たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『エリザベート』もうすぐ千穐楽

2015年08月17日 22時05分55秒 | ミュージカル・舞台・映画
私の観劇もあと一回となりました。
プレビュー初日と同じキャスト。楽しみです。
なんだか本当にあっという間。

個人的にどちらが好きかということは人それぞれだと思います。
私は一路さんトートとずんこさんトートを足して二で割ったような、宝塚っぽい雰囲気の中性的な怪しさをもつ井上さんトートが好きかな。花ちゃんシシィと井上さんトートでの締めくくりはすごくうれしいです。美しい組み合わせ。

城田さんトートと花ちゃんシシィの組み合わせは、「私が踊る時」での張り合い方も違っていて本当に雰囲気が違いました。
城田さんは背も高く足も長くで、鏡の間で登場する時は最初階段に膝立てて坐っていたり、
ルドルフの棺の上でも膝立てて坐ったままで暗転となるなど、仕草でも井上さんとの違いが
はっきりしていました。
ハンガリーの戴冠式で馬車を操っていることを思わせるシーンでも井上さんが足を組んでいたのに対して、城田さんは膝をたてて、余裕の笑みを浮かべていました。
シシィとルドルフに息をふきかけるかのような仕草がよりいっそう怪しく、黄泉の国へと誘いかける雰囲気。

表情が、心の中でにやりとしていることを感じさせるような、シシィを嘲笑すると同時に見守っている感の黄泉の帝王でした。
結婚式の後の舞踏会でシシィがトートダンサーに誘われてトートの下へたどり着き、「最後のダンス」でトートに翻弄されて最後はしゃがみこんで、「もうやめて」といったふうに頭を抱えるシーンに、よりトートの攻めの迫力を感じました。
それだけに憔悴しきったシシィが現実に戻って、フランツのそばに駆け寄っていく姿がよりかわいかったです。

今さらのような感じですが、ルドルフに最期がおとずれようとする時と、「悪夢」の最後にシシィがルキーニに刺されようとする時の、緊迫感が最高調になる時の音は同じなんだと気がつきました。
シシィがハンガリーを訪れた時市民が「エリザベート、エリザベート」と踊る時の音楽と、ルドルフが革命へと煽動されていき、ハンガリーの王冠を手に入れられそうで手に入れられないの前に市民が「ルドルフ、ルドルフ」と踊る時の音楽も同じです。
二人が似た者同士、鏡同士であることを音楽でちゃんと現わしています。
トートが見えるのもシシィとルドルフだけ。
それだけになおいっそうルドルフの最期がせつなく迫ってきます。

古川さんルドルフ、三年前よりも若いぐらいの雰囲気かな、と先日は感じました。
井上さんトートとの組み合わせの方が相性はいいのかなという気もしましたが、城田さんトートとの「闇が広がる」も見ごたえありました。
城田さんトートと京本さんルドルフの組み合わせの方が、城田さんの体格がいいのでルドルフの青い儚げな雰囲気はより出ているかな、という感じはしました。
それぞれ甲乙つけがたいですね。どちらがいいとかいえない。あとは好みだけ。

今年の夏は『エリザベート』と共に終わっていこうとしています。
わたしこれからどこへ行くのか、どこに向かって歩いていくのか、一日一日の模索の日々は続きます。

駆け足で書き足りない感もありますが、次の観劇までにもう時間がないかもしれません。

7月27日に一路さんが『エリザベート』を観劇。
花ちゃんのブログには、なつかしい一路さん、タータンさん、花ちゃんのお三方が。
一路さん男前でかっこいい。ここに高嶺さんがいれば、私の大好きだった雪組メンバー。
「ブルボンの封印」「コートダジュール」「バロック千一夜」などなど、全部みました。
20年ぐらい前のお話。そして19年前の『エリザベート』初演。
このときの成功がなかったら今の舞台はありません。
この時トートを演じた一路さんが東宝の初演ではシシィを演じました。
今でもコンサートでどちらも演じられる一路さんは素敵すぎます。
変わらず美しくたくましく活躍されている皆さんの舞台を観にいくときは、いつも懐かしい人に会いにいって元気をもらって帰ってくるような感覚です。
ずんこさんは今の舞台、観劇されないのかな。ひそかに気になっています。


(写真は東宝の公式フェイスブックからお借りしました。)



どこにもたどりつけない

2015年08月16日 23時30分37秒 | 祈り
四か月前の自分は今の自分からは信じられないほど疲弊していました。
その頃から比べるとずいぶん心のエネルギーが戻ってきました。
疲れ果てているのに、交感神経ばっかり働いて気持ちが高ぶった状態でどうしようもありませんでした。
先日、去年の秋以来お会いした方に、「すごく疲れていたたんぽぽさんが元気になったのがなりよりもよかったです」と言っていただきました。他にもそういう方はいて、そんなことのぞんだわけではないけれど権力と闘うことになってしまった私は健康なエネルギーを吸い上げられる感覚で消耗してへとへとでした。気力で生きていました。その頃から比べると元気が戻ってきました。

