岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

弘前公園有料制見直し、12月議会に条例改正案を提案の方向、無料ですか、いいえ有料です。

2007-11-15 06:38:02 | Weblog
(今日の写真は弘前公園の内門から西壕に降りていくところ、つまり弘前工業高校の東端の上部で写したナデシコ科オオヤマフスマ属の多年草「オオヤマフスマ」である。この株の周囲と地表を見て欲しい。撮影したのは6月だ。当然、周りや地表には、他の草が生えていていい季節である。だが、まったくそれらは見えない。地表が剥がされているからである。剥がされずに残った1株のオオヤマフスマだけが咲いていたということなのである。本来、オオヤマフスマはある程度、群生をするものだ。 たった、1株だけということ自体が異常なのである。
 このオオヤマフスマの咲く場所でも、かなりの人数の作業員が熊手状の道具をもって作業し、あるものは「土を掘り起こして、土の入れ替え」作業をしていた。これらの行為が植物に「異常」をもたらしているのだ。)

☆ 弘前公園有料制見直し、12月議会に条例改正案を提案の方向・その前にすることがある。(その2) ☆

「改正」とは「正しく改める」ことではなく、単なる「変更」であり、「改悪」のことだ。行政的な用語の「改正」の意味を、日常的な意味でとらえてはいけない。「憲法改正」という場合も同じだ。「戦争」をすることが出来るという「憲法」に変えても「改正」なのである。「見直し」とはいうけれど、「公園入場無料化」ではない。

 昨日は、弘前公園地内には多くの樹花や草花が生育していたことについて書いたが、今日は「動物(昆虫なども含む)」について書くことにする。
 「公園緑地課」が「植物」や「動物(昆虫)」の調査や記録をしているのであれば、昨日提示した草花や樹木、そして今日提示する「動物(昆虫なども含む)」について間違いがあれば、訂正していただきたい。

 1964年、公園内に仕掛けたトラップでジネズミ、ヒミズ、コモグラ、ハタネズミ、アカネズミの5種類を捕獲出来た。ところが、1997年11月に仕掛けたトラップではドブネズミとハツカネズミしか捕獲出来なかった。
また、1960年代までに公園内の昆虫を調べたところ…
トラフカミキリ、クワカミキリ、シロスジカミキリ、エゾカタビロオサムシなどが見つかった。当時の弘前大学付属中学校の校庭で、集会の時に校長が登る壇としていた木の根っこ(切り株)には、ノコギリクワガタとカブトムシの蛹が沢山ついていた。ほかに、ミヤマカミキリ、シラホシカミキリ等の甲虫やらが観察された。しかし、現在は、松の樹皮を食うケブカヒラタカミキリくらいしか昆虫を見ることが出来ない。

 また、弘前公園の蝶類を調べたところ…
 ウラジロミドリシジミやオオミドリシジミ…(カシワ)、オナガシジミ…(オニグルミ)、C-タテハ、カラスシジミ…(ニレ・春ニレと思う)、ゴマダラチョウ…(エノキ・エゾエノキと思う)が発生していた。
 また、ヒオドシチョウ…(カラハナソウ)、エゾスジグロチョウ…(コンロンソウ)、スジグロチャバネセセリ、ヘリグロチャバネセセリ…(イネ科)、オオチャバネセセリ…(ササ)、アゲハチョウ、カラスアゲハ…(サンショウ)、ミヤマカラスアゲハ…(キハダ)、オオヒカゲ…(スゲ)、ツマキチョウ…(タネツケバナ)、メスグロヒョウモン、オオワラギンスジヒョウモン…(スミレ)なども見られた。(   )内は食草。
オナガアゲハの幼虫を教育学部に植栽されたヘンルーダから採った人もいた。
…しかし、最近は殆ど見られなくなってしまった。ということは食物としている草や樹木がなくなってしまったということだ。 
 蝶類は、幼虫の食べる草や木の葉の種類が決まっている。その草や木がなくなるとその場から蝶は消える(絶滅する)。だから蝶類を調査すると、草花の盛衰を類推することが出来るのである。

 一方、公園の濠(特に内壕)は殆ど、ほったらかしの状態で、濠にはヨシやガマさえ生えて、鯉と鮒が沢山いた。
 また、水が澄んでいて、カクタニシ(オオタニシともいう)が沢山這っていた。濠の水をバケツに汲むと、中にヒドラが入っていたこともある。これは水草の多い浅い池などに多くいるもので、正常な淡水自然を示すものだ。
 そこにはトンボが沢山見られ、希少種であるキイトトンボまでが生息していた。当時は、水の天然の浄化作用と景観、自然の姿の公園があったのである。
 しかし、今は濁った水とアメリカザリガニだけであろう。ただし、この前、亀甲町沿いの壕で食虫植物の「タヌキ藻」を発見したが、この壕には「ミジンコ」なども生息しているのだろう。

 皇居でさえ、オオムラサキを保護し、自然保全に努めている。だが、弘前公園は「桜を守る」という名のもとに、これまで何と多くの、「既存の住民」を抹殺したであろう。
 そのため、逆に大切な桜や松が、害虫の攻撃にさらされているという現実に気づくべきである。

弘前公園有料制見直し、来年度実施を目指して12月議会に条例改正案を提案の方向、無料ですか。

2007-11-14 06:44:05 | Weblog
(今日の写真は弘前公園内の「土塁」沿いのある場所である。下草が殆どない、まったく「裸地」である。「土塁に登らないで下さい」という立て札を公園内で見ることがある。もしかして、ここは多くの人たちが登って、その所為で「剥げて」しまったのであろうか。
 そうではない。樹木の下だから「草」が少ないということは一般的なのであるが、このように「裸地」になることは普通の林ではあり得ないことだ。つまり、このような「裸地化」は自然には生じないということである。
 では何故こうなるのか。それは「人工的」な何かが加えられたからである。加えられたことは、「落ち葉の堆積」の排除、それに「竹藪などの剥ぎ取り」などであろう。
 落ち葉は汚い。ゴミである。だから掃き捨てる。そして、最後は「ゴミ」焼却場に運ばれる。竹藪があると昆虫や小動物が生息する。訪れる人々、特に子供たちが小動物に噛まれたり、虫に刺されてはいけないといって剥ぎ取るというような行為(これを整備というのだ)は、都市生活者の感覚だ。
 弘前公園は、本来、自然公園的な要素を多分に持っている場所である。都市感覚だけでの対応では片手落ちというものだろう。)

    ☆ 弘前公園有料制見直し、12月議会に条例改正案を提案の方向 ☆
「改正」とは「正しく改める」ことかと思ったら、正しくなくても変えると「改正」と呼ぶらしい。まったく不埒なことだ。

 私の概略的な調査と記録でも、弘前公園地内には多くの樹花や草花が生育していた。
里山に育つ植物も、スプリングエフェマラルズから秋に実をつけるものまで、多種多様に存在していた。思いつくものを挙げてみよう。
 フキノトウ・フクジュソウ・ハシバミ・ツボスミレ・ナガハシスミレ・タチツボスミレ・オオバキスミレ・スミレサイシン・キクザキイチリンソウ・キバナノアマナ・ツルシキミ・モミジイチゴ・ホタルカズラ・ヒトリシズカ・フタリシズカ・ツクバネソウ・エンレイソウ・ネジバナ・アケビ・ラショウモンカズラ・キケマン・ムラサキケマン・エゾエンゴサク・タネツケバナ・クズハナ・ヨツバヒヨドリ・マイヅルソウ・ツリフネソウ・オオウバユリ・ノリウツギ・ナガボノシロワレモコウ・カラハナソウ・コンロンソウ・サンショウ・ミズヒキ・キンミズヒキ・ガガイモ・ツルシキミ・クサノオウ・オドリコソウ・キジムシロ・ヒメアオキ・ミズバショウ・エゾエンゴサク・ニリンソウ・ゲンノショウコ、オオヤマフスマ、オドリコソウ、キンポウゲ、クルマバソウなどである。
 今思い出せないものもあったはずだから、その植生は何と豊かなことだったであろう。
 ところで、最近はどうなのだろう。毎年咲いていた「ラショウモンカズラ」は消滅してしまった。これは「竹藪の消滅」に伴うものだ。

 環境影響評価(環境アセスメント)というものがある。環境影響評価(環境アセスメント)とは、主として「大規模開発事業等による環境への影響」を事前に調査することであるが、弘前市や市民にとって「弘前公園」が特別な存在であることから、「整備」にあたっては1997年に制定された「環境影響評価法(通称:環境アセスメント法)」に対する遵法の精神で臨むべきであろう。
 少なくとも「公園緑地課」が「公園地内」の「整備」「改変」をする場合は、環境影響評価法にある「調査、予測、評価の公害に関する(大気汚染、水質汚濁、土壌汚染、騒音、振動、地盤沈下、悪臭)の7項目と自然環境の保全に関する(地形、地質、植物、動物、景観および野外レクリエーション地)の5項目」の中の関連の深い項目については考慮すべきではないだろうか。
 弘前市においても条例による環境影響評価制度が定められているはずである。こちらの担当は「環境保全課」だから知らないであってはすまされまい。
 ところで、「公園緑地課」にあっては、「整備」やそれに伴う自然の「改変」と併行して「植物」や「動物(昆虫)」の調査や記録をしているのだろうか。樹下の土の入れ替えなどは「自然の改変」に他ならないものだ。
 最低でも「植物、動物(昆虫を含む)」についてはするべきである。もし、その類の「調査・記録」があれば是非、閲覧したいものだ。
 もし、ないのであれば、それは「怠慢」を越して「無定見」の極みであり、「無見識」以外の何ものでもない。市民の一人として「情けなくて涙が出る」思いである。ちゃんとした「仕事」をしてほしいと願うばかりだ。

☆「公園有料化」に関する情報の報告と今後の在り方などを考えるための集会開催のお知らせ ☆
 どうか一人でも多くの人々に、参加してもらいたい。
   ■日 時: 11月18日(日)午後1時30分~■
   ■会 場: 津軽保健生協本部会議室(弘前市野田:コープあおもり2階)■

☆案 内☆ 
 弘前公園有料制見直しの作業が弘前市において進められており、来年度実施を目指して12月議会に条例改正案を示そうとしている。
 この内容については情報公開を標榜する相馬市政にあっても審議会への素案については市民に公表することなく議論が進められているのが現状だ。市長の選挙公約でもあった「見直し」、市民への無料化の選択肢もあるのかと期待した市民も多かったのである。
 こういう中で「弘前市民オンブズパーソン」は有料制スタート時からこの問題を取り上げ、情報公開の取り組みを進めてきた。
 現在、都市公園管理審議会へ諮問された素案も含め、入手した情報を基に、分析結果を報告し、今後の在り方などを一緒に考えるための集会を開催することにした。

