たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

太りました

2016年08月10日 22時23分46秒 | 日記
 今日の午前中、職場で健康診断がありました。健康診断は毎回採決が一番緊張します。数年前、採血の後血の気がひいてしまいくらくらとなったことがあります。それ以来、採血は横になってやってもらうにしています。今日も過去に具合が悪くなった経験があることを申し出て、横になって採血してもらいましたが、案の定終わった後血の気がひいて顔色が悪くなってしまったようです。健診センターの方が心配してくれましたがしばらく休んでお昼もしっかりといただいたら回復しました。

 振り返ってみると、ここ10年ほど前職の会社で完全オーバーワークの二人分労働をこなしながら、通信教育で大学を卒業し、その後夜間カウンセリングスクールに通い、その後精神保健福祉士の国家試験の勉強をして、と仕事も勉強も頑張り続けていたら、気がついた時には体重が40キロを切っていました。2時に就寝して7時に起床し出勤する日々。健康診断の度に39キロ前後を推移し、やせすぎと診断書に書かれ続けてきました。この身がすり減っていくような毎日を送っていました。二年前の3月に会社(名目上は派遣先)から使い捨て同然のモノ扱いを受けたので損害賠償を求めたら闘いとなってしまい、さらにさらに心身をすり減らしてしまうこととなりました。これまでの人生の中で経験したことがない極度の緊張感の日々を過ごすうちに、二年前の今頃はとうとう体重が38キロを切ってしまいました。気力で生きる日々でした。会社に責任を認めさせることができないまま、最後はズタズタになり気力が尽き果ててどうにも身動きのとれなくなった自分がいました。前職の会社は心身共に本当に私をすり減らしました。

 今日は二年前から比べるとなんと5キロも体重が増えていました。ずたずたにすり減った日々のあったことがだんだんとうそのように自分の中から遠ざかりつつあることを実感しています。朝が早くなったので夜更かしすることができなくなったのも大きいかもしれません。あのまま前職の会社で働き続けていたら体をこわしていた可能性有。いつか終わりは訪れるべきだったのだと冷静に振り返ってみて思います。二年前の今頃は再び働く自分の姿を全く想像することができませんでした。それから二年。想定外の接客業、むずかしい責任者等々、ずたずたにすり減って自分が続けられるとは思えないような要因だらけですが、なんとか半年間続けることができました。仕事自体は面白くないので、まだあと5か月もあることを思うとうんざりですが、この仕事をしなかったら知りえなかったこともたくさんあって色々と勉強にはなるので、ここまできたら最後までやるしかないと思っています。

 社会から孤立したまま怒りと悔しさのマグマだけが吹き溜まり自分で自分を持て余してしまっていた日々からここまで回復することができました。元のわたしに戻ったのではなく、はからずもそれまで知らなかった多くのことを知った新しいわたし。えらいですね。自分で自分をほめてあげます。そして、このまま前職の会社から使い捨てられたわたしだけで終わりたくありません。一年前ある方が言ってくださった、「会社は無傷で逃げ切ったようにみえてあなたが思っているよりも傷を負っているはず、ただ残念ながらあなたはそれを知ることができないだけ。きっとこれからどこかでだれかのためになっていくはず」という言葉をを思い出します。会社ときたない金でわたしを誹謗中傷した弁護士に対するわたしの最大の復讐はわたしが元気でいることなんだと思います。わたしが生き生きと過ごしていることなんだと思います。日本という国にあまり希望をもてませんが、それでも数々の苦労の経験値が無駄ではなかったと思えるような、そんな道が自分の前に開けてくることを信じたいです。

 There was always the bend in the road!

「道には、いつも曲がり角があり、その向こうには新しい世界が広がっているのだ!」

  (L・M・モンゴメリ、松本侑子訳『赤毛のアン』最終章より)

熊沢誠『女性労働と企業社会』より(1)

2016年08月10日 09時21分48秒 | 本あれこれ
「性差別の大企業に抗して

  一九六八年、矢谷康子は大阪府の寝屋川高校を優秀な成績で卒業し、地元のトップ企業、住友化学工業に就職した。家庭の事情で大学進学は考えなかった。以来三二年、そこで働き続けている。
 
  二種採用(高卒女子)、職分一級(一般職務)の矢谷が、一週間ほどの接遇関係の訓練後についた仕事は計数課のキーバンチャーである。ビアノが弾けるため平均より三倍近くバンチが速かった彼女は、決算期には残業も重ねて懸命に働いた。この高密度の定型労働は、しかし約一年後には、ひどい手先の痛み、震え、しびれ、背中や首のこわばりと凝り、身体全体の冷え・・・といった症状を失谷にもたらす。この頸肩腕症候群は、計数部の、ついで物流部門の事務担当に移ってからも、環境変化のもたらすストレスのゆえにむしろ悪化し、そこにメンタルな脱力感さえ加わっ た。一九七二年、この病気は労働基準監督著に申請されてすぐに労働災害と認定される。しかしそこに至るまで、会社はこれを私病扱いとし、上司は、一 種の「リハビリ勤務」のなかで落ち込んでいる彼女に「そんな病気もち」とわかっていたらこの部局に「 もらわなかった」ともらし、また留守宅をたずねては母親に娘の退職を勧めたものである。

