岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

噎せるような萌葱の若緑に布置され淡い綿帽子 / 弥生尾根を登って山頂へ、恐ろしいほどの暖冬だ(3)

2008-03-27 06:20:51 | Weblog
(今日の写真はバラ科ナナカマド属の落葉小高木である「タカネナナカマド(高嶺七竈)」である。
「ナナカマド」は北海道から九州、朝鮮・樺太・南千島に分布し、ブナ帯から亜高山針葉樹林帯に生育する。和名は、「大変燃えにくく、七度竃(かまど)に入れても燃えない」に由来するらしい。

 花は我々に見てもらい楽しんでもらうために咲いているのではない。見たり楽しむという行為は花とはまったく関わりのない人の勝手な行動だ。登ることに夢中であったり、疲れていたりでは、そこにある花にさえ出会えない。出会っているが見えないのに、花がないと言う人がいる。これはものすごく不遜で身勝手な人だろう。
 花に出会うためには、先ず会いたいという意志や興味を持続させ、それらを支える体力や生命力と総合的、相対的な「いつ・どこで・何が・どのように・どうした」という視点を持っていなければいけないようだ。
 野鳥のエキスパートである友人が「鳴き声のテープを何回も聴いて解った気になって、探鳥に出かけたら覚えたはずの声がみんな違う。何が何だか解らなくなってしまった。何もない時代には現場で総合的・立体的に学習した。その方がよく解ったものだ。」と語ってくれたことがある。対象を総合的な知識と経験を動員して、相対的に決定することの例であろう。花だけを撮影して名前を尋ねることは、鳥と鳴き声テープとの関係に似ている。
 ブナ林を脱けてコメツガ林をくぐって、ようやくダケカンバやミヤマハンノキの生えている稜線に出た。噎せるような緑で低木の「樹海」が広がっている。一面が濃い緑に覆われているように見えるのだが、ところどころに萌葱の若緑が布置されている。しかも、それらは風にそよいで、陽光を反射し輝き動く。さらに、淡い綿帽子のような白い小花を踊らせている。高山帯の綿帽子、タカネナナカマドであった。「綿帽子」とはこの花が全体として一つのまとまりのある複散房花序を指している。
 光沢のある葉の表面、鋭く規則的な鋸歯もバラ科の特徴を示していて美しい。)

   ■■ 弥生尾根を登って山頂まで行って来た、恐ろしい暖冬ぶりだ(3) ■■

 岩木山の大鳴沢源頭付近、つまり耳成岩の東面直下は、降雪が沢から吹き上げる強風に収斂されるから、吹き溜まりは極端にひどい。雪庇は源頭を埋めつくし稜線を乗っ越して大黒沢よりに成長し、その厚さは時には15mを越えてしまう。岩木山ではここが一番遅くまで残雪のあるところでないだろうか。時には九月まであったりする。
 そのために、頂上直下の稜線はなだらかになり、夏場の地形とはその様相をすっかり変えてしまう。だから、夏山の感覚でいると吹雪や濃霧の時は、注意をしないと耳成岩の側壁にぶつかったり、大鳴沢や大黒沢に迷い込んだりする。
 ところが、23日に確認したところ、その様相はこれまでと一変していた。
先ず、耳成岩の東面直下は、その吹き溜まりは殆どない。雪庇は大黒沢よりに成長していない、というよりは全くない。大鳴沢源頭部の積雪の壁の厚さは5mもなく、平年の3分の1である。積雪の絶対量が極端に少ないので、この辺りの積雪は6月末あたりで消えてしまうだろう。例年は、この時季には頂上直下の稜線はなだらかになり、夏場の地形とはその様相をすっかり変えてしまうのだが、地図どおりの地形が見られた。これだと、積雪を置いただけの「山頂周辺」である。
 これだと、いくら登頂しても、真の意味での「積雪期の登山」とは言えないかも知れない。まさに、極端な、そして決して喜んではいられない「暖冬」であり、「地球温暖化」の目に見える現象なのだ。

 自然界の植物は「生存条件の変化」を求めない。植物たちは、自然が与えてくれる去年と同じ春の条件の中で営みを始めることが出来るのである。同じ条件でなければ「営み」を始めることが出来ないのだ。それを心配しているのだ。
 自然は彼等が持っていた時間スケールの中で暮らしていたのであり、その時間世界を破壊されることは自然にとっての死であるに違いない。その「時間スケール」を壊してしまうものが「地球温暖化」なのである。
 自然はこれまで、与えられた条件を受け入れながら、その条件のもとで精いっぱいの自然であろうとして進化してきた。それには長い長い時間が必要だった。その長い時間に耐えてきたので、自然はたくましく、優しいのである。
 しかし、「地球温暖化」は「生活の条件を変えながら生きていく人間」によって急激に進められている。植物や動物たちの「進化」のスピードはそれに決して追いつかないのだ。

『自然は円を描くようにくり返される時間世界の中で生き人間は直線的に伸びていく時間世界で暮らしている。
自然は循環する時間世界、この世界で暮らすものたちは変化を求めない。人間は循環する時間世界の中で生存している自然から自立した動物になった。
自然と人間が共生するには循環的な時間世界の中で変化を望まずに生きている自然の時空を壊さないでおくことのできる社会を私たちが作り出すしかないのである。(内山 節「森に通う道」から)』(続く)