岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

青鈍色の中で黒く輝く黎明 / 鯵ケ沢プリンスホテル 4月改名 / 原子力発電所と地球温暖化(その7)

2008-03-19 06:03:25 | Weblog
(今日の写真は青鈍色の中で黒く輝く黎明だ。太陽がこの高さの稜線上に顔を出すのだから時間は午前10時をとうに回っている。だが、太陽が山稜から昇らなければ、視界が殆ど利かない「ホワイトアウト」という白い闇の中にいて、何も見えない状態なのである。
 
 この時間である。山麓はきっと広々とした範囲で明るくなっているのだろう。上空から明るくなるはずなのだが、不思議なことに、高みにあるこの場所、雪稜の陰は暗い。
 その暗さは白いはずの雪面を蒼く染めて、ダケカンバに取りついた多くの「海老のしっぽ」を深海の起伏のように、鋭い突起を交えた凹凸のように育てていた。
 それはまるで、冷たい極地の、まるで青鈍色の海山のようだ。その頂から柔らかい太陽が頭を出し、青鈍色の黎明がはじまった。1月 岩木山鳥の海噴火口西面 )
 

     ●● 鰺ヶ沢プリンスホテル 4月に改名…東奥日報 ●●

 鯵ケ沢町の鰺ヶ沢プリンスホテルは、4月18日から「ナクア白神ホテル&リゾート」に名称を変えて営業する。2007年3月に経営再建中の西武グループから「ウインターガーデン・リゾーツ」へと経営が移り、プリンスホテルの商標使用期限が今年5月までとなっているためで、現在の名称での営業は4月6日までとなる。
4月下旬オープン予定の鰺ヶ沢高原ゴルフ場も「ナクア白神ゴルフコース」に変更し、高原コースを「トーナメントコース」、プリンスコースを「リゾートコース」とする。
鰺ヶ沢スキー場は、春スキー営業期間が終わるまでは現名称のままとし、その後は「ナクア白神スキーリゾート」とする。
 ホテル、ゴルフ場、スキー場の運営受託会社であるナクアホテル&リゾーツマネジメント(本社東京)によると、ナクア(Naqua)は「Nature(自然)」と「 Quality(品質)」を合わせた造語。
鰺ヶ沢プリンスホテルの高橋浩康総支配人は「アクア(水)のような透明感をイメージしている。さらにサービスを向上できるようにしたい」と話している。(以上東奥日報3月12日付)

 この記事に対して葛西幹事から「次のような内容」のメールが届いたので紹介する。

『今年の冬期の営業では、夜間は西に降りるコースだけの照明となり、以前のように三角に灯がともることも無くなった。
 平成12年に旧鰺ケ沢スキー場内のモーグルエリア(第2ロマンスリフト、ツイスターコース及びコザックコース)として拡張された経緯を知っている者としては何とも空しいことである。
 このコースは、岩木山の豊かな自然を地元住民の反対を黙殺する形で拡張されたコースであり、地質的な安全性も明確にされていない。私たちはこの拡張された部分の森林への復元を強く願っている。
 株式会社コクドから経営を引き継いだ新会社「ナクア白神ホテル&リゾート」が「森林の復原」に取り組んでくれると、「白神山地」と野鳥や動物たちが行き来する「緑の回廊」を保護する「白神」という名を戴く会社として、社会的にも高く評価されるのではないかと考えてしまった。
 もちろん、その時は、本会としても森林復原への助言・協力を惜しまないことは言うまでもない。
 出来るならば、本会としても、「森林の復元」を主題にした懇談・意見交換を「ナクア白神ホテル&リゾート」とする機会を持つべきではないだろうか。』

        ■■ 原子力発電所と地球温暖化(その7) ■■

 これまで見たように「確約(書)」には…
 『私たちの「ふるさと青森県」は豊かで美しい自然に恵まれ、「北のまほろば」と言われ、縄文の時代から先人のたくましい努力により、自然と調和した「青い森」の文化と歴史を創り上げてきた。私たちは、先人から受け継いだ「ふるさと青森県」を美しく豊かな青森県として次世代に引き継ぐ責務を果たさなければならない。』
 …という「条例案」に見られる「自然と調和した文化と歴史やふるさと青森県を美しく豊かな青森県として次世代に引き継ぐ」という思想も責務もまったく見られないのである。
 そこにあるものは、現在世代が求める貨幣的な価値だけである。もちろん我が国は資本主義の国であるから「貨幣経済としての価値」を求めるのは当然であるが、民主的な行政というものは、「この価値」ともっと別な「自然的な価値や心情的な価値」との対等的な融和を求めるべきではないだろうか。
  一つの価値にだけ偏ると何事も硬直化するものである。県のトップである知事に求められる資質は「柔軟性」である。確かにマスコミ等の映像や音声から受ける知事の感触は「柔軟」で「人当たりイメージ」は悪くはないが、「確約(書)」に拘る姿勢には「柔軟性」はない。
 六ヶ所村、東通村、大間町、それに加えて青森県、「条例案」に反対した議員、さらに、それら議員たちに追随して、支持する有権者たちは、現在世代の貨幣価値の満足のために、未来世代の満足を犠牲にしている。
 現在世代は未来永劫に続いたであろう漁場という資源を、「換金」したのだ。金は使うとなくなる。
 漁場は育てると、いつまでもその場所の住民のみならず多くの人たちに「恵み」を与え続けるものだろう。

 「札びら」で頬を撫でられてありがたがり、「札束」を積まれて歓喜して、加えてその「札束」の分取り合戦までしている体たらくである。ここにはまったく未来世代を思いやる姿勢や愛情はない。
 すばらしい漁場は「再処理施設から」「原子力発電所から」出る「放射性物質」によって汚染されて「死」の海となる。そこで獲った魚介類を「そこに住む人々」が食べられなくなるのだ。
 …有明の海、水俣の人々の苦しみから何も学べないのでは「人間の尊厳」など、とうてい理解できないと言われても仕方がないだろう。
「札びら」で頬を撫でられて、ありがたがり「札束」を積まれて歓喜する現在世代は哀れであり、情けない。そして、その末裔の末路はもっと悲しく悲惨だ。
 何故に、国や行政は国民にこのような惨い選択をさせるのか。(この稿は明日に続く)