でも、暴力的な権力によってズタズタにされた痛手からの回復はかんたんではないんだとあらためて気づかされる結果となったことから、気持ちがふさいだまま這い上がることができないでいます。公的機関のおじさまの指南になんか従わなければよかったと思います。自分の言葉で十分でした。へーこら的になって足元見られた感じがします。侮辱された感じがします。こちらからお断りなんです。
また公的機関で情報もらって、書類を送って、足元みられて・・・それを繰り返していくエネルギーは私にはないのだとわかりました。疲弊から回復してきたのにまた疲弊の上塗り。さらに自信喪失。生活あるからがんばらねばと思っても無理なのだとわかりました。いつかそのうち足元みてこない出会いがあるような感じが全くしません。仕組みそのものがすっとぼけていることがよく分かってしまった私の中には、怒りと悔しさのマグマがまだまだたまっているのだとわかりました。
色々な思いはあれど空回りし続けて、結局どこにもたどり着くことができません。
これからどうやって生きていけばいいのかわかりません。

『エリザベート』あと10日で千秋楽。剣さんゾフィ。一足先に千秋楽。
男役のトップを走っていた人だけあって、やはり凛としたかっこよさがあります。
そのたたずまいだけで十分に存在感。
あと13公演連続。たーたんさんがシングルで演じるんですね。

こうして夏は終わっていこうとしていますが、まだまだ蒸し暑いです。
父とお別れとなった9月も、妹とお別れとなった9月もすごく朝から蒸し暑かったです。
忘れることはありません。
どこにもたどりつくことのできない思いだけが空回りし続けながら、季節がとおりすぎていきます。

「1996年2月12日(火)cloudy

(フォーカシング合宿を終えて)今日からまた日常生活に戻っている。合宿の時間と今日からの
時間とがまだしっかり結びつかない。自分のこれからにどうしみ込んでいくのかわからない。ただ身体がしっかりと覚えている。あんなにもいたわってあげた心地良さを、気づいた時にはうまれていたことばやイメージを、この中に生えている木を、わたし自身が木だと感じた感覚を・・・。なにか、気持ちいいものを今も身体がおぼえている。身体って正直だねエ。
頭の中ばかりで考えてきたわたしには、ある意味では楽な方法かもしれない。つらかったけど・・・。
笑っていた自分にまだしっくりついていけない。
ただ、どこかちがうわたしが今ここにいるかもしれない。
本当に自分の中にあるものをさぐっていくことなのかな。
だって、思いがけないわたしがいる。素直でかわいいわたしがいる。
ほんと、素直で単純だよねぇ。
身体を楽にすると、こんなにも発見があるなんて知らなかった。
毎日の中では、いやなこともある。悪口を言いたい時もある。いいじゃあないか。
こらえるのはやめよう。煮詰まった時にはまたこんな機会を求めていきたいと思う。
今度の休みに原稿用紙にまとめよう。
あの静かな安らかな涙を忘れることはないと思う。
だいじょうぶだよ、たんぽぽさん」

過去からの自分の励まし。
私はまで出会ったことのない自分に出会うことができるのでしょうか。
そういう猶予が許されるのでしょうか。
気持ちだけあせってもどうしようもないです。
明日のことはわからない。


プリンス・エドワード島はほんとうにふしぎです。
車窓からぐんぐんと遠く流れる雲をみていると、雲と追っかけっこしているようでした。
曇ってどうやってできるのか。こんど苦手だった理科の復習でもしてみることにしましょう。

遠く雲は流れゆく

2015年08月15日 23時37分32秒 | 祈り
断捨離はまだまだ続いています。
古い手紙を整理していたら妹からの手紙と再会しました。
ようやく読む勇気をもつことができました。



お別れとなった1994年7月14日付と7月18日付の手紙。おみやげを送ってくれたのに
同封されていた絵葉書一通。

「Dearお姉様」でいずれも始まる。会社をやめたことで自信をかなり失ってしまっていたことがうかがえる。公立の市民病院の精神科に通い始めて薬を出されていたことがうかがえる。
ずっと家にいることで、体力がなくなっていること、生活のリズムがなくなっていることなどに強い不安をもちながら、なんとかしたい、しようと気持ちがんばっていたことがうかがえる。
不安な気持ちを吐き出すところがなくて、私に手紙を書いていた。
お姉ちゃん、きいてよ、って手紙を書いていた。
なぜ私は答えてやろうとしなかったのだろう。
なぜ冷たくしてしまったのだろう。

