たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

終わりよければ・・・

2016年08月15日 21時31分04秒 | 日記
 雷が鳴っているのに雨が降りそうで降らないおかしな天気。落ち着きません。夜は涼しくなりましたが湿度が高くてムシムシ、ムシムシ。外気と冷房との温度差による体のだるさが来る頃です。電車の中とかスーパーの食料品売り場とかコンビニとか、キンキン寒くってわたしはほんとにダメ。2011年の節電はどこに行ったの?毎年毎年夏がどんどん大変になっていきます。今年はほんとに大変。まだあと一か月ぐらいはきついのかな。秋が待ち遠しいです。

 さてさて、昨日SMAP解散のニュースを知ってから、自分の中でずっと「終わりよければすべてよし」という言葉を反芻しています。いつどこで生まれた言葉なのか知りませんが、誰もが当たり前のように知っている言葉だと思います。SMAPとしがない給与生活者とを比べるべくもありませんが、長い間一生懸命働いてきて、所属する組織に多大なる貢献をしてきたはずなのに、パワハラ、賞味期限切れの使い捨て状態になってしまう終わりをどう受け止めればいいのか。終わり方がどうであろうとそれまでの実績がなくなるわけではありません。でも終わり方が残念過ぎると、終わり方にひきずられてしまい、それまで築き上げた実績がどっかいってしまいます。実績は揺るぎないはずなのに、実績よりも終わり方の方が全面に出てしまいます。もやもやした終わり方は本当に残念。彼らが自分の言葉で語ることは許されないのでしょうか。本音を語ることは許されないのでしょうか。裏できっと大きな大きな利権争いが渦を巻いているんでしょうね。たぶん一月の時にも同じようなことを書いたと思いますが、自分の経験から労使関係、組織の有り様という視点でどうしてもみてしまいます。報道のされ方悪意に満ちていた作為的だったりという感じで、どこまでなにを信じていいのやら・・・。

 テレビを持っていないのでオリンピックのニュースはヤフーで結果を知るのみ。卓球女子団体、三位決定戦は明日ですね。結果はいいので納得のできる試合ができるようにと心から祈ります。自分たちを責める結果にならないようにと心から祈ります。

 お昼休憩が13時半からって、やはり体のリズムがくずれてきつい。明日は11時半からなんですよね。この2時間の時差。なんとかならないものか。あと4か月半。その次がどうかを考えると長いのか短いのか。この仕事自体は長くやることではないです、ほんとに。

 徒然に書きました。
 本文とは全く関係なく、息抜きに6年前の清史郎君のお写真。

2015年2月『地球投五郎宇宙荒事』

2016年08月14日 17時09分52秒 | ミュージカル・舞台・映画


2015年2月19日のブログ記事「元気をもらっています」
http://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/a1bfb22f4730ecf0535b35245c862285

 2月3日から18日まで、六本木のEXシアターで上演された『地球投五郎宇宙荒事』に清史郎君が出演したことを書いていますが、読み返すとわたし、自分が観劇したことには触れていないですね。2月17日(火)、夜の部18時-21時を観劇しました。携帯で撮った劇場内の写真をようやくアップ。フォトチャンネルでも公開しています。よろしかったらご覧ください。


 真冬の雨がしのつく極寒の日でしたが劇場内は熱く盛り上がっていました。スター・ウォーズのパロディ版のような舞台。笑いにあふれていました。歌舞伎って本来こういうものなんでしょうね。荒唐無稽な荒事を魅せる。それでいてどこか人の世の真実が隠し味のようににじみ出ている。拍手喝采しながら観劇できるのは楽しいひとときでした。


 二階のボックス席にあたるような席には演出を手がけた三池監督のお姿。喫煙室付近でもお見かけしました。赤いパンツとサングラスがよくお似合いでした。さすがなオーラ。清史郎君とは2011年公開の映画『忍たま乱太郎』でも一緒でした。二階席正面あたりで小さい子供さんの泣き声がしたのは海老蔵さんのご家族だったみたいです。振り返ればこの頃すでに病との闘いは始まっていたんですね。心静かに応援したいと思います。


 プログロムには歌舞伎役者にまじって清史郎君の名前が。
 二幕でお犬様の着ぐるみの中から現れた与駄役の清史郎君、可愛かったです。舞台の幕をあけるのも、これでおしまい、と幕をひくのも清史郎君の役目。歌舞伎の舞台では通常カーテンコールありませんが、最後に海老蔵さん、獅童さん、清史郎君の三人が客席からの拍手にこたえて登場しました。正座して客席に頭を下げてくれた時与駄の大きな手をくっつけたままで舞台に手をつく姿もまた可愛いかったです。泣き虫与六のあどけなさを残しつつ大人の役者へと凛々しく成長していく姿に出会えたのは幸せでした。わたしは前日労働紛争の調停で強烈な毒にあたって満身創痍のふらふら状態。どんな結末にたどりつくのがわからず、終わりがみえそうだったのにまたみえなくなって極度の緊張感で、ほんとに頭がどうにかなりそうでした。心身をすり減らしながら気力でなんとか生き延びていた日々でした。清史郎君から心のエネルギーをたくさんもらいました。こういう時間がなかったら、こうやって心のエネルギーをチャージする方法をもっていなかったら倒れてしまっていたと思います。チケット代安くありませんでしたが、倒れるよかったです、ほんとに・・・。現実を忘れて逃げ込む場所と時間は必要。

