岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

厳しい「西高東低」の気圧配置の中、弥生尾根を登る / 歩く、走る、自転車走行の話し、あれこれ(17)

2008-02-17 06:26:56 | Weblog
 ( 昨日、いつも同行してくれるTさんと岩木山弥生尾根を登った。前日に北海道の北東で960ヘクトパスカルまで発達した低気圧はさらに東に移動した。大陸性の高気圧も大陸の遙か彼方である。等圧線も青森県辺りで、多少右上がりだが「東西に開いた形」になっていた。これだと「西高東低」の気圧配置だが「冬型」は緩み、降雪は一時的なものになるだろうと予想した。
 ところがである。気象庁発表の「天気図:24時間予想図」を見たら、何と960HPの低気圧の南側にもう一つの低気圧が発生して、それが「南西」に向かって「移動」しているのだった。
えっ、うそ!の世界だった。これだと16日は「終日」降雪ありで、しかも寒い。「山」における「疑似好天」すら期待出来ないと思った。

 お天気はそのとおりになった。終日、暇なく雪は降り続いた。登りはじめから、北風が強く、特に右の耳は、その「寒風」に曝されて「キリキリ」と痛んだ。
 地形によって風は巻き風となり、時には南からも吹き込む。新雪は1時間ごとに、その堆積を増し、標高500m辺りで30cmは沈む。ブナ林の中部では70cmは沈んだ。これは決して「ワカン」ではない。スキーであるが苦しい登りに違いない。
 下山時は、後傾姿勢をとってもスキーが滑らないという状態が続いた。さらに、登高時の踏み跡が降雪によって「消され」ている。もしも、その「踏み跡」が分かれば、それを辿ると「スキー」はスムーズに滑ったはずなのである。
 珍しいことに「登高時」も「下降時」にも、「ウサギ」や「ヤマドリ」には出会わなかった。
 これは、「激しい」降雪のなせる業である。山の生きものは「無駄なエネルギー」を使わないように考えている。降雪が激しく、新雪の多い日は「巣穴」でじっとして動かないのだ。「労あって功なし」なことはしない。そんなバカなことをするのは人だけである。
 朝、8時25分に行動を開始して、登山行動を中止したのが14時30分である。弥生の自動車を置いてある場所に戻って来たのは16時である。休憩時間を除いて約7時間の行動だった。本当に疲れた。
 だが、総積雪は少ない。「3合目標識」は雪に埋没して見えなかったが、その下部の標識はちゃんと頭を出していた。
 今日の写真は9日に、岩木山赤沢左岸上部の深い雪の中を登るTさんである。昨日、私はカメラを持っていったのだが、「悪天」をいいことに「ザック」に入れ放しで出さなかった。Tさんは昨日もこの写真のように深雪のラッセルを続けた。私も続けたがその写真はない。)

 ■■ 歩くこと、走ること、自転車走行にまつわる話し、あれこれ(17)■■
(承前)
  「自転車走行中に出会うこと」(4)

 少し、わき道に逸れて、話題を転じる。
 …「山へ行こう」と人は言う。何のために、「竹の子を採りに、茸を採りに」と人が言う。このような人にとっては、山は何にか、人間に都合のいい採集の場所なのである。
 しかし、山は人間以外の動植物のためのものでもある。それなのに、人間以外の動物も植物もすべて「人間のために用意されている」と考えるのはおかしい。
 山に入ると、いろいろな動物等の食事や食事跡に出会う。「子ウサギ」が登山道沿いの竹の子を噛っている。リスがミズナラの実を頬張っている。「山カガシ」が「ネズミ」を飲込んで動けなくなっている。そのような光景に出会うと、思わず笑みがこぼれる。

 ところで、私は「動植物の研究者」ではないので、詳しいことは解らないが…、
人という動物がこの地球上に発生したのは「地質時代の第四紀」である。その時、すでにずっと前の「白亜紀」から被子植物時代が始まり、「第三紀」には被子植物の繁栄を迎え、「ブナ」や「カエデ」などの植物は現在と同じ形態で、その営為をしていたのである。人以外の動物もほ乳類の繁栄期にあって、ほぼ同じだった…のだそうである。
 だから、「出で来始め」の原人たちは、「人」になる前は樹上生活をし、なった後は地上を歩くわけだから自然、とりわけ地上の植物に合わせた形態で、進化してきたはずだ。
 つまり、「受身的行為」に始まり、それを「進化」するという「能動態」に変えてきたに過ぎない。だが、驚くかな、人は「生物的身体的進化」をとうの昔に「捨て去って」いる。

 ところが、適合して、「進化」してきたことを、「自然を利用して」と考えたがる人もいる。生態系と食物連鎖からみれば人間は徹底的に消費者(生産者、つまり光合成をする植物の作った有機物を消費する)である。時には同類の消費者である肉食や草食動物を食べる。
 人は決して生産者にはなれない。永遠に生産者を征服し、生産物の略奪を続けていく。だから「自然を利用する」と言えなくはない。さらには、「利用して」をとらえて、「自然を征服して」と考えたがる人も出てくる。
 そして、とうとう、「自然のすべては人のために存在する」と思う人まで出てくるし、そういう宗教まで出てくる始末だ。この宗教が西欧世界を席巻しているから恐ろしい。
 人を生物の、とりわけ「動物の長」などと思っている者は、よく「文明」という語を口に出す。「我々人類だけが文明を持っている」のだ。それゆえに、「人類は科学的な生物」なのだ。イヌが、ネズミが、科学を扱えるか、と言うのである。

 しかし、「文明」ということを離れてとらえると、イヌもネズミも非常に「自然科学的」なのである。そのことが、人の目に見えないし、見ないだけなのである。
 イヌの「聴覚や嗅覚」は「人間の科学」をはるかに越える。「コウモリ」のレーダーは人間のそれより優れている。科学の粋を集めた飛行機は「トンボ」のように優雅に、しかも複雑な飛び方は出来ない。
 
「文明の中で生活する者」として、科学を扱えることは、「自然に添ったかたちで扱うという条件を遵守する限りにおいて」大事な資格であろう。(この稿は明日に続く。)