たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『この地球で私が生きる場所』_ロッキー山脈に抱かれて(2)

2019年12月30日 18時19分00秒 | 本あれこれ
「バンブ在住(カナダ) ツアーガイド 片岡美香さん27歳

 彼女は幼いころからピアノが好きで、17年間も弾いてきた。だがバンブのアパートにはピアノがない。そこでオフの日は、近くの日本人の家に出向いて子供にピアノを教える。その代わり、自分でも好きなだけ弾かせてもらうのだ。仕事を離れてピアノを弾くとき、彼女は心からくつろいでいるような穏やかな表情をしている。

 その帰りには、スーパーマーケットで買い出し。スーパーマーケットの野菜売り場にはビニール袋が備えつけてある。野菜はばら売りなので、ニンジン一本でもたまねぎ一つでも、必要なだけビニール袋に入れて買える。便利だ。

 住まいは2LDKの広いアパート。同居人もいる。同じ会社に勤める日本人女性の先輩だ。それぞれ自分の部屋があるので、共同生活とはいっても気が楽だ。ひとつの冷蔵庫も左右に分けて使っている。

 家で食べるときは自分で料理をする。この日のメニューは、ナスとひき肉の炒め物。白いごはんが湯気をたてている。バンブが大好きな彼女でも、主食は日本のお米がいちばんと笑う。

 彼女の仕事は、カルガリー空港で客を出迎えることから始まる。この日の客は、栃木県の宇都宮から来た看護婦さんの11人グループだ。飛行機の到着予定時間より2時間半も前に、片岡さんは空港にいる。到着が早まることがあるからだ。空いた時間は喫茶店で、両親や友人に手紙を書いて過ごすことが多い。

「毎回、お客さんを待っているときは緊張します。どんなお客さんなのかなあって思うと」

 仕事がら、客とは一期一会だとわかっている。それでも短い時間に、いい関係を作りたいと彼女は思う。

 到着口から客が出てきた。片岡さんはいち早く見つけて声をかける。喫茶店でくつろいでいたときとは違う顔になっている。その後は一気に忙しくなった。人数や荷物の確認、バスの運転手との打ち合わせなどをてきぱきとすませ、客をバスに乗せる。カルガリーからバンフまではバスで約2時間。マイク片手に、自己紹介をしながら客の反応を見る。これから2日間、彼女がどうガイドするかによって、ツアー客のバンフに対するイメージが決まる。

 彼女のガイドはわかりやすく巧みである。常に笑みを絶やさず、どんな質問にも即座に答える。

 翌日、バンフは氷点下8度と冷え込んだ。雪が舞って視界が悪い。観光には摘さない天気になってしまった。予定のツアーはこなせるだろうか。片岡さんは、不安そうに空を仰ぐ。だが行けるところまで行くしかない。

 やがて天気も快方に向かう。空は晴れ、最高の風景が客を迎える。客の歓声を聞いて、片岡さんも肩の荷を下ろす。

 雪で薄化粧をした山の間にレイク・ルイーズという湖が見えてきた。エメラルドのようにきらめく湖に吐息をもらす客を見て、彼女のガイドにさらに熱がこもる。

 片岡さんの巧みなガイドの秘密は、日々の勉強にある。自分の経験と資料をもとに、バンフのすべてを記したノートを作っているのだ。町の歴史的背景はもとより、ひとつひとつの山や動物、植物に至るまでイラスト入りで詳細な説明が書き込んである。そんなふうにして作ったノートが数冊たまった。
」「すごくたくさんの知識が頭の中に入っているんですね」
 と観光客に驚かれることも少なくない。
 だが、彼女はバンフが大好きなだけなのだ。

「学校の勉強はしなかったけど、この仕事に関する勉強は好きですね。やっているとどんどん知りたくなります。ガイドの仕事をしていてうれしいのは、お客さんに『こんな素敵な
ところに住めていいね』と言われることなんです。バンフの魅力をわかってもらえたなって思えるから。今のところはロッキー山脈の周辺だけですけど、いずれはカナダ中、どこでも案内できるようになりたいんです」

 そのためにはもっと勉強するつもりだ。将来は移民権を取得したいという夢ももっている。

 日本にいる両親が様子を見がてら遊びに来たことがある。
「最初、両親には一年ぐらいこっちにいるって言ったんです。なんだか言いにくくて・・・。でも今では両親のほうが『どうせなら中途半端じゃなくて、徹底的にがんばりなさい』って。遊びに来たとき、私がいろんな店の人と英語でやりとりしているところや、ここでの生活を自分たちの目で見て安心したみたいです。それに私がいると、また遊びに来られるからって(笑)」

 彼女がいちばん幸せなのは、近くのボウ川のほとりを散歩しているときだという。鳥の群れがが川面すれすれに白い翼を広げて飛んでいく。

「日がさすと川の色が透き通って、とてもきれいなんですよ。天気によって川の色が変わるの。つらいとき、寂しくなったときはよくここに来ます。私だってたまには、寂しいときがあるんですよ(笑)。周りに日本人はいるけど、こうやって海外で仕事をしながら暮らしていると、最終的には自分ひとりしか頼れないと思うんです。だから、自分でも前よりは精神的に強くなったと思うけど」

 今のところ、現実の恋人はいない。「ロッキーが彼」という彼女だが、ロッキー山脈のように雄大で懐の深い恋人が現れるのを待っているようだ。」


この地球で私が生きる場所――海外で夢を追う女たち13人
朝日新聞日曜版編集部
平凡社