たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

茂木健一郎『「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる方法』より_仮想を必要とする人、しない人

2020年12月19日 13時08分56秒 | 本あれこれ
茂木健一郎『「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる方法』より_仮想が新たな価値を生む
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/50dd709e770b69703caf8f067900df5c

 「現実社会の中に想像力の豊かな人を置くと、時にみっともなくみえることがあります。

 現実が分かっていてそれを実際的にやっていける人は、言い換えれば仮想の世界を必要としない人と言えるのかもしれません。たとえば、モデルやタレントなど現実に即した外見が大切になってくる世界に身を置いている人たちや、経済界など実際的な実務が重視されるような仕事についている人たちには、そのような傾向が強いと感じます。

 仮想を必要としない人というのは、たとえば、現実社会には存在しない一角獣や透明人間といったものを思い浮かべたり、小説を読んで現実を忘れてしまうくらいその世界に没入したり、といったことをする必要がないということでしょう。要するに、時間的、空間的な限定を超えて、無限の仮想空間で自由に遊ぶ必要がない。また、そういう仮想世界がなくても息苦しさを感じずに生きていけるということです。

 実は、世の中の9割ぐらいはそういう人で占められているのかもしれない。だから本が売れないということもあるのかもしれません。『赤毛のアン』の物語を本当に必要とする人が、人口の百パーセントになるということは絶対にありえないと思います。むしろ、アンみたいな人はほとんどいない。だからこそ、アンは、本当は非常に孤立しているんです。孤立しているからこそ、「kindred spirit」(キンドレッド・スピリット)、つまり、「相呼ぶ魂」を探し求めている。

 僕がなぜ、小学校5年生の時にこの物語に惹きつけられたのかということを考えると、僕自身もアンのように想像することがいろいろあって、みっともない人間だったからかもしれません。ティーンエイジャーの時には、イマジネーションが膨らみすぎて現実の生活と尺度が合わなくて、みっともなかったことが幾度となくありました。

 小津安二郎監督の映画を観る25歳ぐらいまでは、「今ここ」の生活は仮のもので本当の生活ではないとずっと思っていました。たとえば青春時代は、ニーチェの生命哲学について友達と議論している自分と、学生街の定食屋でカツどんを食べている自分とは、別の領域に存在していると考えていました。そして、いつか本当の生活、ニーチェ哲学の世界のような本格的な思索の世界が始まるのだと信じていた。けれど、実際の自分は、学生街の定食屋でカツどんを食べている一学生に過ぎなかった。こういうところの尺度の測り間違い、それがアンの姿に重なるところがあるのです。

 アンは後に親友となるダイアナ・バリーに最初に会ったお気に、「太陽と月がこの世にあるかぎり」、「永遠にわたしの友達になるって、誓いをたててくれる?」と頼む。普通の子どもだったら、友達になるときにそんなことは、まず聞きません。でもアンは大真面目に、いきなり「太陽と月がこの世にあるかぎり・・・」と始めてしまう。かなり尺度が合っていなくて、みっともないんです。
 
 そういうみっともなさが、どこか自分と重なっていたのだと思います。」



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