「宝塚歌劇雪組の男役トップスターとしての 舞台生活に、「 エリザベート」のトート役でピ リオドを打った一 路真輝。退団して四年になるが、三本目の主演ミュージカルで、思い出の作品のタイトルロールを演じることになった。女優としてのステップアツプを目指す舞台の初日が開いた心境を聞いた。 *
* ――初日はどんな気分で迎えられましたか。
これまでの舞台生活の中で、一番ホットな状態でした。宝塚で初めて新人公演の主役を いただいた、研二(舞台二年目)のとき以来 というくらい、周りが見えなくて。やはりこ の作品への思い入れが強すぎたんでしょうね。
――ウィーンには八回も行かれていますし、 作品も含めて知りつくしている点は、役作りのポイントになりましたか。
舞台という空間は、どんなに緻密に作って あっても、現実にはならない。でも、演じていて、抽象的なセットのなかで、実際にエリザベート皇后が使 っていた家具や部屋の香り、ルドルフが葬られた霊廟の冷たさが甦る。これだけ目や肌で感じられる作品もないですから、自分のなかで映像として見えるものを表現したい一心でした。
――歌には新たな挑戦があったようですが。
宝塚時代、男役としての歌に関しては、自分流ができていて、トートを演じたときもそ れほど歌稽古をした記憶がないんです。女優になってからも徐々にキーを上げていました から、コンサートも含めて、ある程度男役から女性の歌い方にチエンジできていたつもり でした。でも、この作品の歌は、そういうレベルの技術では歌いこなせるものではないん です。すべて発声法から作り直すということ で、ゴスペルシンガーの歌い方やデイーバと 呼ばれる人たちの発声法を研究して、自分が喉のどこにあてればそんな声が出るのか、こ の二年間はそれの繰り返しでした。
四月に稽吉に入ってからも、あまりにも課題がありすぎて、早出、居残りで作っていくなかで、一回どうしようもなく落ち込んでしまったんです。寝ても覚めても曲が頭のなかを回っている。声が出なくて泣いている夢を見る。自分は歌えない。五月に入ったころは、初日が開かないんじやないか、というところまできていました。
でも、そのうちに、自分が作ってきた歌い方が使えるんではないか、というところがポツポツと見えてきて。人間、人生に無駄は ないと実感しました。もちろん発声そのものは変えていますが、一度作ってあるからこそ出せる低音を使うことが色の変化になって、年を重ねていく雰囲気が出せました。幕が開いてからどんどん自由に、自分のものになりつつありますし、ひとつひとつの歌に発見することがいつぱいあって、これからもっと違うものが出てくるのではないかと楽しみです。
――エリザベート皇后の人生に共感しますか。
女性はしっかり立っていないと、いろんなものに巻き込まれてどうにでもなってしまうものだと思うんです。わたし自身も人に甘えず、自分がしっかり歩いていくタイプですか ら、そういう点は共感します。ある意味では宝塚も閉鎖された世界で、いろんな人がいる。
そのなかで自分も頑張らなきゃ、という気持ちでやっていた時期もあったり。今回のよう に、皇室という未知の世界の人生でも、一瞬何か自分と結びつけられるものがあるんです。 歌詞で「 居所がない。自分は自分」と歌うところなどは、確かにオーバーラップする状況もあったし、逆に全く感じたことがない種類の悩みは、演じるおもしろさを感じます。
―― 「 夜のボ‥卜」のナンパーで、フランツは「 多すぎる」と歌い、エリザベートは「少 なすぎる」とこたえる。すれ違いが象徴的ですね。
根本的に考え方が違う二人なんです。最初の出会いからフランツは、懇々と自分の幸せを考えられない立場だと言いきかせている。でもそれがエリザベートの耳に入っていない。 フランツは感情を抑えるように育てられている。エリザベートは自由に感情を出すように 育てられている。その二人が一 緒に歩もうとした時点ですべてがずれ始めているんです。 だからフランツには(エリザベートが)なにもかもを求めているように思えるし、エリザベート自身はほんのちょっとしか言っていないという気持ちが強い。
――トートとの関わりはどう演じていますか。
宝塚版のようにカップルとしては成立しない。エリザベートにとって、トートは自分が安らげる道具のようなものなんです。つらくなったときにフラフラッとその魅力の方に寄ってみる。最終的にエリザベートは死に向かって自分で歩いていく。その一扉を開いてくれる人という感覚でしょうか。トートがダブルキャストで、色が全然違いますから、その日どなたが演じるのか知らない状態で舞台で出会うと、とでも新鮮です。
