(今日の写真は来月に入ると、昨日の写真を撮った場所から見ることが出来る「草紅葉」である。登山道は風になびく「ムツノガリヤス」の奥、写真の中央部分を通っている。
写真、左の岩稜が「耳成岩」の南端だ。その下にも「草付き」が広がっている。かなり、赤みがかった「草紅葉」だが、草の種類は同じ「ムツノガリヤス」だ。
つくづく思う。「写真は光の芸術」だということがよく分かる。
この場所の「ムツノガリヤス」は頭上から秋の太陽を斜めに受けている。斜めに受けても、「直射」であることには変わりはない。
ところが、手前の「ムツノガリヤス」は山頂本体に遮られて、「穂先き」の部分だけが日を、辛うじて浴びているのだ。だから、その部分しか見えない。全体としては「逆光」になっている。
しかも、風が茎を含めた全体を小刻みに動かすものだから、その受ける光が乱反射したり、屈折したりで、「焦点」が定まらない。
だから、「細かく」ブレていて、じっと見ると目が「クルクルしてくる」という大変な「写真」になっている。
それにしても、この写真を撮った日はいい天気だった。出来るものなら、この「斜面草原」が日射しの下にある時に写したかったのだ。だが、日が短い秋である。この場所に至るには、どうしても午後になることは免れないのだ。
風の向きは小刻みに変わる。南の耳成岩との鞍部から吹き込んでくるかと思うと、今度は背後の北東から吹き付ける。
そうこうしているうちに、山頂から吹き下ってくる。そして、縦に、横にと、まさに「縦横無尽」だ。
「か細く柔らかい」穂は、ただ翻弄されるに任せている。これが、やがて枯れて、吹き飛ぶであろう「ノガリヤス」秋の一日である。)
◇◇ 草紅葉(くさこうよう)も始まった(その3) ◇◇
先日、岩木山登山に同行した「Mさん」が、昨日の写真の「ノガリヤス」の生える斜面草原と出会った感激をメールで知らせてくれた。皆さんと感激や感動を共有したいので、紹介したい。
…わたしは、ノガリヤス、の、あの黄金の穂波が忘れられませんでした。寂しさと美しさが合体すればああいう風景になるんだとでも言えばいいのでしょうか。あの風景をどうやって言葉で表現すればいいのでしょうか。
今も、厳然と目の前に広がる、あの景色です。忘れられません。ああいう風景の中で死ねるなら、もう死んでも構わん、と、心から思えるような、本当に形容しがたい美しさでした。今回の山行のトピックスです。
大鳴沢源頭もいいですが、わたしには、ノガリヤスが一番でした。
本当に、本当にきれいだった。寂しく、孤独で、美しかった。静かだった。風の音が聞えた。
風のささやきが本当に聞えるようでした。風は、ノガリヤス、を愛している。わたしにはわかりました。彼らは相思相愛だ。わたしは、あの中で、ずっと、何時間でもだまって座っていたかったです。
大鳴沢源頭を最初に見たときにも、かなり感動しました。あの場所の静けさと厳しさが、わたしは好きです。でも、ノガリヤスだ。どうしてもノガリヤスでした。
ノガリヤスは、人間は、死ぬときはひとりだと知っています。あの雰囲気は、そうとしか思えん。そして、どんな逆境にあっても、知る人ぞ知るというか、温かい目でじっとあなたを見ている人がいる、ということも知っています。
しかし、最後は、人はひとりだ、ということを知っている、そういう雰囲気でした。美しく、静かで、温かい。しかし、孤独な。
わたしは、本当に、あの風景を忘れられません。岩木山というのは、なんとすばらしい、奥深い山なのでしょう。…(この文はMさんの書いたままを掲載しています)
Mさんの感動とは少し趣を変えて俳句を作ってみた。これが、いつもの私である。
・草紅葉白き山道一人行く (三浦奨)