 …という案内がきている。

弘前市、12月議会に「公園有料化」の継続を提案

2007-11-13 06:40:00 | Weblog
(今日の花は弘前公園で出会ったアカネ科クルマバソウ属「クルマバソウ:車葉草・亜高山帯の林内や林縁などに生える・葉の形が車の車輪に似るところからこの名がある・北海道と本州に分布する」である。この花を含めて普通山地で咲く花が公園地内で多く見られる。春早くは「キバナノアマナ」や「キクザキイチリンソウ」、その後は「タチツボスミレ」、「オオヤマフスマ」などと続く。
 弘前市は有料化の最大理由を「整備費の増加」としているが、市の予算や決算書の項目には「公園整備費」の具体的な項目は見られない。
 しかし、現実には多人数の作業員が、草を刈ったり、落ち葉集めをしたり、土の入れ替え作業などをしている。これでは、上述したような草花の生育はおぼつかない。 落ち葉は土の素になり、栄養となるものであり、バクテリアを育て土を育てるものである。草を刈りすぎるからまた土が貧しくなる。よって別な土の入れ替えということになる。「整備」とは公園の自然を豊かにすることであって、自然を「枯渇」させるものではない。
 公園を桜だけの「桜林」するような偏った「整備」も止めた方がいい。数種の樹木が混在する森を目指すべきなのだ。
 それが、自然の森であり、普通「雑木林」と呼ばれるものだ。数種の木樹が混在するから、そこには数種の多くの虫が育つ。鳥もやって来る。
 その虫の中には「サクラ」につく「害虫」の天敵もいる。そうなると、「サクラ」につく害虫を駆除する必要もなくなる。「天敵」が食べてくれるからである。「自然」の仕組みに従った「整備」は弘前公園ではなされていない。だから、「整備」に金がかかるのだ。
 駆除には「殺虫薬」が散布される。それによって「益虫」までが駆除されるという「惨い殺戮」と「無駄」が繰り返されるのである。一市民として、このような非科学的な「整備」を黙ってみているわけにはいかない。)   

   ☆「弘前公園有料化」継続の前にするべきことがたくさんある☆

1)本年4月、弘前市公園緑地課が実施した「弘前公園有料見直しアンケート」の結果が公表された。有料化をやめて以前の無料の時代に戻すことなのかと期待した市民も多かったと思える。しかし、このアンケートは、実施計画やその実施内容に至るまであまりにもお粗末なものであり、多くの市民にとって全く理解ができないものであった。
 アンケート調査は市内の公共施設内に5カ所のアイディアポスト、9カ所のアンケート箱を設け、弘前市民であるなしを問わずに市民から投函してもらうという方法で行われたが、対象者の偏りがあると同時に、同じ人が何回も投票すること自体チェックができないものであった。
 実際4出張所では回答がゼロであり、性別、年代別、職業別の割合を見ても偏ったものであった。とりわけ、1月4日から2月28日までという長期間にわたったものであったにもかかわらず、有効回答が147しかなかった(アイディアポスト49、アンケート箱57、Eメール41)。これでは真剣に意見を集めて分析しようとしたものとは思われない。
 アンケートの結果を見ると、以下のような問題点が指摘できる。

 第1に、調査結果の有効性や信憑性は、その対象や方法によって確定されるが、その意味では、この調査は検討する対象にならないほどレベルの低いものであると言える。

 第2に、アンケート項目は恣意(しい)的であり、誘導質問である。特に問6以降の有料区域、有料期間、有料時間、入園料、無料対象者の項目において、選択項目に「無料」を設定しなかったことは重大である。そのため、集計してみると、「その他」を選んだものの中で「無料を望む」という回答が15%前後あったために、急遽アフターコードとして「無料」の回答項目を付け加えたという報告書ができあがっている。最初から「無料」の項目があったならば、この結果は全く違ったものとなったに違いない。
このようなアンケート調査票は、はじめから「有料化を前提」として、その枠を拡大しようとする意図によって作られたものである。
 公園緑地課課長補佐氏に確認したところ、『「有料見直し」には「無料」の選択肢がなかったので、このアンケートにもそれが反映されていた』と言明しており、このことは6月議会でも答弁されている。

2)「弘前公園有料化」が、わずか2回の「有識者」のみの審議会で決定され市民に審議過程が公表されなかったことや、年間有料入園者は36万9千人で、889万9千円の収益があるとしていた有料入園者数や収益の推計には全く根拠がないことなどから、「市民の合意を得た」上での実施ではなかったことは明らかである。
 また、弘前市は今年の桜祭り後に、弘前公園有料見直しについての「市民懇談会」が開催され、その場で、桜まつり期間に観光客を対象に実施したアンケート結果を公表した。
 それによると、アンケートの対象は「観光客」で、実数も255人、その内76.5%、195人が市外の居住者、言い換えると市民は60人しか含まれていないということである。この結果をもって最も影響を受ける市民に対する「有料見直し」の材料とするのであれば、全くの「市民無視」といわざるを得ない。弘前市は「市民」の方を向いていない。
 新聞報道では、アンケート調査の対象を「観光客」と明記していたが、市の広報やホームページでは「さくらまつり期間の来園者で、弘前公園有料制に関心があり、回答していただける全ての方が対象です。」とあり、非常に曖昧で、「広く市民の意見を聞く手法」として都市公園審議会に報告していたものとはおよそ違った方向付けでなされたものであるとも言える。
 弘前公園有料化には、多くの視点から多くの市民による本質的な議論の集約を図ることが先決である。

(12月議会が間もなく始まるので、「弘前公園有料化」に関わることをしばらく続けることにする。)

「第28回東北自然保護の集い」の報告(1)

2007-11-12 06:44:02 | Weblog
(今日の写真は秋、10月の紅葉とそれを際だたせる「根曲がり竹:チシマザサのこと」の緑である。「根曲がり竹」とは、根が曲がっている竹という意味ではない。根というものはどんな植物でも曲がっているものである。
私はまだ「直線的に根を伸ばす」植物を知らない。それともまったく障害物なぞがなければ植物というものは、垂直に水平に根を張るものなのだろうか。牛蒡「ゴボウ」も根である。真っ直ぐなゴボウほど、「売値」は高いのだろうが、あれとて、厳密には垂直ではない。
 根曲がり竹の「根曲がり」は竹の根が曲がっていることではない。根に近い部分、つまり、地上から20~30cmのところが緩やかに湾曲していることを指して言う。この湾曲は「圧雪」によって「矯められ」たことによって生ずる。先人はこれの長めのものを刈りだしてきて、畑の「蔓性植物」の「支柱」として使ったのである。
 根元の湾曲が2本向き合わせて立てた時に、その先端でちょうど交接する角度を作るので、垂木のように斜めに立てる必要はなかったのだ。大角豆(ササゲ)の栽培などでは非常に重宝したものである。
 写真の右、白い雲の下には百沢スキー場が見える。最近、特に合併前の旧弘前市在住の市民から、赤字の百沢スキー場は止めるべきだという意見が聞かれる。
 だが、旧岩木町が町内の小、中学生にこのスキー場を無料で開放していたということを聞くと「止めろ」という意見は…どうだろう。営利を抜きにした「市民」スキー場として再出発するという手もある。もちろん、これまでどおりの「サービス」は期待できない。
 市民が「私たちのスキー場」という愛着と自覚でもって、「サービス」をお互いがしあうという形でのスキー場としたらいいのではないかと考えるのだが、どうだろう。
 かつて「弥生地区」にスキー場を造ろうとした時、スキー場建設推進を考える人たちは「弘前市には市が運営する大きなスキー場がない。是非欲しい。これは市民の悲願である。」と主張した。
 (吸収)合併にともない「棚からぼた餅」的に「スキー場」が手に入ったのだ。どうする。かつての推進派諸君。)

     ☆「第28回東北自然保護の集い」に参加。その報告(1)☆

「第28回東北自然保護の集い」が東北の森と海を考える」をテーマに岩手県・大沢温泉で一昨日、昨日の2日間開催された。
 昨年度は本会が主管し開催し、成功裏に終えることが出来た。その継続とお礼の意味もあって、本会では、今年度の総会で本年度の活動方針に第28回大会には10名以上の規模で参加者を募り、会を挙げて参加することを決めていた。なお、参加費については、これも総会で「補助をする」ことを決めていた。
 幸い、9月15日の締め切りまでに10名の会員が参加を希望した。
 参加費の1人あたりの「補助額」は、これまでの参加者(1~2名)には参加費、旅費を実費で支払っていたこと、会の財政と今後の行事などを勘案して、「4.000円」とした。参加費9.000円の内訳は、資料代1.000円、懇親会費1.000円、宿泊代7.000円となっている。
 竹谷、斉藤両会員が自動車で行くということで、他の参加者はこれに便乗・同乗して行った。高速道料金、ガソリン代などは「同乗者」が均等割で負担した。

 「集い」で協議されたことの詳細は明日以降、順次掲載(ただし、不定期になるだろう)するが、本日は次のことのみの報告に留める。申し訳ないがまだ、「まとめ」が出来ていないし、会として、別な「仕事」が貯まっていて、そちらに傾注しなければいけないからである。
 注目するべきことは、「六ヶ所核燃」の問題が、この「集い」で大きく取り上げられたことである。「青森県の人間」として、正直「恥ずかしい」思いで、身を小さくしながら、協議に参加してきた。このことについても順次報告する。


   ※本会からは…
�.『「国有林内の天然林を環境省に移管し保全する改革に関する請願書」の署名用紙記載文に関係したことについての質疑』を協議題として提案した。その内容を次に掲げる。

「国有林内の天然林を環境省に移管し保全する改革に関する請願書」の署名用紙に記載されている…下記のことに関する質疑について
  
[ 一 誓願の趣旨
『…現在一部の山域で実施されているような「入山禁止・規制措置」は即刻撤廃し、誰もが登山や釣りをとおして身近に自然と親しむことができる、封印されることのない、開かけれた国有林保護政策が実施されることも重ねて強く要望します。』]

[ 二 誓願事項
『三、地元生活者による山菜採塔の伝統的権利を保障し、誰もが自然にふれあうことの出来る、国民に開かれた国有林保護政策を実施していただくこと。』]

1. この部分に関しては天然林を環境省に移管するという誓願の趣旨から逸脱しているのではないか。
2. 無制限に入山を認めるべきだという意図がありありで、これだと簡単に商業主義と結びつき、自然を保護するという趣旨がないがしろにされるおそれがある。天然林を守れという時、入山を規制する地域が出てくるのは当然であり、すべて規制を撤廃するということは恣意的な側面を懸念させる。
 注:この「国有林内の天然林を環境省に移管し保全する改革に関する請願書」の署名用紙に記載されている文章については、4月に行われた本会の総会時に以上のような意見が出た。その意見・要望に従い、会長名で誓願署名運動の主管に問い合わせたが、いまだに何の応答もないのである。

 このことについては、本会からの提案・質疑の後に、まるで「堰を切ったかのように」各県からも疑問やら反論が相次いだ。この詳細も次の機会に報告する。

�.『岩木山の不法に蒔かれた「コマクサ」について』を問題提起を含めて提案・報告をした。
�.全国的に収束しつつある「堰堤敷設工事」が「今も続く岩木山の堰堤敷設」ということで、その実態を分科会で報告して協議に参加した。

