11月14日に訪れたちひろ美術館「まるごとちひろ美術館」では、『絵のない絵本』の中から原画四点が展示されていました。原画の前に佇んでいると、なんだかちひろさんと対話しているようで心がふるえるました。涙が流れていました。その中の一点「玉座の少年」、第五夜のお話です。
「きのう、わたしはざわめいているパリの町をみおろしていたんです。」こう、月が言いました。
「わたしの目はルウブル宮のへやの中までつきぬけていきました。みすぼらしい身なりをしたおばあさんが-おばあさんは貧民階級の人でした-身分の低いひとりの番人の後について、大きな、からんとした玉座の間へ、はいってきました。この玉座の間が、おばあさんは見たかったのです。見なくてはいられなかったのですよ。おばあさんがここまでくるには、いろいろと小さな贈り物をしたり、たいへんな弁舌を費やしたりしなくてはならなかったのです。彼女はやせた両手を合わせて、まるで教会の中に立ってでもいるように、うやうやしく周囲を見回しました。『ここだったんだ。』と彼女は言いました。そして豊かな金の笹縁のついたビロードの垂れている玉座に近寄ると、また『ここだ、ここだ。』と言って、膝をまげて緋色の絨毯に接吻するのです。彼女は泣いていたんじゃないかと思います。『いや、このビロードではなかった。』と番人は言いましたが、その口のまわりには微笑がただよっていました。『そんなこと言ったって、ここだったんです。たしかにこういうようすでしたよ。』と、彼女は言いました。
『それはそうなんだ。しかし、やはりちがうんだよ。窓はたたきこわされ、戸はひきちぎられて、床の上には血が流れていた。それでもあなたは言えますね-わたしの孫はフランスの玉座の上で死んだのだと。』こう、男は答えました。『死にましたさ!』とおばあさんは繰り返しました。それっきり、ふたりは一語もかわさなかったと思います。そうしてまもなくまた、広間をでていきました。夕闇がしのびよってきて、わたしの光は二倍も明るくフランス王の玉座の上のビロードを照らしました。きみはその年とった女が誰だったと思うかね?
わたしはきみに一つの物語を話してあげよう。七月革命のときでしたよ。一軒一軒がみな城塞であり、一つ一つの窓が保塁だった、あの輝かしい勝利の日の夕暮でした。民衆はチウレリイ宮へ殺到しました。女や子どもたちまでが、戦士の中にまじっていました。みんな王宮のへやべやや、大広間にまで突入しました。中にひとりのぼろを着た、まだおとなになりきらない貧しい少年がいて、年上の戦士たちにまじって勇敢に戦っていましたが、銃剣で幾個所も突かれて、重傷を負って、そこに倒れたのです。それがこの玉座の広間で起こったことだったのです。人びとは、血を流している少年をフランス国王の玉座の上に横たえて、傷口に玉座のビロードを巻きつけました。そこで血が、王の緋の絨毯を染めました。まるで絵のようなながめでしたっけ!
豪奢な大広間、戦っている幾組かの人たち!床の上には、引き裂かれた軍旗が横たわり、革命の三色旗が銃剣の上にひろがっていました。そうして玉座の上には、あの貧しい少年が、青ざめた浄化された顔をして、じっと目を天へ向けていたのです-四肢をもう死の苦しみでピクピクさせながら、彼のむきだされた胸、見すぼらしい着物、半分その胸をおおっている銀の百合の花のついた華奢なビロードの垂れ布!