――女の一生を演じるのが夢だったんですね。
こんなに早く、しかもこんなに素晴らしい 作品で実現するとは思いませんでした。 一幕 は十四歳からですから、けつこう作り込んでいます。悩める姿、嫁いだ王妃の姿をかなり 高度な技術が要求されるナンバーでつづって いるので、役作りそのものより、歌への意識 が強いですね。二幕に入ると実年齢に近いところから始まりますし、芝居で歌える歌になってきます。でも、いままでの作品では、二幕のエリザベートは叩きのめされているのに独自シーンが全然なかったんです。今回の上演のために作られた新曲「 夢とうつつの狭間に」が入って救われました。浮き立つ曲だと思います。
――エリザベートを演じている手ごたえは。
私は女優として、二〇〇〇年は勝負の年だなと思っていたんです。宝塚をやめて四年。 どんな色を出していけるのか。それが「エリザベート」で挑めるとは思っていませんでした。「王様と私」「南太平洋」と作品には恵まれていますけれど、代々演じてこられた方の塗 り直しという感覚があったのは事実で、今回は自分が作るという意気込みがありました。 これほどの役を今度いつできるかわからないですから、正直なところ、毎日演じていて怖 いんです。一日一日がものすごく大切です。 いい時期に巡り合えたという思いと、こんな に早く巡り合ってよかったのかという二つの思いが入り交じっています。
でも、新しい自分の歌い方を見つけられましたから、これまでの枷が取れました。女優っていうのは不思議ですね。タイに家庭教師に行ったり、皇室に嫁ぐ役を演じたり。普通の人の何十倍も楽しい疑似体験をさせてもらえる。やっぱり快感です。もちろん楽しいだけじゃなくて、私生活をつぶしてしまうほど、悩んでしまう時期もありますけど、それを乗り越えた後の達成感は喜びですし、その繰り返しで二十年近く生きてきましたから、もう女優という仕事は完全に私の一部です。
――八月末の千秋楽に向けての意気込みは。
「エリザベート」という作品には、不思議な魔力があるんです。演じる人は、その魔力のおかげで演じることができる。ご覧になる方にもその魅力はきっと感じて帰っていただけ る作品だと思います。この空気を一緒に感じていただきたいです。私は過去も振り返らな いし、先のこともあまり考えない。いまをすごく考えるんです。与えられたものを必死で やっていく。それだけです。」
(写真、文章ともにアサヒグラフ2000年7月号より引用しています。)
東宝初演『エリザベート』。2000年6月6日から8月30日まで帝国劇場にて上演。ダブルキャストはトートのみ。一路さんがシングルでシシィを演じきったのは、ダブルキャストが当然のようになった今考えるとほんとにすごい。当時、シシィの一生を舞台で演じきれる人は他に考えられなかったですね。宝塚初演雪組の『エリザベート』なくして今の日本の『エリザベート』はなかったし、一路さんなくして今の日本の『エリザベート』はなかったのだとあらためて思います。どちらも観劇していることはわたしの心の宝物。
一路さんのインタビュー記事を、16年が過ぎた今だからフムフムと理解できるところがあります。『エリザベート』は奥の深い作品。観客の一人一人が背負っている個人の歴史の背景によっても、その時の心情によってもみえ方が違ってくるし、心に響いてくる歌も違ってくる。もちろん役者さんたちも毎日、毎回違います。時代が変わり、この作品をジェンダーという視点からもっともっと考えてもいんじゃないかとしきりに思うこの頃です。「私だけに」がもつ意味、わたしたちに訴えかけてくるものが16年の歳月の中で変わってきました。去年の観劇日記でこんなこと書いています。
2015年7月25日のブログ記事、『エリザベート』四度目の観劇_生きることは切なく
http://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/27c97e12a896aecfbbe516770f4fd8e
よく読んでくださっていますが、自分でも読み返すのがとても好きな記事です。宝塚版と違って一人で旅立っていくシシィにトートが寄り添い幕が下りる東宝版のラストをどうとらえるかも人それぞれ。想像の余地がたくさんある、ふり幅の大きい重厚な作品。これからも繰り返し上演され続けていくとことでしょう。願わくは一路さんのシシィもまた観たい。無理な願いですが・・・。
