たんぽぽの心の旅のアルバム

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第六章OLを取り巻く現代社会-⑥組織人としての「サラリーマン」

2024年09月10日 14時17分05秒 | 卒業論文

 巨大な企業組織に組み込まれた労働者は、いつでも取り替えのきく一片の歯車に過ぎないために、その官僚制機構のもとで閉塞感を味わわざるを得ない。自分が行っている細分化された仕事は、全体のなかでいったいどのような役割を果たしているのか見通すこともできない。そのため、彼は自分の仕事の社会的意味がわからず、仕事を通じて社会との関わりを意識することができない。どんなに勤勉に働こうとも、労働を通じて自分の人生の「意味」を見出すことは、もはやできなくなってしまったのである。とりわけ、日本型企業社会においては、「企業内人生」という言葉に端的に表されているように、自分の人生を企業に全て賭けることによってそこに「生きがい」を見出すのが、これまでの典型的な労働者の姿であった。労働それ自体を通じて充実感が得られないのであれば、「経営家族主義」により、いわば「会社人間としての生きがい」を労働者に与え、企業に積極的に帰属させ、そこから質の高い労働意欲を引き出そうとするのが日本的経営システムであった。日本の高度経済成長はそうした企業に身も心も捧げた「モーレツ社員」によって支えられた。そして彼らの「生きがい」は、かつてない物質的な豊かさがもたらされることにより実質的に裏付けられたのである。[1] ホワイトカラー従業員の特質は、同一組織における生涯雇用制度によって会社と一体化し、安定性を求めることにある。就職という会社への入り口と退職という会社からの出口は、日本的経営システムのもとでは、これまでつながっているのが当然だった。その間の会社の中での経歴のありか方ももちろんつながっていた。会社のなかでのあり方として大きな特色となっていたのが、ゼネラリストとして様々な職種を経験し、その間に一段ずつ出世していくという昇進の仕方である。多くの日本の大企業ではそういう経歴をたどって出世し、やがて定年退職するというのが建前であった。そこで新入社員を人事部が一括採用したあと、かなりの期間をかけて社員教育を行って、その後に各職場に配置する。ということは大学には職業教育について全く期待していないし、大学も職業教育はしない。それどころか「大学で習ったことを早く忘れよ」と説教する会社もあるほどだ。新入社員を白地のまま、会社人間に適したように教育するのが新入社員教育のあり方だ。日本会社には社是や社訓があるのが普通だが、そこで強調されるのが社風ということである。新入社員を早くその会社の社風に慣らせることが必要だが、言うまでもなく社風は会社ごとに違うから、こうした教育によって、会社人間はその会社にしか通用しない人間になっていく。その代わり社内のいろんな職場を経験させて、ゼネラリストになっていく。ここでゼネラリストというのは、どんな会社にでも通用するゼネラリストという意味ではなく、その会社の内部だけのゼネラリストである。ゼネラリストとしての会社人間は転勤を繰り返すことで出世するが、やがてその会社でしか通用しない人間になっていく。もうひとつの日本の大企業で強調されるのは規律を守るということだが、これは会社の組織を守るためであると同時に、大量生産、大量販売に適した人間を作るためである。大量生産、大量販売は20世紀の大企業システムの原理だったが、日本ではとりわけ高度成長期以後これが徹底していた。そこで強調されたのが規律を守るということであり、その結果画一化された会社人間が生まれた。[2] こうして日本的経営システムの下で育成された、ゼネラリストに適した会社人間、そして大量生産、大量販売に適した画一化された人間の姿は、フロムのいう「自ら意志する個人であるという幻のもとに生きる自動人形となっている」現代人の姿だと言えるだろう。

 社会の存続に必要な利益はもとより、その将来の発展に欠かせない投資が、明らかに企業の影響力を大きくしている。物質面の豊かさにかかわる当初の縄張りをどんどん拡げ、立ち遅れのいちじるしい精神世界の動向まで左右しつつある。企業に都合の悪い分野とみなされれば、兵糧攻めを仕掛けられて活動困難に陥る。勤労者がもっと積極的発言をできてよいはずだけれども、実際はまとまりのないまま企業に抱き込まれた状態である。[3] 一段ずつ昇進を繰り返し、管理職ともなれば、企業と一体化することになる。一体化ともなると身も心もまるごと会社に捧げてしまう、というイメージがある。その姿は実にカッコ悪い。OLが会社人間たる「おじさん」たちを笑いの種にするのは、こんなところにも理由があると思われる。