自分のことしか考えていなかったし、何も知らなかった。わかっていなかった。
心だって風邪をひく、病気になることだってある、って全然知らなかった。
社会の中でも認知されていなかった。

お別れの後、どうしてなんだろう、どうして妹は逝ってしまったんだろうって理解したくて、
カウンセリングや精神医学を一生懸命に勉強した。本当に必死になって、心身をすり減らしながら仕事と両立させて勉強した。
だからといって答えは見つからなかった。答えはどこにもなかった。
結果的に国家試験に受かったからといって、それがこれから先のことになんにもつながってこない。
収入の手立てを失い、ほとんど補償も得られなかった。
そこから抜け出せず、社会へ戻ることができずにいる私を妹はどんなふうにみてくれているのだろう。

怒りと悔しさのふきだまりからかなり回復してきているつもりでいたけれど、混乱による
心の傷は思ったよりも深いことに気づかされることの繰り返し。
もう社会へは戻れないような気がしている。
そんなことはないのだろうか。このままあてもなく、いつまでどこまでこうして、狭い部屋で一人の暮らしを続けていくのだろう。見通しが立たない一日一日の生活。
何日もほとんど人と話すことがないまま過ぎていくこともある。
来週と再来週はまたちょっと忙しいかな。
それが過ぎたら私はどうするのだろう。このまま居場所がみつからない暮らしを続けていくのだろうか。

明日のことは誰にもわからない。
自分の感性を信じ続けてみるしかない。
どうにもならなくなったら、帰る家があるのだから心配しなくてもいい。
すごく疲れちゃったから、やっぱりすり減ってしまったから、しばらく安心して休みたいな。
しばらく家に帰ってゆっくりしたい。そうすると荷物は全部この部屋にあるのですごく不便。
公的機関に行ってがんばろうとしてみると、かえって傷ついて疲弊してしまうだけなので
もう行きたくない。希望がある感じが全くしない。
そうするともうどうしようもないのかな。

今さら自分を責めても妹はかえってこない。
失われた命は二度とかえってこない。
妹の分まで一生懸命に生きることしかできない。

ルドルフを死なせてしまった後悔の涙にくれるシシィの姿にやっぱり自分が重なる。

来月で丸22年を迎える。今でも信じられないんだ。自分の妹がって思うと。
心の中で祈ろう。そして姉らしいことなにもしてやれなかったこんな姉ちゃん、見守っていてほしいと心の中で手を合わせよう。

プリンス・エドワード島の雲は遠く遠くどこまでも流れゆく。






『八月十五日と私』_はしがきより

2015年08月14日 17時42分12秒 | 本あれこれ
「八月十五日と私」の手記を放送し終わったとたん、モーニングショーの部屋の電話が一斉に鳴り出した。何れも昭和二十年八月十五日を境に、戦争というものが人間の生活を如何にかえてしまったか、あらためて八月十五日の意義を感じたというものばかりだった。私あてに送られた中学生の感想に「自分は戦争は知らないが、八月十五日の手記を聞いてわかるような気がした。そして今日一日一生懸命勉強した。何かをしなければならないという気持ちが自分を机に向かわせたのだと思う」と戦争体験のない世代からのものも大分あった。

 ところで寄せられた手記の冒頭には、「八月十五日ということばを聞いたとたんに書き始めた」という方、中には目の不自由な方から恐らく一つ一つの点示に思いをこめたであろう手記も印象に残るものであった。ある主婦は「ここ数年ぶりにペンをとったのがこの手記であった」という、中でも満州、朝鮮、台湾からの引き上げの手記が半数以上を占めていたことはいかに外地からの引き上げが悲惨をきわめたか、満州引き揚げの際無蓋車に押し込まれた避難民の一人であったという北海道の主婦からは、「私の赤ん坊が押しつぶされて死んでしまった。泣く泣く満州の土に埋めて来た」という手記と、符節を合わせるように九州の方からは「私のそばにいた婦人の赤子が押しつぶされて見るも無残な情景を思い出す、」恐らく一緒の貨車に乗り合わせた人だろう。偶然が随所に見られた。そして「今やっと静かに振りかえることができるようになったのもやはり二十年の歳月を経たからだろうか」等々すべて胸をうつものばかりである。

 とにかく手記全部を発表できないなら一部でもいいから出版してほしい、そしてこの手記が平和への道標となることを願って止まないという視聴者の希望が実現されたことは、非常に意義のあることだと思う。出版の労をとって下さった社会思想社に感謝しています。
                              
