たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

ひぇ~

2022年09月20日 16時01分32秒 | 気になるニュースあれこれ
2022年9月20日時事通信、

「1日100万回超の体制整備」 改良型ワクチン開始で加藤厚労相

https://news.yahoo.co.jp/articles/f3080e360c50a842ba3bc359f3905bc3c927c365


2022年9月20日Medical DOC、

【新型コロナワクチン】5~11歳への接種「努力義務」適用へ、3回目接種も開始

https://news.yahoo.co.jp/articles/afad7f392d730240ca237506a4118d3716154f4b


2022年9月20日テレ朝ニュース、

オミクロン株対応ワクチン、接種始まる 2回目終えた12歳以上に順次拡大 希望者には年内に接種完了へ

https://news.yahoo.co.jp/articles/ef35e86ab0f10b3f3ce1332b6a95270934ac814f


2022年9月18日Yahooニュース、

WHO「パンデミックの終わりが視野に」という発言をどのように捉えるべきか?今後起こり得るシナリオは?

https://news.yahoo.co.jp/byline/kutsunasatoshi/20220918-00315633



ツィッターからの拾い画です。

「コロナワクチン接種後死亡の4人 免疫調節機能暴走か 広島大チーム 推定体温高い特徴」





もうやめれ~

『ゆきのひのたんじょうび』

2022年09月20日 00時14分16秒 | いわさきちひろさん
『あめのひのおるすばん』
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/c/7b3923bae3d2b15a33a3bb88d7fdfb62





「もう ひとつ ねると
 ちいちゃんの おたんじょうび

 おかあさん
 わたしが うまれたとき
 ゆきが ふってたって ほんと?

 わたしは いつつになるのよ
 ろうそくだって ごほん いっぺんに
 けしちゃうんだ

 でも きょうは ともだちの おたんじょうび
 それで かーどを かいてたの

 いってまいりまあす ぽち きょうは ついてきちゃ だめよ

 はい ぷれぜんと
 かーども はいっているのよ

 ろうそくが
 いっぽん にほん
 さんぼん よんほん
 ゆれてます

 わたしの ときは もう ひとつ おおい

 ふっ 
 たいへん
 まちがっちゃった

 あーらら あらら
 ちいちゃんたら けしちゃった
 ひとの ろうそく けしちゃった

 じぶんの
 たんじょうびじゃないくせに

 もう みんな きらい ぽちも きらい

 どこかへ いっちゃおう

 あーあ つまんないの だれとも あそびたくない

 なんだか さむくなってきた やっぱり おうちに かえろうか

 あら おかえりなさい
 おたんじょうびかい たのしかった?
 おともだち たくさん きてたでしょう
 みんなで ないして あそんだの

 ちいちゃんたら どうして そんなに げんきがないの
 さあ あしたは あなたの おたんじょうび

 おたんじょうびなんか きらい
 あたしは なんにも いらないの だあれも きてほしくないの

 おほしさま おほしまさ

 あしたの おたんじょうびには
 なんにも いらないって おかあさんに いったけど
 ほんとは ひとつだけ ほしいものが あるの

 あした 
 まっしろな ゆきを ふらせてね
 わたしの うまれたひみたいに

 あっ
 やっぱり ふった
 ほんとに ふった

 すごーい

 おかあさん
 みてー

 さあ ゆきの たんじょうびです

 あかい ぼうしと
 てぶくろだって
 おかあさんから もらったの

 ちいちゃん おめでとう おたんじょうび おめでとう

 みんな きました

 みんな すき
 ぽちも すき
 おかあさんも すき
 おたんじょうび だあいすき」


「武市八十雄とコンビを組んでの楽しい絵本づくりは1968年から毎年1冊のペースでおこなわれ、病状の悪化する直前の73年までに『あめのひのおるすばん』『あかちゃんのくるひ』『となりにきたこ』『ことりのくるひ』『ゆきのひのたんじょうび』『ぽちのきたうみ』と六冊をつくりあげた。気力もイメージもどんどんわいてくる本で、生きていればもっともっと新しいものへ挑戦しながらつづけていけたのにと惜しまれる。

 それまでの絵本の常識は、受け手が子どもだということを一面的にとらえていたためか、なんの絵か、なにをどうしているところががすぐわかる絵がしきりに描かれていた。どこを開いても、そこに示されている状況はきわめて明快なものである。しかしちひろたちがつくったこの新しい絵本は、そうではない。一面にじんだ画面であったり、ポツンとなにかが置いてあったり、子どもがうしろをむきっ放しであったりする。そこで示そうとしているものは、さびしさとか不安とか期待とかいうものにたいするいかにも子どもらしい気持ちのゆらぎ、流れというような、いわば不可視的な心理の描写である。いかに子どものこととはいえ、人間の精神的な部分は子どもでは決して表わすことはできないものだが、ただのおとなでもできないだろう。

「あれはみんな私の思い出というか、心のなかにあるものです」とちひろはいうが、まったく子どもの心理と重なりあいながら、かつ、それを客観的描写できるおとなでなければならない。それはまさに、いわさきちひろの資質そのものであったといっていいだろう。児童文学者でもなかなかここまでは踏みこむまい。そういう心理だけをあつかっても、物語が成立しないということもあるだろう。だからこのシリーズは、子どもの文化のまったく新しい世界をきりひらいたといっていい。

 従来の絵本の常識であれば、ちひろの描く一見不安定な画面は、絵本の画面として不適格なのではあるまいか。子どもの笑顔をこのへんにのぞかせてくれとか、空っぽの金魚鉢だけがポツンと画面一杯にあるのは困るとか、注文の出るところだろう。しかし、武市はあえてそれをめざし、絵本にしたのである。たいへんな冒険であっただろうし、いまとなってはたいへんな先見だと驚嘆する。

 少女のころ父親から野球のルールを習ったちひろと、とりわけ野球好きの武市とのあいだで、野球用語を使いながらこの絵本のすすめ方を考えたという話も、たいへん興味深いものである。」

(滝いく子『ちひろ愛の絵筆-いわさきちひろの生涯-』労働旬報社、昭和58年8月1日第一刷発行、203-204頁より)