 
 明日は久しぶりに13時半からのお昼休憩。きついことですが、地味に今の自分にできることをやるしかないのだと言い聞かせます。














写真の撮り方がまずいのでわかりにくいですが、歌舞伎メイクの顔になっています。どなたが贈られたのでしょうね。









イルミネーションが贅沢すぎるほどに華やかでした。

.






なんとか一日が終わりました

2016年08月13日 22時03分23秒 | 日記
今日は土曜日ですが出勤。暑いですが、お昼休憩で外に出てみると思ったよりも風が涼しいと感じました。夜になると急に涼しくなっていると感じます。雲の流れもどことなく秋への移ろいを感じます。季節は確実に少しずつ動いていますね。いろいろと強いアクにあたって疲れた一日でした。なんとかやりとおすしかないと思っても、他よりはマシだと思っても、いやはやほんとにうんざりなっちゃいます。わたしなんにも間違えていないどころか、他の方が見落としたところを気がついてよかれと思って対応したことで責任者からわたしが怒られたりとか、また意味不明なことが起こるし、寄せ集めでがたがたとやっているだけなので疲れます。もう流すしかない。明日一日だけ休んだら月曜日ですが、週の半ばに有給休暇を取ることにしているので気持ちはわりと楽です。休みを取らないと土曜出勤明けの5日間フル勤務はほんとに長いです。まだまだあるんですよね。あと4か月半。長いのか、短いのか・・・。ちょっと贅沢ですがデパ地下で買った海鮮丼を美味しくいただきながらこんな可愛い清史郎君の動画をみて癒されました。

https://youtu.be/OHPj9nKhuS4?t=618


 明日も昼間は30度越えの予報。相も変わらず断捨離続行。ブログもまた更新できればいいなと思います。よろしければ引き続きおつきあいください。このようなブログを訪問してくださり、ありがとうございます。

追記

 口先だけで「申し訳ありません」って言うの、もう慣れました。責任者から、同僚から怒られ続けながらの半年間。とにかく謝ればいいだろう、っていう生き延びるための開き直り。卑屈でもなんでもありません。言えばいいだけのこと・・・。失礼しました。

今日は金曜日でした

2016年08月12日 21時11分27秒 | 日記
 明日も出勤なので、朝わたしの頭の中は完全に木曜日になっていました。金曜日は紙ごみの回収日なので明日の朝出さなきゃと思いながらマンションを出るとごみ収集場所の前にはたくさんの紙ごみが・・・。今日は金曜日でした、と気づいた次第です。部屋に戻るだけの余裕はなく、わたしの部屋の資源ごみの回収は来週の金曜日まで持ち越しとなりました。長い間体にしみついた感覚ってすごいですね。かなり意識しないと変えることはむずかしいです。ましてや毎週同じリズムの繰り返しではないのでやはり大変です。気がつけばあと4か月半。長いなあ。やれるかなあ。ここまできたらやるしかないですけどね。わたしもおばちゃんですが、わたしよりもおばちゃんのわがままな方たちと一緒はほんとに大変。でも聞けばほかの就労場所では人間関係のこじれにより、就労開始から一カ月余りで辞める人が出たりしているそうなのでわたしの環境はまだマシみたいです。そもそも無理のある矛盾だらけのやり方なのでそういうケースが出るのも無理はないなあと思います。わたしはまだマシ。次へとつながる道があることを心から願うばかりです。

 朝は曇り空。お昼に外に出ると青空と雲。夏の入道雲じゃない雲。すぐ近くの神社で見上げながら春のプリンス・エドワード島で高い空を見上げたことを思い出しました。夕方業務が終わって外に出た時も青空。最寄り駅まで帰ってきて外に出るとなんとなく雨が降りそうな曇り空。夜になって雨の音。それでもって明日はまた30度超え。エリザベート上演中の福岡は36度の予想。急な雷だったりゲリラ豪雨だったり。地球が怒っているのではないかと心配です。明日はなんとか一日が無事に終わっていくことを願うばかりです。

 今日は鎮魂の日・・・。


熊沢誠『女性労働と企業社会』より(2)

