2024年9月12日安藤裕チャンネル、
2024年9月12日三橋TV、
(245) 【緊急鼎談】小泉進次郎は失速?混戦の自民党総裁選を徹底解説!(三橋貴明×藤井聡×saya) - YouTube
2024年9月10日虎ノ門ニュース、
西田さん口先だけ、選択的夫婦別姓制度に対する警鐘の声だけ参考。
(245) 【虎ノ門ニュース】2024/9/10(火) 竹田恒泰×西田昌司(高市早苗候補支持)【自民党総裁選SP月間】 - YouTube
2024年9月12日安藤裕チャンネル、
2024年9月12日三橋TV、
(245) 【緊急鼎談】小泉進次郎は失速?混戦の自民党総裁選を徹底解説!(三橋貴明×藤井聡×saya) - YouTube
2024年9月10日虎ノ門ニュース、
西田さん口先だけ、選択的夫婦別姓制度に対する警鐘の声だけ参考。
(245) 【虎ノ門ニュース】2024/9/10(火) 竹田恒泰×西田昌司(高市早苗候補支持)【自民党総裁選SP月間】 - YouTube
2024年9月11日藤江さんチャンネル、
コロナワクチン接種後の突然死について、武見厚労大臣の記者会見での答弁、
(242) 【あとで消します】この状況、この答弁・・皆さんは、命を預けられますか? - YouTube
(藤江さん作成、40歳未満の突然死認定は、なぜか全員男性。)
従来型mRNAワクチンの問題点
1) LNP自身に毒性(細胞傷害性)がある
2) LNPは体内いたるところに取り込まれる
3) スパイクタンパク自身にも毒性(血管の損傷や血栓形成)がある
4) スパイクタンパク発現量と持続時間を厳密に調節ができない
5) ロット差の問題(同じ性能のmRNAワクチンを製造できない)がある
6) 誘導された免疫でワクチン粒子を取り込んだ全身の細胞が攻撃される
7) スパイクタンパクが核内のエストロゲン受容体と結合し、細胞増殖を促進する
8) 頻回接種によりスパイクタンパク特異的な制御性T細胞を誘導する
9) 頻回接種によりいわゆる抗原原罪が起こり、適切な抗体が産生されない
10) 変異株ができると抗体依存性増強のリスクが生じる
11) 2回以上接種するとスパイクタンパク特異的IgG4が誘導される
12) 他の病原体に対する免疫が下がる可能性がある
13) 自然免疫応答に与える影響は未知
2年前、3回目のコロナワクチン接種後高熱が出たけど大丈夫やろかとツィートされていた男性キャストの方はお元気で安心しました。子供が生まれているし長期的な影響がわかりませんが多くは自然にもっている免疫力で回復していけるようなので大丈夫でしょう。稽古の半ばで降板せざるを得なくなった男性キャストもいます。検査のために全身麻酔をかけて手術されたそうです。全体の8割は接種するようにという厚労省の指導に従い舞台芸術緊急ネットワークは接種を推奨していました。おそらく多くの方が国の言うことを信じて接種すれば安全安心に舞台を続けられると2回か3回まで接種されたでしょう。4回目、5回目まで進んでしまった方もいるか。多くの方は舞台に立ち続けているので大丈夫でしょうが事実として降板を余儀なくされた方もいます。厚労省、厚労大臣罪深すぎます。
2023年9月11(水)帝国劇場
労働に対する関心の出発点はそもそも近代的賃労働というものであって「苦しい働き」とか「寡黙にして実直な労働」ということではなかった。「労働」という言葉自体が近代資本主義的な賃労働に当てられたものだと考えられる。[1]労働の社会性が合理的な考え方や理論によって明らかにされ、人々に広く理解されるものとなったのは、近代資本主義の成立による。ここで、近代資本主義的な賃労働というものを大雑把だが、清水正徳の記述に沿って外観したいと思う。近代資本主義の合理的な考え方や理論には、社会的労働と経済的価値との関係を合理的に説こうとする積極的な姿勢が含まれていた。この社会での経済的価値とは、もちろん商品価値であり、現象面では貨幣によって価格として表示される価値である。価値があるから価格として表示されうる。そして、社会におけるほとんどの経済的な財(富)が繰り返し商品として生産され、貨幣経済として売買され、流通する社会は、近代資本主義として定着する。
近代資本主義は純粋モデルとしては、個別的な単純商品生産者が直接労働生産したものを相互に売買するという社会である。そして現実には、こういう経済関係が資本主義経済として定着し、商品・貨幣経済が支配的な経済構造となっていく。純粋モデルでは、人間と人間との関係がそもそも原子主義的な性格の社会を構成し、この人間関係がそこでの社会的労働・生産の性格を規定する。ここでは原子のような一人一人が単位となって職業を自由に選択し各自労働して生活している。各自が主観的な判断で職業を移転し主観的な判断で自身の労働を価値づける。このような社会では、個人的な労働量による個人的な労働生産物の価値づけは、そのまま社会的な平均的な価値づけと必ずしも一致するわけではない。