この少年が誕生したとき、揺籠のそばで、こんな予言がなされたのでした-「この子はフランス国王の玉座の上で死ぬだろう。』と。そこで母親は、ひとりの新しいナポレオンを夢みていたのでした。
わたしの光は、この少年の墓の上の不死の花環に接吻しました。そしてまた昨夜は、あの年とったおばあさんの顔に接吻したのですよ。そのときおばあさんが夢に描いていた画面を、きみなら描けるはずだがねえー題は『フランス王の玉座の上の貧しい少年』と言うのさ!」
(『絵のない絵本』山室静訳、岩崎ちひろ画、昭和41年初版、昭和58年55刷、童心社)
玉座に横たわりあごを天井にむけて瀕死の状態にある少年の姿は残酷なほどに美しかったです。生きることの切なさ、悲しさ、苦しさを知っていたちひろさんとアンデルセンが織りなす物語。この絵を見た日の夜パリのテロ事件のニュースを知りました。欧米の先進国で起きたテロ事件だから大きなニュースになりましたが、ニュースにならない国では今この瞬間も一日一日を生き延びることに命がけの暮らしをしている人びとがいることに想いを馳せたいです。
第二次世界大戦を生き延びたちひろさんは、世界中の子どもたちが平和でありますようにと願い続けました。自分の生活を支えるために働くしかない私は何もできませんが、ちひろさんのメッセージをこうしてブログを通してささやかでも伝えていきたいです。
「きのう、わたしはざわめいているパリの町をみおろしていたんです。」こう、月が言いました。
「わたしの目はルウブル宮のへやの中までつきぬけていきました。みすぼらしい身なりをしたおばあさんが-おばあさんは貧民階級の人でした-身分の低いひとりの番人の後について、大きな、からんとした玉座の間へ、はいってきました。この玉座の間が、おばあさんは見たかったのです。見なくてはいられなかったのですよ。おばあさんがここまでくるには、いろいろと小さな贈り物をしたり、たいへんな弁舌を費やしたりしなくてはならなかったのです。彼女はやせた両手を合わせて、まるで教会の中に立ってでもいるように、うやうやしく周囲を見回しました。『ここだったんだ。』と彼女は言いました。そして豊かな金の笹縁のついたビロードの垂れている玉座に近寄ると、また『ここだ、ここだ。』と言って、膝をまげて緋色の絨毯に接吻するのです。彼女は泣いていたんじゃないかと思います。『いや、このビロードではなかった。』と番人は言いましたが、その口のまわりには微笑がただよっていました。『そんなこと言ったって、ここだったんです。たしかにこういうようすでしたよ。』と、彼女は言いました。
『それはそうなんだ。しかし、やはりちがうんだよ。窓はたたきこわされ、戸はひきちぎられて、床の上には血が流れていた。それでもあなたは言えますね-わたしの孫はフランスの玉座の上で死んだのだと。』こう、男は答えました。『死にましたさ!』とおばあさんは繰り返しました。それっきり、ふたりは一語もかわさなかったと思います。そうしてまもなくまた、広間をでていきました。夕闇がしのびよってきて、わたしの光は二倍も明るくフランス王の玉座の上のビロードを照らしました。きみはその年とった女が誰だったと思うかね?
わたしはきみに一つの物語を話してあげよう。七月革命のときでしたよ。一軒一軒がみな城塞であり、一つ一つの窓が保塁だった、あの輝かしい勝利の日の夕暮でした。民衆はチウレリイ宮へ殺到しました。女や子どもたちまでが、戦士の中にまじっていました。みんな王宮のへやべやや、大広間にまで突入しました。中にひとりのぼろを着た、まだおとなになりきらない貧しい少年がいて、年上の戦士たちにまじって勇敢に戦っていましたが、銃剣で幾個所も突かれて、重傷を負って、そこに倒れたのです。それがこの玉座の広間で起こったことだったのです。人びとは、血を流している少年をフランス国王の玉座の上に横たえて、傷口に玉座のビロードを巻きつけました。そこで血が、王の緋の絨毯を染めました。まるで絵のようなながめでしたっけ!
豪奢な大広間、戦っている幾組かの人たち!床の上には、引き裂かれた軍旗が横たわり、革命の三色旗が銃剣の上にひろがっていました。そうして玉座の上には、あの貧しい少年が、青ざめた浄化された顔をして、じっと目を天へ向けていたのです-四肢をもう死の苦しみでピクピクさせながら、彼のむきだされた胸、見すぼらしい着物、半分その胸をおおっている銀の百合の花のついた華奢なビロードの垂れ布!
この少年が誕生したとき、揺籠のそばで、こんな予言がなされたのでした-「この子はフランス国王の玉座の上で死ぬだろう。』と。そこで母親は、ひとりの新しいナポレオンを夢みていたのでした。
わたしの光は、この少年の墓の上の不死の花環に接吻しました。そしてまた昨夜は、あの年とったおばあさんの顔に接吻したのですよ。そのときおばあさんが夢に描いていた画面を、きみなら描けるはずだがねえー題は『フランス王の玉座の上の貧しい少年』と言うのさ!」
(『絵のない絵本』山室静訳、岩崎ちひろ画、昭和41年初版、昭和58年55刷、童心社)
玉座に横たわりあごを天井にむけて瀕死の状態にある少年の姿は残酷なほどに美しかったです。生きることの切なさ、悲しさ、苦しさを知っていたちひろさんとアンデルセンが織りなす物語。この絵を見た日の夜パリのテロ事件のニュースを知りました。欧米の先進国で起きたテロ事件だから大きなニュースになりましたが、ニュースにならない国では今この瞬間も一日一日を生き延びることに命がけの暮らしをしている人びとがいることに想いを馳せたいです。
第二次世界大戦を生き延びたちひろさんは、世界中の子どもたちが平和でありますようにと願い続けました。自分の生活を支えるために働くしかない私は何もできませんが、ちひろさんのメッセージをこうしてブログを通してささやかでも伝えていきたいです。
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