                               木島則夫」

( 現代教養文庫『八月十五日と私』社会思想社、昭和40年発行より。)



4月1日の記事も合わせてご覧いただければと思います。

http://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/dedba664bdb025ce91e25a81b569aadc

自分はだませない

2015年08月13日 23時48分43秒 | 日記
「自分はだませない♪」

こんな歌詞が、『エリザベート』の二幕のコルフ島の場面であったと思います。
自分を守るために闘い続けてきたシシィが、大好きなパパの幻と再会して別れる場面。
初演から19年の時を経てシシィを演じるまでに幾多の壁を越えてきたであろう、
でもその苦労を感じさせない花ちゃんだからこそ説得力をもつ場面のひとつだと思います。

自分に正直に生きようとすると、現実の社会の中ではものすごく息苦しいですね。
でもずっと生活があるからと自分をだましながらずっとがんばってきた結果が報われなかったことを考えると、これ以上自分をだますことはやっぱり無理みたいです。

公的機関のおじさまの指南にもとづいて、自分はそちらが求める規格にあてはまります的な
書類を作成して送ってみたけれど傷ついただけでした。全く何もみえない。希望のたねがある感じが全くしませんでした。人としてこちら側を全く尊重していないんだろうなということだけわかりました。そういうところにはいきたくない・・・。
侮辱されたようにさえ感じてしまいました。
そもそも上と下、あるいは対立する関係ではないはず。対等であるべきで、こちらがへーこらへーこらしなければならないなんておかしいですが、指南されたことはへーこらへーこらするための書類作りにしか、結果的に思えなくなってしまいました。

こんなふうにしか考えられなくなっている私がどうかしているのかもしれません。
きれいごと言っていたら社会から孤立したまま、居場所がどこにもないということになるんでしょうね。
でも私には無理だとわかりました。
ボランティア活動でまたあらたな何かがうまれてくるのか。
もうしばらく続けてみるという選択肢しか今の私には考えられません。
どうにもならなかったら家に帰ればいいんだから、と開き直るしかないです。

シシィには生活の心配はありませんでした。
そこが一番大きいですが、がんじがらめの宮廷の中で、自分は自分だと
貫き通し続けるエネルギーは半端ではなかったでしょうね。
フランツとの出会いの場面で、笑い声を立てながら幸せそうに踊るフランツと、幸せになりましょうと微笑むシシィの笑顔を思い出すと、やっぱり切なくてどうしようもありません。
人はみんな最後はひとり。自分を信じて生きていくしかないのだと、花ちゃんシシィは教えてくれています。
自分を信じるってむずかしいことですが、もう少しこのまま歩いていこうと思います。

つらつらと『エリザベート』の場面を思い出しつつのつぶやきでした。

空が少しずつ秋の色へとうつりゆく

2015年08月12日 23時23分00秒 | 日記
一番暑い時は終わったのでしょうか。でもまだぶり返したり、9月になっても暑かったりするのでわかりませんね。
空を見上げると、ほんの少しずつ秋の色へと移ろいゆくように感じます。
長時間労働の日々の中では、ほとんど見上げる余裕のなかった空の色。
お昼休みと夕方おやつを買いに出た時と、夜帰ってくる時見上げた星空。
それ以外は空をみることなく、ずっと天井低い職場にいて、ストレスためながら、
悔しさためながら働き続けていました。
ほんとによく働いていました。
その結果が何の評価にもつながらなかったという事実をまだ受けとめきることができていません。すっかりうたがい深くなってしまって、何を信じていいのかわからないまま時は過ぎています。
気がついたら一歩踏み出していたボランティアをもう少し続けてみることで、また今まで知らなかった世界や出会いが待っているのかな、見えてくるものがあるのかな。このままずっと持ち出しが続いていくのも限界がありますが、もう少し流れに身をまかせてみます。
公的機関で紹介される書類をみていても、そこに真実はないことがわかったし、なにもわからないので、心がほとんど動きません。これじゃあどうしようもないなって自分で思います。

『御巣鷹山と生きる』からたくさんのことを教えていただきました。
30年目の夏。心の中で静かに手を合わせます。
思いを書き切れていませんが、またあらためたいと思います。

蝉が夜になると短い命を燃やしつくすかのように激しく鳴きはじめて大合唱。
季節のうつろいを感じて切なくなります。

生きることはきびしく、そしていつも切なさと背中あわせなのかもしれません。
なぜ?の答えを探し求めても答えはどこにもなく、ただ今を生きる私たちは
一生懸命に生きていかなければなりません。
こうして生かされている、それだけで十分なのかもしれません。