◇◇ クマ「岐阜・乗鞍岳、9人重軽傷」ということ(その4)◇◇
(承前)
「『クマ』が人を襲う」と書くと、「クマ」の行動目的が「人を襲う」ことにあるように受け取られかねない。
「クマ」は最初から人を襲うために、「ひだ丹生川乗鞍バスターミナル」にやってきたのではない。もちろん、「人を餌にするため」に来たのでもない。「餌」にするのであれば、倒したらとどめを刺して「食えば」いいはずだが、それをしていない。
「クマ」は突進して、人を倒して飛びかかっているだけである。「捕食のため」であれば1人だけが目標になり、「人1人」を襲うことで十分だろう。
だが、次々と目の前にいる人に、突進して倒し、引っ掻いては、次へと移っていくという行動を取っている。この「クマ」は「人食いクマ」ではない。
新聞情報からの顛末を、今一度整理してみよう…
「クマは最初、ターミナル近くの魔王岳の登山道入り口で観光客を襲い、救助しようとした乗鞍環境パトロール隊員や旅館関係者にも、登山道や駐車場で馬乗りになるなどした。さらに、クマはレストランなどが入る建物に入り、観光客らを次々と襲ったが、ターミナル従業員が消火器を噴射して土産物コーナーに追い込み、シャッターを下ろして閉じ込めた。その後、観光客が避難した後にシャッターのすき間から猟友会員3人が射殺した。」…となる。
「クマ」は空腹でなければ、捕食物を襲わない。満ち足りて、安心していると、獣は人に向かってこないものだ。
だが、この顛末から見えてくることは、「クマ」が一方的に「人を襲う害獣」であるということだ。だが、それは当を得ていない。
私は「クマ」にこのような襲う行為させた何かがあったと考えている。現れた「クマ」に対して、「人が何かをした」のではないか。先に手を出したのではないだろうか。「襲う」という端緒や契機を人が「作った」のではないのだろうか。
(明日に続く)
[連続1000回ブログ書き達成まであと、43回・連続1000日達成まではあと、52日]
写真、左の岩稜が「耳成岩」の南端だ。その下にも「草付き」が広がっている。かなり、赤みがかった「草紅葉」だが、草の種類は同じ「ムツノガリヤス」だ。
つくづく思う。「写真は光の芸術」だということがよく分かる。
この場所の「ムツノガリヤス」は頭上から秋の太陽を斜めに受けている。斜めに受けても、「直射」であることには変わりはない。
ところが、手前の「ムツノガリヤス」は山頂本体に遮られて、「穂先き」の部分だけが日を、辛うじて浴びているのだ。だから、その部分しか見えない。全体としては「逆光」になっている。
しかも、風が茎を含めた全体を小刻みに動かすものだから、その受ける光が乱反射したり、屈折したりで、「焦点」が定まらない。
だから、「細かく」ブレていて、じっと見ると目が「クルクルしてくる」という大変な「写真」になっている。
それにしても、この写真を撮った日はいい天気だった。出来るものなら、この「斜面草原」が日射しの下にある時に写したかったのだ。だが、日が短い秋である。この場所に至るには、どうしても午後になることは免れないのだ。
風の向きは小刻みに変わる。南の耳成岩との鞍部から吹き込んでくるかと思うと、今度は背後の北東から吹き付ける。
そうこうしているうちに、山頂から吹き下ってくる。そして、縦に、横にと、まさに「縦横無尽」だ。
「か細く柔らかい」穂は、ただ翻弄されるに任せている。これが、やがて枯れて、吹き飛ぶであろう「ノガリヤス」秋の一日である。)
◇◇ 草紅葉(くさこうよう)も始まった(その3) ◇◇
先日、岩木山登山に同行した「Mさん」が、昨日の写真の「ノガリヤス」の生える斜面草原と出会った感激をメールで知らせてくれた。皆さんと感激や感動を共有したいので、紹介したい。