2016年08月12日 09時57分28秒 | 本あれこれ
「あるOLの退職

 一九七年三月、高村由美(仮名)は高校を卒業して住友金属工業に入社し、約三年の勤務ののち、退社した。「より高度な課題に挑戦しやりとげ、自分の成長を実感する・・・喜び」が、「一日の大半を過ごす職場生活の中に・・・全くなかった」からだ。同期の新入女性社員は高卒四人、他は短大、大学卒の計二三人。彼女は二、三週間、電話の応対、パソコン使用、製造所への一日見学などの研修を受けた後、「中長期の経営計画や技術開発計画の立案、各製造所から申請された設備投資や遊休設備の廃却の承認、そして承認された各工事の予算面からの進捗状況の管理など」を業務とする「 管理部企業課」に配属される。しかし、高村自身の仕事は、各工事の「支出予算の半期ごとの集計、部長秘書、ワープロによる文書作成やコピーなどの男性の補助業務、お茶汲みなどの雑務」だった。

もっとも当時は円高不況のなか、資産のスリム化をめざす遊休設備の廃却の申請が例外的に多く、男性の担当者だけでは業務をこなせないところから、高村も入社一年くらいは、一週間に三―四件ほど設備廃却の起案を書いている。それは「私が在職中一番やりがいを感じた仕事だった」 。しかし同時に高村は、この仕事がよくこなすに必要なさまざまな設備の構造や役割に関する研修をOLはまつたぐ受けるこどがなかったことに気づかされる。その知識を会得させる懇切な指導もなく、わからないことにぶつかると、それまでやってきた起案は男性の担当者にまわされてしまう・・・。こうした焦立ちのうちに例外的な時期は終り、高村の日常の仕事 はふたたび、頼まれた文章のワープロ、コピー、フアイル、出張手続き、勤怠管理、会議の準備や後かたづけなど、補助業務と雑務に限定されるのである。「かなり年配の女性たち」もふくめて、能力や意欲にかかわらず、このようにかたい枠で区切られた補助業務・雑務を笑顔でこなすことが女性社員に求められる役割であった。

 電話番号の変更のとき、高村は電話機に各製造所の番号を記した新しいシールを貼る仕事を命じられる。彼女は、社員のなかには朝、非常に早くから電話で仕事をする人もいることを考えて、当日の朝に各自で貼ってもらおうと前日、各自にシールを配布する。その合理的な措置に対して、課長は「 これ(シール)を自分たち(男性社員)に貼れ、と言うのか? 君が貼らん か!」と激怒したものだ。「たかがシール 」である。しかし男社会、鉄鋼会社の男性課長には、されどシールだったのだ。

やりがいのない仕事への緊縛だけでなく、収入も低かった。学歴差別とその年の「一時帰休制」の影響があったかもしれないが、手取り賃金も最初の年は一0万円未満、昇給は年二〇〇〇-三〇〇〇円程度.それは「貧しい家庭に育」ち、「生活基盤を確立することの重要性を人一倍実感してき」た高村には、苦笑してすませられない水準だっ た。その上、たとえば宴会ではOLはばらばらに男性、とりわけ部長や課長の横に座るよう強制されるといった「セクハラ的常識」もいやだった。やはり男社会の労働組合が主催する新入社員歓迎会では、各自が口につまようじをくわえ(組合役員の男性もまじえて二列に並び、「各列毎に輪ゴムをつまようじからつまようじに渡してリレーする」ゲームも行われた。「おぞましい 」と高村は書いている。

長く勤めても仕事内容や賃金がさして 改善されるわけではないと悟ったOLたちの対応は、実にさまざまであると高付は言う。同期入社の女性のなかには退社してスチュワーデスに転職する人、また先輩のなかにはアメリカに留学する人もあらわれる。会社に残る人の なかには、「仕事で能力を発揮する」ことを諦めて 結婚・ 出産退職を待つ人もあった。はじめから結婚・ 出産退職を決めていたというよりは、そう考えるよう職場の体験が促したのだ。ストレスから過食になり、その後、拒食症になった女性もいた。「 退職する前の私も・・・出勤すると倦怠感と気分の悪さに 襲われ、帰宅するため会社を出るとスッキリするという毎日」だった。こうして 高村は、入社四年日に入るとすぐ退職を決意するに至る (以上、住友金属裁判 陳述書二〇〇〇)。」


(熊沢誠著『女性労働と企業社会』第二章企業社会のジェンダー状況_五つのライフヒストリー、2000年10月20日、岩波新書発行、31-34頁より引用しています。)


ネットを検索したらこんなウエブサイトが。
住友金属男女差別裁判勝たせる会のホームページ
www.k2.dion.ne.jp/~sumikins



女性労働と企業社会 (岩波新書)
クリエーター情報なし
岩波書店

「大草原の小さな家」への旅_ミネソタ州ウォルナット・グローヴ(博物館より)(5)