一日一日で生きていくしかない毎日です。
気がついたらまたどこにも必要とされない人になったりしているのかな・・・。
明日のことはだれにもわからないですね。
なすがままに、流れに身をまかせて、Let it be.
たぶん今しかできないことを体験しています。





『エリザベート』六度目の観劇からの思い

2015年08月11日 23時33分47秒 | ミュージカル・舞台・映画
「泣いた笑った くじけ求めた
 むなしい闘い 敗れた日もある
 それでも私の命ゆだねる それは私だけに♪」

ようやくシシィが自らトートの胸に飛び込んできて、最後は一人で旅立っていくラストシーン。城田さんトートの、低めの太い声が「おれだけに♪」が重なる場面が繰り返し思い出されます。棺にシシィと寝かせると、愛おしそうに髪をなでる姿が印象的でした。
井上さんトートとはまた雰囲気の違うデュエットとラストシーン。
一緒には旅立っていかない、つかの間、ようやく自分のもとにやってきたシシィを見送る、それまで表情に人間感がなかった城田さんトートがみせたシシィへの優しさ。
観客に考える余韻を残す、たぶん人によって色々な受けとめ方ができる、そんなラストシーンもいいものだと思います。


「わたしが闘い続け 手に入れたものはなに 孤独だけよ
 耐えられず気が狂いそう 
 あー このまま歩んでも行き先はみえない」
 
精神病院訪問のあとで、シシィの、孤独に打ちのめされそうになる心を歌う場面も、断片的に繰り返し思い出されます。
演じる花ちゃんの、歳と共に孤独が深まっていく感じがよく伝わってくるので、
より心にしみるように残っている感じがあります。
気がついたら、自分と重ね合わせながらみているのでなおさら、湧き上がるように思い出されます。

依然として希望がわからなくて、公的窓口にいっていても全くどこかに希望がみえてくる感じがしなくて、このままどこにたどり着いていくのか分からないで今はボランティアしています。本当にこれが自分にとっていいのかどうかわかりません。一歩踏み出したので、自分の感性を信じながらこのままもう少し進んでみるしかないと思っています。
一個人でどうなることでもないので、流れに身をゆだねてみるしかないです。

人はみんな最後は一人で旅立っていかなければならない存在。

このお盆の、季節が動いていこうとしている時期は命への思いが深まる時期でもあります。
今日も、秋の気配をほんの少しだけ感じさせながら、夏色の入道雲が大きく流れていました。

明日は日航機の墜落事故から30年目になります。
御霊が安らかであれと祈りながら、今を生きているわたしたちは先に逝った人たちの分まで
一生懸命生きなければならないのだと思います。
生きることはむずかしい。
それでも七転八倒、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりしながらも、限りある命の時間、自分を信じて生きていくしかないのだと思います。








『エリザベート』六度目の観劇からの徒然

2015年08月09日 22時22分44秒 | ミュージカル・舞台・映画
昨日は立秋でした。空を見上げると夏らしい入道雲が広がっているのと同時に、どことなく秋へと少しずつ季節が動いていこうとしている気配を感じます。
窓の外では、短い命を燃やしつくすかのように蝉が鳴いています。
今年の夏は、『エリザベート』に始まり、今月26日の千秋楽と共に私の夏も終わっていく感じでしょうか。
これからどう生きていけばいいのかわからないまま、時は過ぎていきます。
色々と思いはありますが、まずはごはんを食べていかなければなりません。ただ椅子取り競争に参戦するだけのエネルギーはまだないかな。
一人一人が大切にされる社会であってほしい。そんな思いから出発していても、社会の不特定多数に向けて発信していくということは、どんな人に届くことになるのか分からない怖さやむずかしさと背中合わせ。いろいろとむずかしいものです。生きていくということは本当に大変でむずかしいです。

100年以上前一人の美しい女性が、自由に生きていきたいと願いながら古いしきたりにがんじがらめにされようとする中で、なんとか社会と折り合いをつけていこうと必死にがんばりつづけました。「自分の気持ちはだませない」と闘いつづけました。それは厳しい姑や旧態然とした社会と対立することでありながら、結局は自分自身との闘いだったのかもしれません。わかりませんが、こういう立場の女性はこうでなければならない、という既成概念を打ち破って自分を通していく、という果てしなくエネルギーが必要なことでした。今を生きる私たちに通じるものがあると思います。

花ちゃんシシィが地声から信じられないぐらいに美しくエネルギーにあふれた声で「私だけに」を歌い切ったあと、くるっと客席に背中を向けて、ハプスブルクの双頭の鷲の紋章に向かって歩いて行く、その後姿が大好きです。宝塚では歌い終わると同時にエネルギーが尽きて倒れ込んでいたのと全く違います。初演から19年の時が過ぎ、三度シシィを演じることになるまでに紆余曲折あったであろう、演じる花ちゃん自身の人生の重みを感じます。色々な積み重ねが込められている背中です。「あなたのものじゃないの、この私は♪」とうたっているとおり、私はわたしよ、いう強さを感じます。
同時に誰と組んでもその芯は変わることなく、誰と組んでも相手を立てつつ似合っているのだからすごいです。

