などの一般社会においても、広く文学・芸術の機軸となり、茶道の隆盛とともに茶室の掛物として珍重され、鑑賞されるようになりました。現在、大切に守られてきた作品の多くは、国宝・重要文化財に指定されています。本展では、国宝12件、重要文化財55件を含む「墨蹟」の名品約90件を集め、特に茶人の尊崇の対象となった著名な作品を多く紹介し、書道史上の名宝を紹介します(会期中展示替あり)。

    墨跡は、これは全くどこがいいのか、判りません。美学的には、決して上手でも個性的な書ばかりでもありません。残念ながら漢文の素養がないので、書いてある内容も判然としません。とはいえ、今でも現代の墨跡をうやうやしく床の間に掛ける伝統はまだあります。茶室の掛け物に珍重されたのも確かです。ということで、全く勉強のつもりで2回ほど通うつもりです。

    Yomiuri Event Squareによれば、「禅宗では、仏の教えを悟るため坐禅(ざぜん)などの厳しい修行を重ねる。そして、悟りを開いた僧の書は禅宗の精神そのもの、巧拙を超えた極限の心の書となる。」とありました。「悟りを開いた」僧による「巧拙を超えた」書というのですから、やはり、禅の修業を積むか、お茶を真剣にしないと、いくら鑑賞しても、判らないということかもしれません。

    展示の国宝は12点。今回鑑賞できたは6点。次回はあと5点を鑑賞できます。1点は1週間しか展示されず見そびれました。
  • 国宝 圜悟克勤墨蹟 与虎丘紹隆印可状(流れ圜悟) 東京国立博物館蔵 **
  • 国宝 無準師範墨蹟 山門疏 五島美術館蔵 ***
  • 国宝 無準師範墨蹟 与聖一国師尺牘(板渡墨蹟) 東京国立博物館蔵 **
  • 国宝 馮子振墨蹟 易元吉画跋 神奈川・常盤山文庫蔵 **
  • 国宝 無学祖元墨蹟 与長楽寺一翁偈頌 京都・相国寺蔵 ** ***(展示箇所替え)
  • 国宝 清拙正澄墨蹟 遺偈(棺割墨蹟) 神奈川・常盤山文庫蔵 ***
  • 国宝 古林清茂墨蹟 与別源円旨送別偈 五島美術館蔵 **
  • 国宝 古林清茂墨蹟 月林道号 京都・長福寺蔵 ***
  • 国宝 了庵清欲墨蹟 進道語 東京国立博物館蔵 ***
  • 国宝 虚堂智愚墨蹟 与照禅者偈頌(破れ虚堂) 東京国立博物館蔵 ***
  • 国宝 虚堂智愚墨蹟 達磨忌拈香語 京都・大徳寺蔵 *1
  • 国宝 宗峰妙超墨蹟 与慧玄蔵主印可状 京都・妙心寺蔵 *2

    *1  6月17日から6月25日
    *2  6月27日から7月9日
    **  6月17日から7月9日
    *** 7月11日から7月23日

    展示一覧の展示番号と図録の番号があっていません。調べれば、大阪展と違い、東京の展覧会の方が展示がかなり絞られています。大阪展では、国宝15件、重要文化財120件が展示されいました。東京展では、国宝12件、重要文化財55件ですから、かなりスケールが小さくなっています。東京展で展示されない3点の国宝は、
  • 宗峰妙超墨蹟 示宗悟大姉法語 京都・大仙院
  • 大慧宗杲墨蹟 与無相居士尺牘 東京国立博物館
  • 偃谿廣聞墨蹟 直翁筆六祖挟擔図賛 大東急文庫
    でも、なぜ、偃谿廣聞を展示しないのでしょうか?
    なお、図録は5000円もするので手が出ません。

    さて、展覧会の構成は、圜悟克勤、大慧派、破庵派、松源派、曹洞宗となっています。

    Wiki-pediaによれば、中国の禅宗は、北宋代になると、法眼文益が提唱した「五家」観念が一般化して「五家」(五宗)(すなわち、臨済宗(りんざいしゅう)、い仰宗(いぎょうしゅう)、雲門宗(うんもんしゅう)、曹洞宗(そうとうしゅう)、法眼宗(ほうげんしゅう))が成立した。さらに、臨済宗中から、黄龍派と楊岐阜派の勢力が伸長し、「五家」と肩を並べるまでになり、この二派を含めて「五家七宗」という概念が生まれた。その臨済宗の楊岐派(ようぎは)に、圜悟克勤、大慧派、破庵派、松源派は含まれている。楊岐派では、白雲守端の門下に五祖法演が出て、その門弟より、圜悟克勤、仏鑑慧懃、仏眼清遠という、「三仏」と称される禅匠が現われた。南宋になっても、その勢いはとどまらず、克勤の門弟子、大慧宗杲は多数の門弟を集め、大慧派を形成した。その他、虎丘紹隆の虎丘派、虚堂智愚を出した松源派、無準師範を出した破庵派なども活躍した。

