たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

「3.11石巻復興祈念ゼミ合宿」報告書からの引用(2)

2014年04月07日 15時25分55秒 | 東日本大震災
「向き合う、ということ  Iさん


 石巻に行くことになった。急な話である。学校側が復興支援のためのツアーを組んだということで、ゼミ合宿がそれに便乗したのだ。復興支援、ということだった。やはり、地震と切り離して被災地に行くことは出来ないのだなと素直に感じた。復興支援ということは、復興された街を支援する、ということだろうか? そうすると、地震のことにいちいち触れてお邪魔するというのは相手に失礼だろうか。そもそも、被災地と呼ぶことはぶしつけか?僕は大義の偽善者に見えるだろうか? または無力の傍観者だろうか? このツアーが決まってから、そんな疑問が頭にもやもやと漂っていた。この疑問は、地震以降ずっと僕の足にしがみついていた思いでもある。

 ちょうど2年半前から、そういう気遣いについてはものすごく難しくなった。哀悼の意を示したつもりが、被災地の産業を凍らせてしまったり、一方で被災地の名産をはじめとする物品を各地に運べば何かと細かいことで怒られる。善意から来る行動でも、必ず至らないところは出てくるものである。普段は小さなことであるから見えなかったのが、これほどの大事となれば見ない振りは出来ぬ、ということなのだろう。この気遣いの問題は本当に人々を動きづらく、または動けなくさせた。日本中を電車の双六で周るTVゲームは、あの地震以降新作が出ていない。大波を操る仮面ライダーは出番がなくなった。僕も、動けなくなった一人である。

 地震の時、僕はいわゆる帰宅困難者となった。足であった常磐線が一部崩落してしまい、一週間程千葉を点々としていたのである。茨城の実家に帰れた後、瓦のはがれた屋根を見たり、落ちてくるのが怖いから、と薄型に買い替えられたテレビを見るなどして、「離れた茨城ですら・・・・東北は。」と思わずにはいられなかった。東北の方が救われることを切に願った。しかし一方で、「自分も被災者ではある。」という思いと事実があった。しばらくは、身の周りを整えることで精一杯というところがあったのだ。じきに一人暮らしもはじまる。そういえば、下宿は大丈夫だろうか? 今月の頭に決めたばかりなのに。

 そんなことを考えては、目下の現状にただ向き合うだけで、人のために何かをすることは出来なかった。今は自分の生活を立てなければ。次は家族・・・。と動いてきたのだ。まだ動揺している妹の近くにいてやりたい、僕は大学生にようやくなった。祖母は安心できる終の住まいを新築したいと言う、手伝わねばなるまい・・・。そんなことをして、僕は僕なりに日々の問題を解決していたのである。やましいことはない。何も。しかし、それを理由にして、誰か人のためにということを避けていたことは、事実である。

 今は避ける理由はない。そして、行く機会がある。きっと、地震の後から続くもやもやとした考え、自分の善意、どこか申し訳ないようなこの気持ちにけじめがつくはずだ。
 そうだ石巻、行こう。


 仙台駅から2本のバスを乗り継いで行く。向かうは石巻である。1時間余りバスに揺られると、地方都市らしくそつなくまとまった仙台周辺から、いかにも郊外と言った感のあるショッピングモールに到着する。ここが本で読んだ、避難所ともなったイオンモールか、と思った。読み聞いたものを実際に見たときにいつも感じる小さな感銘を受けつつも、モール周りの風景は地元とよく似ていることのほうが印象的だった。買い物と休憩を済ませると、2本目のバスが出る。このときは評判のいい民宿の夕食のことや、予定されていた海水浴の事ばかり考えていた。このときまでは全く、「被災地と言ってもちょうど2年半、ここまで回復したのだ、のどかな風景ではないか。」と思ってしまっていた。だが、そうではなかった。この瞬間、これからの体験のない僕は単純な生視感を感じたのみであった。しかし、今は違う。日本中にあるこの風景が、次の瞬間、想像もつかぬような災厄に襲われてもおかしくはないのだと、そのことにより深く釘を刺していくような風景であったと今は思うのだ。このあとに見せつけられた災害の足跡が、僕をそう思わせるように変えたのである。」


(2014年3月20日慶応義塾大学文学部発行より許可をいただいて引用しています。)

→長いので何回かに分けて書きます。

この記事についてブログを書く
« 桜の舞い散る日に思う | トップ | 秋のプリンス・エドワード島... »

東日本大震災」カテゴリの最新記事