岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

米の生産調整のポスターに農家が怒る、当然だ。/ 何と使われている写真がつがる市の水田と岩木山だ

2008-03-01 05:16:05 | Weblog
[お断り:今日は厳冬の岩木山の写真と「岩木山てどんな山…なぜ、どうして40問」については掲載しません。岩木山とその岩木山に畏敬の念を持って接している農家の人の心を逆なでするような事件があったので、そのことについて書きます。ポスター写真提供は本会HP管理人、葛西さんです。]

( 今日の写真はそのポスターである。青森朝日放送テレビが27日の夕方に取り上げて放映していた。その内容は大体次のようなことだった。
…『問題となっているポスターは東北農政局が「米の生産調整」について理解を深めてもらおうとして作ったもので、写真からも分かるように「米の作りすぎはもったいない!」「米の過剰作付けは資源のムダ使い」というフレーズが印刷されている。
 これは東北管内で3万枚が作られ、2月から東北地方の農協や公共施設に張り出されているという。青森県内では3000枚余のポスターが配布されている。
 これに対して、農家の人たちが、『このフレーズ、受け取り方によっては「稲作・米作り」を否定するようなものだ。」と怒っている。』
 27日、県農民運動連合会の小泉会長たちが、東北農政局青森農政事務所を訪れ、三津田所長にポスターの回収を求めた。これに対し、所長は「米作りが悪いと言っているのではない」と理解を求めた。
 ポスターでは「過剰な作付けが米価の下落を招く」として、「麦や大豆への転作による自給率の向上」を呼びかけている。青森農政事務所は、回収はしないが農家の誤解がないように、今後も生産調整の必要性を説明していくという。』…

  だが、これは「受け取り方」の問題ではない。日本の農業と水産業の要である農水省が「稲作・米作り」を否定しているのと等しいことだろう。
 また、「過剰な作付け」が米価の下落を招くと言うが、「米価下落の要因」はそれだけではない。この「過剰な作付け」部分に「米価下落の要因」を集中させて、政府の「強制的な生産調整」「備蓄米を次年度以降主食米として売却」「精米へのくず米の混入」「品目横断対策」「原油高騰に対する無策ぶり」等の「米作行政のまずさ」を隠蔽しようとしているのは明らかなことである。「生産調整の必要性」などの説明は時間の無駄に過ぎない。

 まったくもって、このポスター、「上半分」が余計なのである。「MOTTAINAI」「米の作りすぎは、もったいない!」「米の過剰作付けは、資源のムダづかいです。」というこの3つが余計なのだ。

 このことは、翌28日、朝日放送テレビの昼番組でも放映された。全国向けの放映である。
 内容は青森朝日放送テレビが伝えたものとほぼ同じだったが、秋田県の農民たちは「憤慨」して、ポスターを「逆さま」に貼っていると伝えていた。
 確かに、ポスターの下半分に書かれていることには「まあ、いいか」という程度の納得は出来そうである。しかし、この部分だって行政の「手抜き」や「まずさ」をすべて農民・農家の「自助努力」に転嫁しようという意図はありありで、許されるものではない。

 ところで、朝日放送テレビは、このポスターの字面から「農水省はまったく農家と乖離している役所・行政であることを証明しているようなものだ」という主題から、背景の写真へと言及して話題を変えたのである。
 背景に浮かんでいる山は、紛れもない「岩木山」である。しかも、使われている写真に撮し込まれている水田風景は「農林省主導」で進められた1枚の「田んぼ」が大きく「機械化」農業が容易に出来るという水田地帯なのだ。推測の域を出ないが、おそらく「つがる市」の北部から撮したものだろう。

 この写真は、言ってみれば「機械化農業」による生産の増大を進めた「農林行政」の帰結なのである。「生めよ増やせよ」のかけ声の下、「立派」に生産拡大・大収穫につながる輝ける「圃場」として整備が完成したことを示す写真なのだ。
 それを背景にして、「MOTTAINAI」「米の作りすぎは、もったいない!」「米の過剰作付けは、資源のムダづかいです。」とは、何たる矛盾、それこそ「農水省」が前身・同根である「農林省行政」を否定しているようなものではないか。ああ、もう「いい加減にしろ」である。
 それにしても、お粗末なことだ。農水大臣殿、東北農政局長殿、あなた方はこの自己矛盾にお気づきではないのですか。

 それだけではない。「MOTTAINAI」「米の作りすぎは、もったいない!」「米の過剰作付けは、資源のムダづかいです。」いうために、「岩木山」の写真を使用したことが大問題なのだ。
 東北農政局は「青森県津軽地方の農民・農家と岩木山との関わり」をまったく理解していないのだ。これで「お国の農業」行政を束ねる役所というのだからあきれてしまう。
 「岩木山」を「考える」本会としても、これではすべてが、「見過ごせない問題」となるのである。

 岩木山は「水田」とは切り離せない「水神」さまの総元締め的存在の「御山」だ。水田の守り神である。岩木山を拝んで農民や農家はひたすら「豊作」を願ってきた。
 岩木山は薬師、阿弥陀、観世音仏を祀る三峰三位一体の霊山なのである。神として国常立命(くにとこたちのみこと)や顕国魂神(うつしくにたまのかみ)他四神を祀っている。いずれも、豊穣の神たちである。
 津軽地方の農家の人たちにとって岩木山は、先祖の霊が暮らし(居て)、春になると田の神や水神として里に降り、収穫が終わるとまた帰る(往来する)という「お居往来山(おいゆきやま)」であるとされてきたのだ。
 畏敬の念を込めて「お山」とか「お岩木山」と呼び、お山参詣が千年以上も前から続けられているのである。懺悔懺悔‥‥南無帰命頂礼と唱和しながら旧暦八月の「ついたち山」に近郷の村々から山頂をめざし、五穀豊穣を祈願して、大きな御幣をかざして集団で登拝するのだ。岩木山の森は「田山」であり「水がめ」、谷は水路。岩木山は水神の宿る神の山なのだ。

 我々の祖霊にとって岩木山は安らぎの場所、そして、いつの日か私たちもまたそこに逝く。ミチノクコザクラやエゾノツガザクラの一輪一輪は祖霊の魂であるかも知れない。岩木山は昔も今も癒しの山だ。
 岩木山は潔く孤高であり、不変にして不動、誰に対しても公平な大地の母だ。いつでも平等に慰め勇気づけてくれる山。差別や蔑みのない強くて優しい個性を持った山なのである。

 ある歌人は「岩木嶺に続く不稔田色褪せて秋色の畦に人の影はなし」と詠う。不稔田の畦だけがくっきり区画される情景。字余りで詠う心情が痛々しい。不稔田、あってはならないことだ。天の恵みに見放され、「貧しい農政」に追いうちされた無念さを胸にしまい込んで、働き手は出稼ぎに行った。
 残された者は、その無念さをしまい込み、春が来るまで背負う。岩木山はこの歌にもじっと耳を傾けてくれるのだ。

 このような「岩木山」を背景にして、よくも「MOTTAINAI」「米の作りすぎは、もったいない!」「米の過剰作付けは、資源のムダづかいです。」と言ったものだ。
 「農水省」は何も分かってはいない。農民の心のひとかけらも理解しようとはしていない。
 即刻、このポスターは回収・破棄して貰いたい。そして、農民の真意を誠実に把握して、机上の空論から、その土地に根ざした農業が心おきなく出来る農業行政を構築して貰いたい。                     

【明日「岩木山てどんな山…なぜ、どうして40問」(その7)「岩木山の動物(野鳥)」に関する質問の9番から12番までについて解答する。】