2016年08月11日 15時07分03秒 | 「大草原の小さな家」への旅
ローラのとうさん。イケメンですね。



「その日の夕方、父さんは、外仕事をするのにいつもより早く出ていき、ジャックもとうさんのうしろにぴったりくっついていきました。ジャックは、二度ととうさんから目をはなすまいと、思いつめてでもいるようでした。

 やがて、とうさんもジャックも、雪にまみれて寒そうにもどってきました。とうさんはトントンと足踏みしてブーツの雪をはらい、古い外套と帽子を、よせかけ部屋の扉のわきの釘にかけました。「また風が出てきた。夜が明ける前に、また吹雪がくるぞ」とうさんはいいます。

「あなたがこうして家においでなら、チャールズ、どんなにひどい吹雪になろうと平気ですよ絵」かあさんはいいました。

 ジャックは満足げに腹ばいになり、とうさんはストーブの前にすわり、手をあたためていました。
「ローラ、ヴァイオリンを持ってきてくれたら、何か弾いてあげよう」

  ****

 外では、風の音が高くはげしくなっていました。窓ガラスに、雪がシャシャシャーッとたたきつけています。けれど、ランプの灯に照らされたあたたかい家のなかでは、とうさんのヴァイオリンが歌っているのです。メアリイがテーブルに食器をならべていくと、お皿がかわいい音をカチャカチャたてます。キャリーはゆり椅子にすわってゆらゆらゆすり、かあさんは、テーブルとストーブの間を、しずかに行ったりきたりしていました。テーブルのまんなかに、かあさんは、牛乳わかしの鍋いっぱいの、おいしそうな茶色に仕上がった天火仕立ての豆料理、ベイクド・ビーンズをおき、こんどは四角い焼き皿いっぱいの、金色のトウモロコシパンを天火から出しました。たっぷり油のはいった茶色のにおいと、あまい金色のにおいが、からみあってたちのぼり、あたりにひろがりました。
 
 とうさんのヴァイオリンはわらいながら歌います。

(ローラ・インガルス・ワイルダー作、恩地美保子訳『プラム・クリークの土手で』_41章クリスマス・イヴ、2002年福音館書店発行より引用しています。)



以前にも載せていますが挿絵の原画。美しいです。



以前にも載せていますが、ローラの裁縫箱。



ローラが作ったパッチワークキルト。




ローラが使っていた食器。



太りました

2016年08月10日 22時23分46秒 | 日記
 今日の午前中、職場で健康診断がありました。健康診断は毎回採決が一番緊張します。数年前、採血の後血の気がひいてしまいくらくらとなったことがあります。それ以来、採血は横になってやってもらうにしています。今日も過去に具合が悪くなった経験があることを申し出て、横になって採血してもらいましたが、案の定終わった後血の気がひいて顔色が悪くなってしまったようです。健診センターの方が心配してくれましたがしばらく休んでお昼もしっかりといただいたら回復しました。

 振り返ってみると、ここ10年ほど前職の会社で完全オーバーワークの二人分労働をこなしながら、通信教育で大学を卒業し、その後夜間カウンセリングスクールに通い、その後精神保健福祉士の国家試験の勉強をして、と仕事も勉強も頑張り続けていたら、気がついた時には体重が40キロを切っていました。2時に就寝して7時に起床し出勤する日々。健康診断の度に39キロ前後を推移し、やせすぎと診断書に書かれ続けてきました。この身がすり減っていくような毎日を送っていました。二年前の3月に会社(名目上は派遣先)から使い捨て同然のモノ扱いを受けたので損害賠償を求めたら闘いとなってしまい、さらにさらに心身をすり減らしてしまうこととなりました。これまでの人生の中で経験したことがない極度の緊張感の日々を過ごすうちに、二年前の今頃はとうとう体重が38キロを切ってしまいました。気力で生きる日々でした。会社に責任を認めさせることができないまま、最後はズタズタになり気力が尽き果ててどうにも身動きのとれなくなった自分がいました。前職の会社は心身共に本当に私をすり減らしました。

 今日は二年前から比べるとなんと5キロも体重が増えていました。ずたずたにすり減った日々のあったことがだんだんとうそのように自分の中から遠ざかりつつあることを実感しています。朝が早くなったので夜更かしすることができなくなったのも大きいかもしれません。あのまま前職の会社で働き続けていたら体をこわしていた可能性有。いつか終わりは訪れるべきだったのだと冷静に振り返ってみて思います。二年前の今頃は再び働く自分の姿を全く想像することができませんでした。それから二年。想定外の接客業、むずかしい責任者等々、ずたずたにすり減って自分が続けられるとは思えないような要因だらけですが、なんとか半年間続けることができました。仕事自体は面白くないので、まだあと5か月もあることを思うとうんざりですが、この仕事をしなかったら知りえなかったこともたくさんあって色々と勉強にはなるので、ここまできたら最後までやるしかないと思っています。