 これまで、会社人間について、ホワイトカラーを念頭において考察してきたが、現代の社会では、ホワイトカラー労働者の特質は、先に記したような高度なシステム化、機械化によって、ブルーカラーにも及んでいる。雇用されて組織体の中で働く、という点ではホワイトカラーもブルーカラーも同じである。そこで、賃金労働者を「サラリーマン」というカテゴリーでくくって、働きがいについて考察していきたいと思う。「サラリーマン」には、ホワイトカラー、ブルーカラーばかりでなく、デパートの店員、ホテルの従業員、地方公務員、教員、新聞記者、警察官、駅員、看護士等々、種々雑多の職業に従事する人を含む。「サラリーマン」というカテゴリーは、何らかのまとまりを備えた階級のようなものではない。これに属する人々の間には、収入、財産、職場での権力などの点でかなりの開きが見られる。にもかかわらず、彼らは自分のものではない組織体の枠の中で、自分のものではない設備や器具を使い、自分が決めたことではない規則や慣行に従って日々同じ仕事に従事し、そしてこれらの代償として一定のサラリーを受けている、という点では同じであり、またこうした職場の境遇における共通点のゆえに、彼らの生活全体はある類似性を示している。先ず、サラリーマンの生活は、必然的に職場と家庭、仕事と余暇というように二分される。これに伴い、毎日の通勤、ラッシュアワーの苦労、同じ職場での決まった仕事の繰り返し、帰宅前の小さな楽しみ、週末の一家行楽、といった一連の同じような行事が彼らの生活時間に刻み目をつける。また、彼らは服装や持ち物の点でもあまり違わない。通勤時やレジャーの際の彼らの身なりはよく似ていて、それだけからは、職業や社会的地位はわからない。また余暇の使い方も類似しているし、さらにマスコミの発達のおかげで、彼らの見解や発想方法もほとんど区別しがたいほどに平均化されてしまったのである。[4] 山岸健がフロムから引用して述べているところによれば、官僚主義的機構を持ち、中央集権的な産業主義においては、人々が大量に、しかもそれが予測可能で手前味噌な方向に消費するように趣味作りが行われる。彼らの知性や性格は、独創的で冒険的なものよりも、平凡で無難なものを選択するテストが絶えず行われ、そのため規格化されるようになる。事実、ヨーロッパや北アメリカの官僚的な産業文明は、新しいタイプの人間を創造した。すなわちそれは<オーガニゼーション・マン>(組織人間)、<オートマトン・マン>(自動機械的人間)、<ホモ・コンシューメン>(消費的人間)といえるものであり、さらには<ホモ・メカニカス>(機械的人間)でもある。それは機械的なもの全てに強く心を惹かれ、生きているものに反撥する傾向をもつ機械部品のような人間という意味である。[5] サラリーマンの画一化、規格化は、組織体の中で働く人間の組織への帰属、という視点で説明できると思われる。

 オーガニゼーション・マン(組織人間)という言葉は、ホワイトによって用いられた。会社員はもっとも顕著なオーガニゼーション・マンであると、ホワイトは述べている。『組織のなかの人間』から引用したい。

 オーガニゼーション・マンは、労働者ではないし、事務職である人という意味での、いわゆるホワイトカラーでもない。これらの人々はもっぱら組織のために働く。そのうえ組織に帰属してもいる。彼らは、組織の生活に忠誠を誓って、精神的にも肉体的にも、家郷(ホーム)をみすてた中産階級の人々である。しかも、社会の偉大なゆるぎなき諸制度の魂ともなり、中核でもあるのは、実に彼らなのだ。そのうち、ごく少数の者だけが経営者の椅子に坐り、またはいずれ、その席を占めるかもしれない。「幹部要員」という曖昧な言葉が真理的に必要とされる仕組みの中では、彼らは中枢の人でもあり、ひとしく一般列伍者でもある。そして、大部分の者は、もっと体裁のよい別の呼び名が待望されている中流の分野に、なんとか均衡をとりながら一生を過ごす運命を持っている。会社員は、オーガニゼーション・マンの単なる一例に過ぎない。会社組織に際立って認められる集団化の現象は、今やほとんど全ての分野に影響を及ぼしている。(略)彼らは全て、同舟の客である。彼らの関心を一番ひきつけるのは集団的作業という共通の問題である。[6] 故郷を離れたオーガニゼーション・マンの思想の核心は、集団の倫理、組織の倫理、あるいは官僚機構の倫理である。それは組織からの忠誠の要求を合理化するものであり、組織に忠誠を捧げようとする人々には、それを果たす上での献身の感覚を与えるものであった。[7] オーガニゼーション・マンの視点には、個人対組織という問題が含まれていると思われる。オーガニゼーション・マンの背負うジレンマについてホワイトは次のように述べている。