Sさん、Tさんと赤倉修験者(山伏)道を降りる(その7)/第28回東北自然保護の集いに参加 

2007-11-11 15:52:12 | Weblog
(今日の写真は、11月3日に赤倉登山道の「鬼の土俵」から赤倉沢に降り立ったところの「川原」であり、100m下流には林野庁が敷設した大堰堤がある。数年前に敷設・建設したものだが、大岩や小岩が今にも堰堤を越えて下に落下し流れ落ちようとしている。堰堤とは何か。ダムである。これは「床固め」と呼ばれるダムで土石を堰き止めることを、その機能にしている。林野庁は「堰堤」設置の目的に「土石流の防止」を唱っているが、これでは「ウソ」になる。三浦が今年の9月に撮影した。)

  ☆ Sさん、Tさんと赤倉登山道を登る・修験者(山伏)道を降りる(その7)☆

 「結界」とは仏教語で「修行や修法のために一定区域を限ること。また、その区域に仏道修行の障害となるものの入ることを許さないこと」を意味する。
 この道の入口と出口は、下の赤倉沢に架けられている、約30mほど大きな注連縄(しめなわ)の山側、つまり内側にある。注連縄は「結界」を区切る「標識」である。だから、この急な道は「赤倉大権現」が鎮(しず)める「結界」の中にあるのである。
 「結界」内は清浄であり、神秘性が豊かなものであり、「世俗的な要素」は排除されているものである。これが普通だ。
 ところが、本来あるべき「結界」の雰囲気や風情をぶち壊して、一挙に「俗世」に引き込むものが至る所に見られるのだ。
 それは無数に付けられた「ビニール製のテープ」や「ポリ製のテープ」による「送り」である。まさに汚い。「修験」という山道にはそぐわないし、神の域という荘厳さや神秘性は感じられない俗界である。
 なぜ、無数の「ビニール製のテープ」や「ポリ製のテープ」による「送り(道しるべ)」が、このように付けられるようになったのか。

 一つは、「目で見て邪魔になりそうな木々」を伐採するという整備によって、本来の「道しるべ」である、「鉈目」と「鋸目」の識別が困難になったことに因る。
 もう一つは、「鉈目」と「鋸目」だけでも十分歩ける「修験者(山伏)」やそれを見倣う信者や登山者が減少していることに因る。
「修験者(山伏)」やそれを見倣う信者や登山者でない者は、無数の「ビニール製のテープ」や「ポリ製のテープ」による「送り(道しるべ)」に頼ることになってしまうのである。まあ、最近のブームから生まれている多くの「登山者」や「登山客」の大半は、この類であろう。
 この一信者による整備が施される前、つまり「修験者(山伏)」などから修行が一般の信仰者に代わった頃から、赤倉沢のこの道を含めた「川原」ルートには「赤ペンキ」でべたべたと印が付けられた岩が多くなっていったことも事実である。堰堤工事で「川原」を歩くことが出来なくなったこともある。
 今はそれに代わって「ポリ製のテープ」という訳なのだ。

 大きな注連縄の内側の「結界」ですら、このような「ご神域」が「俗界」として大変貌を遂げている。となればその下流の変貌も許されるかも知れないと、自虐的に考えてみたりする。
 この注連縄から下流100mほどのところに赤倉沢最後の大堰堤がある。そこから下流の堰堤までは全部で15基の大堰堤が敷設された。まさに壮観といえる「俗界」の建造物だ。これだと、「結界」だけが「荘厳で神秘的」な風情を保つのは難しい。皮肉を込めて言えば、「下流とのベストマッチ」なのだろう。
数十億円をかけて敷設した「大堰堤」の「目的」もその「効用」もいまだに「科学的根拠」をもって語られたことはない。しかも、すでに、3年前に造営された最後の「大堰堤」ですら、土石に埋まっている(今日の写真を参照)。これが、崩落したら、「土石流」は一気に走る。

 コメツガの生えている斜面から、道はブナ林に変わった。
 ブナ林内の道というものは、その「踏み跡」がなかなか消えないものだ。春から夏にかけて、ブナの葉が太陽の光を遮断するので、下草の成長が遅いか、ないのである。だから、一旦付けられた「踏み跡」は場所によっては数十年残っているのである。
 この場所は北に面した斜面である。太陽の光は西側からしか射し込まない。ますます、下草は育たない。「踏み跡」は1年に数人歩くだけで半ば、永久的に残るのである。道は消えることがない。よって、このような道には「送り(道しるべ)」はまったく不要なのである。
 だが、あるはあるは、あっちにもこっちにも、気が狂いそうになるほど付けられている。
 私はそれに気をとられてすっかり疲れてしまった。
 ようやく、注連縄の上流である「川原」に出た。急勾配の斜面の「道」を降りて来たのだから、「出た」よりは「降り立った」と言ったほうがいいだろう。
 雨具のフードを外していたSさんの表情には安堵の笑みが浮かんでいた。だが、「一難去ってまた一難」である。今度は「川原」にある大きな岩をまたぎ、よじ登り、降りては歩きという繰り返しが待っていたのだ。
 口にこそ出さないが、Sさんは本当に疲れているようだった。特に、その疲れは「足」にきているようだった。とにかく「歯を食いしばって」私の後ろにつき従っているのだ。
 堰堤が100m下流に造られる前は、この辺りは広々とした川原であった。私は、かつて、その川原の岩をピョンピョンと跳び越えて歩いたものだ。
 しかし、今はすっかり、異常と言うほどに変わってしまった。堰堤を造るために、大型重機で、その川原を掘り起こし、浚渫(しゅんせつ)し、岩を両岸の川原に運んだのであろう。これが、以前との違いを生み出している理由だ。
 遅れがちなSさんを見やりながら「恨むならば、堰堤を敷設した林野庁だ。すっかり自然を破壊して、「赤倉大権現の神域を冒涜した」林野庁と建設会社、それに、敷設を勧めた政治屋たちだぞ、Sさん。」と呟いたのである。

 私たちは「岩の道」からようやく解放された。堰堤建設用に造られた砕石道に出たのだ。あとは、坦々としたこの、岩が累々と立ち並んでいる道よりは遙かに歩きやすい「砕石の敷き詰められた道」を下っていけばいいだけとなった。
 Sさんは修験者(山伏)がよじ登る道を立派に下山した。普通の登山では味わえない体験をした。

 その頃になって、赤倉沢源頭に連なる山頂付近が明るくなった。里からは晴れ渡っている空の下、岩木山がくっきりと見えているに違いない。
 その日の午後6時から、Sさんの呼びかけで、「私」を囲む会が計画されていた。帰宅して、風呂を浴びて、出かけるのにちょうどいい時間になっていた。私たちは幾分歩調を早めながら登山口に向かって歩みを進めた。

補足: 
 本当の意味での「結界」を辿ろうとすれば、今回登場した「信仰の道」入り口の対岸に位置する「ある道」を辿ればいい。
 そこは、昔からの「修験者(山伏)」の道である。ただし、ちょっとぐらい「山」を囓った程度の人や山行歴は長いが「登山道」しか歩いたことのない人などにとっては「辿る」ことは無理である。「鉈目や鋸目」を目敏く見つけることが出来なければ出来ないだろう。
 もちろん、全身的な体力も必要になる。「Tさん、今度一緒にどうですか」と誘っておこう。
 さて、「私を囲む会」の方だが、10人ほどの教え子が集まった。男子は何故か1人だけだった。しかし、本当に楽しく嬉しいものであった。しばし、12年前の「現役時代」(この生徒たちは12年前に高校を卒業している)にタイムスリップしたような気分だった。その余韻は今も続いている。      (この稿は今日で終わる。)


「第28回東北自然保護の集い」が岩手県の花巻・大沢温泉で昨日から開催されて、今日の午前中で終わって、さっき帰ってきた。この報告は明日以降掲載したい。(疲れました。)

Sさん、Tさんと赤倉登山道を登る・登頂断念・修験者(山伏)道の下山(その6)

2007-11-10 04:49:59 | Weblog
(今日の写真は、11月3日に赤倉登山道の「鬼の土俵」から赤倉沢に降り立ったところの「川原」である。写真の右上に大きな注連縄が左岸から右岸に架けられているのが見えるだろうか。堰堤が100m下流に造られる前は、もっと広くて、なだらかな、しかもある程度大きさのそろった岩が、整然と敷き詰められていたものだ。
 よく見てみよう。注連縄の下は深く抉られている。こんなことはなかったのである。堰堤が造られ、流れが変わったり、あるいは堰堤を造る時に重機で掘り起こしたものだろう。これでは明らかに「自然」の破壊でしかない。堰堤敷設や道路の敷設は必ず「自然」を破壊するものだ。写真撮影は今年9月である。)

☆Sさん、Tさんと赤倉登山道を登る・登頂断念・修験者(山伏)道の下山(その6)☆

(承前)
 「赤倉御殿」を10時30分に出発した。ここから巌鬼山の縁までは、ほぼ平坦な道である。南に石仏二十八番を目ざす。二十九番、三十番と続くが、この辺りは「風衝地(年中風が強く風の通り道になっているような場所)」なので風が強く、石仏の顔も風で削がれている。
 後ろのSさんのペースが遅い。私との間隔はあくばかりである。岩稜歩きの「フートワーク」に慣れていないのだ。近づいてきた時に、よく見ると「足許」がおぼつかない様子だ。
 いよいよ最後の石仏、三十一番、三十二番、三十三番だ。一頑張りをして「聖観音」まで進む。そこから、ダケカンバとミヤマハンノキの疎林をくぐって、ようやく大鳴沢の源頭に出た。ここから頂上までは30分の距離である。大鳴沢の源頭を渡りきったところで、後続するSさんの、雨具のフードですっぽりと覆われた顔を見た。
 顔は見えないが、その目は「頂上」に向かって燃えていた。精神的にも「物理的」にも「山頂」に行くことは出来る。ただ、問題になることは「山頂からここまで下山する時」のことだった。
 そこから上部の登山道の轍や岩上には積雪があって、足が取られる。登りは手を使って上体を支えることが出来るので、山頂まで行くことは可能である。
 だが、下りはそうはいかない。岩上に貯まった雪は滑るのである。これが下りの「滑落」につながる。慣れていれば「滑落」しても「骨折」や「捻挫」など行動不能に陥るような「滑り落ち」方はしないものだ。しかし、Sさんは初心者である。しかも、このような「山岳条件」は、初めての経験なのだ。
 視界が悪く時折5m以下になる。もう少し利いてきたとしてもヘリコプターでの救助は期待出来ない。体感温度は氷点下、気温は低く、ここで、骨折などで動けなくなると、最悪の場合は「凍死」である。ここを降りることはSさんにとっては、とても危険なことであった。
 それに、この危険を助長させる要素がもう1つあった。それはSさんの「足許」の不如意さである。かなり疲れているし、岩山を歩き馴れていなところから「フートワーク」の「心許なさ」だ。これだと、「滑落」したり、「転落」した時に「尻」から落ちるのでなく、頭から「逆さま」に落ちてしまいそうである。「岩角」に頭を強打して「脳挫傷」になりかねない。危険だ。
 …そこまで考えて、私は「登頂断念」を告げた。そこは頂上まで、あと20分、約標高1550mという地点であった。
 それまで、雨具のフードの奥で「登頂成功」に燃えていた優しいSさんのまなざしは、周囲の視界のように曇ったであろう。
 あの悪天の中を、あの悪路の中を、あの高さまで「必死」になって頑張って、ついて来たのである。時間が足りないのではない。疲れ果ててギブアップをしたわけでもない。
 Sさんの心境は、頂上に行けなかったことで、「非常に悔しく残念」で満ちていたことは明らかなのだ。私は、本当に申し訳のないことをしてしまったと思った。
 だが、私たちは、小雪の降る中を、そこから、さらに「滑落や転倒」しないように慎重な下山にかかった。「登頂成功」を考えて一心に行動してきたSさんの「緊張感」はそこで切れかかっていると考えるのが普通であろう。一歩一歩の下山となった。
 「赤倉御殿」付近まで引き返して来ると、視界が明るく開けた。さっきまでの「天気」がウソのようである。だが、背にする山頂本体だけは依然として厚い「雪雲」に閉じこめられていた。心なしかSさんにも明るさと元気が戻ってきたようだった。