 社会から孤立したまま怒りと悔しさのマグマだけが吹き溜まり自分で自分を持て余してしまっていた日々からここまで回復することができました。元のわたしに戻ったのではなく、はからずもそれまで知らなかった多くのことを知った新しいわたし。えらいですね。自分で自分をほめてあげます。そして、このまま前職の会社から使い捨てられたわたしだけで終わりたくありません。一年前ある方が言ってくださった、「会社は無傷で逃げ切ったようにみえてあなたが思っているよりも傷を負っているはず、ただ残念ながらあなたはそれを知ることができないだけ。きっとこれからどこかでだれかのためになっていくはず」という言葉をを思い出します。会社ときたない金でわたしを誹謗中傷した弁護士に対するわたしの最大の復讐はわたしが元気でいることなんだと思います。わたしが生き生きと過ごしていることなんだと思います。日本という国にあまり希望をもてませんが、それでも数々の苦労の経験値が無駄ではなかったと思えるような、そんな道が自分の前に開けてくることを信じたいです。

 There was always the bend in the road!

「道には、いつも曲がり角があり、その向こうには新しい世界が広がっているのだ!」

  (L・M・モンゴメリ、松本侑子訳『赤毛のアン』最終章より)

熊沢誠『女性労働と企業社会』より(1)

2016年08月10日 09時21分48秒 | 本あれこれ
「性差別の大企業に抗して

  一九六八年、矢谷康子は大阪府の寝屋川高校を優秀な成績で卒業し、地元のトップ企業、住友化学工業に就職した。家庭の事情で大学進学は考えなかった。以来三二年、そこで働き続けている。
 
  二種採用(高卒女子)、職分一級(一般職務)の矢谷が、一週間ほどの接遇関係の訓練後についた仕事は計数課のキーバンチャーである。ビアノが弾けるため平均より三倍近くバンチが速かった彼女は、決算期には残業も重ねて懸命に働いた。この高密度の定型労働は、しかし約一年後には、ひどい手先の痛み、震え、しびれ、背中や首のこわばりと凝り、身体全体の冷え・・・といった症状を失谷にもたらす。この頸肩腕症候群は、計数部の、ついで物流部門の事務担当に移ってからも、環境変化のもたらすストレスのゆえにむしろ悪化し、そこにメンタルな脱力感さえ加わっ た。一九七二年、この病気は労働基準監督著に申請されてすぐに労働災害と認定される。しかしそこに至るまで、会社はこれを私病扱いとし、上司は、一 種の「リハビリ勤務」のなかで落ち込んでいる彼女に「そんな病気もち」とわかっていたらこの部局に「 もらわなかった」ともらし、また留守宅をたずねては母親に娘の退職を勧めたものである。

  矢谷の二〇代から三〇代前半は病気と闘いながら勤務する日々だった。しかしそんな彼女にも出会いがあつて、七二年には結婚する。上司はここでも退職を勧めた。だが、会社のそれまでの対応に不信を募らせていた矢谷はこれを拒み、「会社で四人目のミセス」になる。七七年、子供が生れた。それ以降、執拗だった頸腕の症状が徐々に軽くなってゆく。そしてこのころからゆつくりと、庶民的な明るさと率直さをもつ女性労働者像が立上ってくるのである。 七〇年当時、矢谷が働いていた計数部事務部門では、男性がシステム作成やプログラミング、 女性はコンピュータから打ち出された書類の発送と、職務がはっきり区別されていた。しかし 配転先の物流部門では、仕事のなかみはさすがに勤続とともに徐々に高度化する。彼女は倉庫章の保管料、入出庫料、トラック運賃などの支払い、料金のチェック、物流事故の処理、輸送費 や輸送量の統計表作成、倉庫品の受払管理、年に一 度の棚卸などに携わるようになった。九四年ごろからは物流予算の作成も職務に加わっている。

 これらの職務のなかには、ふつうはマニュアルに従えば大過なくできる定型作業も含まれよう。しかし、それらのなかにはまた、多種多様な物品に対する知識、生じた状態に関する適否の判断力、コストについての細やかな配慮などの必要な、仕事熱心なヴェテランのみがよくこなせるような作業も数多い。元気になってからの矢谷には、実際そのようにしかるべく働いてきたという自負がある。けれども会社は、どんなに人事制度が変っても、またどれほど経験を積んで物流業務をより望ましくできるようになっても、六八年の二種採用者(高卒女子) 矢谷のする仕事はどこまでも、もっぱら男性のする「 企画開発職・専門職」とは峻別された「主務職・基幹職」(現行制度名) にすぎないと低く格付け、昇格を認めなかった。そればかりか性別職務分離の観念にとらわれた会社は、上司の口を通して、もっとがんばりたいと言う矢谷にくりかえし冷水をあびせる。