この社会の成員は経済にかかわる人間としてその行動は全く自由であり、相互の立場は全く平等なので、自由に職業を選択して働き、その働きの成果を売り、または労働によって得た所得によって自分の必要なものを買い消費する。ここで貨幣が一般に価値の尺度となり、流通の手段として機能してくる。そして、より多くの貨幣を持っていればより多くの商品と換えうる、やがてはどっさりもっていればどんな商品でも買える、貨幣がオールマイティになってくるのである。貨幣さえより多く持てばいつでも好きなものが買えるし後々安泰だ、という考え方が普及してきて、一つ一つの経済的な財の、使用する者にとっての価値(使用価値)よりも商品としての価値(交換価値=価格)の方が経済を考える場合のより重要な基準になってくる。貨幣それ自体が何ものよりも価値あるものとして君臨することになるのである。貨幣で表示される商品の価値が労働生産にとって、さらに一般に社会的労働をする人たちにとって共通の座標となる。商品・貨幣経済が生産の基礎をもって成立していると考えると、そこにおける成員の意欲は単に商人や金貸しの利殖欲に留まるのではなく、「働いて儲ける」ということになる。生産労働で貨幣が殖える、ということになっていくのである。生産労働は、資本家と労働者という二つの新しい社会経済的な立場を誕生させる。生産手段、生産材料、そして賃金として支払うべき貨幣をもち、労働者を雇う。労働者は、自分の労働する力を一定時間(一定量)提供することによって、この労働力を売った値としての賃金を受け取る。近代的賃労働の誕生である。労働者を雇う資本家は少ない賃金で能率的に高い価値を実現しようとし、そのため生産工程もできるだけ合理的な無駄のないものにし、分業も大いに進める。一方、賃金労働者は、直接的な生産手段との結びつきから引き裂かれてもっぱら自分の労働力を売り、その力の消費者としての労働によって商品価値を生産・実現し、自分たちの賃金に見合うだけの労働より以上の労働によって、資本家たちにとっては利潤となる剰余価値を生産することになる。労働者は自分の労働力を売り、資本がその価値を増殖する運動に、資本の一つの要素として従属的に加わる、それが彼らの労働がもたらされる意味なのである。資本家と労働者という二つの階級の関係において、労働者たちはひたすら生活のために労働力を売り、資本家のものとなった自分の労働力の消費として他律的に労働する、という枠の中に閉じ込められることになる。そして、資本の運動の中で時には景気変動によって、つまり労働力に対する需要の変動によって木の葉のように翻弄されることになる。ここに記してきたような商品・貨幣経済の社会では、労働の社会的評価が可能となる。一人一人の労働が社会的価値として表される、すなわち価値量として表されることになるのである。労働の価値を表す客観的な基準としてA・スミスは、富の源泉であることを唱えた。貨幣を唯一の富とみなす重商主義の考え、貿易差額だけを基準として貴金属を獲得することを富の増進だとする考え方を拝して、労働生産こそが富の源泉であると説いたのである。[2] A・スミスは富を「生活の必需品と便益品」として捉えた。そして国の富とは、国民の労働によって生産されるものの総量だという。スミスは、労働こそ価値の源泉であり、交換価値の基準となるものであるという考え方を示した。鷲田清一が述べているところによれば、スミスの考え方で興味深いのは、労働が人間の生命維持のためにどうしても必要な「苦労」(toil)であり
「骨折り」(trouble)だという考え方である。「苦労」であり「骨折り」であるがゆえに、しないでよいのならしないで済ませたいというのが本当のところだろうが、しないですまされないからこそ、逆にそれを進んで行い得るようなモチベーションが編み出されなければならなかった。「勤勉・勤労」という美徳がまさにそのようなものとして生まれたのである。スミスによって、「勤勉・勤労」という観念が、より多くの価値を生み出すという動態的な財の観点と、休まずに働くことそのこと自体が意義のあることなのだというエートスの奨励という観点を統合するものとして示された。[3]
18世紀のスミスの考え方は、労働生産が進めば国の富が増し国民一人一人の富も平均して豊かになるという楽天的なものであった。しかし、1世紀を経て、度重なる周期的恐慌によって資本家と労働者という経済的な二つの階級が対立・矛盾したものであることが露呈してくると、労働に対する考え方は厳しさを増し、マルクスによって、資本主義社会における「労働力の商品化」という視点が始めて示されるに至る。マルクスはヘーゲルの考え方を継承した。ヘーゲルによって、始めて労働は哲学的に捉えられた。ヘーゲルによれば、労働において人間は自己を自らにとっての対象となる、つまりは自己を対象化することで他在のもとで自己自身と関係する。労働とはつまり、人間の自己実現ないしは自己産出のものであるはずだ。がそれが資本家によって独占的に私有されている労働現場では、賃労働者による生産物が生産手段の所有者の所有物になるのでこの自己の対象化の過程は他ならぬ対象喪失の過程として現象することになる。自己の外化が自己の疎外へと裏返ってしまうのである。