岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

ブナ林の奥から昇る太陽 /「岩木山てどんな山…なぜ、どうして40問」(その3)

2008-02-26 05:51:04 | Weblog
(今日の写真はブナ林の奥から昇る太陽だ。冬の岩木山登山を1日で終えようと思えば、「早立ち」になる。少なくとも自宅を4時には出なければいけない。12月や1月、2月もそうだが、4時というとおもては「真っ暗闇」である。
 当然、登山口に着いても闇の中だ。登山の準備を整えて登り始めるのが5時頃であろう。だから、登り始めもやはり暗いのである。
 それでは、今日の写真のような、樹間に差し込む朝日を見ることが出来る時間はいつなのだろう。やはり、7時を過ぎなければ日は昇らない。太陽とブナ林内で、出会えるのは、もちろん、晴れていることが条件である。だが、そのような条件がそろう「時間」は滅多にない。
 このブナ林帯まで来るのに、積雪状態が浅く、埋まり方が少ない時や体調がよくてガンガン登ることが可能な時、気象条件がいい時、途中でルートを間違えることがないような場合は、時間がかからないので、「ブナ林帯の奥に太陽が昇る」時間よりも前に通過してしまい、出会えないのだ。
 途中でルートを外したり、負荷的な条件が重なって、登高スピードが遅くなると、時間的には「ブナ林帯の太陽」に出会えるけれども、晴れていないと「見えない」のだ。
 この写真はすべての「負荷的な条件」の満足と「晴れ」というプラス条件が融合した時に撮したものだ。
 「数学」であれば「負荷」と「プラス」では「マイナス」になるが、自然というものは、このように、滅多に会えない太陽に会わせてくれるという「プラス的なチャンス」を与えてくれるのである。面白いだろう。1月 岳登山道尾根ブナ林帯)

 ■■ 「岩木山てどんな山…なぜ、どうして40問」(その3)■■

 昨日の毎日新聞電子版「余録:調べる学習」に次のような話しが載っていた。
そこで、「私の感動や意見」を挿入しながら書いてみることにする。それはなぜか、「物事の真実や事実」は「素朴・素直・純粋」な疑問から出発することで見つかるというすばらしい事例であると思えるからである。
 「素朴・素直・純粋」な疑問は「純朴」な疑問としてもいいだろうし、「当然とされることへの不思議感」としてもいいだろう。

 <千葉県袖ケ浦市立奈良輪小1年、竪石鼓太郎くんはホームセンターで大根の種を見つけ、「はつか大根のはつかってなーに?」と思った。そして、母親に聞いた。「20日のことよ」…「だったら、夏休みにつくれるぞ」「赤くて甘そうだけど、普通の大根と同じ味だろうか」
 芽がでて、葉が開き、虫に葉を食べられる姿を一喜一憂しながら観察した。20日目、根の部分がちょっと赤くなっているだけだったが、とりあえず口にすると「とっても辛い」。(驚いただろうが、体験からの学習は全身的に理解が出来る。)収穫できたのは28日目だった。
 (この「辛い」という体験はさらに疑問を生む。そこで、また質問と学習だ。)
「暑い夏、虫から自分を守るために辛くなる。冬には甘くなる」と聞き、びっくり。9月に再度挑戦すると、今度は60日かかり「本当に甘いや」。(また発見だ。20日大根というけれど60日もかかってしまった。実態とそれを示すであろう名称が違うことも知った。言葉がすべてその指示する内容や実態を表現しないことも知っただろう。)
 葉を食べるアオムシがチョウになる不思議さ、殺虫剤のこと、季節による味の変化など次々と学んでいく。
 そして、そのリポート「ぼくのそだてたはつかだいこん どうなるぼくの20日かん!」が第11回図書館を使った「調べる」学習賞コンクール(図書館の学校など主催)の文部科学大臣奨励賞(小学校低学年の部)に選ばれた。
 先日公表された学習指導要領改定案では小中学校とも「総合的な学習の時間」が削減されている。総合学習は、教える側の力量が求められ、大変だ。
(知識偏重による選抜に耐えるだけの受験勉強を経て教員になるものが圧倒的に多いのが「教員」事情だろう。幼児の時から自ら「体験すること」から遠ざけられて育てられた世代が現在の教員の大勢を占めている。その自覚があれば、これからでも、つまり大人になってしまった今からでも遅くはない。総合学習の中で児童生徒と一緒に「教員」たちも体験しながら力量を高めていくしかない。だが、それももはや望めない。またまた、「易き」に流され、「総合学習」は流れてしまったのだ。)
 子供たちが自ら「学ぶ力」をつけるためにもっと充実させてほしい。子供たちの知的な好奇心を大切に育てたい。毎日新聞 2008年2月25日>  注:(  )部分が私の付記したところである。

 今日は、「岩木山の誕生(生成・地質・岩石・火山)について」の8番から9番までの解答を掲載する。

8、八合目と九合目では景色が違います。その理由はなんですか。

はじめに断っておきますが、「…合目」とは、麓から頂上にいたる登山の行程上の区切りです。しかし、実際の距離や標高とはあまり関係がないものなのです。
 実は登山者が登山をする場合、その困難の度合いを目安として全行程を十等分して、下から1合目、2合目などと称したものなのです。ですから、かなり主観的で勝手なものです。
恐らくスカイラインからリフトで登って行った時の景色だと思いますが、八合目はターミナル、九合目はリフト終点ですね。不思議なことに、この岳登山道には一合目から七合目まで、その「合目」という名称はありません。
 突然、天から降ってきたような「呼び名」なのです。最初誰かが、系統性のないままに「思いつき」か他の山の「真似」で使ったのでしょう。
ターミナルはまだ森林限界(低木がまだ生えているところ)内にあり、周囲は緑に覆(おお)われていますが、リフト終点付近はこの限界よりも高い場所で樹木もダケカンバ、ミヤマハンノキなどわずかです。しかも、鳥ノ海火口から噴出した熔岩に覆われていますから景色は極端に違ってしまいます。

9、噴火口の上部と下部では景観が違うのはなぜですか。

噴火口の周囲は熔岩で占められています。リフトから降りて直ぐ右側の岩山は熔岩です。歩き出すと岩がごろごろしていますが、これと同じ岩が噴火口下部に堆積しています。後から崩落したか噴出したものです。
 何回か噴火を繰り返し、新しい噴出物が堆積していったのです。リフトを降りてからの登山道を思い出して下さい。火口の縁から北に登りますが、あそこも熔岩地帯です。そして、火口の北縁を通って鳳鳴小屋に行きますが右側にある大岩・御倉石も熔岩です。
 ここから上部を見ると景観が一変します。熔岩がなくなり、岩がごろごろしている急な登りになります。この辺りからは鳥ノ海噴火口からの噴出物よりも、種蒔苗代火口やさらに上部の耳成岩火口からの噴出物によって形づくられているのです。
 火口と噴火の時間(高い頂上付近の方が新しい山なのです。)、成分の違いから景観が違ってしまいました。
 もちろん、岩質の違いは生える植物をも区別しますからその点からも景観は変わります。現在岩木山には爆裂火口が11あります。
                (この稿は明日に続く)