虹の翼(つばさ)〜多次元へと羽ばたく

タロット&数秘、
直感ワーク

愛と気づきに満ちた世界は、笑いがいっぱいの世界♪

The Sun Rises in the Evening 夜、陽が昇る by OSHO

2011-09-30 | 瞑想・気づきがもたらす変容

問い:あちこち走り回り、話し、笑い、働き、読み書き、夢見たりていますが、実のところ、背後でドアが閉じ、目を閉じると、暗いのです。思考や感情があろうとなかろうと、暗闇です。朝も夜も、いつでも、内側は暗い。
見る者にとって、内側を見ること、それは闇です。「私」とは暗闇なのですか。誰がこの質問を書いているのでしょう?

 

そうだ、「私」、エゴとは闇だ。そしてもし内側を見て、見る者がいれば、闇にとどまることになる。朝だろうと夜だろうと違いはない。思考があろうとなかろうと。なぜなら私そのもの、見る者こそが本質的な思考、根源的な思考なのだから。それはあらゆる思考と感情を含んでいる。あなたは見ることができるが、あなたはすでに自分を2つに分けている:見る者と見られるものと。そしてこの分離、この二元性、この分裂が闇なのだ。

一つであることは輝き、光だ。二つであることは闇だ。だからいつでも瞑想者が内に入ると、最初は常に暗闇に遭遇するし、その闇は恐ろしい。だれが闇に入っていきたいだろうか?人は恐れ、逃げ出してしまいたい。最初は常にそうだ、しかし、もしどんどん続け、光を求めることさえやめるならば・・・なぜ求めることができようか。もし暗ければ暗いのだ。そして闇は完璧に正しい――そして闇が完璧に正しいとき、闇は絶対的に明るい。

それを受け入れ、愛し、抱きしめなさい。それと一つだと感じなさい。そして分裂が消えるとき、見る者と見られるもの、観察する者と観察されるものがないとき、突然光があるだろう。燃料のいらない光、永遠の光だ。

しかしもし分かたれていれば、あなたに光は起こらないだろう。だから何をすべきだろうか。この闇を愛し、この闇に落ちて、消え失せる必要がある。光を探さないことだ。光を探すことがあなたを暗闇に対して疎遠で、愛のない、オープンでない状態にとどめ、そのことが光へのバリアになる。光を探さないこと。暗いならば暗いのだ。何か他のものを求めることなく、闇であるにまかせ、楽しみなさい。暗闇のどこが悪いのかね。

しかし私たちはある種の物事を楽しむことができないように条件づけされている。私たちは光だけを楽しみ、暗闇は楽しむことはできないという風に育てられてきた。さて、これはとてつもなく美しいもの、生き生きとしたものを逃しているということだ。

暗闇には暗闇の、光には光の喜びがあり、理解している人は、両者を楽しむ。そして彼はどんな葛藤も作り出さないし、選びもしないだろう。闇には静けさがある。光も持ち得ない完全な静けさ。そして闇は無限で、どんな境界も知らない。光には常に限界がある。それは決して無限ではなく有限だ。光は来ては去るが、闇はとどまる。闇は永遠だ。

この体験ゆえに、インドではクリシュナを暗い者として描いてきた。彼の別名はシャーム、暗い、「黒い者」という意味だ。闇には深みがある。白さは薄っぺらで、いつも表面的に見える。闇を楽しんでみなさい。その無限さ、広がり、永遠を感じなさい。それに触れられ、動かされてみなさい。それはほんとうにベルベットのようで、独自の美しさがある。そして闇を愛することができなければ、あなたは光を知る権利を稼ぎ取ってはいない。

あなたが知っている光は外側の光だ。それは闇に反している。あなたが内なる闇を超えたとき知る光は、闇に反してはいない。それは闇が持っているすべてを含み、さらにそれ以上のものだ。覚えておきなさい:外の光は真の光ではない。真の光はこの光とこの闇のすべての質を含んでいる。それは二元性が出会い、お互いに溶け合う偉大な輝きであり、そこでは二元性がすべての美しさをお互いに注ぎ合い、新しい美が立ち上がる―統合の美だ。

だから覚えておくように。光と闇についてのすべての知識を後にする必要がある。目を閉じるとき、あなたは外の光を後にしなくてはならない;今やあなたは闇へと入る。それを愛し、その歌を歌い、それと踊りなさい。そして光を求め続けないように。光のことは忘れなさい。この闇がそこにあり、それは楽しむべきものだ。この闇、この静けさ、このベルベットのような広がりに対し、存在に感謝する必要がある。そしたらある日、観察する者と観察されるものがもはや二つではなくなる。

何かを愛するとき、二元性は消える。闇を愛すれば、あなたは闇になる。そして二元性がないとき、まったく違う質の輝きがやってくる。それは太陽、電気、月からやってくる光ではない。そうすればあなたは、あらゆる光と闇の根源そのもの、存在の根、その土台そのものへとやってくることになる。

暗闇があなたの中に現れているのは美しいことだ。あなたは偉大な一歩を踏み出している。さあ、それと戦ったりしないように。そうでないと、次の一歩が妨げられてしまうからね。それが先日私が言ったことだ。もしシジフォスの神話が禅マスターによって書かれたならば、まったく違ったものになっていただろう―神々は敗北しただろう。禅マスターを罰することはできない。シジフォスは楽しみ、踊り、恍惚となっただろう―ゴールはないのだから、失敗もない。岩が谷に向かって滑り落ちてきたとき、彼はその音が谷に響き渡るのを聞き、楽しんだことだろう。そして大喜びで下りの旅を始めたことだろう。彼は谷の美しさも知っているからね。

