( 今日の写真はユリ科アマドコロ属の多年草 「アマドコロ(甘野老)」だ。
厳密に同定すると、恐らく「オオアマドコロ(大甘野老)」だろう。茎の高さが1mを越え、葉の長さが10~20cm以上もあるのだからである。決め手は、葉の下面の小脈上に著しい細突起があることだ。
漢字で書くと最初の「甘」は「あま」と読めるが「野老」を「ところ」とか「どころ」と読める人は余り多くはないだろう。
「野老(ところ)」はヤマノイモ科の蔓性多年草でまったくの別種だ。夏、葉腋に淡緑色の小花を穂状につける。根茎は苦味をとると食べられる。普通「トコロ」と呼ばれるものはオニドコロ(鬼野老)である。
名前の由来は、地下茎が「野老(ところ)」に似て、しかも、「野老」は苦いのにこちらは甘いので「甘い野老」から「甘野老」になったということだろう。根茎だけでなく若芽もゆでて食用になる。
百沢から岳へ、そして鰺ヶ沢へと続く車道の両サイドからも、冬の間にうず高く積み上げられていた雪の回廊がすっかりと消え果てていた。
少しの斜面を登っただけでも汗ばむような草蒸す季節が始まっていた。そのような時期に私はよく平沢や柴柄沢に沿った道を歩くことがある。
それらは木漏れ日が漂う雑木の中に続いていることもあるが、大半は雑木が伐られ、日当たり鋭い明るく赤茶けた裸地を通っている。
私にはこれが謎である。なぜこのように木を伐って広げ裸地にしてしまうのだろう。そこを開墾して畑地にしたという形跡もなければ建造物があるわけでもない。あるいは数十年も前に炭焼きをしたという跡もない。
そして、その赤土の道の両側には決まって道を覆い尽くす勢いで尾花を残したススキが茂り、その奥では枯れたものが縦横に重なり合って仰臥しているのだ。
その中で、ふと何やら斜めに立つ緑葉と白い斑点が揺れた。それは本当に奇妙な光景だった。この緑葉と白い斑点は、普通には林下の陰地で見るものである。喩えて言えば「木漏れ日すら避けて垂れ咲く林中の吊り風鈴」がふさわしいものだ。
しかし、ここの彼女たちは違っていた。まさに異彩を放っている。陽光を全身で受けて、ススキの森で初夏をエネルギッシュに生きるアマドコロたちに、私は真夏の海浜に集う日焼けした水着姿の若い女性の姿を見たような気がした。
■■ 弥生尾根を登って山頂まで行って来た、恐ろしい暖冬ぶりだ(2) ■■
(承前)
今年は確かに「春」は早く来た。しかも、2ヶ月も早くやって来た。だが、「雨」を殆ど降らせてはくれない。先週は一度も「雨」が降らなかった。暖かく早朝が氷点下までさがって、「霜柱」を見せた朝はわずかに2回だけであった。
「春」に降る雨の特徴は、「晩方から夜明けにかけてしとしと」と、静かに、「土」を濡らす程度に降る。それで、しっとりと潤された土の中で新芽を出して、草々は生長する。 土砂降りだと種などは洗い出され(洗掘され)て、活着出来ないのだ。そして、日中は暖かい日射しを浴びて「光合成」を行いどんどんと生長していく。
これには訳がある。というよりは「植物」がその雨の降り方や季節的な気象条件に合わせて、そのような機能を保持するように進化してきたと言えるのかも知れない。
ところが、暖かい日が続き、日射しも強くなってきているのに、柔らかく潤す「雨」は降らない。私はこのことがすごく心配なのだ。長い時間の中で「進化」という形で対応してきたものは、気象環境の突然の変更や異常には対応出来ないのだ。
今年の「春」、そのやって来方の早さは異常だ。雪も去年より1ヶ月早く消えた。だから、道路事情も人の手間をかけずによくなった。
灯油の値上がりの中で、早くやって来た暖かい「春」は有り難い。人々にとって早くやってきた「春」は歓迎するものであって非難するものではない。しかも、北国の私たちの「春」を待ちわびる気持ちは強い。それに答えてくれるのだから、だれも「早く来すぎた」といって怒る人はいない。だれもが「喜んで」いる。
だが、…視点を「植物」に向けて、「植物」に自分を置き換えて考えてみるとどうだろう。喜んでばかりはいられなくなる。
私はずっと長い間、「山の季節感とはおもしろい」ものだ考えてきた。しかし、ここ数年、特に冬季と春季にあっては、この考え方に修正を加えなければいけないと思うようになってきている。
それは「冬はその酷寒と強風で厳然としためりはりをつけてくれる」ことが少なくなり、今回の登山でも「曖昧で混沌、季節の混在を鮮明に見せること」が少なくなっていた。
岩木山では、3月の中旬から下旬は、正しくは(平年並みの季節だったら)「暖と寒との、明と暗との混沌、季節の混在を鮮明に見せる」時季である。
ところが、23日の岩木山は「春」そのものだった。何にも「冬」という「めりはり」を感じさせない岩木山であった。
私はすでに50年近く岩木山に登っている。この時季にも数えられないほどの回数で登っている。だが、今回のような「岩木山」に出会ったのは初めてである。まるで、「虚事」のような山に思えてしようがない。(続く)
