岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

厳冬の山頂、微かな光明は希望・ホワイトアウトは白い暗闇 / 歩くこと、走ることの話し、あれこれ(8)

2008-02-06 06:32:50 | Weblog
( 今日の写真に見える岩木山山頂は1月、岩木山砥上沢源頭部から撮ったものだ。
 細かい水蒸気の粒のような雪が登り始めから、ずっと降り続いていた。ブナ林もみな、その厳しい寒気をまとった「雲」に覆われていた。
 「ブナ」の幹という灰色の色彩がなければ、この場所も確実にホワイトアウトに包まれて「視界」は数mだろう。
 高木のブナ林帯が過ぎて、ブナの背丈が低くなり、それに併せて尾根が狭まってきた。相変わらず視界は余り利かない。尾根の狭まりを教えてくれるのは低木のブナだ。低木ブナは殆どがひねこびたように曲がっている。背丈がないから数mという「積雪」に「圧し撓(たわ)められる」からである。
 そこまで来ても、私は「厳寒の冷気」が流れる空洞を登っているようなものだった。ますます、「ホワイトアウト」の密度は濃くなり、周囲は殆ど見えない。
 「一、二」「一、二」という間遠なかけ声が私の口から漏れた。深い積雪から埋まったワカンを抜き出して、上部に運ぶ都度に出るかけ声だ。疲れている証拠だ。

 背後がふと明るくなった。何と、麓から青空が登ってきたのだ。だが、進むべき上方は白い闇である。
 視界の利かない白い真闇、手探りでルートファインデイングをして進むしかない。これが、冬山登山の常識である。だが、それゆえに、微かな光明は希望そのものとなる。
背後の光明が、私の右側の斜面をかすかに照らした。上部の真闇が静かに割れた。
…天国か。いや、山頂だ。だがそれは紛れもない私の「希望」だった。)


 ■■ 歩くこと、走ることにまつわる話し、あれこれ(8)■■
(承前)
  「アキレス腱の断裂」その後…私の「走行スピード」が遅いわけ?(1)

 5月の連休である。その日は、百沢から岩木山に登り山頂を経て、弥生に下山をして、午後3時ごろに戻ってきていた。そしてシャワーを浴びた後、玄関脇で私は「鈍兵衛と遊んだ」のである。
その頃の自宅は、ブロック塀が南と東から延びてきて交わる角のところが、ちょうど勝手口となっており、1mほど開いていた。
 高さは1m半ほどである。私はそのブロック塀の頭に両手をついて、下手な体操の鞍馬競技の選手のように、下半身を振り子のように上げ下げをしていた。
 その時、「鈍兵衛」は私の足が下がると後ろに引き、上がると食いつくように飛び跳ねた。
 数分間その状態が続いた。登山の疲れがまだ残っていたのだろう。私はやめたくなってこれで最後にしようと、思い切り力をこめて高く下半身をあげた。
 「鈍兵衛の狂気」はピークに達していた。私は着地しようと塀から手を離し、空中に飛んだ。その瞬間、鈍兵衛もまた地上から踊り跳ねたのである。
 あわや空中衝突、私は彼をかわすためにちょっとだけ右に逸れて着地した。着地の時、右足首の後ろがバットかなんかで殴られたような、鈍い痛みを感じた。バーンという音も聞こえたようだった。
 着地したところは段差のある路面の縁であった。平らな路面に足の裏を均等におけば、アキレス腱に無理な力が加わらなかったであろう。私はこうしてアキレス腱を切ってしまったのである。「時間に限定されたただ早いだけの岩木山登山」による疲れも、この断裂に手を貸したに違いない。
 私は道に倒れ込んだ。鈍兵衛はこれを幸いと私の顔や首、腕や足のいたるところをぺろぺろと嘗めるのだった。シャワーを浴びたことが台無しになってしまった。

 起き上がろうとするが右足に力が入らない。とにかく右足を引きずって家の中に入った。 足の指が動かなかった。踵(かかと)のすぐ上の部分が「くさび形」に陥没している。ひょっとしたら、「アキレス腱が切れた」のかも知れないと、ようやく私はことの重大さに気がついたのである。

 鈍兵衛を責めることは出来ない。私が勝手に切ったのだ。「鈍い兵隊さん」という名を持つ犬が、心おきなく遊んだ結果なのだ。
 足腰が強いと思われている男が、玄関先で犬とじゃれて「アキレス腱」断裂じゃ、さまにならない。
 同情心どころか、何とアホな、話にならない話しとして、片づけられても文句はいえないだろう。
 私はこうして、約2ヶ月間、「ギブス」をはめて足を動かせない状態で過ごすことになったのである。手術をすれば入院をしなければいけない。「ギブス」だと自宅で加療が出来る。入院生活は不自由だ。私は手術を受けないで自己治癒に任せたのである。
 リハビリも同じように、自己リハビリに徹した。通院するには時間がかかる。私は自動車を持たないので、病院でリハビリを受けることは一日仕事になってしまう。職場の事情からも、そんな暇はなかったのである。

体を動かさないということはストレスが貯まるものである。そのような言われ方を私は聞いていたし、観念としては理解していた。
 私はそのことを血圧上昇という形で実体験することになった。
正常な血圧は40歳を越えた人で、最高値が130前後であるそうだ。なんと私は最高血圧が180を超えていた。これは確かに異常であった。
 そこで眼底検査をした。その結果、糖尿病等の合併症からの「身体的な高血圧」ではなく、「心因性(ストレス)」によるものであることが解った。
 私には体を動かすことが求められていた。同時にリハビリと一体をなした「体を動かすことの具体策」が課せられたのである。
 ところが、2ヶ月もの間、運動らしい運動をまったくしていないものだから、右脚の筋肉を中心に、全身の筋肉がすっかり萎えてしまっていた。

 分厚いギブスに包まれて、アキレス腱はつながっていた。医学的外科的な発想では、切れたものがつながったことで「治癒」したことになるのであろう。
 私は、担当医の「完全につながりましたね」という一言で、「完治」したと早とちりをしてしまったのである。「走行スピード」が上がらないという「不幸」はここから始まったのであった。(この稿は明日に続く。)