岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

群青の空にひれ伏すダケカンバの疎林 / 歩くこと、走ること、自転車走行の話し、あれこれ(20)

2008-02-20 05:00:06 | Weblog
 ( 今日の写真は、ホワイトアウトの中を、山頂に手探り状態で登り、赤布を付けた「送り」を頼りに、やっとの思いで降りてきた時に、一瞬だが背後に明るく広がった「群青の空にひれ伏すダケカンバの疎林」だ。
 「抜き取った」送りを握りしめながら下山中、自分の踏み跡を、ふと振り返ると群青色の空が広がっていた。
 先刻までの濃霧はどこだ。吹雪はどこだ。視界数mという世界はどこに行ったのだ。白い闇、ホワイトアウトと猛吹雪が「ウソ」のように消えていた。
 まさに快晴であり、無風である。これを「冬山の疑似好天」という。だが、これは決して長続きはしない。すぐまた、白い闇の世界に突入するしかないのだが…ああ、なんであれほどに苦労して登ったのだ。登りの時に晴れてくれるとよかったものをと思う。
 「山の神」も「どこそこの神」も共通して、皮肉なものだ。冬山の天気は変わりやすい。しかし、標高が1200mを下回ると次第に明るくなり、視界も少しずつ開けてくる。それに期待しよう。1月・岩木山スカイラインターミナルの下。)

 ■■ 歩くこと、走ること、自転車走行にまつわる話し、あれこれ(20)■■
(承前)
  「自転車走行中に出会うこと・岩木山一周環状道路を道端に注意しながら走ると…」(7)

 さて、自動車を運転しているあなたがたは、文明の象徴である、ー征服や支配の象徴とも言えるーその道路を、文明の利器のためにだけあると考えてはいないか。そう考えるならば、そこには「林道建設」を叫ぶ人と同じ論理の文明が見えてくる。
 また、道路は我々の納める自動車税で造られているのだなどと、そんなけちくさいことはゆめゆめ口にしないで欲しい。
 自動車は、道とか道路の持つ長い長い歴史からみると、まさに生まれたばかりのひよっこで青二才の新参者であると言える。だから、心あるならば少し傍に控えるという奥ゆかしさ、謙虚さを身につけていいだろう。
 林道が出来る。そのことで死滅に追い込まれる動植物の数と種類は、私が目撃する路傍での生物体とは比較にならないほど多いだろう。
 なぜならば、道なき山林というものは、人との共存を拒否しながら、森全体の生命の維持に努めてきたのであるからだ。
 山林の、動物のもの言わぬ拒否をいいことに踏みにじり、人間が一方的に共存する形をとる、これは文明とはまったく縁のない暴挙であると思える。「自然破壊」などというありきたりな言葉はなまぬるくて当てはまらない。
 森に、山林に住む生命体の悲痛な言葉を借りれば、それは「殺し」以外のなにものでもない。
 花の咲く五月、リンゴ畑の中を走る農業道路の傍らには、数多くの「マメコバチ」が車に跳ねられて死んでいる。受粉作業で、人のために大活躍をしてくれた蜂である。そのあとの非業の死なのに人は誰も目を向けない。

 岩木山一周環状道路を自転車でゆっくりと、道端に注意しながら走ったことがある。
 その時のことだ。まさに、その気になれば、一日で夏休みの宿題の昆虫採集が数箱も出来てしまうほどの、自動車に跳ね飛ばされて死んでいる虫たちに出会った。
 それらの中から私の知っているものだけを挙げてみよう。もちろん私が知らない虫は知っている虫の何倍も死んで(殺されて)いた。

 蝶の仲間はキアゲハ、アゲハ、クロアゲハ、カラスアゲハ、モンキチョウ、キタテハ、アカタテハ、ジャノメチョウ、ルリシジミ、コツバメ、ミヤマセセリ。
 蛾の仲間はたくさんあって数え切れない程で、名前はまったく知らない。
 甲虫の仲間はカメムシの類、カブトムシ、クワガタ、コガネムシの類、カナブンの類、カミキリムシの類、テントウムシの類。
 とんぼの仲間はエゾイトトンボ、サナエトンボ、オニヤンマ、アカネトンボの類。
 蝉の仲間はヒグラシ、アブラゼミ、エゾハルゼミ。
 蜂の仲間はミツバチ、コマルハナバチ、クマバチ、スズメバチ、ジバチ、アシナガバチ、ジガバチ。
 その他はカマキリ、コオロギの類、キリギリスの類、バッタ、イナゴ、ハエの類、アブの類。
 古くは蛇の類もむしと呼んだので、アオダイショウ、ヤマカガシ、シマヘビなどだ。
                                   
 道端という限定された場所ですら、この多さである。跳ねられ、飛ばされ、踏みつぶされ、その場以外にあるもの、あるいは原形をとどめないものを含めるとその数はおびただしいだろう。
 道路の数、自動車の数、通行回数の何累乗という、まさに天文学的数字の生命がこの瞬時に奪われている。恐ろしいことだ。 (この稿は明日に続く。)