…わたしは、ノガリヤス、の、あの黄金の穂波が忘れられませんでした。寂しさと美しさが合体すればああいう風景になるんだとでも言えばいいのでしょうか。あの風景をどうやって言葉で表現すればいいのでしょうか。
今も、厳然と目の前に広がる、あの景色です。忘れられません。ああいう風景の中で死ねるなら、もう死んでも構わん、と、心から思えるような、本当に形容しがたい美しさでした。今回の山行のトピックスです。
大鳴沢源頭もいいですが、わたしには、ノガリヤスが一番でした。
本当に、本当にきれいだった。寂しく、孤独で、美しかった。静かだった。風の音が聞えた。
風のささやきが本当に聞えるようでした。風は、ノガリヤス、を愛している。わたしにはわかりました。彼らは相思相愛だ。わたしは、あの中で、ずっと、何時間でもだまって座っていたかったです。
大鳴沢源頭を最初に見たときにも、かなり感動しました。あの場所の静けさと厳しさが、わたしは好きです。でも、ノガリヤスだ。どうしてもノガリヤスでした。
ノガリヤスは、人間は、死ぬときはひとりだと知っています。あの雰囲気は、そうとしか思えん。そして、どんな逆境にあっても、知る人ぞ知るというか、温かい目でじっとあなたを見ている人がいる、ということも知っています。
しかし、最後は、人はひとりだ、ということを知っている、そういう雰囲気でした。美しく、静かで、温かい。しかし、孤独な。
わたしは、本当に、あの風景を忘れられません。岩木山というのは、なんとすばらしい、奥深い山なのでしょう。…(この文はMさんの書いたままを掲載しています)
Mさんの感動とは少し趣を変えて俳句を作ってみた。これが、いつもの私である。
・草紅葉白き山道一人行く (三浦奨)
◇◇ クマ「岐阜・乗鞍岳、9人重軽傷」ということ(その4)◇◇
(承前)
「『クマ』が人を襲う」と書くと、「クマ」の行動目的が「人を襲う」ことにあるように受け取られかねない。
「クマ」は最初から人を襲うために、「ひだ丹生川乗鞍バスターミナル」にやってきたのではない。もちろん、「人を餌にするため」に来たのでもない。「餌」にするのであれば、倒したらとどめを刺して「食えば」いいはずだが、それをしていない。
「クマ」は突進して、人を倒して飛びかかっているだけである。「捕食のため」であれば1人だけが目標になり、「人1人」を襲うことで十分だろう。
だが、次々と目の前にいる人に、突進して倒し、引っ掻いては、次へと移っていくという行動を取っている。この「クマ」は「人食いクマ」ではない。
新聞情報からの顛末を、今一度整理してみよう…
「クマは最初、ターミナル近くの魔王岳の登山道入り口で観光客を襲い、救助しようとした乗鞍環境パトロール隊員や旅館関係者にも、登山道や駐車場で馬乗りになるなどした。さらに、クマはレストランなどが入る建物に入り、観光客らを次々と襲ったが、ターミナル従業員が消火器を噴射して土産物コーナーに追い込み、シャッターを下ろして閉じ込めた。その後、観光客が避難した後にシャッターのすき間から猟友会員3人が射殺した。」…となる。
「クマ」は空腹でなければ、捕食物を襲わない。満ち足りて、安心していると、獣は人に向かってこないものだ。
だが、この顛末から見えてくることは、「クマ」が一方的に「人を襲う害獣」であるということだ。だが、それは当を得ていない。
私は「クマ」にこのような襲う行為させた何かがあったと考えている。現れた「クマ」に対して、「人が何かをした」のではないか。先に手を出したのではないだろうか。「襲う」という端緒や契機を人が「作った」のではないのだろうか。
(明日に続く)
[連続1000回ブログ書き達成まであと、43回・連続1000日達成まではあと、52日]