* ――初日はどんな気分で迎えられましたか。
これまでの舞台生活の中で、一番ホットな状態でした。宝塚で初めて新人公演の主役を いただいた、研二(舞台二年目)のとき以来 というくらい、周りが見えなくて。やはりこ の作品への思い入れが強すぎたんでしょうね。
――ウィーンには八回も行かれていますし、 作品も含めて知りつくしている点は、役作りのポイントになりましたか。
舞台という空間は、どんなに緻密に作って あっても、現実にはならない。でも、演じていて、抽象的なセットのなかで、実際にエリザベート皇后が使 っていた家具や部屋の香り、ルドルフが葬られた霊廟の冷たさが甦る。これだけ目や肌で感じられる作品もないですから、自分のなかで映像として見えるものを表現したい一心でした。
――歌には新たな挑戦があったようですが。
宝塚時代、男役としての歌に関しては、自分流ができていて、トートを演じたときもそ れほど歌稽古をした記憶がないんです。女優になってからも徐々にキーを上げていました から、コンサートも含めて、ある程度男役から女性の歌い方にチエンジできていたつもり でした。でも、この作品の歌は、そういうレベルの技術では歌いこなせるものではないん です。すべて発声法から作り直すということ で、ゴスペルシンガーの歌い方やデイーバと 呼ばれる人たちの発声法を研究して、自分が喉のどこにあてればそんな声が出るのか、こ の二年間はそれの繰り返しでした。
四月に稽吉に入ってからも、あまりにも課題がありすぎて、早出、居残りで作っていくなかで、一回どうしようもなく落ち込んでしまったんです。寝ても覚めても曲が頭のなかを回っている。声が出なくて泣いている夢を見る。自分は歌えない。五月に入ったころは、初日が開かないんじやないか、というところまできていました。
でも、そのうちに、自分が作ってきた歌い方が使えるんではないか、というところがポツポツと見えてきて。人間、人生に無駄は ないと実感しました。もちろん発声そのものは変えていますが、一度作ってあるからこそ出せる低音を使うことが色の変化になって、年を重ねていく雰囲気が出せました。幕が開いてからどんどん自由に、自分のものになりつつありますし、ひとつひとつの歌に発見することがいつぱいあって、これからもっと違うものが出てくるのではないかと楽しみです。
――エリザベート皇后の人生に共感しますか。
女性はしっかり立っていないと、いろんなものに巻き込まれてどうにでもなってしまうものだと思うんです。わたし自身も人に甘えず、自分がしっかり歩いていくタイプですか ら、そういう点は共感します。ある意味では宝塚も閉鎖された世界で、いろんな人がいる。
そのなかで自分も頑張らなきゃ、という気持ちでやっていた時期もあったり。今回のよう に、皇室という未知の世界の人生でも、一瞬何か自分と結びつけられるものがあるんです。 歌詞で「 居所がない。自分は自分」と歌うところなどは、確かにオーバーラップする状況もあったし、逆に全く感じたことがない種類の悩みは、演じるおもしろさを感じます。
―― 「 夜のボ‥卜」のナンパーで、フランツは「 多すぎる」と歌い、エリザベートは「少 なすぎる」とこたえる。すれ違いが象徴的ですね。
根本的に考え方が違う二人なんです。最初の出会いからフランツは、懇々と自分の幸せを考えられない立場だと言いきかせている。でもそれがエリザベートの耳に入っていない。 フランツは感情を抑えるように育てられている。エリザベートは自由に感情を出すように 育てられている。その二人が一 緒に歩もうとした時点ですべてがずれ始めているんです。 だからフランツには(エリザベートが)なにもかもを求めているように思えるし、エリザベート自身はほんのちょっとしか言っていないという気持ちが強い。
――トートとの関わりはどう演じていますか。
宝塚版のようにカップルとしては成立しない。エリザベートにとって、トートは自分が安らげる道具のようなものなんです。つらくなったときにフラフラッとその魅力の方に寄ってみる。最終的にエリザベートは死に向かって自分で歩いていく。その一扉を開いてくれる人という感覚でしょうか。トートがダブルキャストで、色が全然違いますから、その日どなたが演じるのか知らない状態で舞台で出会うと、とでも新鮮です。