 「赤倉御殿」を素通りして、私たちは明るく開けた山麓をめざして、降り始めたのである。「クマ」の足跡は、消えかかっていた。気温が上がっているのだ。山頂下部の小雪混じりの「吹雪」からは想像出来ない「暖気」が、この標高(1200m)から下部を覆っていた。
 背後の上空は「白っぽ」さを増して、その中により白く輝く丸い太陽が、時々見え隠れする。天気は「晴れ」に向かって動いていた。この時間になってようやく岩木山は、全山が日本海にある「高気圧」に完璧に覆われ出したのである。

 「大開」まで戻ってきた。小休止にする。もう一度3人で「赤倉爆裂火口」とその空間を含めた壮大な景物を眺める。すると、そこにも「暖気のなせる業」を発見した。
 「火口」底部から西側にそそり立つ崖壁は広い。登って行く時に見たその「崖壁」は「広い横長の長方形で、清楚に白く塗り込められて」いた。雪がびっしりと張り付いていたのである。しかし、「暖気」は雪を溶かしていた。
 目の前のそれは、「長方形」ならず、いびつな「楕円形」となり、雪も斑消えとなり、「ブチハイエナ」の背を想わせるような無惨な姿に変わっていた。
 そこで、Tさんが、「ここまで降りると違うものですね。自然の景観は分刻みで変化しますね。」という意味合いのことを言った。
 山でのいい「天気」は、精神を高揚させるし、穏やかにもする。SさんもTさんも、もちろん私もだが、今は「登頂断念」という空しい思いを「心の片隅」に閉じこめる余裕を持てるようになっていた。
 「鬼の土俵」までは20分の距離だ。「鬼の土俵」まで降りると、そこは柔らかい秋の日射しがあった。高気圧の張り出し方にも因るのだが、標高差600mの違いが、まさに「地獄と天国」の違いを私たちに与えてくれたということになる。

 一般的には気づかないことだが、「鬼の土俵」には赤倉沢からの登山道分岐点がある。非常に勾配がきつく、「下り」には不向きな登山道である。
 現在は、登山者よりも「赤倉講」の信者が「登り」に利用するルートであると言ってもいい。それもそのはずだ。この登山道は、その昔「修験者(山伏)」が「修行」のために「登り降り」をしたところなのであった。
 登りの時に私は「鬼の土俵」で、赤倉沢に降りていく「ルート」を指してこう言った。「ここから赤倉沢に降りることが出来る。沢に降りてしまえば、あとはほぼ平坦で、今日登った道を降りるよりは楽である。ただし、沢までは非常に急なので危険だ。その上、落ち葉が敷き詰められていて、まだそれが生乾きなのでよく滑る。だから、帰りにはここを通らない。」

 だが、私は「登頂断念」にまだ拘り、Sさんの「悔しい」思いに、まだとらわれていた。 そして、「登頂」に代わる「何」か強烈なインパクトファクターをSさんに味わってもらいたいという気持ちがあった。
 その時、まるで私のその気持ちを察したかのように、Tさんが「ここを降りることは出来ませんか」と言ったのである。
 その日の登り降りで、私が言った「落ち葉が敷き詰められていて、まだそれが生乾きなのでよく滑る」ということは否定されていた。
 今年の「落葉」の質は違っていた。雨や雪で「濡れ」てはいるが「葉」そのものは「乾いて」いたのである。これだと、「滑りづらい」のである。

 垂直に近いように感じられるような斜面を下ることは恐怖である。疲れて、足に痛みを感じているSさんにすればなおさらである。
 私はSさんに訊いた。「急な斜面を降りるのだが、大丈夫か」。Sさんは、元気な声で「大丈夫です。」と答えた。「とにかく、手がかりになる竹や枝、幹、岩など何でもいいからしっかり掴みなさい。尻をつくようにして、決して頭からは落ちないように注意すること。」と私が言う。
 私たちは「結界(けっかい)」内のその道へと降りていった。岩が累々と配置された急斜面が私たちを迎えてくれる。

 だが、それにしても「手がかり」とする「枝」が少ない。これは「赤倉講」の一信者による「神のお告げ」という名の下に、された整備のためである。
 整備といえば聞こえはいいが、事実は「目で見て邪魔になりそうな木々」を伐採するというものだった。
 「見た目には邪魔」と映っても、実際、登り降りする時に「手がかり」になっている木や枝はたくさんあるものだ。これだと「破壊」である。いたるところに「鋸目」や「鉈目」があるが、その殆どは「無意味」に伐られたものであった。
 かつては修験者(山伏)たちも木々に「鉈目」は付けた。しかし、その数は少なく、必要最低限にとどめていた。そして、彼らはその「鉈目」が意味することを「共通するもの」として知っていたのである。だから、それら「鉈目」を辿ることで、どこでも迷わずに歩けたのだった。
 私は、その信者に口頭で何回も「そのような伐採はするな」と注意を与えた。しかし、「神のお告げ」を口にして、「鉈目」の意味も知らないままの伐採、登山する者の「手がかり」や「足がかり」となる枝の選別を知らないままの伐採が数年前に行われたのである。

 この急な赤倉沢右岸の斜面には、尾根筋では風と積雪によって横に這うようにして生えていた「コメツガ」が、垂直に立って生えている。ただし、山側の枝は殆どない。
 これは積雪の圧力で「折られて」しまった証拠である。Tさんは余裕を持ってそのような「自然観察」をしていた。(この稿は明日に続く。)

Sさん、Tさんと赤倉登山道を登る・供物とクマの関係は…(その5)

2007-11-09 05:30:33 | Weblog
(今日の写真は、11月3日に赤倉登山道の大鳴沢源頭を横切って、山頂本体に取りつくところのものだ。視界は10mぐらいしか利かない。大鳴沢の源頭は、私の体験上では「岩木山で一番風の強い場所」である。赤倉御殿では微風だったものも「ここ」では強風に変わる。雪が降って時折、吹雪状態になり、全体が雪雲による濃霧「ガス」に包まれる。ラストにいるTさんが撮影したものだ。)

     ☆ Sさん、Tさんと赤倉登山道を登る、供物とクマは(その5)☆

(承前)
 私が襲われていた「不安」とは、「クマ」の恐怖ではない。私は「クマ」を恐れない。むしろ、「愛すべきもの」ととらえている。だから、「クマ」と出会っても、それは「不幸にも」でなく「幸運にも」ということになる。
 …それは石仏(観音像)に供えられた「お菓子類」などと「クマ」との関係にあった。積雪期以外の石仏の前には、色々なものが「供物(くもつ)」として置かれている。
 「供物」には「花」や「幼児の玩具」なども見られる。これらは供える人の「身内」である死者の霊を慰めるためのものだ。「幼児の玩具」に至っては「幼い我が子を失った」母性の深い悲しみが投影されていて、思わず目頭が熱くなる。
 「食べ物」も多い。昔は「餅」や「饅頭」、それに「羊羹」など和菓子を、そのまま供え、その後で供えた信者が食べたり、持ち帰っていた。だが、最近はポリ製袋に封入された「チョコレート」や「飴」、それに「スナック菓子」が殆どであり、供え放しで持ち帰ることがないのだ。
 また、酒(アルコール)類も多い。缶ビールや「ワンカップ」と呼ばれる日本酒が圧倒的だ。実際、その日も一番石仏から三十三番石仏までと、「伯母石」の前、「鬼の土俵」の「鬼像」の前、「赤倉御殿」の祠の前、最後の「聖観音」像と「赤倉大権現」石碑の前には「ミニワンカップ」の日本酒が「1パッケージ」ごと置かれていた。
 祖霊に「御神酒」を供えるという信者の心情は理解することは出来る。花を供える行為は許されるだろう。亡くなった身内の人たちに美味しいものを食べさせたくて、お菓子類を供える気持ちも分からないわけではない。また、亡くなった我が子に「玩具」を与えたいという心情も痛いほど分かる。
 「1パッケージ」には「ミニワンカップ」が3本入っている。何と、合計すると3本掛ける38ヶ所で、114本の「ミニワンカップ」が「放置」されているのである。
 今、山岳自然という視点で、この「供物」をとらえると、これらは放置された「立派なゴミ」である。114本の「ミニワンカップ」の容器はガラス製である。ガラスは腐敗しない。割れて中身が無くなっても、腐らないガラス容器は残る。プラ製の袋類も腐敗しないゴミである。
 最近は、お盆やお彼岸に、墓地に上げられた供物類はみんな持ち帰っているだろう。「ゴミは持ち帰る」が社会の通年になりつつある世相の中で、この「赤倉講」の信者たちの「供物放置」という行動は異常である。
 しかも、石仏のある場所はすべて、「津軽国定公園」地内なのだ。自然公園法では「公園地内」への「異物」の持ち込みは「禁止」されている。ただ、「供物」にあっては「持ち帰る」ことが徹底されれば、「持ち込み禁止」の対象にはならないはずだ。

 私の「不安」の根幹は、石仏の前に供物として「放置」された「食べ物」が「クマ」の「餌」になり得るということにある。
 獣には学習能力がある。「クマ」が「石仏の前」には「菓子類」という「餌」があるということを「学習」してしまえば、いつでも「そこ」に現れる。だが、「そこ」は「信者の道」であり、登山道なのである。
 いきおい、「クマ」と「人」との出会いが増える。しかも、「クマ」からすれば、「人」は「自分の餌場」に侵入してきた不埒なものである。襲うか、かかってくるかも知れない。
 そうなると、人間社会は「ツキノワグマが出没した地域に住む者にとっては生命・財産に大きな脅威が残ること、または人身被害のおそれのあるので、やむを得ず駆除を行う」と言って、法律や条令を楯に「駆除」をしてしまう。
 「駆除」と言えば戦慄的な恐怖感がないだろうが、その実は「銃殺」であり、「薬殺」だ。「クマ殺し」なのである。
 私の「不安」は、「供物」として放置された「食べ物」と、目の前に「足跡」を残して去っていった「クマ」との接点が、「共存する」べき生き物なのに「駆除」につながるのではないかということなのである。…
 それにしても、あの114本の酒「ミニカップ」は早めに「ゴミ」として下げなければいけないと思う。