 個人対権威の問題を解こうとして彼が直面する決定は、いつも何かジレンマにつきあたる。それは、暗黒の圧制に対して戦うべきか否か、または愚劣な特権に対抗して新しい路を拓くべきか否か、といったケースではない。それならば、少なくとも頭の中だけならやさしい問題であろう。現実に問題になっていることは、はるかに油断のならぬものだ。なぜなら、オーガニゼーション・マンを惑わすのは、組織生活の害毒ではなくて、実にそのもたらす恩恵だからである。彼は組織から同胞として捕らえられている。戦いの場はあまりに狭く、おとし穴はあまりに世俗の利害にみちているので、彼の戦いは英雄的な振舞いに欠けている。しかし、このためにこそ、先代たちがかつて戦わねばならなかったと同じく、それは苦難に満ちている。そして、ホワイトは、集団の倫理に重きをおく、オーガニゼーション・マンの思想は、誤りであると述べる。人々は他人とともに働くべきである。まさにしかり。うまく運営される一団は、その部分の総和よりもさらに偉大な全体である。まさにしかり。これらすべては、全く真理である。しかし、現在労苦してかちうべき真理であろうか。明らかに組織の時代であるからこそ、それは特に強調さるべき貨幣の裏面となるのだ。我々はまさに、組織とうまく協力してゆくしかたを学ぶ必要がある。しかし、それゆえにこそ、組織に反抗するしかたをもさらに一層知る必要がある。(略)我々ははるかに踏み迷ってしまった。そして、組織の作業をしあげることに関心を払っているうちに、ほとんど組織を神格化線ばかりの有様に至っている。われわれはその欠陥までも美徳として記述し、または、個人と組織との間には相剋が存在する-すべきだということすら否定しようと試みている。この否認は組織にとっても好ましくはない。個人にとってはいっそう好ましくない。個人の魂を安らげるために、この否認のなすところは、彼がどんなにか必要としている知性の武器を奪いさることだけだ。組織が個人の上に権力を振るえば振るうほど、彼はますます組織に反抗すべき場を確認する必要がある。組織の社会のジレンマを認識すべきだと説くことは、組織の社会が以前のどんな社会とも同じように個人と両立しうるという、希望に満ちた前提と相容れないはずはない。我々は、ほとんど対処するすべのない強大な力の手中に握られた不幸な存在ではない。組織は人間によって作られてきた。それは人間の手で変えうるはずだ。個人をパーソナリティ・テストのデータにまで収縮してしまう事態を生み出したのは、決して歴史の不変なコースではない。この収縮を受け入れた者、それはオーガニゼーション・マンである。そして、とめうる者もまた彼なのだ。ホワイトは、個人と組織との両立を説く。要するに、過誤は組織の中にあるわけではない。それは組織によせる我々の崇敬の中にある。それはユートピアの平衡を求める我々のむなしい憧れの中にある。それはまた、社会と個人との間には相剋がないとする心弱き否認の中にある。相剋はほとんど常にあるはずである。相剋にたじろがず直面するところに、個人たることの真価がある。それを避けることはできない。心にうわべばかりの平和を与える倫理を求めるなら、彼はみずから虐げることになるのである。組織の生活の中で、個人はその運命を自分の手中にもぎとらなければならないのだ。[8] 

 しかし、ホワイトが述べる組織の中で個人たることは容易なことではない。サラリーマンで考えれば、会社という組織体の中で働くということには、人間関係の維持、という問題が伴う。通常、サラリーマンは上司とウマが合わないからといって簡単に会社を辞めることはできない。苦痛を伴いながらも、自分を押し殺さなければならない場面は日常的にある。他者との関係を抜きにして私たちの日常生活を考えることはできない。私たちは、社会的世界の中で常に他者と相互に関係づけられているのだ。互いに生きた関係を結ぶ過程においてのみ、相手と私は両者を隔てる障壁を乗り越えることができる。ともに生の舞踏に加わっている限りは。それでも相互の十全な同一化は決して達成され得ない。[9]

