たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『エリザベート』六度目の観劇からの徒然

2015年08月09日 22時22分44秒 | ミュージカル・舞台・映画
昨日は立秋でした。空を見上げると夏らしい入道雲が広がっているのと同時に、どことなく秋へと少しずつ季節が動いていこうとしている気配を感じます。
窓の外では、短い命を燃やしつくすかのように蝉が鳴いています。
今年の夏は、『エリザベート』に始まり、今月26日の千秋楽と共に私の夏も終わっていく感じでしょうか。
これからどう生きていけばいいのかわからないまま、時は過ぎていきます。
色々と思いはありますが、まずはごはんを食べていかなければなりません。ただ椅子取り競争に参戦するだけのエネルギーはまだないかな。
一人一人が大切にされる社会であってほしい。そんな思いから出発していても、社会の不特定多数に向けて発信していくということは、どんな人に届くことになるのか分からない怖さやむずかしさと背中合わせ。いろいろとむずかしいものです。生きていくということは本当に大変でむずかしいです。

100年以上前一人の美しい女性が、自由に生きていきたいと願いながら古いしきたりにがんじがらめにされようとする中で、なんとか社会と折り合いをつけていこうと必死にがんばりつづけました。「自分の気持ちはだませない」と闘いつづけました。それは厳しい姑や旧態然とした社会と対立することでありながら、結局は自分自身との闘いだったのかもしれません。わかりませんが、こういう立場の女性はこうでなければならない、という既成概念を打ち破って自分を通していく、という果てしなくエネルギーが必要なことでした。今を生きる私たちに通じるものがあると思います。

花ちゃんシシィが地声から信じられないぐらいに美しくエネルギーにあふれた声で「私だけに」を歌い切ったあと、くるっと客席に背中を向けて、ハプスブルクの双頭の鷲の紋章に向かって歩いて行く、その後姿が大好きです。宝塚では歌い終わると同時にエネルギーが尽きて倒れ込んでいたのと全く違います。初演から19年の時が過ぎ、三度シシィを演じることになるまでに紆余曲折あったであろう、演じる花ちゃん自身の人生の重みを感じます。色々な積み重ねが込められている背中です。「あなたのものじゃないの、この私は♪」とうたっているとおり、私はわたしよ、いう強さを感じます。
同時に誰と組んでもその芯は変わることなく、誰と組んでも相手を立てつつ似合っているのだからすごいです。

城田さんトートのドクトルゼーブルガーの、おじいちゃん医者になりすましたふりがよかったです。声をすごく低くして、杖ついて右足をひきずって、帽子で顔を隠し通す。客席はトートだとわかっていますがシシィから死にたいという言葉を引き出すまで、シシィにはドクトルのふりをし続けなければなりません。
フランツの不貞を知ったシシィの「命を絶ちます」をきいて、「それがいい」とマントと帽子を脱ぎ棄て椅子に飛び乗って迫ってぐんぐん迫っていくあたり。若さを感じます。「あなたとはまだ踊らない」と抵抗するシシィのエネルギーも半端ではないです。でも、「まだ」と言っているので、死への憧れと彷徨が芽生えていることをあらわしているのかな。そして腕を伸ばして人差し指を差し出す時の横顔の凛として美しいこと。
二人の身長差が大きいこともあって、井上さんトートと組む時とは雰囲気がちがいます。
より人間ではない、黄泉の帝王をかもし出しているトートを拒絶しながらも、シシィの方も
惹かれないではいられなかった、そんな雰囲気があったでしょうか。
ルドルフの棺にすがるシシィの前に現れたトートに、「死なせて」と腕を伸ばして、トートに触れてすごりついていこうとする演技は、井上さんとの組み合わせではなかったと思います。
トートは棺の上で膝を立てたまま、シシィの顔にぐっと顔を近づけて覗き込むと「まだ私を愛していない」と拒絶し、ほくそ笑んでいました。

トップの写真は東宝の公式フェイスブックからお借りました。
佐藤さんフランツの執務室。一枚だけ持っていた佐藤さんフランツ出演日のチケットを人にゆずったので、結果的にフランツは全て田代さんで観ることになりました。