城田さんトートのドクトルゼーブルガーの、おじいちゃん医者になりすましたふりがよかったです。声をすごく低くして、杖ついて右足をひきずって、帽子で顔を隠し通す。客席はトートだとわかっていますがシシィから死にたいという言葉を引き出すまで、シシィにはドクトルのふりをし続けなければなりません。
フランツの不貞を知ったシシィの「命を絶ちます」をきいて、「それがいい」とマントと帽子を脱ぎ棄て椅子に飛び乗って迫ってぐんぐん迫っていくあたり。若さを感じます。「あなたとはまだ踊らない」と抵抗するシシィのエネルギーも半端ではないです。でも、「まだ」と言っているので、死への憧れと彷徨が芽生えていることをあらわしているのかな。そして腕を伸ばして人差し指を差し出す時の横顔の凛として美しいこと。
二人の身長差が大きいこともあって、井上さんトートと組む時とは雰囲気がちがいます。
より人間ではない、黄泉の帝王をかもし出しているトートを拒絶しながらも、シシィの方も
惹かれないではいられなかった、そんな雰囲気があったでしょうか。
ルドルフの棺にすがるシシィの前に現れたトートに、「死なせて」と腕を伸ばして、トートに触れてすごりついていこうとする演技は、井上さんとの組み合わせではなかったと思います。
トートは棺の上で膝を立てたまま、シシィの顔にぐっと顔を近づけて覗き込むと「まだ私を愛していない」と拒絶し、ほくそ笑んでいました。

トップの写真は東宝の公式フェイスブックからお借りました。
佐藤さんフランツの執務室。一枚だけ持っていた佐藤さんフランツ出演日のチケットを人にゆずったので、結果的にフランツは全て田代さんで観ることになりました。




『エリザベート』六度目の観劇でした

2015年08月08日 23時03分28秒 | ミュージカル・舞台・映画
8月8日、昼の部を観劇しました。12時30分開演。満員御礼。

エリザベート:花總まり
トート:城田優
フランツ:田代万里生
ルドルフ:古川雄大
ゾフィー:香寿たつき
ルキーニ:山崎育三郎
少年ルドルフ:大内天

終わって外に出ると明るいのには、いつまでも慣れることができず変な感じです。

立秋の日、風が少し涼しい中、丸の内仲通りの緑の並木道を歩きながら思い出しました。
去年の2月の極寒の頃、大混乱に足を踏み入れることになることなど全く思いもよらず、そんなつもりは露ほどにもなく、ただ自分自身の尊厳を守るために、一人あたふたとしながらこの界隈を歩いていたことを。自分自身の気持ちの整理がどうにもつかず、相談窓口を出たあと涙を流しながら、カウンセラーの先生に電話したことを。

今年の2月、三菱美術館を出た後、凍えそうなほど冷たい風が吹きすさぶ中、同じ道を擦り切れた心身を引きずりながら歩き混乱を終結させるために、どう自分が決断し納得していけるのか、悶々と考え続けていたことを。

混乱の終結から4か月が過ぎ、気がついたら全く予想もしなかったかたちで、自分のしてきたことはどうやら無駄ではなかったらしいと思える流れの中に足を踏み入れることになりました。ほんの少しの勇気と出会いで、悔しさと苦しさを発露できる機会がめぐってきて、人と共有し合う機会がめぐってきて、自分自身でとても驚いています。

振り返ってみれば4か月前の私は、今の自分からは信じられないほどに本当に疲弊して、すり切れていてどうしようもありませんでした。こうして本来の元気を取り戻してきている今の自分からはもはや信じられないほどに怒りと悔しさばかりがふきだまっていて、どうしようもありませんでした。

時は流れました。去年の秋以来思わぬかたちで再会できた方に、華奢な体でがんばっている姿がとても印象的でよく覚えていますと言っていただき、すごく疲れていた様子のたんぽぽさんが今すごく元気になっているのがなにより嬉しいと言っていただき、今の流れにつながってきたことが素直に嬉しいです。こうしたがんばってきた私の姿を覚えてくださっている方々との出会いの中でしか回復していくことができない、大きな大きなことでした。自分で本当にびっくり。収入の手立てがみなえいまま、どこまでボランティアを続けていくのがいいのか自分でもわかりません。書類を送ったりもしているけれど、品定めされて選別されることに耐えられないのでまだ無理かもしれません。どこに流れていくのかわからないまま、もう少しこのまま進んでみようと思います。次の何かにつながっていくのか、それとも終わればまた、どこにも必要とされない孤独な日々が待っているのか・・・。