 人間のコニュニケーションを考えた場合、AがBの身になる、というのはAがBの役割を深く経験する、ということであって、AがBになるということではない。相手の「役割」を経験するとき、こちらにはこちらの自分というものがある。相手の身になる、親身になって相談する、といった深い共感が成立している場合も本当に相手の身になりきってしまうことはできないのだ。相手の身になる、つまりもう一人の自分の眼で自分をみる、ということは、こちら側にも本来の自分があるからこそ意味のあることなのだ。人間の内部には、「主体的な自分」と「客体的な自分」との間の会話が展開している。話を聞きながら、他人のつくった記号を人間の内部の“もう一人の自分”は解読し、その“もう一人の自分”と“こちら側の自分”は、対話し続けるのである。この対話が人間の内部で発生するゆえに、人間がいくら言葉をたくさん使っても、理解しあうことが難しい。「理解」すなわち「わかる」ということは、二人の人間の間の問題というよりも、一人の人間の内部での、“二人の自分”の間の問題であるのだ。自分の内側に取り込まれた“もう一人の自分”と“こちら側の自分”との間には緊張関係、あるいは弁証法的見解が生まれる。もう一人の自分が持ち込んできた他人の記号、そしてその背景にある他人の内部の状態、それが“こちら側の自分”とかかわりあって、もう一つの高次の内部の状態を作り出すこと-それが、人間的意味での「理解」なのだ。二人の間で進行しているように見えるコミュニケーションは実は、一人の人間の内部でのコミュニケーションでもある。組織の中で働く時、制度的に”こちら側の自分“を黙殺しなければならない場合もある。サラリーマンであれば、社長の命令は絶対である。「社長のおっしゃることはよくわかりますが、しかし・・・」などという語法は、通用しない。こうした場面は苦痛を伴う。なぜ苦痛なのか。それは、“こちら側の自分”がこの人間関係では完全に圧殺されてしまうからである。“こちら側の自分”がちょっとでも顔を覗かせたらこの人間関係は維持できない。苦痛ならやめてしまえ、というわけにはいかない。いやだ、いやだ、といいながら“こちら側の自分”を殺して職業生活を続ける。それがサラリーマンないし組織人の生き方というものなのだろう。[10] 会社に適応しようと自分をねじ曲げなければならないことも多々ある。会社という組織の中では、どうにでもさしかえのきく部品として扱われやすい。サラリーマンは偶然の連続で部を転属することを先に記したが、設計理論からすれば、例えば経理部でとにかく人が一人必要だ、となれば、設計者のなすべきことは要するに豆粒を一つそっちに回すことである。特定の固有名詞をもった個性的人間を回すことではない。組織の中では、労働力が人格抜きの抽象的な豆粒、あるいは一片の歯車に例えられるようなものになりやすい。サラリーマンの働きがいの喪失には、資本主義社会における「労働力の商品化」という問題が含まれている。

 

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引用文献

[1] 船津衛編著『現代社会論の展開』212-213頁、北樹出版、1992年。

[2] 奥村宏「揺らぐ日本型就職システム」内橋克人・奥村宏・佐高信編『就職・就社の構造』38-41頁、岩波書店、1994年。

[3] 影山喜一「日本型経営礼賛論の明暗」内橋克人・奥村宏・佐高信編『危機のなかの日本企業』104頁、岩波書店、1994年。

[4] 尾高邦雄『職業の倫理』301-305頁、中央公論社、昭和45年。

[5] 山岸『日常生活の社会学』33頁、日本放送出版協会、1978年、E・フロム著、鈴木重吉訳『悪について』66-67頁、紀伊国屋書店、1965年刊、より引用。

[6] W・H・ホワイト著、岡部慶三・藤永保訳『組織のなかの人間』(上)、2-3頁、創元社、昭和34年。

[7] 山岸、前掲書、34頁。

[8] W・H・ホワイト、前掲書、20-21頁。

[9] E・フロム著、佐野哲郎訳『生きるということ』126頁、紀伊国屋書店、1977年。

[10] 加藤秀俊『人間関係』80-88頁、中公新書、1966年。

 


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