    それにしても、まずは漢語の勉強。五島美術館はきちんと解説がついていていつも親切でありがたいのだが復習。新明解国語辞典(など)によれば。
    法嗣:〔仏教で〕その法統のあととり。法を嗣(つ)ぐ弟子。
    印可:〔仏道で〕弟子が修行・知識共に水準以上に達したことを師の僧が証明すること。
    尺牘:「手紙」の意の漢語的表現。
    げ【偈】:(経論などの中に交じっている)四句から成る詩。仏徳をたたえ、教理を象徴的に述べるもので、「諸行無常」の類。頌(ジユ)。
    (8日)
    (続く)
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    東京国立博物館 平成17年度新収品(経典・古筆)

    2006-06-28 | 
    東京国立博物館 特集陳列 平成17年度新収品
    2006年6月6日から7月2日

    経典・古筆
  • 重文 等目菩薩経巻中(吉備由利願経) 1巻 奈良時代・天平神護2年(766) 反町英作氏寄贈;吉備由利は吉備真備の子。孝謙天皇(と解説してありましたが、重祚した称徳天皇ですね)のために発願した一切経の一巻。西大寺の四王堂に5282巻を収めたと伝える。「天平神護二年十月八日正四位下吉備朝臣由利奉為/天朝奉写一切経律論疏集伝一等一部」の願文が末尾に記されていた。
     WIKIPEDIAによれば、「称徳天皇は764年に(再度)即位後、道鏡を太政大臣禅師とするなど重用し、また下級貴族ながら実力のある吉備真備を右大臣に用いて、左大臣の藤原永手とのバランスをとった。770年に天然痘で亡くなるが、このとき、看病の為に近づけたのは吉備真備の娘だけで、道鏡は崩御まで会うことはなかった。また、病気回復を願う祈祷も行われなかったことから、十分な治療を施さずに見殺しにしたという説(さらに踏み込んで暗殺説)もある。」ということですから、吉備由利願経は、吉備真備と称徳天皇の関係を伝える重要な歴史資料ですね。
  • 重美 白河切(ころをへてあひ見ぬとは) 1幅 伝西行筆 平安時代・12世紀 高木聖鶴氏寄贈;白河切の由来は、白河侯松平定信の遺愛によるとか。
  • 重美 石山切「伊勢集」(をりけるうへの人々をあるまりて) 1幅 伝藤原公任筆 平安時代・12世紀 高木聖鶴氏寄贈;別に記します。;石山切について東京国立博物館ニュースに解説がありました。「平安時代古筆の頂点を示す作品に「本願寺三十六人歌集」があります。(天永三年(1112)3月に)白河法皇(1053-1129)の還暦祝い、あるいは華麗な料紙と能書の手筋を競った冊子あわせとする説がある。王朝貴族の美意識を反映して、料紙装飾の粋を結集し、二十人による能書の寄せ書きによって成立した調度手本。「伊勢集」はその中でも破れ継ぎや唐紙などの料紙を含んだもっとも豪華なもの。」後奈良天皇(1497-1557)より本願寺に下賜された。とのこと。
    Wikepediaによれば「後柏原天皇の崩御にともない践祚。しかし、朝廷の財政は窮乏を極め、全国から寄付金を募り、後北条氏、大内氏、今川氏などの戦国大名の寄付によって、10年後の1536年2月26日にようやく即位の礼を行う事ができた。朝廷の財政は窮乏を極め、天皇は直筆の書を売ってその足しにしていた。慈悲深く、古典に親しんだといわれている。」とありますから、さもありなん。
    本願寺の鏡如(きょうにょ)上人は女子宗教大学(現在の武蔵野大学(1924年築地本願寺内に「武蔵野女子学院」創立。1929年築地より現在地に移転。))設立の建設資金にあてるために、益田鈍翁らの助言もあり、昭和4年(1929)に分割したのが「伊勢集」と「貫之集下」です。切名は本願寺のもとの所在地にちなむ。

    破れ継ぎの美しい石山切についてはこちら。もう一点個人蔵の石山切 伊勢集「わかやとの」も第4室に展示されていました。


    H17年度東京古典会 古典籍展観大入札会目録に 石山切「田中親美編 昭和八年刊 益田孝 解説付」という書籍が出店されていたようです。http://www.kosho.ne.jp/~kotenkai/tokusen/gazo/gp3610.html 画像は、SRCリンクです。



    こちらは二玄社の書籍。
    原色かな手本 11 (11) 石山切伊勢集[伝藤原公任]

    二玄社

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