今日の舞台の詳細はまた後日あらためますが、思いつくままにいくつか。

ルキーニの歌唱が安定しないと舞台全体の雰囲気がずいぶんちがってくるのだと感じました。
演じ方に好みはいろいろあれど、山崎さんの歌唱は今さらながらに確かなものでした。
存在は主張していなくても、気がついたらルキーニの声が流れて舞台をつくっている、
そう感じる場面がいくどかありました。
オーケストラボックスに落下した小鳥ちゃんがどうなったのか気になります。
「キッチュ」での客席との間の取り方がうまいですね。
ルドルフの棺にすがりついてなくシシィの写真を撮り、残酷なまでに「シシィはものすごいエゴイスト、不幸さえも切り売りする」と歌うルキーニ。2000年の初演で高嶋さんルキーニが
歌うのをはじめて聴いた時は衝撃でした。この場面をみると、この時の衝撃を思い出します。なにくそと孤独の中で闘い抜くシシィをシングルキャストで演じ切った一路さんのエネルギーはすごかったと思います。時は流れ、自分を信じて生きていくしかないシシィへと、花ちゃんシシィは変わりました。
今回の舞台に、高嶋さんルキーニが登場したらどうなるのかな、ふと思いました。
ビジュアル的にちがいますかね。
この人にしかできない像を創り上げた高嶋さんルキーニはやはりすごかったです。
12年間シングルで演じ通しました。

バートイシュルのお茶会の場面で、今日のシシィは紅茶を二杯もがぶのみしていました。
「鹿よ」と、嬉しそうに追いかけていく姿も毎回少しずつ違う感です。
鉄砲で鹿を射止めたフランツの嬉しそうな表情。
天真爛漫な野性味あふれる自由人のシシィにフランツは惹かれただろうに、皇帝だったばかりに、一番素敵なところを抑えながら生きていくよう言うしかなかった。
毎回ですが、最初の出会いの「幸せになりましょ」と生き生きとした笑顔で歌う場面と、「夜のボート」の「いつか互いの過ちに気づく時がくるでしょ」と歌う場面とが同じメロディラインなので切ない。これが最後の出会いで、互いの過ちに気がつかないまま、シシィは旅立っていくことになります。
悪夢の場面で、今日はフランツの「ナイフだ」と叫ぶ声がひときわ聴こえました。
「皇后の姿がない」と気づいてから、ルキーニを止めようとなんども必死にしがみついていこうとするまで、シシィへの愛にあふれているだけに、なんでシシィを孤独に追い込んでしまったんだろうと思ったり、不貞はイメージしにくいなと思ったり・・・。
田代さんが生来もつ品のよさを感じさせるフランツだと思いました。

古川さんルドルフ。美しく汗だくでしたね。歌がいちだんとよくなっていました。
パパと対立し、革命に失敗し、ママがパパに助言して助けてくれなかったら、あとはトートに誘われていくしかなかったのだとあらためて思いました。シシィの政治の話はもううんざりという表情が、ほんとうにすごくうんざりな感じで、ルドルフは行き場がなくなってしまいました。「ママもぼくを見捨てるんだね」と坐り込む姿が、ママの愛を求めてやまない少年時代のルドルフを感じさせる小さなルドルフにみえました。

少年時代のルドルフが、銃を手にして「昨日もネコを殺した」と歌う時。井上さんトートが目をぎょっとさせるのに対して、城田さんトートは、おや、ほほうっていう感じで子ルドの顔をのぞきこむかのように見つめていました。

登場人物の中で、トートだけが実在しない、シシィとルドルフ、さらにはルキーニの中に内在化された存在なのだと終わって今さらのように思いました。城田さんトートはより生身の人間ではなく黄泉の帝王を感じさせます。使徒のように従い、時には風のように踊り、時には天使になり、時にはあやしく黄泉の国へと誘い込もうとするトートダンサーのダンスは、よくみているとハードで芸術品。お一人お一人見分けるのはなかなかですが目に焼き付けます。

まだつらつらと思うところがありますが今日はここまでにします。
少しのつもりが書き連ねてしまいました。
新しいことを複数で始めるとなると、手分けしてやらなければならないことや確認事項がいくつもあり、自ずと受け持ちになったところをやったりしているので更新の頻度が落ちていますが、書くことはやめられないので更新できる時はしていきたいです。

(トップの写真は、城田さんトート。東宝の公式フェイスブックからお借りしました。)







