(2018年帝国劇場公演プログラムより)
「モーツァルトの真実 音楽ライター;後藤真理子
♬5歳で作曲した早熟の天才
「クラシック音楽史上、最も人気のある音楽家は?」という質問に「モーツァルト」と答える人は、過半数を越えるのではないでしょうか。もちろん好みの問題はあるでしょう。「人気のある」という言葉の定義も、人によりさまざまかと思います。けれども、例えば、演奏会等で取り上げられる頻度、映画やドラマの中で耳にした、あんな曲やこんな曲が、モーツァルト作品であったりすること、そしていわゆる「モーツァルティアン(モーツァルトの熱狂的なファン)」の多さからも、モーツァルト人気の高さは推し量れるのではないでしょうか。
モーツァルトの生涯もまた、映画やドラマで紹介されています。「神童」を呼ばれた早熟の天才で、浮き沈みの激しい人生を送り、若くして世を去った、というその一生のあらまし程度は、何となく知っている、という人も多いと思います。
では、どれほどの天才であったのでしょうか。モーツァルトの姉ナンネールは、モーツァルトがわずか3歳で、ピアノで3度の和音を鳴らして楽しんでいた、と証言しています。4歳になると、父レオポルトからピアノを学び始めますが、あっという間に曲を覚えていったそうです。そして5歳の時いはもう、ピアノ曲を作曲!(ただし、まだ楽譜が書けなかったので、レオポルトが譜を書きとめています。)なんとも呆れるばかりの「神童」ぶりではありませんか。
敬虔なカトリックであったレオポルトは、息子のこの稀有の才能を「神の賜物」と考えました。神の奇跡を広く世に知らせることを使命と信じ、まだ6歳のモーツァルトを連れて、ヨーロッパ各地を旅して回りました。結果「神童」の名声は、あまねく知れ渡ることになったのです。14歳でオペラを作曲し、オペラの殿堂ミラノの宮廷劇場で上演されたこと、ヴァチカンの、門外不出とされた複雑な構成の秘曲《ミゼレーレ》を、2度聴いただけで、記憶を頼りに譜面に書き起こした逸話などは、モーツァルトの才能の一端を物語っています。
♬フリーランスの音楽家として生きる
モーツァルトが生きた時代、楽才に恵まれた者の進路は、ほぼ決まっていました。モーツァルトの父や、ハイドン、グルックといった当時を代表する音楽家たちがそうであったような、宮仕えの道です。宮廷もしくは貴族、教会などに雇われて、日々の行事などに必要な音楽の仕事をこなすー。収入は、一介の庶民としては悪くなく、雇い主の許可があれば、ほかの仕事を引き受けることも可能でした。場合によっては、引退後の恩給にも恵まれました。
父がザルツブルク宮廷に仕えていた関係で、モーツァルトも当初は同じ職場に身を落ちつけます。ところが、主君が代替わりし、厳格なコロレド大司教がやってくると、モーツァルトは次第に息がつまるような思いを味わうことになりました。ウィーンやパリといった大都会の宮廷楽団を見てきた目に、専任のクラリネット奏者がおらず、カストラート歌手も雇えないザルツブルクの宮廷楽団は、貧弱で物足りないものに思えたことでしょう。
結局モーツァルトは、才能に見合う職場と地位を求めて、就職活動の旅に出ることになるのです。しかし、行く先々の人々の反応は、音楽に造詣のある人は別として、子供時代とは比べようもないほど冷ややかなものに変じていました。王侯貴族たちが求めたものは「神の奇跡」であって、稀有の音楽的才能そのものではなかったのです。また、いずこの宮廷も貴族たちも、長年の奢侈放漫がもたらした借財に苦しみ、音楽どころではなくなっていました。
「天才」につきものの気まぐれなイメージとは裏腹に、実際のモーツァルトは、誇り高きプロの音楽家でした。作曲依頼の注文期日に遅れたことはほとんどなく、素人に近い音楽愛好家のために書いた作品すら、今日ではその分野の傑作と言われる名曲です。
一方でモーツァルトは、楽壇や貴族たちとの駆け引きに疎く、「あまりに無邪気で、だまされやすい」(グリム男爵の手紙)青年でした。結局は、モーツァルトの就職旅行は失敗に終わりました。おまけに、旅先で最愛の母をなくし、さらに失恋というダブルパンチを受けたのです。傷心を抱えたモーツァルトは、再びザルツブルクへ戻るしか、ありませんでした。
とはいえ故郷はすでに、天才が翼を広げる場所ではなくなっていました。モーツァルトは一人、再び旅立つ決意を固めます。行く先は、ウィーン‐モーツァルトの言葉を借りれば、当時のウィーンは「ピアノの国」でした。