 石仏二十六番を辿りきると、「晴れて」いれば視界が開けてくるのでほっとする。しかし、その日はまだ「雲」の中だった。だが、あと一息で石仏二十七番の「赤倉御殿」に着くのだ。
 この「赤倉御殿」と呼ばれる場所は「赤倉爆裂火口外輪山」の南端の岩稜である。そこからは、南西方角は岩木山山頂部に隠れ、南東は巌鬼山に隠れて眺望は利かないが、それ以外の方角はよく見える場所である。また、そこから、北の道を少し辿って赤倉沢の下部に目をやると、「大堰堤群」の異常な光景がよく見える。

 「赤倉御殿」に着いた。10時を少し過ぎていた。約3時間でここまで来た。このまま頂上を目指すと、あと40分程度で行くことは可能だ。私には、初めて岩木山登山をするというSさんに3時間台で頂上を踏ませてあげたいという思いがあった。だが、この際、その思いはあっさりと棄てた。
 大休止である。出発が早かったので、各人の朝食も早かった。朝食を食べてから、既に5時間は経過しているはずだ。ということで、「時間的には早い」が「昼食」を摂ることにした。
 「赤倉御殿」はいつも風が強い場所である。ところが、その日はまさに、無風状態、時々吹くがそれは「微風」に近いものだった。それでも、それを避けるために、「祠」の東側に3人が並んで座った。
 Tさんは、携帯用のガス器で「ラーメン」を造りだした。風が微風であったから出来ることである。Tさんは「熱い」ラーメン、だが、Sさんは「熱い飲み物」は持っていない。そこで、私の「テルモス」から熱いお茶をカップに注いで、手渡した。
                         (この稿は明日に続く。)

Sさん、Tさんと赤倉登山道を登る・クマの足跡と遭遇(その4)

2007-11-08 06:24:07 | Weblog
(今日の写真は、11月3日に赤倉登山道の二十五番石仏を過ぎて間もなく発見した「クマ」の足跡である。他の登山道では何回か「クマ」の足跡に、雪の降り始める時季に出会っているが、赤倉登山道では初めての出会いとなった。見えにくいかも知れないが、写真中央の雪の上に注目してほしい。Tさんが撮影したものだ。この件に関しては本日の「本文」に詳しく書いてあるので、それを参照してほしい。)

        ☆ Sさん、Tさんと赤倉登山道を登る(その4)☆
(承前)

 二十一番石仏を通り過ぎた。予想したとおり、そろそろ30分が経過する頃に、登山道沿いの樹木が背丈を低くすると同時に、疎らになり、雲に覆われているが幾分見通しが利いてきた。視界が開けるなあと思ったら、そこが「大開」であった。
 「鬼の土俵」を過ぎた辺りから道には積雪が目立つようになっていたが、「大開」周辺は5cm程度の積雪があった。標高1200mを越えると、ここは既に真冬、「雪と氷」の世界である。
 「大開」とは、読んで字のごとく「大きく開けている場所」である。だが、その開け方には少し説明が必要だ。まず、平面的な開け方ではないということだ。

 私が一番最初に、この「赤倉登山道」に踏み込んだのは冬山登山であった。かれこれ40年も前のことである。当時、冬季の「岩木山登山」には、パーティ行動でも、普通で「2泊3日」を必要とした。単独行動の場合は「3泊4日」になることもあった。
 その時は、パーティ行動で、百沢の岩木山神社山門脇から登り、頂上を経て既に2泊していた。下山のルートがこの赤倉登山道尾根であった。
 私はサブリーダーで、登りはじめからずっとトップだった。それは「道無き冬山」で、視界が10数mという中、「ルート」を見つけては造っていくことを意味していた。
 その時のことだ。リーダーが現在の「赤倉御殿」付近で、ここが「大開」だと言ったのである。私は自分の未熟さを自覚していたから、必死だったので「リーダー」の言ったことを、何の躊躇もなく聞き入れた。今思えば、当時のパーティ全員が登山の未熟者であったのだ。
 何と、驚くかな、それ以来20数年もの間、恥ずかしいながら私は、現在の「赤倉御殿」を「大開」として、理解していたのである。確かに「赤倉御殿」の位置する場所も大きく開けてはいる。しかし、それは「平面的な広がり」という要素が強い場所である。
 私は単純にも、「大開」という名称に、この意味を発見して、そう思い込んでしまったのである。
 ところが、今私たちがいる「大開」からの展望や景観には「平面的な」要素はまったく感じられない。それは、対岸に見える垂直な崖壁とその上にある尾根、抉られた馬蹄形の深い谷、それに大鳴沢を越え西法寺森に連なる空間を見せる急峻で高いキレットなどが醸し出す「空間」的な広がりなのであった。「大開」とは岩木山で一番大きい、直径600m、高さが100mを越える「赤倉爆裂火口」の北東の縁に位置している場所なのである。
そこから見える「赤倉爆裂火口」は外輪を急峻に荒々しく屹立させ、空間に吸い込むような深い「火口」を覗かせているのだった。まさに「大開」だ。
 先人の観察眼と命名の妙には、畏れ入るばかりだ。
 「大開」には石仏二十二番、二十三番、二十四番の三つが、その「赤倉爆裂火口」に向かって並んで立っている。三体の石仏はまるで「赤倉爆裂火口」を睥睨(へいげい)しているかのように、どっしりとしているのである。
  Tさんは、それを見て「いい所に立っているね」と言った。きっと「大開」の意味を理解し、彼らの睥睨している風情に「何か」を感じたからであろう。
 雲がかなり上がってきていた。石仏たちの視点で「赤倉爆裂火口」を覗いたり眺めたりしながら小休止だ。

 ここからは、ますます、急な登りになる。二十六番石仏を過ぎるまでが特に辛い。崩れかかっている石仏二十五番を過ぎた。
 その時である。私は積もった新雪の上に「足跡」のようなものを発見した。その「足跡」は5、6歩である。しかも、「靴跡」ではない。正真正銘な「足」型の「跡」である。
 山側に向かって、左からこの登山道に入り、5、6歩移動して、また左の藪に入って行ったようだ。しかも、今し方のものであるようだ。それにしても大きい。大型の獣のものだ。
 この辺りには昔、弥生から登ってくる道との分岐があった。今はすっかり廃道になっていて、どこが分岐「点」なのかは分からないが、この「足跡」をつけた獣は、その廃道を使って、移動していたとしても、おかしくはない。
 廃道といっても、それは「人間」にとっては歩くことが困難な道であって、「背」の低い獣にとっては、「自然の藪」を移動するよりはうんと楽な「道」なのである。獣は闇雲に「藪の中」を歩いているのではない。
 「獣道(猪や鹿などの通行によって自然につけられら道)」といわれるものを歩いている。
 この廃道を彼らが「獣道」としていることはあり得る話しだ。楽な方法を選ぶのは何も、人間だけの特許ではないだろう。
 これは「クマ」の足跡である。赤倉登山道では初めての出会いとなったし、これで、この尾根を含んだ一帯を「クマ」が生息域にしていることも確認できた。大発見である。
 発見は感動であり、喜びなのだが…私はある「不安」に襲われていた。
                         (この稿は明日に続く。)

Sさん、Tさんと赤倉登山道を登る(その3)

2007-11-07 06:56:30 | Weblog
(今日の写真は、ある年の11月3日に赤倉登山道「赤倉御殿」上部から写した「晴れている日」のものである。「11月3日」は統計上、好天の日が多いそうである。祝日なので、これまで「この日」は確実に岩木山に登っていた。悪天に見舞われた記憶はない。しかし、今回の登山では、このような風景を見ることが出来なかったばかりか、ちょっとした「吹雪」に見舞われる羽目になった。)

☆ Sさん、Tさんと赤倉登山道を登る(その3)☆

(承前)

 私たちは雲の中を登っていた。それは、途中の「ブナ林」の中を登っていた時から始まっていた。 Sさんは「雲に包まれたブナ林」の中の風情を「五里霧中」という四字熟語で表現していた。ところが、標高1060mの「鬼の土俵」では、雲は消えていた。消えていたというよりは、その高さで判然と「雲の中」とそこから「外れた区域」とが分割されていたのである。
 つまりこうだ。… 雨は上がっていたが、これから登っていこうとする上部は厚い上に黒い部分を持った雲に覆われていて、まったく何も見えない。黒い部分は「冬」特有の「雪雲」である。
 一方、登ってきた下部は北と東に大きな半円弧を描いて、うっすらと霞ながらも明るい展望が開けていた。
 七里長浜が鉛筆で白い縁取りをしたような海岸線を見せている。ここでは、殆ど「風」を感じないが、日本海から吹き付ける風は結構強いらしい。海岸の「白い縁取り」は押し寄せる波である。
 その奥には「田光沼」や「十三湖」、そして権現崎も見えている。視点を右に辿ると広い津軽の穀倉地帯、岩木川の両岸にかつて津軽藩が「藩の事業」として開墾・開田した水田地帯が見える。
 その奥に中山山脈、その手前に五所川原市、津軽富士見湖(廻堰の溜め池)、砂沢の溜め池、板柳町、藤崎町、黒石市と見える。だが、弘前市街で見えるのはほんの東端の一部である。
 文化や政治だけでなく、地勢的にも「弘前が津軽の中心だ」と思っている人は多い。だからであろう、「弘前」から見る以外の「岩木山」は岩木山でないと言う人さえいる。困ったものだ。
 だが、ここから「見える」眺望からすれば「弘前」は津軽の端っこでしかない。殆ど見えない。山頂からの俯瞰図ではその様子がもっと明らかになる。
 上部にかかっている雲の状態から推測すると、私たちが登るであろう時間には「山頂」はまったくの濃霧(ガス)、闇の中で、眺望は利かないだろうから、ここで「今見えない弘前」について、もう少し言及してみよう。
 …「弘前市街」(旧藩時代の城下町)の西は「岩木山」に阻まれ、南西は目屋や白神山地にさらに阻まれている。南は、奥に県境の山々を従えている「久渡寺山」や「阿闍羅山」に阻まれ、南東には黒石市があり、その手前には田園地帯が広がるものの、その広がりは南八甲田の山塊に押しとどめられて行き場を失う。こうして見ると、「弘前市街」は津軽の、東と南と西の端に押し込まれたような形で存在していることがよく分かるのである。
 それに引きかえ、北東の方角の「広がり」は一体何であろう。
広い水田地帯は、遠く日本海の洋上に、北海道の「大島」「小島」を見せながら、北海道本島の渡島半島や大千軒岳などと同化しながら、津軽海峡にとけ込んでいく。まさに茫漠とした広さを「弘前」はその北東に抱えているのだ。これだと、「弘前は津軽の中心」だなどとは決して言えない。…