『エリザベート』五度目の観劇_美しい舞台でした

2015年08月07日 23時52分37秒 | ミュージカル・舞台・映画
8月4日(火)、夜の部観劇。18時30分開演。満員御礼。

エリザベート:花總まり
トート:城田優
フランツ:田代万里生
ルドルフ:京本大我
ゾフィー:剣幸
ルキーニ:尾上松也
少年ルドルフ:大内天

あらためて書き切る前に六度目の観劇を迎えそうです。
どれだけ観るのっていう感じですが、このドリームキャストは今回かぎりかも、と思うと
自分へのご褒美として観ないではいられません。

思い出すままに。

城田さんトート初でした。
低音が響いていました。
シシィとの身長さがあるので、より少女時代のシシィがお人形のようにみえました。
舞踏会で、トートダンサーに踊らされている場面もシシィはより体重がないような、
表情も動かない人形のような感じでした。
井上さんトートがすごく動いて目つきや手つきにも神経が行き渡っているのに対して、
城田さんはルドルフとシシィを見つめる時も表情はあまり表情を動かしません。
より冷たい、生身の人間から遠いトート。
それだけに、カーテンコールでの笑顔がより印象的でした。
(投げキスをされると客席からは悲鳴が・・・。)
マントさばきもよりダイナミックでした。
シシィとの顔の距離がより近いでしょうか。ぐんぐん迫っていく感じで、あなたなんか必要ないと跳ね返す、シシィのパワーもまたすごかったと思います。
最後に腕の中で崩れおれて動きが止まったシシィを棺に乗せて髪を優しくなでるときに、
ようやくシシィへの愛を素直に表現したかな。トートとシシィはつかの間出会って、また別れるんですね。シシィは一人で天に召されていきます。

京本さんルドルフを誘惑する場面、「子供の頃のあの約束を、君は思い出す♪」でルドルフにふっと息を吹きかけると、ルドルフは思い出した、旧友と再会した、という表情をします。

京本さん、より美しく、儚いルドルフ。『うたかたの恋』も似会いそうです。
ダンスがきれいだし、歌も前回観た時よりよくなっていたと思います。

田代さんフランツ、悪夢の場面で、エリザベートを「助けなければ」と渾身の力で叫んでいる声がはっきりときこえました。声も動きも、若い人が演じているフランツだなあとあらためて思いました。
シシィと幸せに暮らせる物語をもうひとつ作ってほしいぐらい、若い時の二人の出会いと、晩年の「夜のボート」の場面への時の移ろいは切ないです。

剣さんゾフィ。香寿さんが冷徹な表情の下に本当は温かい感情を持っている感を感じさせるのに対して、より母親的なゾフィ。本当はシシィにも愛情があったのかもしれません。でも大帝国の礎を守っていくためには仕方なかったですね。
フランツに、「二人を引き裂くことはできない」と言われた時の、「引き裂く・・・」という言葉に愛情がこもっていたと感じました。二人を引き裂くつもりなどなかったですね。
フランツに、「もうあなたの意見をうかがうことはない」と言われた時の表情が悲しかったです。「義務を忘れたものは滅びてしまうのよ」「その時あなたの国は滅んでしまうのよ」
史実がフランツ没後二年で帝国が滅亡したことを考えると、ゾフィは本当にわかっていたのかもしれません。息子と国の行く末を案じながら、旅立っていかなければなりませんでした。

尾上さんルキーニ。山崎さんが声色も表情も仕草も歌い方も場面ごとにすごく変わるのに対して、感情をみせることなく、物語の進行役に徹していました。高嶋さんルキーニの流れで、狂言回し的なルキーニ像だったかなと思いますが、少し物足りなさ感が残りました。
トートからナイフを受け取った時の表情、声、仕草に、役者さんなんだと感じました。
(20年ぐらい前歌舞伎をよく観ていた時期があったので、子供だった尾上さんをたぶん何度か観ていると思います。)
まだまだ変化していきそうな、伸びしろを感じさせるルキーニでした。

演じている人たちの若さを感じました。
エネルギーがあるし、観るたびに変化していきます。
シシィは不思議なことに、観るたびに少女時代はより少女に、その後の時の移ろいがよりはっきりとわかるようになってきています。ほんとに不思議です。

舞台に風の音が吹くような、トートダンサーのダンスはより美しかったです。

気がついたらチケットもあと二枚となりました。
なんだかさみしいです。
またエネルギーもらって、予想もしなかったことが起こっている事態をもう少しこのまま進んでみようと思います。
花ちゃんの舞台を何度も観ながら、自分の流れも変化して行っているのが、『レディ・ベス』の時と同じで不思議な感じです。

駆け足で振り返ってみました。