ウィーンは音楽が盛んな都会で、宮廷劇場だけでなく、カジノやレストラン、上流階級の邸宅で、毎晩のように予約演奏会が開かれていました。当時ピアノは、改良を重ねてようやく現代の楽器に近くなり、オーケストラと対等に渡りあえる表現力と音量をそなえたものに進化していました。貴婦人たちは教養の一環として、こぞってピアノを習いたがり、楽譜は飛ぶように売れていく‐ここならば、宮仕えをせずとも、生計を立てていくことができる‐そんな風に、モーツァルトは考えたのです。
幼い頃から、音楽家として生きるべく、厳しく父から育てられたモーツァルトだからこその、いかにもプロらしい選択、それが、ウイーンで、フリーランスの音楽家として生きていく、ということでした。
♬時を越えて輝きを放つモーツァルト音楽
ウイーンで、またたく間にモーツァルトは楽団の寵児となります。コンスタンツェと結婚し、豪華な住まいを借り、社交界でもてはやされて過ごします。モーツァルトは、いわば「流行」になったといえますが、流行とはやがて廃れるものでもありました。モーツァルトのウィーンでの人気凋落について、古来さまざまな論考がなされてきました。けれども、決定打と呼べるほどの説はありません。ただ、「時代の変化」は、確かにモーツァルトが落ち目になった理由の一つです。
とはいえ、オペラ『魔笛』の成功は、再び楽団の寵児となる時期が近いことを告げていたはずです。しかし、モーツァルトに残された時間は、長くはありませんでした。36歳にわずかに満たない若さで、早熟の天才モーツァルトは、世を去ります。
死後ほどなくして、ドイツを中心にモーツァルト・ブームが巻き起こり、以来モーツァルトの音楽は、全世界の人々に愛されてきました。それは、モーツァルトの音楽が、耳に心地よく、美しいだけのものではないからです。何より、人間の心情や感性の多才な綾を、巧みに豊かに、音楽で表現している、というのが、モーツァルト音楽の最大の魅力です。
200年以上昔の価値観や習慣の中で創造された音楽が、現代の人間の心を揺さぶることができる‐これこそ、モーツァルトが成し遂げている最大の奇跡ではないでしょうか。」


「モーツァルトの真実 音楽ライター;後藤真理子
♬5歳で作曲した早熟の天才
「クラシック音楽史上、最も人気のある音楽家は?」という質問に「モーツァルト」と答える人は、過半数を越えるのではないでしょうか。もちろん好みの問題はあるでしょう。「人気のある」という言葉の定義も、人によりさまざまかと思います。けれども、例えば、演奏会等で取り上げられる頻度、映画やドラマの中で耳にした、あんな曲やこんな曲が、モーツァルト作品であったりすること、そしていわゆる「モーツァルティアン(モーツァルトの熱狂的なファン)」の多さからも、モーツァルト人気の高さは推し量れるのではないでしょうか。
モーツァルトの生涯もまた、映画やドラマで紹介されています。「神童」を呼ばれた早熟の天才で、浮き沈みの激しい人生を送り、若くして世を去った、というその一生のあらまし程度は、何となく知っている、という人も多いと思います。
では、どれほどの天才であったのでしょうか。モーツァルトの姉ナンネールは、モーツァルトがわずか3歳で、ピアノで3度の和音を鳴らして楽しんでいた、と証言しています。4歳になると、父レオポルトからピアノを学び始めますが、あっという間に曲を覚えていったそうです。そして5歳の時いはもう、ピアノ曲を作曲!(ただし、まだ楽譜が書けなかったので、レオポルトが譜を書きとめています。)なんとも呆れるばかりの「神童」ぶりではありませんか。
敬虔なカトリックであったレオポルトは、息子のこの稀有の才能を「神の賜物」と考えました。神の奇跡を広く世に知らせることを使命と信じ、まだ6歳のモーツァルトを連れて、ヨーロッパ各地を旅して回りました。結果「神童」の名声は、あまねく知れ渡ることになったのです。14歳でオペラを作曲し、オペラの殿堂ミラノの宮廷劇場で上演されたこと、ヴァチカンの、門外不出とされた複雑な構成の秘曲《ミゼレーレ》を、2度聴いただけで、記憶を頼りに譜面に書き起こした逸話などは、モーツァルトの才能の一端を物語っています。
♬フリーランスの音楽家として生きる