  矢谷の二〇代から三〇代前半は病気と闘いながら勤務する日々だった。しかしそんな彼女にも出会いがあつて、七二年には結婚する。上司はここでも退職を勧めた。だが、会社のそれまでの対応に不信を募らせていた矢谷はこれを拒み、「会社で四人目のミセス」になる。七七年、子供が生れた。それ以降、執拗だった頸腕の症状が徐々に軽くなってゆく。そしてこのころからゆつくりと、庶民的な明るさと率直さをもつ女性労働者像が立上ってくるのである。 七〇年当時、矢谷が働いていた計数部事務部門では、男性がシステム作成やプログラミング、 女性はコンピュータから打ち出された書類の発送と、職務がはっきり区別されていた。しかし 配転先の物流部門では、仕事のなかみはさすがに勤続とともに徐々に高度化する。彼女は倉庫章の保管料、入出庫料、トラック運賃などの支払い、料金のチェック、物流事故の処理、輸送費 や輸送量の統計表作成、倉庫品の受払管理、年に一 度の棚卸などに携わるようになった。九四年ごろからは物流予算の作成も職務に加わっている。

 これらの職務のなかには、ふつうはマニュアルに従えば大過なくできる定型作業も含まれよう。しかし、それらのなかにはまた、多種多様な物品に対する知識、生じた状態に関する適否の判断力、コストについての細やかな配慮などの必要な、仕事熱心なヴェテランのみがよくこなせるような作業も数多い。元気になってからの矢谷には、実際そのようにしかるべく働いてきたという自負がある。けれども会社は、どんなに人事制度が変っても、またどれほど経験を積んで物流業務をより望ましくできるようになっても、六八年の二種採用者(高卒女子) 矢谷のする仕事はどこまでも、もっぱら男性のする「 企画開発職・専門職」とは峻別された「主務職・基幹職」(現行制度名) にすぎないと低く格付け、昇格を認めなかった。そればかりか性別職務分離の観念にとらわれた会社は、上司の口を通して、もっとがんばりたいと言う矢谷にくりかえし冷水をあびせる。

  OLにもチャレンジカード(自己申告書)が配られるようになった九一 年のころから、矢谷は企画開発職・専門職への転換の推薦とテストを受けたいとくりかえし申し出ている。均等法の時代である。「希望に燃えて・・・カードにあれもしたい、こういう仕事もしたいと記入し」た。それに対する上司の「転換の推薦」はできないとする理由はたとえば次のとおりである-あなたは男性と違って「物流の合理化」といった「結果を出していない 」「 女性に(実績の上がるような)仕事をしてもらおうとは考えていない 」。「 目立つ 仕事ばかり(?)してもらっては困る。女性は銃後の守りに徹してくれればいい。上司が例示した「具体的な実績」を果たすべく、 矢谷は九四年のころ、危険物乙種第4種消防法のテストを受けて合格し、また現在も各事業所で使われている詳細な物流マニュアも作成している。それでも事態は変らなかった。

  矢谷が転換の推薦を受けられなかった理由のひとつ に、あるいは残業に対する彼女の対応があったかもしれない 。彼女は、それは上司も認めるように仕事量も多く、また定刻に帰宅しても不都合が生じないような措置も怠らなかったが、家庭をもつ働く女性としては当然のこととしてできるだけ残業は避けるようにしている。だが、会社はそれを「 協働力」の 不足とみる。「人間というのは九時から五時間五分という時間内で見るわけではない 。トータルで考えなければならない」というわけだ。日本企業特有の(生活態度としての能力)(熊沢一九九七 )の評価が、ここにも顔をのぞかせている。

 一九九四年、矢谷康子は、このようにして生れる昇格と賃金の女性差別を告発する闘いに、同じような差別に憤る同社の、住友系他社の、あるいは商社のヴェテラン事務職の人びととと もに入っててゆく。国連の人権委員会へも日本の女性の状況を伝えるカウンターレポートを携えて赴き、均等法人条違反の調停申請のため労働省婦人少年室も訪れた。そして翌年には、先輩の石田絹子、有森洋子とともに、在職しながら住友化学の性差別を告発する裁判の原告となる。 広く注目されている裁判闘争に矢谷を踏み込ませた。これはその背景の職場体験である( 住友化学裁判陳述書ニ000、宮地一九九六)。」


(熊沢誠著『女性労働と企業社会』第二章企業社会のジェンダー状況_五つのライフヒストリー、2000年10月20日、岩波新書発行、37-41頁より引用しています。)

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 卒業論文の参考文献の中の一冊。10年余り前にこの本を読んだ時には理解できずに読み飛ばしていた箇所。はからずも労働紛争を経験することとなった今なら、何が書かれているのかよくわかります。わたしが”会社”で働く人に戻ることはもうないでしょう。使い勝手が良くて職場の華を求める会社にとって年齢でアウトだし、こちらからお断り。今の経験が、今ままでの経験値が無駄ではなかったと思えるような仕事と出会うことはできるでしょうか。社会の仕組み、組織の有り様の狭間でで矛盾にさらされ、怒りをおぼえて、心の中でおきるせめぎあいを向き合いながら働かなければならないのはどこに行っても同じ。その中で折り合いをつけながらやっていけそうな場所はあるでしょうか。

女性労働と企業社会 (岩波新書)
熊沢 誠
岩波書店