愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

阪神淡路大震災の国を刻む催しが行わている時、戦争を体験した人から直接、話を聞ける機会が少なくなる中戦闘機「雷電」の部品座間市に寄贈!しかし植民地台湾の歴史を薄める記事に大喝!

2020-01-17 | テレビと戦争

テレビの何気ない言葉に政治を感じる!

ボ~と視ているいるんじゃねぇ~ぞ!

これが問題の部分だ!

台湾から海をわたり働きにきていた少年工たち

戦争末期対話の少年が座間で戦闘機の製作に携わった意味は!

働きにきていた!?????

台湾少年が進んで座間に「来た」のか?

「来た」と言うのであれば、それは何故か!

大陸膨張主義と植民地・侵略戦争の

記憶や教訓の継承 課題は何か!

ニュース部門における

安倍政権忖度装置NHKの姑息に大喝! 

NHK   戦闘機「雷電」の部品 市に寄贈  01月17日 16時41分

https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20200117/1000042692.html

太平洋戦争の末期、アメリカ軍の爆撃機を迎え撃つために開発され、神奈川県座間市などの軍需工場で製造された戦闘機「雷電」の部品が、地元の住民の庭に残されていたことがわかり、17日この部品が市に寄贈されました。

寄贈されたのは、座間市などにあった軍需工場「高座海軍工廠」で製造された戦闘機「雷電」の部品です。17日座間市役所で寄贈式が行われ、軍需工場が建っていた場所の近くに住む大矢隆男さんが部品と目録を市に贈呈しました。部品は、縦が1メートルほど、横が1メートル50センチほどの軽くてさびにくいジュラルミンとアルミでできたアーチ型の板です。

航空機の歴史に詳しい民間の研究者などによる鑑定で、「雷電」の操縦席の前に取り付けられる部品とわかったということです。寸法や素材のほか、組み立てに使う「びょう」が精巧に打ち付けられていることなどから、量産するための見本と推定されています。

当時、台湾から海をわたり働きにきていた少年工たちが、軍需工場の地下壕などで見本をもとに手作業で部品を製造したと考えられるということです。

市によりますと、太平洋戦争の末期にアメリカ軍の爆撃機を迎え撃つために開発された「雷電」は当時の最先端の技術を結集し、上昇力や加速力に優れた迎撃機でしたが、製造された数は少なく戦後アメリカ軍に接収されたことなどから、完成した機体はアメリカの航空博物館に1機が残るだけとみられています。国内で今回のような大型の部品が見つかるのは、ほかに例がないということです。

寄贈した大矢さんによりますと、部品は軍需工場で働いていたおじが戦後持ち帰ったもので、70年以上庭にあるさつまいもの貯蔵庫の「ふた」として使ってきたということです。大矢さんは「貯蔵庫を守る道具の1つと思っていたものが、歴史的な資料となって、びっくりするとともに、多くの人の目に触れることになりうれしい」と話していました。今後、市民向けの講座や展示に活用されるということで、座間市教育委員会生涯学習課の北沢寛主事は「戦後70年以上がたち、戦争を体験した人から直接、話を聞ける機会が少なくなる中残された物が歴史を語ることで、市民が戦争について考えるきっかけになってほしい」と話していました。(引用ここまで)

阪神淡路大震災を如何に教訓化し後世に伝えるか!

日本の負の連鎖を覆い隠すの犯罪!

これこそ「反日」だろう!

「こころ」に「刻む」を忘れるな!

報道機関・資料館・証言・語り部・教育に全力を!

NHK  阪神・淡路大震災から25年 震災の記憶や教訓の継承 課題 2020年1月17日 6時56分

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200117/k10012248491000.html?utm_int=all_side_ranking-social_004