モーツァルトが生きた時代、楽才に恵まれた者の進路は、ほぼ決まっていました。モーツァルトの父や、ハイドン、グルックといった当時を代表する音楽家たちがそうであったような、宮仕えの道です。宮廷もしくは貴族、教会などに雇われて、日々の行事などに必要な音楽の仕事をこなすー。収入は、一介の庶民としては悪くなく、雇い主の許可があれば、ほかの仕事を引き受けることも可能でした。場合によっては、引退後の恩給にも恵まれました。
父がザルツブルク宮廷に仕えていた関係で、モーツァルトも当初は同じ職場に身を落ちつけます。ところが、主君が代替わりし、厳格なコロレド大司教がやってくると、モーツァルトは次第に息がつまるような思いを味わうことになりました。ウィーンやパリといった大都会の宮廷楽団を見てきた目に、専任のクラリネット奏者がおらず、カストラート歌手も雇えないザルツブルクの宮廷楽団は、貧弱で物足りないものに思えたことでしょう。
結局モーツァルトは、才能に見合う職場と地位を求めて、就職活動の旅に出ることになるのです。しかし、行く先々の人々の反応は、音楽に造詣のある人は別として、子供時代とは比べようもないほど冷ややかなものに変じていました。王侯貴族たちが求めたものは「神の奇跡」であって、稀有の音楽的才能そのものではなかったのです。また、いずこの宮廷も貴族たちも、長年の奢侈放漫がもたらした借財に苦しみ、音楽どころではなくなっていました。
「天才」につきものの気まぐれなイメージとは裏腹に、実際のモーツァルトは、誇り高きプロの音楽家でした。作曲依頼の注文期日に遅れたことはほとんどなく、素人に近い音楽愛好家のために書いた作品すら、今日ではその分野の傑作と言われる名曲です。
一方でモーツァルトは、楽壇や貴族たちとの駆け引きに疎く、「あまりに無邪気で、だまされやすい」(グリム男爵の手紙)青年でした。結局は、モーツァルトの就職旅行は失敗に終わりました。おまけに、旅先で最愛の母をなくし、さらに失恋というダブルパンチを受けたのです。傷心を抱えたモーツァルトは、再びザルツブルクへ戻るしか、ありませんでした。
とはいえ故郷はすでに、天才が翼を広げる場所ではなくなっていました。モーツァルトは一人、再び旅立つ決意を固めます。行く先は、ウィーン‐モーツァルトの言葉を借りれば、当時のウィーンは「ピアノの国」でした。
ウィーンは音楽が盛んな都会で、宮廷劇場だけでなく、カジノやレストラン、上流階級の邸宅で、毎晩のように予約演奏会が開かれていました。当時ピアノは、改良を重ねてようやく現代の楽器に近くなり、オーケストラと対等に渡りあえる表現力と音量をそなえたものに進化していました。貴婦人たちは教養の一環として、こぞってピアノを習いたがり、楽譜は飛ぶように売れていく‐ここならば、宮仕えをせずとも、生計を立てていくことができる‐そんな風に、モーツァルトは考えたのです。
幼い頃から、音楽家として生きるべく、厳しく父から育てられたモーツァルトだからこその、いかにもプロらしい選択、それが、ウイーンで、フリーランスの音楽家として生きていく、ということでした。
♬時を越えて輝きを放つモーツァルト音楽
ウイーンで、またたく間にモーツァルトは楽団の寵児となります。コンスタンツェと結婚し、豪華な住まいを借り、社交界でもてはやされて過ごします。モーツァルトは、いわば「流行」になったといえますが、流行とはやがて廃れるものでもありました。モーツァルトのウィーンでの人気凋落について、古来さまざまな論考がなされてきました。けれども、決定打と呼べるほどの説はありません。ただ、「時代の変化」は、確かにモーツァルトが落ち目になった理由の一つです。
とはいえ、オペラ『魔笛』の成功は、再び楽団の寵児となる時期が近いことを告げていたはずです。しかし、モーツァルトに残された時間は、長くはありませんでした。36歳にわずかに満たない若さで、早熟の天才モーツァルトは、世を去ります。
死後ほどなくして、ドイツを中心にモーツァルト・ブームが巻き起こり、以来モーツァルトの音楽は、全世界の人々に愛されてきました。それは、モーツァルトの音楽が、耳に心地よく、美しいだけのものではないからです。何より、人間の心情や感性の多才な綾を、巧みに豊かに、音楽で表現している、というのが、モーツァルト音楽の最大の魅力です。
200年以上昔の価値観や習慣の中で創造された音楽が、現代の人間の心を揺さぶることができる‐これこそ、モーツァルトが成し遂げている最大の奇跡ではないでしょうか。」