 その広がる俯瞰図を眺めながら、小休止をし、水分を補給し、行動食を腹に詰めた。私は、雨具の下、つまり「ズボン」を着けた。それまで私たちは雨具の上着しか着けていなかった。小雨や霧雨程度の雨だったからである。その程度の雨で「ズボン」まで着けると「蒸れ」が激しく、内部で発汗のために逆に濡れたり、機敏な動作が出来にくくなるのだ。では、何故に「着けた」のだろうか。
 それは、次の理由による。
『…私は登りはじめからずっと「トップ」を歩き、後ろの2人を先導してきた。登山者の間で、登山用語ではないが「露払い」という言葉がある。これは雨や朝露で濡れた登山道沿いの枝葉や竹藪の「露」をトップが払いのけながら進む行為を指している。
「鬼の土俵」までも木々が伐採された所では、根曲がり竹の繁茂が激しい。その所為で、私のズボンはすでにかなりの「露」を吸い込んで、それが「冷たさ」を感じさせるほどになっていたのである。
 「11月3日」の登山は、季節的には「冬山登山」である。冬山登山でもっとも気をつけなければいけないのが「身体の濡れ」である。寒冷は「身体の濡れ」によって体温をどんどん奪うのである。これ以上の「濡れ」は許されない。しかも、「鬼の土俵」から上部に踏み出す直ぐの所にある竹藪は、近年やたらとその密度を増していた。』…等である。
 いよいよ、出発である。ゆっくり行っても30分もあれば「大開」に着くだろう。
 右手に赤倉沢上部の左岸崖壁を見ながら進む。真っ直ぐな道である。植生が変わってきた。
 「コメツガ」のトンネルが現れる。ダケカンバ、ミネザクラ、ナナカマドも出てくる。「コメツガ」のトンネルは、他では見ることの出来ない風物、天然記念物級だと私は考えている。
 その「コメツガ」のトンネルを十分味わいながら、二十番石仏、二十一番石仏を辿りながら登っていった。素朴な顔立ちの二十番石仏は千手観音であるが、残念ながら、これは台座からずり落ちていた。(この稿は明日に続く。)

Sさん、Tさんと赤倉登山道を登る(その2)

2007-11-06 08:11:40 | Weblog
(今日の写真は赤倉登山道「鬼の土俵」から「十九番石仏」の姿を入れて上部を写したものだ。時は晩秋、午後2時頃に撮影した。晴れているが晩秋の太陽は既に低く、差し込む光線も、赤倉沢源頭部上部の「キレット:切戸」や赤倉山稜に遮られて、薄暗くなっている。その中で、信者に着せられた白布をまとわされた石仏だけが異様に「明るい」のだ。)

       ☆ Sさん、Tさんと赤倉登山道を登る(その2)☆
(承前)

 そう言えば30分ほど前から「風向き」が東寄りだった。登る私たちの背中を押すように吹いていた。三陸の北の海上には大きな「秋の高気圧」が、日本海にも「大陸性の秋の高気圧」がある。日本海にある高気圧が張り出してくれば天気は回復するのだが、「高気圧」の「縁」は低圧部である。
 その時の岩木山は、その2つの高気圧に挟まれた「逃れられない」低圧部にあったのだ。このような「低圧部」は天気図には現れない「低気圧」と同じだ。
 さっきから、そのような思いを巡らしながら七番、八番、九番石仏が座しているブナの森の急な登りを過ぎて、伯母石に着いた。

 岩木山の登山道沿いには大きな岩があり、百沢、弥生、長平各登山道では、それらは「姥石(うばいし)」と呼ばれている。しかし、赤倉登山道では、何故か「伯母石(おばいし)」と呼称され、国土地理院発行の地図にもそのように記載されている。
 伯母石は岩稜帯の下端部に位置している。まるで切り出されたような幾何学的な角を持った大岩が「伯母石」である。その前と横には十番石仏と十一番石仏が並んでいる。
 伯母石からは右(北)に回り込んで、岩稜帯の下部をへつるようにしながら行く。修験者の道というに相応しい、コメツガの被い茂る「岩」の道が続く。この道沿いに十二番石仏、十三番石仏があり、何と、十三番石仏は「建立されている場所柄」が考慮されて「岩戸観音」である。

 数年前に赤倉講の一信者が伯母石から「まっすぐ岩稜を行く」道を「不法」に整備・開鑿したことがあった。「見晴らしのきく場所がある」ということで、登山者や信者からは受け入れられているようである。
 だが、私たちは歴史的かつ信仰的な、立派な旧来の道を行く。実際、岩稜帯の上には石像や祠がある。しかし、そこには旧来の道の途中から登る道があるのだ。
 その信者は「その道」があるにもかかわらず、伯母石から「直登」出来て、しかも通過出来るルートを、不法に「付け替え」たのである。
 私は現実的に、「立派な旧来の道」があるのだから、この伯母石上部岩稜帯に、「不法」に、付け替えられた登山道は使用禁止(通行禁止)の措置をとるようにと自然保護課には要請をしている。
 なお、「使用禁止(通行禁止)の措置」の他の理由は、この岩稜帯は標高が低い割には、風衝地を形成しているので、高山性の植物が生育している。これまで人が踏み入らなかったので多かったが最近は伐採とあわせて減少していることである。また、現場では「動く」不安定な岩が多く、「岩の崩落」という危険も想定されるからである。
 なぜ、赤倉講の一信者が勝手に「不法」に整備や「付け替え道」の開鑿が出来たのであろうか。その理由は別な機会に述べることにするが、「赤倉登山道」に関しては次のような特殊性があることだけを述べておこう。
 一般的に登山道は「里道」と呼ばれ、それが敷設されている自治体が管理している。実際、岩木山の「百沢登山道」も「岳登山道」も弘前市(当時は岩木町)の町道として管理されている。
 ところが「赤倉登山道」は、「岩木町」に位置するが当時の岩木町では管理していないという。修験道的な色彩を持つ赤倉信仰への配慮から、歴史的に「赤倉神社と赤倉講」にその管理が委ねられてきたところにあると考えられるのだ。

 伯母石から「岩の道に歩き慣れていない」Sさんに配慮しながら、約20分かけてようやく、稜線の広くなった道に出た。
 石仏十四番、十五番を追いながらゆっくりと急な道を登って行く。足下には「むら消え」の雪が目立つようになってきた。次第に私たちは「雪と氷の世界」に入って来た。
 コメツガが現れ、突然視界が開けるとそこが「鬼ノ土俵」である。そこには十六番石仏から十九番石仏までが並んでいる。
 この「鬼ノ土俵」と呼ばれる場所が、どのような造山運動で、ほぼ円形で平らな地形になったのか不思議なことだ。しかも、そこを「鬼の土俵」と呼んだ昔の人の発想の豊かさには驚くばかりである。祠のひとつには鬼の像が祀ってあり、その脇には弘法大師と不動明王の石像も設置されてある。
 標高は既に1000mを越えている。 (この稿は明日に続く)

Sさん、Tさんと赤倉登山道を登る(その1)

2007-11-05 07:18:31 | Weblog
(今日の写真は冬の赤倉登山道沿いの風物である。この登山道がこのように雪に覆われるのは間もなくだ。3日に登った時の風情とはまったくの「別世界」である。だが、季節的には初冬、標高1400mよりも上部では、すでにこの写真のような世界が広がっていた。)

      ☆ Sさん、Tさんと赤倉登山道を登る(その1)☆

 朝4時少し前に目が覚めた。まだ早いかなと思ったが、そのまま起床した。用意しておいた「登山の服装」に着替えた。この時期の「登山用服装」と「装備」は「ピッケルとアイゼン抜き」の冬山装備と考えればいい。
 今日はSさんと岩木山登山の日である。Tさんが「路線バス」のない「赤倉登山道」まで私とさんを車で「運ぶ」役目を買って出てくれて、その後一緒に登ることになっていた。 6時30分に拙宅を出発することになっていた。平均して、毎日2000字以上のブログを書いているが、これには長い場合は2時間ぐらいはかかる。暢気に書いていたのでは「登山の準備」や「朝食」も出来ない。まずは、洗顔をした。それからそのために前もって下書きをしておいた、「ブログ書き」を始める。何とか、20分足らずで、その日の分を書き上げて「貼り付け」が完了である。
 あとは、ゆっくりと「忘れ物」がないように注意しながらザックのパッキングやら朝食だ。最後に、妻が造ってくれたおにぎりとおかずを詰める。
 そうこうしているうちに6時をまわり、まず、Tさんがやって来た。今日はいつもの軽自動車でなく「ボルボ」である。そして言う。「大きい方がゆったりしていていいでしょう」と。
 遅れること5分してSさんが「軽トラック」でやって来た。私が支持した方向とは別な道路を通って来たから、どこかで「迷った」のであろう。
 出発の30分までにはまだ時間があるので、2人にコーヒーを味わってもらった。それでも6時25分には「ボルボ」に3人が乗っていた。

 赤倉登山道の入り口を出発したのは7時5分である。小雨が降っている。雨具の上を着けての行動となった。赤倉沢に架かっている橋を渡る。目の前はブナを中心とした二次林である。ところどころにミズナラなどが生えている。それぞれ葉をほぼ落としている。
 登山道は落ち葉に覆われて、まるで「クッション」のような感触で、足に優しい。
 赤倉講の社屋が並ぶ奥には「湧水」がある。そこで、その水を口にふくんで「禊ぎ」の真似事をして「身を清め」た。
 何故この場所に集中して「社屋」が多いのだろうと考えたが、そのカギはこの「湧水」ではないだろうか。「砂漠のオアシス」とその周辺の集落形成をみると、その答えは簡単に出てくるだろう。
 尾根に取りつくために登り始めた。石仏一番のある場所の手前には31日に確認しておいた「ミヤマママコナ」が健気にも一株一本だけでまだ咲いていた。
 標高560m、信仰の道、石仏とともにする山旅が始まった。だが、その実は「石仏とともにする山旅」なぞと言うにはほど遠い、特にSさんにとっては「難行・奇行の登山」となったはずなのである。
 一番石仏は如意輪観音である。あらゆる人々に救済の手をさしのべるという観音さまである。一番目に相応しい。
 Tさんのその日のカメラは、懐かしい「ニコマート」である。早速登場となった。この手のカメラを私も持っているが、それは世界の「ニコン」にあらず、日本の「ペンタックス」である。「PENTAX・LX」というが、最近はまったく出番がないと「押し入れ」の中で泣いていた。
 便利さと現像・プリント・フイルム代のいらない安価に負けて、もっぱらペンタックスのデジカメである。ただ、レンズだけは互換性があるので、「PENTAX・LX」の時から使っているものを数本だけは今でも使っている。              