――女の一生を演じるのが夢だったんですね。
こんなに早く、しかもこんなに素晴らしい 作品で実現するとは思いませんでした。 一幕 は十四歳からですから、けつこう作り込んでいます。悩める姿、嫁いだ王妃の姿をかなり 高度な技術が要求されるナンバーでつづって いるので、役作りそのものより、歌への意識 が強いですね。二幕に入ると実年齢に近いところから始まりますし、芝居で歌える歌になってきます。でも、いままでの作品では、二幕のエリザベートは叩きのめされているのに独自シーンが全然なかったんです。今回の上演のために作られた新曲「 夢とうつつの狭間に」が入って救われました。浮き立つ曲だと思います。
――エリザベートを演じている手ごたえは。
私は女優として、二〇〇〇年は勝負の年だなと思っていたんです。宝塚をやめて四年。 どんな色を出していけるのか。それが「エリザベート」で挑めるとは思っていませんでした。「王様と私」「南太平洋」と作品には恵まれていますけれど、代々演じてこられた方の塗 り直しという感覚があったのは事実で、今回は自分が作るという意気込みがありました。 これほどの役を今度いつできるかわからないですから、正直なところ、毎日演じていて怖 いんです。一日一日がものすごく大切です。 いい時期に巡り合えたという思いと、こんな に早く巡り合ってよかったのかという二つの思いが入り交じっています。
でも、新しい自分の歌い方を見つけられましたから、これまでの枷が取れました。女優っていうのは不思議ですね。タイに家庭教師に行ったり、皇室に嫁ぐ役を演じたり。普通の人の何十倍も楽しい疑似体験をさせてもらえる。やっぱり快感です。もちろん楽しいだけじゃなくて、私生活をつぶしてしまうほど、悩んでしまう時期もありますけど、それを乗り越えた後の達成感は喜びですし、その繰り返しで二十年近く生きてきましたから、もう女優という仕事は完全に私の一部です。
――八月末の千秋楽に向けての意気込みは。
「エリザベート」という作品には、不思議な魔力があるんです。演じる人は、その魔力のおかげで演じることができる。ご覧になる方にもその魅力はきっと感じて帰っていただけ る作品だと思います。この空気を一緒に感じていただきたいです。私は過去も振り返らな いし、先のこともあまり考えない。いまをすごく考えるんです。与えられたものを必死で やっていく。それだけです。」
(写真、文章ともにアサヒグラフ2000年7月号より引用しています。)
東宝初演『エリザベート』。2000年6月6日から8月30日まで帝国劇場にて上演。ダブルキャストはトートのみ。一路さんがシングルでシシィを演じきったのは、ダブルキャストが当然のようになった今考えるとほんとにすごい。当時、シシィの一生を舞台で演じきれる人は他に考えられなかったですね。宝塚初演雪組の『エリザベート』なくして今の日本の『エリザベート』はなかったし、一路さんなくして今の日本の『エリザベート』はなかったのだとあらためて思います。どちらも観劇していることはわたしの心の宝物。
一路さんのインタビュー記事を、16年が過ぎた今だからフムフムと理解できるところがあります。『エリザベート』は奥の深い作品。観客の一人一人が背負っている個人の歴史の背景によっても、その時の心情によってもみえ方が違ってくるし、心に響いてくる歌も違ってくる。もちろん役者さんたちも毎日、毎回違います。時代が変わり、この作品をジェンダーという視点からもっともっと考えてもいんじゃないかとしきりに思うこの頃です。「私だけに」がもつ意味、わたしたちに訴えかけてくるものが16年の歳月の中で変わってきました。去年の観劇日記でこんなこと書いています。
2015年7月25日のブログ記事、『エリザベート』四度目の観劇_生きることは切なく
http://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/27c97e12a896aecfbbe516770f4fd8e
よく読んでくださっていますが、自分でも読み返すのがとても好きな記事です。宝塚版と違って一人で旅立っていくシシィにトートが寄り添い幕が下りる東宝版のラストをどうとらえるかも人それぞれ。想像の余地がたくさんある、ふり幅の大きい重厚な作品。これからも繰り返し上演され続けていくとことでしょう。願わくは一路さんのシシィもまた観たい。無理な願いですが・・・。