窓の外では満開の桜が大きく枝をひろげています。
桜の木には毎年そうですが、なんだかさみしいような哀しいような、
からっとしたカナダでは感じることのないしめりけ感を、季節の移り変わりとともに感じます。とくにライトアップされた夜桜は、美しさとともになんともはかない感じがします。
詳細を書くことはできませんが混乱はやりきれなさをもって終結していこうとしています。
これが全身のエネルギーをふりしぼってがんばってきたことの結果なのかを思うと、
今はどんなねぎらいのことばを自分にかけてあげればいいのかがわからず、擦りへってしまっていることを思い知らされるばかりです。社会から孤立している感をもってしまって涙が流れるばかりです。そんなつもりではまったくなかったのだけれど、気がついたらほんとうにたいへんなことを自分にさせてしまっていました。それが正解か不正解か、答えはどこにもありません。今は自分で自分を肯定することができなくなっているのがいちばんつらいところです。
今まで知らなかったいろんなことを知った、考えた、これからの人生の中で必ずや糧として生きてくる時がくる、そう思えるまでにはまだ時間が必要です。
「でも、信じようよ。」
火曜日に訪ねた機関の相談員の方が繰り返し言ってくれました。
あなたにはみえないけれど、がんばってきたことは無駄じゃない、必ず誰かの役に立っていくことになる、ネガティブな言葉を使うと自分で自分を傷つけるだけだからやめようよ。
妹さんがおしえてくれたでしょ、人生の時間にはかぎりがあるって。
だったらもったいないよ。希望を信じようよ。明日だけみて一日一日を生きていこうよ。
三歩進んで二歩さがれば一歩進むことになるんだからいいじゃない。
自分で自分を鼓舞することもしない。
今は自分をいたわって休んでください。まず必要なのは安息。
書きたかったらまず書いてみればいいじゃない。
一時間あまり話をしたと思います。
こんな場所でと思うようなところで、涙を流していました。
信じようよ。
ひとりだけどひとりじゃない。
だれかにささえられ、わたしもだれかをささえている。
信じようよ。
希望はどっかにあるって。
信じようよ。
また笑顔になれるって。
信じようよ。
曲がり角の向こうには道が続いているって。
信じようよ。
妹が守ってくれているって。
信じようよ。
プリンス・エドワード島がきっとまた呼んでくれるって。
写真はオーウエル・コーナー歴史村。
草にねころがって高い空を見上げたときの幸せ感をちゃんと体がおぼえてくれています。