 その日の「オーダー」はトップが私で、次がSさん、最後尾がTさんである。Sさんを挟んで進むのである。トップの私には必然的に「ルートファインデング」という役目がまわってくる。…とは言ってもこの時季だと「登山道」が見えているし、積雪があっても登山道は「轍」のように引っ込んでいるので、「道」を失うということはないので大したことはない。
 50分登っては10分休むという時間配分で、その上「スローペース」で進む。ラストのTさんは写真を写してその分遅れても「スローペース」なのですぐに追いついてくる。
 九番石仏「不空羂索観音」のところで「休憩」になった。この観音様の顔立ちは、この登山道沿いに見られる33体の石仏の中でとりわけ「美しい」。まさに「絶品」である。
 Tさんは、その「不空羂索観音」に近づいたり離れたり、脇にまわったりと色々な角度から撮影している。雨脚が強くなる。葉をすべて落としたブナ林の中なのに、木々の枝や幹を打つ雨の音が激しさを増してきた。
 今朝、ネットで見た天気情報の「アメダス」画面を思い出していた。そして時計を見た。
 …8時5分、「ああ、割と正確な情報だ」と思った。その情報では「7時30分から8時30分」までが小雨ではなく「本降り」を示していた。
 だが心配することはない。これも30分もすれば通り過ぎていく。その上、この低い気温だから、このまま登り詰めていけば、標高の高い「場所」では雪に換わる。「濡れ」を心配する必要はないだろう。
                   (この稿は明日に続く)

山頂にはトイレを設置しないが前提だ・排泄物の処理は山域にあった方法図るべき…

2007-11-04 09:54:36 | Weblog
(今日の写真は赤倉御殿という稜線上から写した山頂である。白く見えるのはダケカンバやミヤマハンノキについた霧氷である。残念ながら…私にとっては不浄なものが見えないので幸いだが…雲に覆われて山頂の「トイレ」は見えない。)

 Hさんから美しい写真付きのメールが届いた。その中で「トイレ」について触れている部分があったので、紹介したい。
…「10月3日、岩木山山頂に泊まった時に撮った写真です。アマチュアの下手な写真ですが、心から感動しました。翌、4日の朝も晴れて、八甲田の横岳付近から日が昇りました。朝8時頃、嶽に向け下山する途中、八合目P到着前、多くの登山者(広島から25名、大阪から16名)と出会いました。1つだけ気になった事は、トイレの粗末さです。青森県の主峰として、多くの登山者が訪れる山に相応しい環境であって欲しいと痛感しました。岩木山神社或いは弘前市と、調整が必要でしょうが、早急な対策が必要だと思いました。」…
Hさんが言う「トイレの粗末さ」とは具体的に何のことなのかよく分からないが、私なりの解釈で「山のトイレ」について考えてみたい。
 私は、これまで「登山口にはかならずトイレを設置し、それ以外は出来るだけ設置しない」ことを提唱してきた。
 「登山開始前に必ずトイレを利用する」こと、つまり家庭でもどこでもいいのだが、登山の前に「排泄」をしておくことが、登山者の常識的な観念だろう。これを登山者も登山客も常識的な「決まり事」として守らねばならないのである。
 一方で、数と場所が整合性に欠ける場合は適正な位置、利用状況などからトイレの整理をする必要がある。これは行政や「観光業界」がすべきことであろう。
 「登山口にはかならずトイレを設置する」という大前提が「岩木山」では守られていない。岩木山の場合、弥生登山道口と長平登山道口、松代登山道口には「トイレ」はない。それに加えて山頂までただの一ヶ所も「トイレ」はない。百沢登山道では岩木山神社大鳥居近くにトイレがある。また途中の「焼け止り小屋」にも「鳳鳴小屋」にも「トイレ」が設置されている。 赤倉登山道口には「トイレ」はないが、登山口手前の大石神社前の広場に「トイレ」があるので、利用が可能だ。
 岳登山道の場合は登山口の岳温泉に立派な「トイレ」がある。途中のスカイライン終点標高1250m地点にもある。スカイラインやリフトを利用する登山客はまず、この2ヶ所のいずれかで「山頂」に向かう前に「排泄」を済ませればいいのだ。それが、「山」に登る者の「決まり事」である。
 この登山道では以上に加えて、百沢登山道と一緒になる標高1450m地点の「鳳鳴小屋」にも「トイレ」がある。さらに標高1625mの山頂にもあるのだ。合計4ヶ所である。
登山口の標高が460mだから山頂までの比高差1165mの間に、距離にして5kmの間に、時間にして3時間半の中に4ヶ所もあることになる。これは明らかに「異常」である。この「比高差」「距離」「時間」から類推すると、その割合では、恐らく日本で一番、いや世界で一番「トイレ」の数が多い登山道と言えるかも知れない。

 岩手県の早池峰山にはじまり、最近はどこの山でも「山頂」のトイレは問題化している。「早池峰山」ではボランテアが中心になって、山頂にある「トイレ」から「屎尿」のくみ取りをして、それを山麓まで「担ぎおろし」をしている。それでも追いつかないので、というよりは「早池峰山」の自然を守るために「携帯トイレ」の活用を訴え、「携帯トイレ」を持参しない登山者には有料で頒布している。もちろん、それを利用する場所を設定してある。
 岩木山の山頂にある「トイレ」は本来登山者や登山客のものではない。夏場、山頂奥院管理のために2ヶ月ほど山頂石室小屋に寝起きする「岩木山神社職員」が利用するためのものである。だから、大勢の登山客が利用する構造になっていない。「少人数の利用」を念頭に置いて設置されたものだから、排泄された「糞尿」は、そのままの垂れ流しである。
もちろん、MT菌処理(糞尿を化学的に分解してしまう)などを施していない。大げさに言えば「山頂のトイレ」の「糞尿」は大鳴沢に流れ落ちているのである。
 「山巓(さんてん)には神が宿る」と考えるのは、日本をはじめとして世界の多くの人々に共通する観念である。「岩木山」も同じである。いや、岩木山は山容全体がご神体なのである。そして、その象徴が「山巓」であり、「山巓の奥院」なのである。
 よって、「山頂・山巓」は「神の磐座(いわくら)」であり、神の座す聖域なのである。もちろん、そこは常に清められた「清浄な地」でなければいけない所なのである。
 「トイレ」とは「トイレット」の略語であり、和製英語だ。「便所」のことだが、10人中9人までは「便所」と言わず「トイレ」と言う。それは「便所」の「便」に不浄を見るからである。その語を使うことに「後ろめたさを感ずる」からである。
 日本人にとって「便」は不浄なものなのだ。だから、「便所」のことを「ご不浄」ともいい、「用を足して」汚れた手を洗い清めるために「手洗い、またはお手洗い」というのだ。
 そこまで、「不浄」に拘る日本人が、どうして「神の磐座(いわくら)」や「神の座す」清浄な山頂に「不浄」なる「便所」の存在する山頂に違和感を持たないのだろうか。不思議である。
 それから、赤倉登山道、長平登山道、松代登山道方面からは「山頂」に座す四角で灰色の建造物「トイレ」がよく見える。山頂に向かって手を合わせる多くの人は、その「」を山頂で神を祀る「奥院」だと思っているのである。それが「奥院」でなく「トイレ」だと分かった時の落胆ぶりに「トイレ」設置者は思い至ったのであろうか。
 「焼け止り小屋」や「鳳鳴小屋」トイレの「屎尿」はMT菌処理(糞尿を化学的に分解してしまう)を施しているが、秋か春までの寒冷のために100%の分解までには至っていないのが実情である。
「登山口にトイレがあることの掲示板を設置する」こと、「登山口にはかならずトイレを設置する」こと、「山頂のトイレは撤去」または「山頂にはトイレを設置しない」ということ、「携帯トイレの活用」が趨勢ではないだろうか。
 岩木山の「山頂トイレ」は「撤去」を含めての善後策を「自治体」と「岩木山神社」、それに「岩木山を考える会」等が岩木山環境保全協議会の中で検討を始めている。
 今ある「トイレ」も当然、登山客の使用に際しては「都市感覚を捨て」て配慮すべきものだ。都市ではなく、限られた「山」という自然の中のことである。

物価上昇がおさまらないが政府は消費者物価指数は8ヶ月連続下落という/地域に密着した登山の発展を…

2007-11-03 04:20:36 | Weblog
(今日の写真はリンゴの花である。「えっ、リンゴの花と岩木山はどんな関係にあるのですか?」と訊きたくなる人もいるだろう。はい、答えよう。密接な関係があるのだ。「岩木山の山麓、環状道路に沿って、その上部には小森山から百沢地区、そして弥生地区の北の端まで、また下部は目屋、百沢、高岡、新岡、船沢、弥生、高杉、鶴田、十腰内、大森、森田、建石、鰺ヶ沢まで、すべてリンゴ園となっている。」岩木山はその足下をリンゴ園で包囲されているのである。)

 毎年、リンゴの美しい花を見ては目を細めるのだが、今年はこの花の結実を見ても、心の晴れない農家が多い。リンゴは今年玉伸びもよく豊作であるというのにである。リンゴ農家の人々には笑みはない。農家に笑みがない時は、消費者にも笑みはない。
 燃料と食品の値上げの大波が押し寄せているからだ。原油高による石油元売りの卸値引き上げで、レギュラーガソリンは1リットルが150円を超えるスタンドが出ている。ニューヨーク原油先物市場では1バレルが96ドルを超えて最高値を更新したから、まだまだ価格は上がるかも知れない。小麦粉などの値上がりで価格上昇が続く食品も今月からカレールーなどが値上がりしたという。
 「燃料や食品」は人間にとって命に直結するものである。それが「先物取引」という投機的な物として扱われていることを許す経済の仕組みそのものが間違っているのだ。それを許しておいて、政府は「消費者物価指数はこの9月まで8ヶ月連続下落」だと言う。その理由は「デジタル家電などの大幅値下げ」の影響である。パソコンがなくても餓死しない。しかし、食品や燃料が手に入らないと人は餓死し凍死する。給与や年金も上がらない。もう我慢も限界だろう。

 山形県の鳥海山山麓で農業を営む土門秀樹さんは東大を卒業し農水省に入ったが、農業後継者育成会で出会った奥さんとの結婚を機に「営農」を始めた人である。
 その彼は「日本の農業の時給は1000円足らず」と言う。また、「一家が暮らすには最低年に400万円が必要だが、時給500円では1日に22時間も働かねばならない」とも言うのである。1日22時間労働。これでは地獄だろう。自給1000円で計算しても1日11時間労働になる。一般的な労働者に認められている1日8時間労働をはるかに越えているではないか。
 これから類推すると、「豊作」といわれるリンゴ農家だって、その「労働量」の割合からすれば「時給500円、1日に22時間も働かねばならない」状態であるはずだ。これでは「笑み」が出るわけもないし「やる気」も生まれない。
 ところで、この土門さんは、農家の「やる気」や「創意工夫」を、収入に反映させるために、「農師制度」の創設を提唱しているという。「医師や教師のように、食の根幹にかかわる職業として資格認定し、それが所得につながればモラルの高い優秀な人が集まる」というのが持論のようである。そうなれば「食の偽装」などもなくなるかも知れない。