  OLにもチャレンジカード(自己申告書)が配られるようになった九一 年のころから、矢谷は企画開発職・専門職への転換の推薦とテストを受けたいとくりかえし申し出ている。均等法の時代である。「希望に燃えて・・・カードにあれもしたい、こういう仕事もしたいと記入し」た。それに対する上司の「転換の推薦」はできないとする理由はたとえば次のとおりである-あなたは男性と違って「物流の合理化」といった「結果を出していない 」「 女性に(実績の上がるような)仕事をしてもらおうとは考えていない 」。「 目立つ 仕事ばかり(?)してもらっては困る。女性は銃後の守りに徹してくれればいい。上司が例示した「具体的な実績」を果たすべく、 矢谷は九四年のころ、危険物乙種第4種消防法のテストを受けて合格し、また現在も各事業所で使われている詳細な物流マニュアも作成している。それでも事態は変らなかった。

  矢谷が転換の推薦を受けられなかった理由のひとつ に、あるいは残業に対する彼女の対応があったかもしれない 。彼女は、それは上司も認めるように仕事量も多く、また定刻に帰宅しても不都合が生じないような措置も怠らなかったが、家庭をもつ働く女性としては当然のこととしてできるだけ残業は避けるようにしている。だが、会社はそれを「 協働力」の 不足とみる。「人間というのは九時から五時間五分という時間内で見るわけではない 。トータルで考えなければならない」というわけだ。日本企業特有の(生活態度としての能力)(熊沢一九九七 )の評価が、ここにも顔をのぞかせている。

 一九九四年、矢谷康子は、このようにして生れる昇格と賃金の女性差別を告発する闘いに、同じような差別に憤る同社の、住友系他社の、あるいは商社のヴェテラン事務職の人びととと もに入っててゆく。国連の人権委員会へも日本の女性の状況を伝えるカウンターレポートを携えて赴き、均等法人条違反の調停申請のため労働省婦人少年室も訪れた。そして翌年には、先輩の石田絹子、有森洋子とともに、在職しながら住友化学の性差別を告発する裁判の原告となる。 広く注目されている裁判闘争に矢谷を踏み込ませた。これはその背景の職場体験である( 住友化学裁判陳述書ニ000、宮地一九九六)。」


(熊沢誠著『女性労働と企業社会』第二章企業社会のジェンダー状況_五つのライフヒストリー、2000年10月20日、岩波新書発行、37-41頁より引用しています。)

**********************

 卒業論文の参考文献の中の一冊。10年余り前にこの本を読んだ時には理解できずに読み飛ばしていた箇所。はからずも労働紛争を経験することとなった今なら、何が書かれているのかよくわかります。わたしが”会社”で働く人に戻ることはもうないでしょう。使い勝手が良くて職場の華を求める会社にとって年齢でアウトだし、こちらからお断り。今の経験が、今ままでの経験値が無駄ではなかったと思えるような仕事と出会うことはできるでしょうか。社会の仕組み、組織の有り様の狭間でで矛盾にさらされ、怒りをおぼえて、心の中でおきるせめぎあいを向き合いながら働かなければならないのはどこに行っても同じ。その中で折り合いをつけながらやっていけそうな場所はあるでしょうか。

女性労働と企業社会 (岩波新書)
熊沢 誠
岩波書店

東宝初演『エリザベート』_一路さんインタビュー記事

2016年08月09日 15時44分52秒 | ミュージカル・舞台・映画
 「宝塚歌劇雪組の男役トップスターとしての 舞台生活に、「 エリザベート」のトート役でピ リオドを打った一 路真輝。退団して四年になるが、三本目の主演ミュージカルで、思い出の作品のタイトルロールを演じることになった。女優としてのステップアツプを目指す舞台の初日が開いた心境を聞いた。 *

* ――初日はどんな気分で迎えられましたか。

 これまでの舞台生活の中で、一番ホットな状態でした。宝塚で初めて新人公演の主役を いただいた、研二(舞台二年目)のとき以来 というくらい、周りが見えなくて。やはりこ の作品への思い入れが強すぎたんでしょうね。

――ウィーンには八回も行かれていますし、 作品も含めて知りつくしている点は、役作りのポイントになりましたか。

 舞台という空間は、どんなに緻密に作って あっても、現実にはならない。でも、演じていて、抽象的なセットのなかで、実際にエリザベート皇后が使 っていた家具や部屋の香り、ルドルフが葬られた霊廟の冷たさが甦る。これだけ目や肌で感じられる作品もないですから、自分のなかで映像として見えるものを表現したい一心でした。