6434人が亡くなった阪神・淡路大震災から17日で25年です。神戸市など大きな被害を受けた地域では遺族らが地震が起きた午前5時46分に黙とうし、犠牲者を悼みました神戸市中央区の公園「東遊園地」には、およそ5000本の竹の灯籠が「1.17」や「きざむ」という文字の形に並べられました。会場には、まだ暗いうちから、家族や大切な人を亡くした人たちが訪れたほか、震災後に生まれた若い世代の姿も見られました。そして、地震が起きた午前5時46分に静かに手を合わせ、犠牲者に黙とうをささげました。
公園の慰霊碑の前では神戸市が主催する追悼の集いが開かれ、神戸市東灘区の実家が倒壊し、当時47歳だった母親の美智子さんを亡くした上野好宏さん(47)が追悼のことばを述べました。上野さんは、「お母さんが天国へ旅立ってからきょうでちょうど25年。まさか、地震が来るなんて思ってなかったし、まさか、自分の家がつぶれるなんて思ってなかってん。怖かったやろ、痛かったやろ」と語りかけました。そして、父親のあとを継いですし屋になったことを報告し、「僕もお母さんが亡くなった年と同じ47歳になり、とうとうお母さんの年を超えていきます。家族みんなで、一日一日頑張っていきます。遠くから見守っていてください」と述べました。17日は各地で追悼行事が行われるほか、避難訓練や防災の講演会なども予定されていて、震災の記憶と教訓を次の世代につないでいく1日となります。
「これからも語り継ぐ」
兵庫県小野市から娘を連れて訪れた女性は「震災では父を亡くしました。震災がなかったら父に孫の顔を見せられたのにと思います。25年はあっという間に過ぎてしまいました。ここに連れてくることで娘にも地震の怖さを感じてもらえると思っています」と話していました。また、大阪から訪れたという40代の男性は、大学生の時に同級生を震災で亡くしたということで「震災を経験していない人が増えてきていますが、毎年ここを訪れてこれからも震災のことを語り継いでいきたい」と話していました。(引用ここまで)

NHK 新人警察官に震災の教訓や経験を伝える講演会 兵庫県警 2020年1月14日 16時54分

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200114/k10012245061000.html?utm_int=detail_contents_news-related_006

6434人が亡くなった阪神・淡路大震災から今月17日で25年となります。これを前に当時、救助活動にあたった兵庫県警の警察官が、新人警察官に教訓や経験を伝える講演会が行われました。
講演会は、兵庫県芦屋市の警察学校で行われ新人の警察官、およそ260人が参加しました。この中で、被災者の救助活動にあたった明石警察署の藤原克也警備課長は「当時は装備品が十分になく、がれきの下敷きになった人を助け出せないこともあった。いまはチェーンソーなどの機材が配備されている」と述べ、災害救助用の装備品を使いこなせるよう、日頃から備えてほしいと呼びかけました。また、姫路市から救助に向かった警備部機動隊の篠原督征隊長補佐は「単独行動を取っていたら、余震で自分自身が住宅に押しつぶされそうになり仲間に助けられた。被害を広げないためにも、自分の安全を確保する冷静さが必要だ」と話しました。参加した新人の荒川太朗巡査(21)は「きょうの講演を踏まえて1人でも多くの市民を助けられるようにしたい」と話していました。兵庫県警では、震災以降に採用された警察官が全体の7割を超えていて、当時の教訓をいかに伝えていくかが課題となっています。(引用ここまで)

NHK 阪神・淡路大震災から25年「きざむ」ことしの追悼の文字に 2020年1月10日 18時30分

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200110/k10012241681000.html?

阪神・淡路大震災から25年となる今月17日に神戸市で開かれる追悼のつどいで、竹灯籠を並べてつくる文字は「きざむ」に決まりました。震災の記憶をきざみ、継承していくという思いが込められています。 神戸市中央区の東遊園地では、阪神・淡路大震災が発生した1月17日に、毎年、竹灯籠に明かりをともし犠牲者を追悼するつどいが開かれています。竹灯籠は、発生した日の「1.17」の形に並べられるほか、4年前からは一般公募した文字の形にも並べられ、去年は「つなぐ」が、おととしは「伝」が選ばれました。震災から25年となることしは、およそ200件の応募のうち、もっとも多かった「きざむ」が選ばれました。つどいの実行委員会によりますと、例年より震災を経験した世代の応募が多かったということで「震災を記憶に刻み、未来に希望を刻んでいくという思いが込められている」としています。実行委員会の藤本真一委員長は「震災から25年となり、当時を経験した人は減っている。さまざまな思いや、あの日、あのときの出来事を、きちんと刻んでいかなくてはならない時期になっているということだと思う」と話しています。(引用ここまで)


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