ヘーゲルの自己の本質の「外化」、「対象化」という考え方を引き継いだマルクスは、労働は人間が自ら設定した目的の実現の過程としてある故に人間にとってかけがえのないポジティブな意味を持つ、と考えた。[4] マルクスの眼には、労働者の生活がただ資本家との所得の違い貧富の差というだけでなく、社会における立場が、質的な違った立場だとみえてきた。それをマルクスは、「疎外された労働」という視点から考えようとした。労働者の対象化としての労働が自己疎外となり、労働生産物が疎外されて対象喪失となるのは、資本家がいわば現実世界の神となって、働く主体を奪い取っている、という考え方に基づいて、資本家が労働者を労働から、労働生産物から、さらには彼らの類的な在り方から疎外し、人間らしさを転倒させるのだと主張した。しかし、労働からの疎外といっても、労働者を疎外させている逆倒された主体が何かといえば、私的所有のようであったり、資本家という人間であったり、明確にはつかみにくい。次第に、疎外論的主張は、哲学的・主体的ではあっても、経済的現実を客観的に解明するものとしては、きわめて不十分だということがわかってくる。疎外を克服する条件が正確にはつかめないのである。克服すべき疎外された世界をそのものとして克明に認識するためには疎外論の立場では不十分であり、不適切であることに気づいたマルクスは、労働賃金を労働の価値と考えていたところから、やがてこれを労働力の価値として捉えるに至る。例えば、一定期間における労働賃金を仮に100とする。そして生産手段のその間における摩損分と生産材料の価値の合計を200とすると、労働生産によって得られた労働生産物の価値は200プラス100に資本家にとって利潤となるべきものを加えた価値量となる。仮に利潤となるべき価値を100だとすれば、これらの関係は、200(生産手段・生産材料)+100(労働賃金)+100(利潤)=400(総価値)、という式で現すことができる。この利潤となるべき100という価値を生むのが、人間の労働だというのである。疎外論では十分に説明できなかった人間の労働の価値を、労働と労働力とを峻別することによって説明した。労働賃金は労働の価値ではなく労働力の価値である、労働者は労働力の価値としての賃金と交換に自分の労働力を商品として売る。すなわち労働力商品である。一定条件のもとに売られた労働力はその条件の範囲内では労働者のものではなく、資本家の所有するものとなる。そして資本の運動(価値の自己増殖運動)に一要素として加わり、労働力の使用価値としての労働において労働力は消費され、賃金に妥当する価値100に加えて利潤となるべき100、合計200なる価値を生むことになる。利潤となるべき100という価値を生む労働を剰余労働と名づけると、資本的生産の価値方程式は次のように表現し直すことになる。不変資本200+可変資本100+剰余価値100=総価値400。このマルクスの「労働力」という概念の発見によって、資本主義における生産の価値の基本関係が明確になった。労働者は労働力の価値を得て、その価値に妥当する労働以上の労働によって剰余価値(利潤)を生産する。すなわち、剰余価値に当たる分だけの労働を「搾取」されていることになる。では、資本家はというと、資本の本質は「自己増殖する価値の運動体」ということであり、資本家は貨幣としての価値を(「最短期間に最大限の利潤を再生産可能に」)獲得するべき運動の担い手ということである。価値増殖の形の上での主役は資本家、実質的な担い手は労働者ということになる。このマルクスの価値方程式は、現在の経済における生産構造を現象面で明らかにするものではないが、資本主義という経済構造を人間関係(階級関係)においてもっとも簡明に示すものだといえる。労働力の商品化という問題を働く人間にとっての問題として考えてみると、労働力は人間のエネルギーであり活動力である。ここで商品として売られた労働力は、売られたからといって私の身体から離れるものではないが、しかし私の所有ではなく資本ないし資本家の所有なのだから自分の自由にはならぬものである。労働力の売り手である労働者たちは売買の自由を持つと共に、「餓死への自由を持つ」という極限状態の表現をマルクスはしている。[5] マルクスの「労働力の商品化」は、純粋な一般的経済を対象として考えた概念である。現代社会においては、資本主義の構造は複雑化し捉えにくくなっている。しかし、清水が述べるように、「労働力の商品化」は現実に即した抽象であり、資本主義経済の秘密を明かす細胞形態を労働力商品だとする点において、現代社会の中で働きがいの喪失を考える時に、重要な概念だと思われる。
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引用文献
[1] 清水正徳『働くことの意味』81頁、岩波新書、1982年。
[2] 清水、前掲書、58-87頁。
[3] 鷲田清一『だれのための仕事』44-47頁、岩波書店、1996年。
[4] 鷲田、前掲書、42-44頁。
[5] 清水、前掲書、143-154頁。