――歌には新たな挑戦があったようですが。

  宝塚時代、男役としての歌に関しては、自分流ができていて、トートを演じたときもそ れほど歌稽古をした記憶がないんです。女優になってからも徐々にキーを上げていました から、コンサートも含めて、ある程度男役から女性の歌い方にチエンジできていたつもり でした。でも、この作品の歌は、そういうレベルの技術では歌いこなせるものではないん です。すべて発声法から作り直すということ で、ゴスペルシンガーの歌い方やデイーバと 呼ばれる人たちの発声法を研究して、自分が喉のどこにあてればそんな声が出るのか、こ の二年間はそれの繰り返しでした。

  四月に稽吉に入ってからも、あまりにも課題がありすぎて、早出、居残りで作っていくなかで、一回どうしようもなく落ち込んでしまったんです。寝ても覚めても曲が頭のなかを回っている。声が出なくて泣いている夢を見る。自分は歌えない。五月に入ったころは、初日が開かないんじやないか、というところまできていました。

  でも、そのうちに、自分が作ってきた歌い方が使えるんではないか、というところがポツポツと見えてきて。人間、人生に無駄は ないと実感しました。もちろん発声そのものは変えていますが、一度作ってあるからこそ出せる低音を使うことが色の変化になって、年を重ねていく雰囲気が出せました。幕が開いてからどんどん自由に、自分のものになりつつありますし、ひとつひとつの歌に発見することがいつぱいあって、これからもっと違うものが出てくるのではないかと楽しみです。

――エリザベート皇后の人生に共感しますか。

  女性はしっかり立っていないと、いろんなものに巻き込まれてどうにでもなってしまうものだと思うんです。わたし自身も人に甘えず、自分がしっかり歩いていくタイプですか ら、そういう点は共感します。ある意味では宝塚も閉鎖された世界で、いろんな人がいる。
そのなかで自分も頑張らなきゃ、という気持ちでやっていた時期もあったり。今回のよう に、皇室という未知の世界の人生でも、一瞬何か自分と結びつけられるものがあるんです。 歌詞で「 居所がない。自分は自分」と歌うところなどは、確かにオーバーラップする状況もあったし、逆に全く感じたことがない種類の悩みは、演じるおもしろさを感じます。

―― 「 夜のボ‥卜」のナンパーで、フランツは「 多すぎる」と歌い、エリザベートは「少 なすぎる」とこたえる。すれ違いが象徴的ですね。

 根本的に考え方が違う二人なんです。最初の出会いからフランツは、懇々と自分の幸せを考えられない立場だと言いきかせている。でもそれがエリザベートの耳に入っていない。 フランツは感情を抑えるように育てられている。エリザベートは自由に感情を出すように 育てられている。その二人が一 緒に歩もうとした時点ですべてがずれ始めているんです。 だからフランツには(エリザベートが)なにもかもを求めているように思えるし、エリザベート自身はほんのちょっとしか言っていないという気持ちが強い。

――トートとの関わりはどう演じていますか。

 宝塚版のようにカップルとしては成立しない。エリザベートにとって、トートは自分が安らげる道具のようなものなんです。つらくなったときにフラフラッとその魅力の方に寄ってみる。最終的にエリザベートは死に向かって自分で歩いていく。その一扉を開いてくれる人という感覚でしょうか。トートがダブルキャストで、色が全然違いますから、その日どなたが演じるのか知らない状態で舞台で出会うと、とでも新鮮です。

――女の一生を演じるのが夢だったんですね。

 こんなに早く、しかもこんなに素晴らしい 作品で実現するとは思いませんでした。 一幕 は十四歳からですから、けつこう作り込んでいます。悩める姿、嫁いだ王妃の姿をかなり 高度な技術が要求されるナンバーでつづって いるので、役作りそのものより、歌への意識 が強いですね。二幕に入ると実年齢に近いところから始まりますし、芝居で歌える歌になってきます。でも、いままでの作品では、二幕のエリザベートは叩きのめされているのに独自シーンが全然なかったんです。今回の上演のために作られた新曲「 夢とうつつの狭間に」が入って救われました。浮き立つ曲だと思います。

――エリザベートを演じている手ごたえは。
 
 私は女優として、二〇〇〇年は勝負の年だなと思っていたんです。宝塚をやめて四年。 どんな色を出していけるのか。それが「エリザベート」で挑めるとは思っていませんでした。「王様と私」「南太平洋」と作品には恵まれていますけれど、代々演じてこられた方の塗 り直しという感覚があったのは事実で、今回は自分が作るという意気込みがありました。 これほどの役を今度いつできるかわからないですから、正直なところ、毎日演じていて怖 いんです。一日一日がものすごく大切です。 いい時期に巡り合えたという思いと、こんな に早く巡り合ってよかったのかという二つの思いが入り交じっています。

