岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

厳冬の岩木山山頂、それはいたずら好き / 歩くこと、走ることの話し、あれこれ(7)

2008-02-05 06:38:00 | Weblog
( 今日の写真に見える岩木山山頂には「鋭角的」な鋭さも、厳冬なのだが、それを示す厳しさも感じられない。ある年の1月1日の午前10時頃に撮したものだ。前日の31日、大晦日に登り、山頂石室に1泊して降りてきた時に、岳尾根リフト鉄塔の上部辺りから望んだものだ。
 大晦日は1日中、吹雪かれ大荒れだった。しかし、山頂の石室小屋に入ってからは、風は次第に落ち着き、降雪も殆どなくなり、実に不思議なほど「穏やかな」時間の中で、背負ってきた一升瓶の「お屠蘇(とそ)」を戴き、その年一年に深く感謝したものである。

 だが、「山」はこちら側に都合のいいような現象だけで「ある」ものではない。
 朝起きてみたら、石室小屋は深い雲に包まれていた。雲の動きは遅い。その上、雲は密度が濃くて厚いのである。視界が殆ど利かない。「ホワイトアウト」、2mと離れると、その先はまったく見えないのと同じだった。
 このような「雲」は気温が極端に下がっている時に発生する。しかも、山頂部の気温が山麓や山腹よりも、遙かに低い時に見られるものだ。
 山頂部を包むようにかかっている雲なので、太陽に照らされて、気温が上昇してくると、次第に薄くなり、何処ともなく消えて晴れるのである。
 晴れるまで待つか。その日は「スカイライン入り口」のバス停到着は12時と決めていた。それに合わせて下山しなければいけない。そのためには「待った」ところで9時が限度であった。
 私は出来るだけ「時間をかけて」下山の準備にかかった。「晴れること」を待つためである。だが、9時を過ぎても晴れることはなかった。
 昨日の「踏み跡」と「赤布の付いた送り」を頼りに慎重に下山をしてきたのである。そんな中、周囲が少しずつ明るくなってきた。下山する方角に「踏み跡」や「送り」を探す必要がなくなってきたのだ。
 すべてが見える。そして、ふと、後ろを仰ぐと丸みを帯びた「山頂」が微笑しながら優しく立っていた。
 だが、私は、この時の「山頂」にもう一つ別な顔を見つけたような気がしていた。それは「いたずら好き」で「私をからかって喜んでいる」顔であった。
 蛇足だが、この写真は私の初稿本「みちのく岩木・津軽富士」の表紙写真になっている。)

 ■■ 歩くこと、走ることにまつわる話し、あれこれ(7)■■
(承前)
  「アキレス腱の断裂」

 私の「散歩」は一般的な「散歩」ではなく、「速歩」で「歩く」ことが目的なのだ。だから、家人には、出かける前に「散歩に行く」とは言わない。「歩いてくる」と言う。
 まだ、M高校に通勤していた時、このコース(自宅から藤崎往復)は通年の「ランニングコース」だった。
 私としては「ランニング」のつもりでいるが、「ジョギング」なのかも知れない。
「ジョギング」は、「お喋りが出来る程度のペース」で走るものを言うらしいので、やはり、私の「走り」は速くはないが「ランニング」だろう。
 「全校マラソン」で生徒と一緒に走り、遅れがちな者に声をかけるなどはしたことがあったが、とても「お喋り」しながら「走る」ことの出来る「ペース」ではなかった。とても苦しくて「お喋りしていると走れない」のが実情だった。

 駅伝などでは「1km3分ペース」などという表現があるが、私の走る「ペース」では到底無理である。まだ、M高校に勤めていた時は、男子生徒たちと一緒に毎年、「全校マラソン」に参加し、13年間毎回欠かさず、10kmを走った。
 その時間は、調子のいい時で45分台であり、平均して50分だった。ということは「1km4~5分ペース」が「私の速さ」ということになる。これだとマラソン42.195kmを3時間台で走ることが出来ることになるのだろう。
 実際に、前任校のN高までの通勤距離、往復約40kmを、3時間台で走ったこともある。

 だが、一般的にいうところの「ランニング」としては、私の「走行」は決して速くはない。しかし、ある「事故」を引き起こし、その対処法に関して「勘違い」をする前は「普通」に走ることが出来て、時には10kmを40分を切って走ったこともあったのである。ただ、それは、限りなく「40分」に近いものではあった。
 その「事故」とは何だろう。それは「右足のアキレス腱をぶっつり切ってしまった」ことであったのだ。かなり回り道になるが、主題が「歩くこと、走ることにまつわる話し、あれこれ」なので、この話は避けて通れないだろう。しばらくお付き合いを願いたい。

 その時、私の知り合いは口をそろえて「どうして」とその理由を訊いたが、一様に言外に「山で」という語を含めていた。暇なく山へ行ってる男が「アキレス腱を断裂」したのである。
 山のどんな所で、どんな風にして、どんな危険なめに遭ってそうなったのかを訊きたがった。中には気の毒だという気持ちよりも好奇心を丸出しにして、勝手に想像した「武勇伝」を期待する向きもあった。
 そして、これらの者を含めた大半の者は、「断裂の理由」を知るや、私のこの「負傷」に気の毒だとの思いも、興味も示さなくなるのであった。
 「山男(私はこの呼称が嫌いだが、周囲の者はみなこのように呼ぶのでここではこれを使うが、私は登山者と呼ばれて満足なのである。)」、必ずしも「山で負傷する」とは限らない。人の思いこみとは恐ろしいものだ。「山男」がどうして「山」でだけ怪我をしなければならないというのか、そんなこと余計なお世話だ。
 我が家にはスピッツを主にした「純粋」の雑種犬がいた。色は白で名前は「鈍兵衛」と言う。中型犬の雄である。
 「名は躰を表す」とはよくいったもので、「鈍い兵隊、鈍感な兵士」という意味どおりであった。番犬としての役割はほとんど果たさなかった。カラスに吠え猫に吠え、自分が犬であるのに、「犬よりも人が大好き」で、不審な者へも威嚇の声も発せず、特に幼児や小学生に強い憧れを持っていた。
 朝夕の通学時間と幼児たちが我が家の前の路上で遊ぶ時間帯が、彼にとっては至福の時であった。
 「至福」が高じて幼児に抱きつき、首筋に爪跡をつけてしまうことすらあったのである。他人に対してすらこうなのだから、家人に対しては言うまでもない。
 その行動は畏敬に近かかったが、一緒に遊び興じているうちに次第に狂気の沙汰となっていくのが常だった。
 私の「アキレス腱断裂」はその「狂気の沙汰」の余波であった。しかし、彼には責任なぞあろうはずがない。(この稿は明日に続く。)