☆ 地域に密着した登山の発展させよう。かけがいのない自分の「山」を持つ。パッセンジャー(ワンスラー)的な登山者からの脱却と変革… ☆

 地域の山に目を向けて、そこを守っていこう。それは心のふるさとの山と呼んでもいい。その心のふるさとの山を破壊から守って、次の世代に残すという思いを頑なに持つことが望まれるだろう。通り過ぎていく者とそこに定着して永劫にそこに身を置いて、そこで暮らしていく者とでは違いがあろう。
ふるさとの山を持つことが出来ない人は、自分で登った全国の山の中から、自分の山を持つ。それは心のふるさとの山と呼んでもいい。全国の登山者すべてが自分の山を持ち、せめてそこだけは昔から変わらないあるがままの自然を残す山であり続けるようにしていこうという心構えで臨むべきではないだろうか。
 有名な山ほど素通りして行く通行人的な登山者が多いはずだ。通行人的な登山者は登山客と呼ばれていい。自動車道路・ロープウェイー経由で山頂に来る者は単なる通行人的な様相を見せている。地方に居住し、その地方の山に登る時、刈り払い行為を含めて、先人たちがつけた踏み跡を大切に補修・復活させるような使い方をしながら行動することは登山行為として日常的なことであるととらえている。
また、山道を登り、歩くことには、それによって踏み跡が確保され、道の維持に微力ではあるが協力しているという側面があることを私たちは知っている。それを知っているから登り、歩き続けるのだ。特に地元の登山者の中には軽度な登山道整備は日常の登山行動の一部になっている。この行為が連綿と古来からの「登山道」を受け継いできたのである。
ところが、通行人的な登山者には登山道を自分の出来る範囲で整備しながら行動するなどの配慮はまったくない。登山道は自動車道路の延長線でしかない。その意識で登る、降りる。かくして道は荒れる。登山道整備には登山者が主体的にかかわるものであることを肝に銘じなければいけない。自分が歩き、登る道である。決して、他人任せのものであってはいけない。

話し合いでルールの確立を、そして、そのルールの厳守を

2007-11-02 05:17:11 | Weblog
(今日の写真は「秋色リンゴ公園から」である。すっかり秋が深まった頃、弘前・リンゴ公園から写したものである。
 地質的に言うと、この辺りは「岩木川」が長い年月をかけて造った「河岸段丘」である。だから、この下は現在の岩木川流域となり、水田が広がり、川岸の平地には集落がある。岩木川を挟んだ対岸にも平地が広がり、水田と集落が見える。
 その奥には、まるで岩木山の裾飾りのような一定の高さで山並みが見える。これは海底火山が爆発して「古岩木山」を形成した時の「外輪山」ではないかと言われている。この「外輪山」の麓には兼平や如来瀬、田代などのがあるのだ。)

    ☆ 話し合いでルールの確立を、そして、そのルールの厳守を… ☆

 山における標識の設置、登山道等の整備などはルールを守って、手続きを踏んだ設置か整備かどうかが問題である。勝手にやったなら撤去させ、責任をとらせるべきであると思う。
 岩木山の場合、百沢登山道には現在、スキー関係4種の標識と無数のスキーヤーの目印が「放置」されている。
 新しく標識を設置する前に、古いもので標識の役割を果たしていないものを、その設置者を特定して「撤去」させてほしいものである。標識の生命は、登山者、スキーヤー等に混乱を与えない「確実性」であろう。
 多種の標識が、特に残雪期の登山者・スキーヤーに「標識が多くてどれに従えばいいのか解らない。ある標識に従ったら百沢に出ることが出来ずに、最終バスにも遅れてしまった。」等の混乱を与えている事例は多い。
 設置・整備に関するルールには「形体、色彩、掲示内容、設置場所、規模、設定、設置後のメンテナンス」等の「統一性」が必要であるだろう。
 それゆえに「勝手な設置・整備」は許されない。
  標識等は自然から見ると「異物」であり、古くなってしまえばゴミでしかない。設置した以上、定期的にメンテナンスしていくことが「確実性」を持続させるための「設置者の義務」である。
 その責任はいつまでも「保守点検」して破損したものは補充していくことであり、それが出来ない時は「一斉に撤去」することであろう。
 決して思いつき的な、マスコミの受けを狙ったパフォーマンス的で、一過性的な工事や取り付け、整備はしてはならない。この考え方はスキーヤーの「目印行為」にも当然、準拠されるべきことである。
 岩木山の焼け止り小屋近くに設置された「スノーモービル進入禁止」を告知する立派な立て看板は、設置の時にマスコミの取材があったりして、新聞紙上を大いに賑わしたものである。
 ところが、その「立て看板」は、そのシーズン限りで、夏場は「焼け止り小屋」の中に収納されていたが、そのうちに、どこかに消えてしまった。これなどは「設置者の義務」の不履行、「メンテナンス」放棄、パフォーマンス的で、一過性なものの典型であるように思える。

 次のような事例がある。
『野鳥研究に標識調査というものがある。これはカスミ網の許可を得て全国的に行われているものだ。時には「コウモリの誤獲」があって初記録など貴重なデータが余分に得られることがある。その、たまたま「捕獲したコウモリ」の記録をきちんとして、論文にして哺乳類学会に投稿した人がいた。
 ところが、「野鳥捕獲許可」はあるが「コウモリ捕獲許可」を得ていないという理由で、その投稿は掲載拒否された。
 コウモリ関係組織の機関誌に、改めて投稿したそうだが、やはりそこでも拒否された。いくら、「学術的に貴重な記録」でも「ルール違反」では駄目なのである。』

 日本は法治国家である。登山者であっても、法治国家の国民ならば、ルールを守るべきである。当然のことだ。しかし、ルールを守れない登山者がいることも事実だ。
 昔も今も登山者には何の特権もない。だが、かなりの頻度で「特権者」ぶった登山者に出会うことがあるのも事実だ。
 それは、単独登山者よりも「集団」で登山をしている者たちに顕著である。彼らに共通していることは「自然に対する畏敬」の念が非常に薄いということであり、「陣取り競争のように自分が登った山の数を増やしていく」実績優先ということであり、「ピークハンター」であり、「ワンスラー」である。
 人が住む里を見下ろす「高いところに登る」ことで特権が得られると考えるのならば、「煙り」であっても「特権者」に成り得るだろう。昔から「煙と何とかは高い所に登りたがる」という諺を肝に銘ずるべきなのだ。登山者とはきわめて普通の人だ。
 しかし、中には自分をステータスシンボル化して自己陶酔的に「特別」な存在と思いこんでいる人もいる。
 まさにこれは「落石が私を襲った」とか「雪崩が我々を飲み込んだ」という表現の裏返しだろう。落石も雪崩も登山者とはまったく関係の「自然の営為」である。そこには、最初から登山者を「襲ったり、飲み込む」という意志はない。雪崩遭難や落石事故は登山者がそこに出かけて行かなければ、あり得ないことである。

 山がなければ「登山者」という存在はないわけである。原点はここだろう。一人一人の「登山者」が自己確立をするのには、山の「存在」か絶対条件であることを忘れてはならない。
 しかし、この「絶対条件」だって「山と森、山と水、山と川、山と海」などのように「切り離しては考えられない自然的な強い結びつき」なのではない。ただ一方的に登山者の方からの「山に対する片思い」に過ぎないという結びつきである。
 そのような関係にあるものが「特権」者と呼べるわけがないではないか。登山者には「特権」はない。

みんなが「同じこと」を言う世の中は、後戻り出来ない「不幸」が/「ルール違反の整備」には反対だ…

2007-11-01 08:58:40 | Weblog
(今日の写真はゴマノハグサ科ママコナ属の多年草である「ミヤマママコナ:深山飯子菜・北海道、本州に分布」である。名前は「若い種子が飯粒に似ている」「花冠の喉もとにある白い斑点を飯粒に見立てた」からと言われているがはっきりしないらしい。深山の林縁や草地に生え、高さ20-50�になる。花冠の下唇の斑点(突起)が黄色であり、よく似たママコナ「北海道、本州、四国、九州に分布」は白色。また花序の苞の縁に鋸歯がなく、ママコナは刺状の鋸歯がある。花の咲く時期は8~9月である。)

 この花、「ミヤマママコナ」は別に「珍しい」ものではない。岩木山でも1~2の登山道以外で、これまでに確認しているものだ。
 何故、今日の写真で登場したかというと、昨日31日に岩木山の赤倉登山道で撮影したからであり、咲いている時期が異常だからである。
 花期は8~9月、林縁で、太陽の光を浴びて咲いているのだ。その周りには他の多くの植物が繁茂していて、一面「夏緑」に覆われている中で、この写真のような花を咲かせるのである。

 ところで、今日の写真をよく見て、「ミヤマママコナ」の周囲に注目してほしい。緑がないのだ。足下には褐色のミズナラやブナの枯れ葉や落ち葉が敷き詰められている。周りの木々は乾いた灰色の幹を見せている。
 初冬である。昨日、山頂まで行ってきたが、出会った花は、この「ミヤマママコナ」一株一本だけだった。
 何でこのような時季に咲くのだろう。私は疑問を越えて「恐ろしい」気持ちになった。
 それは、地球の異変は、すぐそこまで、「じわじわ」とやって来ているのではないか。そして、ある時、一斉に、急激に、急速に人間に「対応を許さない形」で「異変」が起こってしまうという恐怖である。
 私たちは、このような「異変」に対して「温暖化だからだよ」と口々に言って「同じことを言って共有」して、「安心」しているのではないか。そう言うだけでは「異変」は避けられない。
 これでは、人間は「過去の歴史」から何も学んでいないということになるのではないか。
 みんなに同じことを言わせたり、みんなが「同じこと」を言ったりする世の中の「後」には、後戻りが出来ない「不幸」があったことを忘れてならない。

    ☆ ボランティアであれ、ルール違反の整備は反対。ルールは守ろう… ☆

 北八甲田の現状を見ると分かるように、一度壊れた自然は戻らない。南八甲田に「人里植物が少ない」のは、歩きにくいことで登山者が少ないからである。この点で「保護を優先した管理計画」に賛成したい。
 「歩きにくい国立公園」が有っていいのである。「整備」には原則として反対はしない。だが、「登山者のためだけの整備」ということには反対だ。自然保護のために木道など必要最低限の整備は、関係者一致の上でやってほしい。
 ボランティアであれ、何であれ「ルール違反の整備」には反対である。「洗掘された登山道の付け替え」にしても、違反付け替え道を現実的にはみんな歩いている。しかし、それ以前は「洗掘された登山道」を歩いていたはずである。
 整備が必要なら、ルールに則ってやるべきだ。これは極めて現場的問題だ。各自が勝手にやるのは反対だ。管理計画に基づいていて、ルールを守った整備には賛成である。
 山菜採りや釣りは、少なくとも「国立公園特別保護区内」ではやるべきでないだろう。「世界自然遺産」区域にあっても、自然遺産の対象に「山菜・魚類」が含まれている場合はやるべきではない。そういう「保護区域」が有っていいと思う。
 「一木一草、虫も動物も許可無く捕れない場所」があって「原生的自然」が保たれるのである。ルールを守ること。少なくとも指摘されたら止める。その中で、「守るべきルール」を作り上げていくことが大切だろう。
「採集禁止区域」でないところでも、数年おきに採取禁止年や禁止区域を設けていくべきである。資源の保護、枯渇問題、さらにはこの両者による残置物(ゴミ)問題は深刻だ。

 一方で「林道の使用制限」もすべきである。いずれも、原生的自然を保護するということを原則にすえて考えることが重要であろう。