  でも、新しい自分の歌い方を見つけられましたから、これまでの枷が取れました。女優っていうのは不思議ですね。タイに家庭教師に行ったり、皇室に嫁ぐ役を演じたり。普通の人の何十倍も楽しい疑似体験をさせてもらえる。やっぱり快感です。もちろん楽しいだけじゃなくて、私生活をつぶしてしまうほど、悩んでしまう時期もありますけど、それを乗り越えた後の達成感は喜びですし、その繰り返しで二十年近く生きてきましたから、もう女優という仕事は完全に私の一部です。

――八月末の千秋楽に向けての意気込みは。

「エリザベート」という作品には、不思議な魔力があるんです。演じる人は、その魔力のおかげで演じることができる。ご覧になる方にもその魅力はきっと感じて帰っていただけ る作品だと思います。この空気を一緒に感じていただきたいです。私は過去も振り返らな いし、先のこともあまり考えない。いまをすごく考えるんです。与えられたものを必死で やっていく。それだけです。」

(写真、文章ともにアサヒグラフ2000年7月号より引用しています。)

 
 東宝初演『エリザベート』。2000年6月6日から8月30日まで帝国劇場にて上演。ダブルキャストはトートのみ。一路さんがシングルでシシィを演じきったのは、ダブルキャストが当然のようになった今考えるとほんとにすごい。当時、シシィの一生を舞台で演じきれる人は他に考えられなかったですね。宝塚初演雪組の『エリザベート』なくして今の日本の『エリザベート』はなかったし、一路さんなくして今の日本の『エリザベート』はなかったのだとあらためて思います。どちらも観劇していることはわたしの心の宝物。

 一路さんのインタビュー記事を、16年が過ぎた今だからフムフムと理解できるところがあります。『エリザベート』は奥の深い作品。観客の一人一人が背負っている個人の歴史の背景によっても、その時の心情によってもみえ方が違ってくるし、心に響いてくる歌も違ってくる。もちろん役者さんたちも毎日、毎回違います。時代が変わり、この作品をジェンダーという視点からもっともっと考えてもいんじゃないかとしきりに思うこの頃です。「私だけに」がもつ意味、わたしたちに訴えかけてくるものが16年の歳月の中で変わってきました。去年の観劇日記でこんなこと書いています。

 2015年7月25日のブログ記事、『エリザベート』四度目の観劇_生きることは切なく
http://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/27c97e12a896aecfbbe516770f4fd8e

 よく読んでくださっていますが、自分でも読み返すのがとても好きな記事です。宝塚版と違って一人で旅立っていくシシィにトートが寄り添い幕が下りる東宝版のラストをどうとらえるかも人それぞれ。想像の余地がたくさんある、ふり幅の大きい重厚な作品。これからも繰り返し上演され続けていくとことでしょう。願わくは一路さんのシシィもまた観たい。無理な願いですが・・・。

蒸し暑い月曜日の夜・・・

2016年08月08日 21時22分26秒 | 日記
 昨日は立秋でしたが暑いですね。明日は都心も35度越えの予想。久しぶりに土曜が出勤になるため、明日は振替でお休み。出かけてお店に入ると冷房の効きすぎで具合が悪くなってきます。急に体が冷えるのがだめで外気との温度差がすごくこたえます。昨日も一昨日も昼間はエアコンつけずに部屋で過ごしましたが、明日は温度設定を高くしてエアコンの中で過ごしましょうか。断捨離は部屋にいないとできないし・・・。

 このようなブログへの訪問、ありがとうございます。もう一つのブログも更新したいですが、なんとか年末までの契約があるのを乗り切っていこうとしている今、国から届いた笑うしかないぐらい、あまりにも会社寄りの文書をまともに読むことはできそうにありません。まともに読むと人間不信におちいり、何を信じればいいのか本当にわからなくなってしまいそうです。わたしを握りすつぶすためにまたきたない金を使って裏で手を回させたのかとか、普通に生活している一般人にはとうていはかり知れないテレビドラマみたいな闇の世界が裏にあるんじゃないかって想像してしまいます。テレビドラマみたいですが、日本という国の現実の一端。まあ普通はこんな経験しないので知りえないことですけどね・・・。そんなわけで誰も待っていないと思いますが、もう一つのブログの更新、もう少しお待ちください。

 博多座エリザ。始まりました。みなさん、ますます深化しているみたいなので行きたいですが遠いよなあ。四国と九州、まだ行ったことありません。シングルでフランツを演じる田代さん、健闘を祈ります。2000年の初演は、ダブルキャストはトートのみ。シシィは一路さん、ルドフルは井上さん、フランツは鈴木さん、ゾフィは初風さん。今はダブルキャストのプリンシバルがみんなシングルキャストでした。ルキーニは12年間高島さんがシングルで演じ続けました。すごいですね。一路さんがエリザの舞台に帰ってくることはないかな、とかふと思ったりするこの頃。とりとめのないことをつぶやく、蒸し暑い夜でした。失礼しました。