厳密に同定すると、恐らく「オオアマドコロ(大甘野老)」だろう。茎の高さが1mを越え、葉の長さが10~20cm以上もあるのだからである。決め手は、葉の下面の小脈上に著しい細突起があることだ。
漢字で書くと最初の「甘」は「あま」と読めるが「野老」を「ところ」とか「どころ」と読める人は余り多くはないだろう。
「野老(ところ)」はヤマノイモ科の蔓性多年草でまったくの別種だ。夏、葉腋に淡緑色の小花を穂状につける。根茎は苦味をとると食べられる。普通「トコロ」と呼ばれるものはオニドコロ(鬼野老)である。
名前の由来は、地下茎が「野老(ところ)」に似て、しかも、「野老」は苦いのにこちらは甘いので「甘い野老」から「甘野老」になったということだろう。根茎だけでなく若芽もゆでて食用になる。
百沢から岳へ、そして鰺ヶ沢へと続く車道の両サイドからも、冬の間にうず高く積み上げられていた雪の回廊がすっかりと消え果てていた。
少しの斜面を登っただけでも汗ばむような草蒸す季節が始まっていた。そのような時期に私はよく平沢や柴柄沢に沿った道を歩くことがある。
それらは木漏れ日が漂う雑木の中に続いていることもあるが、大半は雑木が伐られ、日当たり鋭い明るく赤茶けた裸地を通っている。
私にはこれが謎である。なぜこのように木を伐って広げ裸地にしてしまうのだろう。そこを開墾して畑地にしたという形跡もなければ建造物があるわけでもない。あるいは数十年も前に炭焼きをしたという跡もない。
そして、その赤土の道の両側には決まって道を覆い尽くす勢いで尾花を残したススキが茂り、その奥では枯れたものが縦横に重なり合って仰臥しているのだ。
その中で、ふと何やら斜めに立つ緑葉と白い斑点が揺れた。それは本当に奇妙な光景だった。この緑葉と白い斑点は、普通には林下の陰地で見るものである。喩えて言えば「木漏れ日すら避けて垂れ咲く林中の吊り風鈴」がふさわしいものだ。
しかし、ここの彼女たちは違っていた。まさに異彩を放っている。陽光を全身で受けて、ススキの森で初夏をエネルギッシュに生きるアマドコロたちに、私は真夏の海浜に集う日焼けした水着姿の若い女性の姿を見たような気がした。
■■ 弥生尾根を登って山頂まで行って来た、恐ろしい暖冬ぶりだ(2) ■■
(承前)
今年は確かに「春」は早く来た。しかも、2ヶ月も早くやって来た。だが、「雨」を殆ど降らせてはくれない。先週は一度も「雨」が降らなかった。暖かく早朝が氷点下までさがって、「霜柱」を見せた朝はわずかに2回だけであった。
「春」に降る雨の特徴は、「晩方から夜明けにかけてしとしと」と、静かに、「土」を濡らす程度に降る。それで、しっとりと潤された土の中で新芽を出して、草々は生長する。 土砂降りだと種などは洗い出され(洗掘され)て、活着出来ないのだ。そして、日中は暖かい日射しを浴びて「光合成」を行いどんどんと生長していく。
これには訳がある。というよりは「植物」がその雨の降り方や季節的な気象条件に合わせて、そのような機能を保持するように進化してきたと言えるのかも知れない。
ところが、暖かい日が続き、日射しも強くなってきているのに、柔らかく潤す「雨」は降らない。私はこのことがすごく心配なのだ。長い時間の中で「進化」という形で対応してきたものは、気象環境の突然の変更や異常には対応出来ないのだ。
今年の「春」、そのやって来方の早さは異常だ。雪も去年より1ヶ月早く消えた。だから、道路事情も人の手間をかけずによくなった。
灯油の値上がりの中で、早くやって来た暖かい「春」は有り難い。人々にとって早くやってきた「春」は歓迎するものであって非難するものではない。しかも、北国の私たちの「春」を待ちわびる気持ちは強い。それに答えてくれるのだから、だれも「早く来すぎた」といって怒る人はいない。だれもが「喜んで」いる。
だが、…視点を「植物」に向けて、「植物」に自分を置き換えて考えてみるとどうだろう。喜んでばかりはいられなくなる。
私はずっと長い間、「山の季節感とはおもしろい」ものだ考えてきた。しかし、ここ数年、特に冬季と春季にあっては、この考え方に修正を加えなければいけないと思うようになってきている。
それは「冬はその酷寒と強風で厳然としためりはりをつけてくれる」ことが少なくなり、今回の登山でも「曖昧で混沌、季節の混在を鮮明に見せること」が少なくなっていた。
岩木山では、3月の中旬から下旬は、正しくは(平年並みの季節だったら)「暖と寒との、明と暗との混沌、季節の混在を鮮明に見せる」時季である。
ところが、23日の岩木山は「春」そのものだった。何にも「冬」という「めりはり」を感じさせない岩木山であった。
私はすでに50年近く岩木山に登っている。この時季にも数えられないほどの回数で登っている。だが、今回のような「岩木山」に出会ったのは初めてである。まるで、「虚事」のような山に思えてしようがない。(続く)