そう、山の頂上の、陽の当たる頂上の、開けた空の美しさはある。けれども、谷の美しさもある:隠れ家、安全性、美しい鳥たち、川、友人たち、そしてパブ。シジフォスはパブや友人や愛する人たちのことを思い、山から踊りながら戻ったことだろう。彼の子供たち、恋人が待っていたに違いない。そして彼は美しい、ゆったりとした夜を過ごし、朝になれば、また始めたことだろう。岩をまた山の上まで持ち上げる。また新しい一日、新しい冒険。そして朝には彼はまた歌を口ずさみながら始めたことだろう。その物語はまったく違ったものになったことだろう。

ギリシャ人には、論理的なマインドには想像できなかった。その美しさを想像するには、非論理的なマインドが必要だ。そう、あなたが内に入り、闇があるとき、ギリシャ人のシジフォスにならないように。私の言ったことを覚えておきなさい。闇を愛しなさい。それは贈り物だ。すべては存在からの贈り物なのだ。それほど美しい闇を与えられたことに対して、感謝の念を感じることだ。それはあなた独自のもの、まったく清らかで、純粋で、穢れていない。それにくつろぎなさい。それにくつろぐにつれ、それは消えていく。それに完全にくつろいだとき、それはもはや見つからない。そうすれば、あなたはあらゆる闇と光のまさに根源にたどり着いたのだ。それはこの光ではなく、この闇ではなく、その何かを含んでいる。しかしそれはとてつもなく広大だ。だからこそ、神秘家は常にそれを言い表すのに困難を感じてきた。

言い表しがたく、表現しがたく、定義しがたいもの。

しかしあなたは偉大な一歩を踏み出した。闇に入っていくのは偉大な一歩だ。禅の人はそれを、「偉大な懐疑」、キリスト教の神秘家は「魂の暗夜」と呼んでいる。しかし朝は、それに続いてやってくる。魂の暗夜は、まさに影のようにすぐそこに朝を携えている。闇について心配しすぎたり、取り付かれすぎたりしないように。でないと、それに従っている、そこまでやってきている朝を見失ってしまうだろうからね。

これが生を見る見方だ。そしてトゲがもはやトゲでなくなれば、それにはそれなりの美しさがある。そうすれば、サボテンもバラと同じように美しいし、トゲの美しさが見えるとき、あなたのハートは広がっている。バラの美しさを見るのは大したことではない―誰にでも分かるし、あなたに何も要求されていない。バラは明らかにそこにあり、おろかな人にもその美しさが見える。けれどもトゲの美しさを見るためには、偉大な知性が必要であり、あなたには多くが要求される。それはチャレンジだ。あらゆるところに美しさを見ない限り、あなたは真理を見出しはしないだろう。どこにいてもくつろいでいるのでなければ、決してくつろぐことはできないだろう。

だから、闇の中でくつろいでいなさい。あなたの中に何が現れてきても、贈り物として、喜びとともに受け入れるように。そして、ときには贈り物だと思うのが難しいこともあるということは分かっている。あなたが病気のとき、当たり一面真っ暗なとき、惨めなとき、愛が壊れたとき。愛する人が亡くなるとき、どうしてそこに美しさを見ることが出来るというのだろう? 死が起こっている―美しさを見ることは難しい。それはただ、あなたが美に対するとてもとても狭い定義を持っているということ、あなたがリアリティに対し、ある定義を押し付けているということを表している。その押し付けを落としなさい。リアリティを解き放ちなさい。

つい先日、私はハシッドの神秘家ズシアについての話を読んでいた。彼は山に行こうとしたとき、たくさんの鳥がかごに捕らえられてにいるのを目にした。ズシアはそのかごを開けた。鳥というのは飛ぶものだからね。鳥はすべて飛び去り、男が家から怒って飛び出してきた。「何をしやがったんだ」 ズシア「鳥は飛ぶものだから。ほら、素晴らしく美しく羽を広げていますよ」

しかし男はそうは思わず、ズシアを張り飛ばした。一日の仕事がおじゃんになってしまったのだ。市場に行って、鳥を売ろうと思っていた、それはそれは苦労したのに、ズシアはおじゃんにしてしまった。男はズシアを叩きのめしたが、ズシアは笑って楽しんでいた・・・男は殴っていたのに。彼は、こいつは頭がおかしいと思った。

ズシアは動き出した・・・男が殴り終わったとき、ズシアは聞いた。「もう気が済んだか、それともまだやりますか。終わりですか。僕はもう行かなきゃ行けないから」男は返答できなかった。何が言えるだろう。この男はたんに頭がおかしいのだ。そしてズシアは歌い始めた。彼はとてもハッピーだった、鳥たちが空を飛んでいたから。そして殴られても、傷つかなかったから。それを贈り物として受け取ることができたから。それでもなお、生に感謝することが出来たからだ。不平はなかった。さあ、彼はこの状況をすっかり変容してしまった。

これを学ぶ必要がある。ゆっくりゆっくりと、人はすべてを、死でさえも受け入れられるほど広大になる必要がある。そのときにのみ、歌がほとばしり出る。そう、闇ですら受け入れられるほどに。そのときにのみ、光が訪れる。あなたが夜をトータルに受け入れるとき、朝を求め、あこがれたりすることがないとき、朝はやってくる。これは、そのようにやってくる。これが、その来方だ。

(第6話 第2の質問)


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1 コメント

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・・・ (砂利夢)
2011-10-13 16:30:44
…美しい話を ありがとうございます。
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